根来戦記の世界

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根来と雑賀~その⑦ 土橋一族の逆襲、そして根来・雑賀連合結成へ

 本能寺にて信長、横死す――この報せは、あっと言う間に雑賀に伝わった。

 先の政変で壊滅的な打撃を受けていた土橋派は、しかし未だ強い勢力を保持していたようで、この報せを受け即座に決起する。まず4か月前のクーデターで、土橋若太夫を裏切った土橋兵太夫・土橋子左衛門の両名を襲い、兵太夫を殺害する(小左衛門は逃亡)。

 また信長派の頭目雑賀孫一を誅殺すべく館に押しかけたが、流石は孫一、戦場で鍛えられた進退の勘所を遺憾なく発揮したようで、館は既にもぬけの殻だった。彼はいち早く織田方の勢力圏内であった、和泉国岸和田城へと逃げ込んだのであった。

 

月岡芳年作「太魁題百撰相 謎解き浮世絵叢書」より。「銃弾に貫かれ、深手を負いながらも敵の前で悠々と飯を食らう、鈴木孫一」という不思議な題材の浮世絵。「劇画の先駆者」とも評される月岡芳年の作品は、実に個性的である。ちなみに孫一は、土橋若太夫の娘を妻として娶っていたらしい。政略結婚の一環であろう。養父を暗殺した後、彼の妻がどうなったかは記録に残っていないが、おそらく離縁されたものと思われる。

 

 いずれにせよ、雑賀惣国内のパワーバランスは一夜にしてひっくり返る。若太夫の遺児・平丞ら土橋兄弟が土佐から帰還、信長派は駆逐され反信長派である土橋一族が雑賀の実権を握るのだ。新体制となった雑賀は早速、憎き信長を倒した光秀に対し使いを出して連携を試みる。だが光秀からの返書が届いた次の日、「山崎の戦い」にて光秀は討たれてしまうのだ。

 その後、中央は羽柴秀吉vs柴田勝家、という対立構造となる。雑賀はどちらにつくべきか――答えははっきりしていた。柴田についた、というよりも秀吉の敵に回ったのだ。なぜか。

 光秀を倒した秀吉は、82年10月に雑賀の隣・根来に対して詰問状を送っている。その内容は「根来の泉州知行はけしからぬ」というもので、要するに和泉国における根来寺の勢力を許さない、という内容であった。

 だがそもそも和泉、特に泉南は古くから根来寺の勢力圏内で、その勢力伸長も加地子の買い取りや借銭の担保回収などを行って、長い時間をかけて築いていったものである(相当強引な、強奪に近いものもあっただろうが)。また先の記事で言及したように、杉乃坊などは信長から和泉国における利権を確約されていた気配まであるのだ。これらを根底から否定する秀吉の動きは、根来寺にとっては到底容認できるものではなかった。

 隣の根来は、はっきりと秀吉の敵に回った。秀吉は明らかに、畿内の独立勢力を駆逐しようとしている。和泉においてそのような動きに出るということは、紀伊においても同じであろう。根来の次は、雑賀ではないか?――彼らがそう考えてもおかしくない。そして実際に、秀吉はそうするつもりだったのである。ことはもはや信仰の問題ではなく、己らの寄って立つ権益の問題であった。

 こうして根来・雑賀連合が発足したのである。名目上は守護家である畠山家、そしてそれを支える有力な国衆ら(湯川家・玉置氏など)も、これに同心した。紀伊から和泉にかけて、巨大な反秀吉連合――紀泉連合が形成されたのであった。土橋氏・泉識坊にとっては、捻じれがようやく解消された形である。

 結局、信長の後継者である秀吉と、根来・雑賀は決して相容れぬ間柄であった。新しく生まれつつある統一政権にしてみれば、京の近くに中世以来の古い体質を持った強大な独立勢力が存在するなど、あり得ないことであった。信長が長生きしていても、遅かれ早かれ同じことをしただろう(実際、信長は彼の元に降った近江の有力国衆の殆どを、追放するか誅殺して再編成している)。

 秀吉は83年3月の「賤ケ岳の戦い」で勝家を滅ぼした後、翌4月には腹心の武将・中村一氏和泉国岸和田城主に任じている。3万石の大名となった一氏は和泉国衆を束ねる立場になったのだが、泉南は依然、根来の支配下にあった。そして秀吉の意を受けた一氏は、根来に対してはっきりと対決する姿勢で臨んだのである。

 83年4月から84年にかけて、一氏と紀泉連合との間で和泉を舞台とした小規模な戦闘が散発的に続いている。これら一連の戦いに動員された延べ兵力は、根来衆を主力とした紀泉連合が2万ほど、対する一氏が率いる兵が5千ほどだったようだ。一氏勢は数で不利なところを、夜討ち朝駆けなどの手段で対抗している。

 そんな小競り合いが1年ほど続く。お膝元の紀泉をどうにかせねばならぬ――この間、秀吉は紀州征伐を何度か企画していたようだ。84年3月には、本格的に軍勢を動員しようとしていた記録が残っている。だがこの計画は実現しなかった。それどころではなくなってしまったのである。

 秀吉と、これまで彼が名目上推戴していた織田信雄との仲が急速に悪化したのだ。信雄は家康と連携を組み、84年3月に秀吉派であった己の家中の三家老を粛清、はっきり敵対関係に入った。「小牧・長久手の役」の始まりである。(続く)

 

 

根来と雑賀~その⑥ 根来vs雑賀 ラウンド3 雑賀の内戦に参加した泉識坊快厳

 先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。

 

1557年3月、信長の「雑賀攻め」直後における根来・雑賀内の勢力イメージ図。青色が信長派、赤色が反信長派を表す(反信長派の構成員のうち、多数が本願寺門徒ではあったが、全てではないことに注意)。宮郷・南郷・中郷は全体としては信長派である。特に中郷には威徳院を有する湯橋家があり、またすぐ隣の小倉荘は杉乃坊の本拠地であったために、根来の影響が強かった。そんな中郷からですら、岡崎家のように郷を抜け出し、雑賀庄に馳せ参じた敬虔な本願寺門徒らがいた。南郷の黒江村や、宮郷の太田家の一部にもそうした門徒がいたようである。三郷の一部が赤色なのは、そうした理由だ。

 

 信長が引き上げてから4か月後、まずは南郷でクーデターが起きる。息を吹き返した形の南郷の本願門徒らが、信長侵攻時に先導を務めた南郷のリーダー格・大野中村の岡本弥助と、大野十番頭の一員・鳥居の稲井蔵之丞の首を要求したのだ。

 南郷は本願寺派vs岡本&稲井派の2つに割れ、両者は8月16日に井松原にて激突する。この「井松原合戦」には、孫一らの手勢も援軍として参加したこともあって、岡本&稲井派は敗れる。以降、南郷は雑賀庄・十ケ郷の影響下に置かれることになった。

 この混乱に乗じてのことだろうか、ほぼ同じ時期に信長は佐久間信盛を大将とした軍勢(7万とも?)を再び雑賀に送り込んだようだ。記録が断片的にしか残っていないので詳細が分からないのだが、なんら成果を上げることなく引き上げている。

 意気上がる十ケ郷・雑賀庄の二組。次の標的は、宮郷の実力者・太田左近を党首とする太田党である。1578年5月に、宮郷にある太田城を十ケ郷・雑賀庄の兵が囲んだ。この包囲にはクーデターにより新体制となった南郷衆の他、中郷衆まで加わっていたらしい。この中郷の手勢は、岡崎三郎太夫本願寺門徒衆であろう。岡崎三郎太夫は中郷のリーダー格のひとりであるが、先の雑賀合戦では雑賀衆に合流して信長と戦った人物である。

 しかし太田城根来衆(おそらくは杉乃坊)の援兵を得たこともあり、しぶとく持ち堪える。十ケ郷・雑賀庄連合軍はこれを攻め切れなかったが、連合軍にとって有利な形での停戦が成立する。

 残る最後のひとつ、中郷においてはこうした戦いの記録は残っていない。だがこれら一連の戦いを通し、包囲戦に参加した岡崎三郎太夫本願寺派が、中郷における実権を握ったのは想像に難くない。こうして雑賀惣国は十ケ郷・雑賀庄が主導する形となった。特に十ケ郷の雑賀孫一が率いる鈴木一族、そして雑賀庄の土橋若太夫が率いる土橋一族、雑賀惣国はこの2つの一族が大きな影響力を持つ、寡頭制のような状態となったのである。

 両巨頭が並び立たないのは、歴史の必然である――そして対外情勢の変化が、両者の対立に拍車をかける。1580年3月に、本願寺が信長と講和を結んでしまったのである。実質、信長に降伏したも同然の内容の講和で、門主顕如石山本願寺を織田方に明け渡し、雑賀・鷺ノ森道場へと居を移した。

 雑賀における本願寺派の最有力者、雑賀孫一もこれに従い、反信長派から信長派へと鞍替えする。だが、土橋若太夫はそうしなかった。そもそも本願寺門徒でない彼が信長の敵に回ったのは、紀州に落ちてきた足利将軍・義昭の激に応じてのことだ。義昭はすでにこの地にはいなかったが(毛利の庇護を受けるため、備後国へ動座)、この時点で彼がプロデュースした信長包囲網は、かなり綻びを見せていたとはいえ、依然として存在していた。本願寺門徒でない若大夫にしてみれば、顕如の意向に沿って信長派に転向する理由がないのだ。

 そしてもうひとつ、土橋家はどうやら土佐の長宗我部家とも関係が深かったようである。何らかの権益を土佐に持っていて、それを長宗我部家に保証されていたのだろうか。この時期、信長は長宗我部と交わした約束(四国は長宗我部氏の切り取り放題)を反故にし、その四国統一にストップをかけていた。両者の関係は極めて悪化しており、激突は時間の問題であった。

 こうして雑賀は信長派の鈴木一族と、反信長派の土橋一族とで、真っ二つに割れてしまう。雑賀内の各勢力は、それぞれが有する信仰や利権、思惑に応じて、どちらかの陣営に属することになる。(ちなみに雑賀に逗留していた顕如は、両者の関係悪化を止めようとしていた。彼にしてみれば、頼りになる手勢である雑賀が内紛で混乱するのは、マイナスでしかなかった。また孫一の信長への急激な傾斜ぶりにも、懸念を持っていたようだ。)

 1582年1月23日、孫一が先手を取って動く。ライバル・土橋若太夫を暗殺する、というテロ行使に出たのだ。この暗殺には、若太夫の親族であった土橋兵太夫・土橋子左衛門らも関与していた上、事前に信長に通達していたともあるから、かなり周到に用意していたことが分かる。

 若太夫の遺児、土橋平丞らは自派の土豪らを集めて、雑賀庄・粟村の本拠地に立てこもった。本家の危機ということで、根来からは門主である泉識坊快厳自らが、威福院ら系列子院の手勢を率いて合流する。(若太夫には息子が5人いたことが分かっているが、泉識坊快厳はそのうちのひとりである。拙著「跡式の出入り」にも登場している)

 しかし時流は完全に孫一側にあった。信長の援兵まで得た孫一は、粟村へと軍勢を進める。2月8日には粟村の本拠地は落城、若太夫の遺児たちは土佐の長宗我部氏の元へ落ち延びるも、泉識坊快厳は討ち取られてしまう。信長の元に送られた快厳の首は安土城下にて晒され、討ち取った寺田又右衛門(援兵として派遣された織田信張の与力)には褒賞が与えられた、という。

 こうして雑賀は、完全に孫一の影響下に置かれる。石山合戦を通じて畿内にその武名を轟かせた孫一は、決して戦さ一辺倒の男ではなかった。機を見るに敏な、戦国の世にふさわしい男だったのである。

 天王寺合戦ではこの男に危うく殺されかけたが、才ある者は愛する信長である。このままうまくいけば、彼は織田政権の下で大名になれたかもしれない。紀伊一国とはいかないまでも、少なくとも雑賀の地は与えられたはずだ――だが、そうは問屋は卸さなかった。

 孫一が雑賀の地を手中におさめてからわずか4ケ月後、天下を揺るがす大事件が起こるのである。そう、本能寺の変である。(続く)

 

根来と雑賀~その⑤ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(下)

 山手から攻め寄せる織田軍3万は、佐久間・羽柴・堀・荒木・別所らの諸軍で構成されていた。その先頭に立つのは杉乃坊、そして雑賀三郷の者どもだ。

 この山手勢は雄ノ山峠を越え、田井ノ瀬で紀ノ川を渡河し、焼き討ちと略奪を重ねながら、2月24日頃には小雑賀川(和歌川)まで到達したようだ。この川を越えれば雑賀庄である。しかし雑賀衆はこの川沿いに複数の砦を築き、最終防衛ラインを敷いて待ち構えていた。

 

前記事の地図と同じものを再掲。江戸後期に編纂された地誌である「紀伊風土記」には、紀州藩内の寺伝が幾つも収集されている。それらを分析すると、織田軍の進撃路から離れたところにある寺社が、数多く焼けているのが分かる。別動隊による焼き討ちや略奪があったのだろう。「信長公記」にも、進撃の際に「諸所を焼き払った」という記述がある。

 織田勢は構わず、敵前にて渡河を試みたようだ。しかし対岸は岸が高かったうえ、柵が設けられていたとのことで、上陸できず悪戦苦闘しているところを鉄砲で散々に撃たれてしまった、とある。至近距離からの射撃にさらされた、先鋒の堀秀政の部隊には相当な被害が出たようで、「信長公記」には「堀家の主だった武者、数名が討ち死に」とある。

 

和歌山市立博物館蔵「紀州名所図会 雑賀合戦」より。なおこの「紀伊名所図会」には、「雑賀勢は川を一旦干し上げて、川底に壺・桶などを埋めておき、渡河中の人馬が足を取られた隙を狙って撃った」旨が記載されているが、どうだろうか。この時期の雑賀庄にそんな大掛かりな土木工事をする余裕があったとは思えないし、試みようにも残りの三組がさせなかっただろう。「紀州名所図会」は江戸後期に編纂された、現地で採取した言い伝えを収集した地誌なので、どこかの段階で創作された逸話を取り込んでしまったものと思われる。

 山手勢はなんとか渡河できる場所を探していたようだが、雑賀はゲリラ戦でこれに対抗する。浜手勢は中津城、山手の軍は小雑賀川、この2カ所で進撃を阻まれて、攻撃が停滞してしまう。こうして互いに決め手がないまま、2週間ほどが過ぎる。

 そして3月15日、この戦いは雑賀が織田に降伏するという形で、唐突に幕を下ろすのである。信長が雑賀衆を「赦免」するという形で朱印状が出されているのだ。だが実質は、雑賀衆の勝ちに等しい引き分けだったと見られる。雑賀に対して罰則は一切なく、織田方にしてみれば骨折り損のくたびれ儲け、大軍を動員した割には益することのない戦いであった。

 それにしても10万という大軍を動員しての、この戦果の乏しさはどうしたことであろう。残された記述から、両戦線で雑賀衆の鉄砲隊が大活躍していることが分かるのだが、幾ら鉄砲を多く持っていたとしても、雑賀庄・十ケ郷はどんなに頑張っても2~3千人程度の兵しか動員できていなかったはずだ。しかも、各砦に分散しての配置である。対する織田は、浜手と山手でそれぞれ3万もの軍勢がいたわけだから、力押しで攻めればどうにかなったような気がする。理解に苦しむところである。

 信長のこの戦役の真の目的は、雑賀に対する本願寺への援軍意図を挫くため、そして和泉国に影響力を増すため、この2点であったから目的は達成したのだ、という説がある。だがあの信長が、そんなまどろっこしいことをするために、10万もの兵を動員するだろうか?それならばまだ雑賀攻めは囮であって、実は全く別の狙いがあった(朝倉氏を滅ぼした時のように、兵を返して本願寺を急襲するとか?)、だが思った通りに行かなかったので、さっさと休戦に合意した、と考える方がまだ理解できるのだが・・・

 さて根来衆だが、先述した通り杉乃坊が山手勢を先導している。杉乃坊は雑賀衆と戦ったのであろうか?山手勢は小雑賀川で渡河作戦を行っているが、杉乃坊を中心とする根来衆は、そうした兵種で構成されていなかったから、渡河そのものには参加していなかっただろう。また援護射撃しようにも、対岸からは遠すぎる。その後は戦線が膠着してしまったから、ますます出番はなかったはずだ。

 天王寺合戦に引き続き、此度の戦いでも根来衆は戦闘に寄与できなかったようだ。そして雑賀衆はと言うと、織田の大軍相手に一歩も引かず、再びその名を天下に鳴り響かせたのである。(続く)

 

根来と雑賀~その④ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(上)

 前記事で紹介したように、岸和田合戦で信長は散々痛い目にあわされる。戦線が崩壊するどころか、危うく自分まで討たれるところであったのだ。

 本願寺の武力の担い手は雑賀である。ならばその本拠地を叩くべし――そう考えた信長は、1577年2月に10万とも号する大軍を動員し、山手勢・浜手勢・信長本隊の三手に分けて、雑賀に侵攻したのである。のちの世に「雑賀合戦」と称される、戦役の始まりである。

 さてこの時、隣にある根来はどのような行動をとったのだろうか。

 この10年に渡る石山戦役で根来衆は終始、信長に味方していた。根来では建前としては、重要な決定事項は全山による合議制で決めることになっていた。しかしこの時期の根来においては、その実態は杉乃坊・泉識坊・岩室坊・閼伽井坊ら「根来四院」による、寡頭制がしかれていた。

 

根来の子院の権力構造については、こちらの過去記事を参照。

 

 そしてこの四院の中でも最大の勢力を誇る、杉乃坊が信長シンパであったのだ。この時期、杉乃坊こそが根来の対外政策の方向性を決めていた、と言ってもいい。(なお、この杉乃坊は雑賀の隣・那賀郡小倉吐前の津田氏が設立した子院であるが、津田氏そのものよりも、杉乃坊の方が強大になって規模が逆転してしまった感がある。古い例えだが、親会社のNTTより、子会社のNTTドコモが大きくなったようなものか。他にもこうした子院はあったようだ)

 この杉乃坊が、信長方についていた理由は定かではない。ただ以下の2つの理由が考えられる。

 この「雑賀攻め」が終わった後、織田方の軍勢が引き上げた後の和泉国には、一族の織田信張と共に、杉乃坊が配されたようである。和泉における、ある程度の利権を確約されていたということだ。またその際には、信長から「平」姓を与えられたという記録もある。

 そしてもうひとつ、根来寺内における権力闘争の意味合いである。杉乃坊の最大のライバルは泉識坊だったのだが、この泉識坊の本拠地は、雑賀庄にある土橋氏が治める地だったのである。

 雑賀と根来の両地域に跨って勢力を保持していた土橋氏は、10年間に渡る石山戦役の間、根来衆に対して泉識坊を通じ、本願寺側にたつように働きかけていた。しかし寺内における、政治的パワーバランスを変えることはできなかったようで、根来の対外方針に関しては、杉乃坊が主導権を握ったままであった。

 結果、土橋氏は雑賀庄の一員として本願寺側に、泉識坊は根来寺の子院として織田側に、それぞれ異なる陣営に属するという、板挟みに陥ってしまったわけである。土橋氏、そして泉識坊にとってはストレスのかかる状況であった。

 そして泉識坊のストレスがピークに達したのが、信長によるこの雑賀攻めだったのである。信長は侵攻に先立って、雑賀五組のうち宮郷・中郷・南郷の、いわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功していたから、残った敵は雑賀庄と十ケ郷の二組のみとなった。だがこの残った雑賀庄こそが、土橋氏の本拠地であったのだ。

 この戦いにおいて泉識坊はどの程度、雑賀攻めにコミットしていたのであろうか。記録が残っていないので分からないが、兵を出すことはせず(どうも出兵したのは、杉乃坊系列の子院だけのようである)、終始静観していたと思われる。雑賀の土橋家に、情勢を逐一伝えることぐらいはしていただろう。流石に泉識坊に所属している行人らは、表立って土橋家に味方することはできなかっただろうが、院に属する地下人などの中には、援軍として雑賀入りした者もいたかもしれない。関ヶ原における真田家のように、最悪の場合にはどちらが滅んでも、一方が残るならば良しとする、そんな戦略だったのかもしれない。

 この大軍の侵攻に対して、雑賀衆――というよりも、雑賀庄と十ケ郷の二組はどう対処したか。

 織田軍のみならず、隣の根来寺、そして同じ雑賀惣国の構成員である、宮郷・中郷・南郷の三組まで敵に回ってしまった。そんな四面楚歌の状況にも関わらず、彼らはしぶとく抵抗している。

 まずは浜手勢3万(織田信忠ら一門衆・滝川・明智・丹羽・細川・筒井らの諸軍で編成)の動きを追ってみよう。紀伊侵攻にあたって、浜手勢はまず孝子峠に攻め寄せた。ここで若干の抵抗があったようだが、すぐに敵を追い散らし峠を越えて南下、2月22日には中野城を囲んでいる。中野城はさほどの抵抗を見せず、6日後に降伏開城してしまう(この中野城在番衆の、やる気のなさを責めた顕如の書状が残っている)。

 翌3月1日、この浜手勢に信長本隊も合流。その先にあった「孫一の居城」に攻めかかった、とある。この「孫一の居城」がどこの城であったのか諸説あるのだが、ここでは伊藤俊治氏の説をとり、当時は紀ノ川の中洲にあった中津城とする。

 信長が見ている前での攻城戦だったから、皆、張り切ったろう。馬廻りまで攻撃に加わった、とある。「紀伊風土記」や「紀伊国旧家地士覚書」には、登場人物は違えど、同じような内容の攻め手による首取りの記述が残っている。相当激しい戦いが繰り広げられたようだ。

 だが、この中津城攻防戦の結果がどうなったかは、「信長公記」には書かれていない。ただ城攻めの際には、「鉄砲対策として竹束を使って攻撃した」旨が記されており、孫一自らが防衛戦の指揮を執ったこの城の攻略に、相当苦労した様子が伺える。雑賀衆が有する鉄砲の火力を前に、城を攻めあぐねたものと思われる。その証拠に「信長公記」には、浜手勢のその後の進撃路について触れられていないのである。(信長自身も、さっさと和泉国に引き上げている。)

 浜手勢はここで足止めを食らう。だがもう一手、山手勢3万が雄ノ山峠を越え、東から雑賀庄へと進撃してきたのである。そしてその先頭にいたのは、杉乃坊の根来の行人らと、敵に回った三郷の者どもであった。(続く)

 

GoogleMAPに、当時の城や軍勢の動きを反映させてみたもの。織田軍の攻撃進路は「信長公記」にも断片的にしか記されていない。伊藤俊治氏の論文「織田信長の雑賀攻めについて」を基に作者が作成した、あくまで推定図である。現代とは河川の流れが変わってしまっていることに注意。例えば浜手勢が攻めている中津城だが、当時この城は紀ノ川の中洲に存在していた。川幅も現代よりも広かったと考えられている。

 

 

根来と雑賀~その③ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(下)

 信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある木津一帯には、南に突出するような形で幾つかの本願寺の砦が頑張っていた。

 信長の命をうけ、木津にある砦を攻略すべく5月3日、原田(塙)直政を主将とする攻撃隊が天王寺砦から出撃する。空いた天王寺砦には、代わって佐久間信栄と明智光秀が入った。攻撃隊の先陣は三好康長・根来衆・和泉衆、二陣は原田直政・大和衆・山城衆であった。

 ちなみにこの原田直政は、信長の馬廻りである母衣衆出身の優れた行政官で、将来を嘱望されていたひとりである。この時点で山城と大和の両守護に任じられていた直政は、その支配地の広さを見る限りでは、柴田勝家佐久間信盛荒木村重らと並ぶ位置にいた。

 

天王寺合戦の経緯、その①。「石山戦争図」を拡大し、そこに加筆したもの。本陣にプレッシャーをかけていた織田軍にとって、南方に(地図の右側が南)に突き出す形で孤立していた木津砦は、格好の攻撃目標であった。これを攻略せんと、原田隊が攻撃をかける。

 しかし木津の砦が攻撃されていることに気づいた本願寺は、雑賀衆を主力とする1万の兵を「楼の岸砦」から出撃させる。この本願寺勢は、木津砦を攻略中の原田隊を後方から突く形で襲い掛かった。「信長公記」によると、二陣を率いていた原田直政は自ら兵を率いて敵と相対するも、数千の鉄砲を有する雑賀衆に散々に撃たれてしまった、とある。

 前記事で紹介した通り、石山合戦の初期と違い、この時期の雑賀軍はオール雑賀で構成された集団であったから、鉄砲の数が数千あったとしてもおかしくない。撃たれまくって、陣が崩れたところを最後は突撃されたのだろう、原田直政は戦死、名のある近習の将も軒並み討ち死にしている。

 

天王寺合戦の経緯、その②。雑賀衆の鉄砲に散々撃たれ、原田隊が壊滅する。先の記事で紹介した、佐武源左衛門が兜首を奪い返したのは、この時の戦いの際と思われる。

 佐武源左衛門の記録には「敵方にいた本願寺門徒らから報せがあったので、敵の攻撃を警戒して、的場源四郎らと共に100ばかりの兵を率いて『三津寺』で待機していた。夜が明けようとしたから帰ろうとしたら、鈴木(雑賀)孫一がやってきて『もっと明るくなったら来るぞ』と言われたので、そのまま待機していたところ、明け方になって原田隊の攻撃が始まった。(出撃して)鉄砲で攻撃したところ、敵は鉄砲構に陣取っていた」旨を述べている。

 雑賀孫一や的場源四郎、源左衛門など重鎮らが率いる雑賀の精鋭部隊は、スパイ活動によって織田方の攻撃をある程度予測していて、砦で待ち受けていたのである。「楼の岸砦」からの援軍も、攻撃に備えていつでも出撃できるよう準備していたのではないだろうか。原田隊は罠にかかったのであった。(なお上記の地図にある「木津砦」の近くには、幾つかの砦があったと思われる。源左衛門らがいた「三津寺砦」もそのうちのひとつで、原田隊はこれらの砦群を同時に攻めた、ということではないかと考えられる)

 さて肝心の根来vs雑賀の射撃戦だが、此度の軍配は雑賀衆にあがった――というよりも、根来衆はさっさと逃げてしまったような気がする。ちなみに原田隊が率いていた軍勢の数は分かっていない。ただ包囲のため兵力を分散していたこともあり、そう多くはなかったようだ。

 その負けっぷりから推測するに、本願寺と同数あったとは思えないから、多くても精々その半分の5千程度、根拠はないが個人的には2~3千がいいところだったような気がする。前述した通りこの軍勢は、原田直政・三好康長・根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆の6つの隊で構成されていた、とある。総数を6で単純に割ったとしたら、攻撃に参加していた根来衆は800~300程度、ならば鉄砲の数は、その25%の200~80丁、といったところだろう。

 楼の岸砦から本願寺勢が攻めてきたとき、根来衆はその軍勢が放つ尋常ではない数の鉄砲の発射音で、すぐに雑賀の主力が来たと分かったはずだ。自軍より10倍以上の鉄砲を持った雑賀衆を前に「こりゃ、勝てるわけがない」と判断して、原田隊が相手をしている隙にさっさと撤退してしまったと思われる。

 

天王寺合戦の経緯、その③。原田隊がやられている間に、根来衆天王寺砦に逃げ込む。しょせんは傭兵働き、命あっての物種ということだろう。砦は包囲される。

 佐久間信栄と明智光秀が守る天王寺砦は、更に援軍を加え1万5千に膨れ上がった本願寺勢によって包囲されてしまう。

 この時、信長は京にいたが「天王寺砦、陥落近し」の報せを受け、馬廻り衆などわずか100の兵を連れて、翌々日の5日に河内若江城へ到着。その地で急いで兵をかき集める。取り急ぎ、集まった軍勢の数は約3千であった。

 待てばもっと集まっただろうが、砦が陥落してしまっては元も子もない。これ以上の援軍を待つことなく翌6日、軍を率いて天王寺砦に急行。自ら先陣の足軽衆に交じって指揮を執り、本願寺の包囲網を突破、砦の中に入ることに成功するのだ。自身も鉄砲で足を撃たれるほどの激戦であった。

 信長が砦の中に入ったことで、本願寺勢はこのまま包囲戦に入ると考えた。もはや袋の中の鼠、二重三重に囲んでからゆっくり料理すればいい。しかし、砦の兵と合流した信長は、敵の意表をついてすぐに砦の南から再出撃、油断していた本願寺勢に襲いかかったのである。

 

天王寺合戦の経緯、その④。一旦、砦の中に入った信長は、すぐに再出撃。包囲網は寸断され、本願寺勢は敗走する。

 信長のこの攻撃は見事なもので、3千~4千の兵で1万5千を撃破するという、桶狭間を彷彿とさせる思い切ったものであった。(この勝利は巷間言われているほどのものではなく、かなり誇張されたものとする説もある)

 いずれにせよ、この敗北により本願寺勢は信長に野戦で勝利する、最大にして最後のチャンスを逃したのである。以降、本願寺勢は外に打って出ることなく、城の中に引きこもることになるのだ。

 この信長の再攻撃に、根来衆の残党は参加していただろうか。多分していなかったような気がする。鉄砲を持った傭兵隊など、スピードが命の強襲には向いていなかっただろう。後詰として砦の中にいて、外に向かって援護射撃をするくらいはしただろうが・・・

 この戦いに参加した根来衆は寡兵であったこともあり、存在感を示すことはできなかった。その一方、本願寺の雑賀鉄砲衆は参加した兵力も多く、織田方の大将・原田直政を討ち取る功を挙げたこともあって、その名を天下に鳴り響かせたのであった。信長は自軍の失態を隠すために、雑賀孫一を討ち取ったと嘘をついて、その偽首を晒したほどである。

 なお、期待を裏切った原田直政に対する信長の怒りは凄まじく、生き残った直政の一族は罪人扱いに近い追及を受け、所領や財産をほぼ没収されてしまったようだ。この戦いにも名前が出てきた佐久間親子や、のち加賀平定に失敗する簗田広正など、信長は失敗した部下に対しては容赦ない態度で臨む男であるが、それにしても厳しすぎる。

 直政には安友という遺児があったそうだ。彼は一時秀吉に仕えるもその後武士をほぼ廃業し、江戸で小児相手の医業を生業にしていたそうである。血で血を洗う戦国時代、その後多くの信長の武将たちが、混乱の中で一族もろとも根絶されたことを考えれば、そのほうが幸せな人生だったかもしれない。(続く)

 

根来と雑賀~その② 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(上)

 先の記事での紹介した通り、雑賀衆根来衆も傭兵稼業に従事していたから、戦場において敵味方に分かれて殺し合いをすることは、珍しいことではなかった。ただ源左衛門の記録を見る限りではその殆どは、小規模な集団同士での局地戦であったようだ。

 では根来と雑賀が、それなりの数の軍勢を率いて戦場で戦ったことはあるのだろうか?それがあるのだ。過去の記事でも少し触れた「天王寺合戦」において、両部隊が直接、銃火を交えている。この記事ではその天王寺合戦、そしてそこに至るまでの経緯を紹介していきたいと思う。

 まず前段として「石山合戦」について言及しなければならない。これは1570年10月から1580年9月まで、ほぼ10年に渡って続いた本願寺と信長の戦いである。期間中ずっと戦っていたわけではなく、休戦と開戦を何度も繰り返しつつ、断続的に続いた戦役であった。

 この一連の戦いには、雑賀・根来衆が大勢参加していたので、鉄砲が活躍した戦いでもあった。特に本願寺の主力は雑賀の鉄砲隊、というイメージが強い。しかしながら開戦時点で、雑賀衆全てが本願寺サイドについていたわけではない。紀伊守護の畠山秋高が、信長の義娘のひとりを娶っていた関係上、開戦当初は雑賀衆のほとんどは(そして根来衆も)信長サイドについていたのだ。

 このとき本願寺サイドについていた雑賀衆は、雑賀孫一鈴木重秀)率いる一党である。どうやら彼とその一党は、石山合戦が始まる前から三好三人衆の元で傭兵活動をしていたようで、その延長線上で本願寺に味方した、という流れのようだ。ちなみに過去の記事で言及したように、佐武源左衛門も孫一と同じように三好三人衆に雇われ、織田方と戦っていた。その後、彼は淡路辺りの戦いに参加していたので、石山合戦の緒戦には参加してない。(していたらきっと、自慢していたことだろう)彼が参加するのは、もうちょっとしてからだ。

 この開戦時の様子を、興福寺の坊官・二条宴乗はその日記に「本願寺が色めき立ち、一向一揆勢が鉄砲を放ちかけた」と、まずは鉄砲により合戦の火ぶたが切られた様子を記している。

 

和歌山市立博物館蔵「石山戦争図」。石山本願寺は多くの河川と丘陵を利用した砦によって守られた、一個の巨大な城塞群であった。こうした難攻不落の地形に加えて、防御時に最もその威力を発揮する、鉄砲隊を有する雑賀衆がいたために、信長は苦汁を飲まされることになる。

 

 「信長記」において「根来・雑賀・湯川・紀伊州奥郡衆二万の兵に(中略)鉄砲三千丁有り、敵味方の鉄砲を放つ轟音が天地に鳴り響いた」と記していることから、雑賀孫一の一党 vs 雑賀衆根来衆の射撃戦が繰り広げられたことがわかる。孫一率いる一党は、その党だけで残りの雑賀衆、そして根来衆と渡り合っているわけだから、相当数の鉄砲隊を持っていたということになる。なお紀州勢で「鉄砲三千丁有り」とあるが、これは単に「多い」という意味で使っているらしく、実数を深追いしてはいけないようだ。

 「陰徳太平記」という書物には、この石山合戦の緒戦に「根来清祐」率いる「越前・加賀・紀伊丹波」から集まってきた、鉄砲打ちたちのことが載っている。それによると、「蛍」・「小雀」・「下針」・「鶴の頭」・「発中」・「但中」・「無二」などの異名を持つ名手らがいた、とある。

 カッコいい通り名なので、彼(彼女)らは戦国期を題材とした小説やゲームでは、よく取り上げられているようだ。ただこの「陰徳太平記」自体が1717年になって出版された、虚飾が多く信頼性が低いと評価されている軍記物で、それ以前の記録にはこうした名手たちの名は一切登場しないことから、執筆時に創作されたキャラであると見られている。

 石山合戦で鉄砲隊が最も威力を発揮したのは、前記事で紹介した、1576年に行われた「天王寺の戦い」である。この戦いでは特に雑賀衆の鉄砲隊が大活躍したわけだが、その理由として、この2年前の74年あたりから雑賀五組が概ね、本願寺サイドについていたことが挙げられる。

 雑賀が本願寺にオールインしたのはなぜか。もちろん信仰の力の影響もあっただろう。追い詰められた本願寺は、執拗に雑賀門徒衆に助けを求めていた。いざというときの退去先を、雑賀庄にある鷺森道場に決めていたほど、頼りにしていたのである。雑賀が本願寺の本山にもなりうる、そんな可能性を提示された雑賀門徒衆は、色めき立ったことだろう。

 先の記事でも触れたが、雑賀の人間全てが本願寺門徒であったわけではない。この点が越中などの一向一揆衆と違うところで、武内善信氏による研究によると、戦国期の雑賀における本願寺門徒の割合は、人口の25~30%ほどであったらしい。例えば、雑賀庄において鈴木孫一と並ぶ有力土豪であった土橋氏は、浄土宗西山派門徒だったし、更には根来四院のひとつである泉識坊を根来寺に置いていたから、真言宗ともつながりがあった。にもかかわらず、これら非本願寺門徒衆まで本願寺サイドについているのだ。

 これは信長に追放された足利義昭が、紀州興国寺に居を移し、この地から反信長戦線の結成を謀ったことによる。当時の人々にとっては、足利将軍の権威はまだ大きかった。その将軍が紀州に落ちてきたのだ。オール雑賀として、これを盛り立てていかねばならぬ、そんな雰囲気が根底にあったようだ。またこの2~3年前に、紀伊守護であった畠山秋高(信長の娘婿)が部下の遊佐信教に殺されている。これで建前上も、守護に遠慮する必要もなくなった。こうした流れに雑賀の門徒らが勢いづいて、本願寺に味方する方向に全体を引っ張っていったものと思われる。(ただ雑賀五組すべてがやる気満々だったわけではなく、それぞれ濃淡があった。特に、宮郷・中郷・南郷の三組においては、そこに住まう本願寺門徒は進んで参加したようだが、それ以外はそうでもなかったようだ。)

 1576年の4月から、信長は旗下の兵力を動員して、大阪の本願寺を包囲する。二度の休戦と開戦を経て始まった、第三次大阪合戦である。そしてこの戦役中に発生した「天王寺合戦」において、信長方の根来衆本願寺方の雑賀衆が戦場で相対することになるのだ。(続く)

 

 

根来と雑賀~その① 時に敵、時に味方 その奇妙な関係性

 根来寺と雑賀惣国は、すぐ隣同士にある間柄だ。昔に書かれた戦国時代の本を読むと、根来衆雑賀衆は1セットとして括られることもよくあった。どちらが有名かというと、残念ながら?雑賀衆の方が有名で、根来衆はそれに付随して語られる存在になりがちであった。このシリーズでは、雑賀衆が有名になった理由と、両者の複雑な関係性について見ていこうと思う。

 なお、以前にUPした記事(天王寺合戦の上下)をジャンル分けし直すつもりである。その際には編集の都合上、既にある該当記事を削除して、新たに再録する予定なので、ご了承いただきたい。

 さて紀州の特性として、突出した存在の成長を阻害する要因があったので、戦国大名が生まれなかった。これは過去の記事でも述べたとおり。

 

紀州で強力な大名が生まれなかった理由は、こちらの記事を参照。

 

 雑賀もそうで、その実体は国衆の連合体であった。雑賀庄・十ケ郷・宮郷・中郷・南郷の5つの地域があり、これを「雑賀五組」、或いは「雑賀五緘(かん)」と呼んだ。この5つの共同体は外敵に対しては、基本的には結束して事に当たった。雑賀惣国と呼ばれる所以である。

 

上記の地図の通り、1つの庄と4つの郷で構成された雑賀惣国は、鉄の団結を誇っていた・・・と言いたいところだが、残念ながらそうでもなかった。また惣国を構成していた惣村であるが、郷の中に複数存在し、それら同士でも争いがあったことが分かっている。

 共同体ごとに特色があって、宮郷・中郷・南郷の三郷は土壌も肥沃で田畑を多く有しており、住民はどちらかというと土地に根ざした生き方をしていた。だが海沿いの十ケ郷と雑賀庄は、当時は湾が陸地奥深くまで入り組んだ地形だったので、耕作可能な土地が少なかった。江戸期の史料ですら「田畑は砂交じり・潮入りの地を耕す・沼田多し」とある。なので彼らは生きていく術を、海上通商などに求めていかざるを得なかった。そういう意味では、雑賀五組はいささか性格が異なる2種類の共同体によって構成されていた、ということになる。

 惣国内でも田畑や水利権などの争いなどはあり、組同士の争いは頻繁に行われていたようだ。その辺りはおなじみ「佐武伊賀働書」に実例が幾つか載っている。上述した通り雑賀庄と十ケ郷は田畑が少なかったから、どちらかというとこの2組が残りの3組の田畑を狙って侵略する、といった構図だったようである(特に宮郷が狙われたようだ)。海上通商――要するに倭寇――で得た戦闘経験・鉄砲の保有数など、2組の持つ戦闘能力は、残りの3組に比して一日の長があったようだ。

 いわゆる「雑賀衆」という名称を使う場合、この雑賀庄と十ケ郷を指すことが多い。そういう意味では、雑賀庄と十ケ郷の2つの共同体こそが、雑賀衆の主体をなすと考えて良いのかもしれない。

 この雑賀衆本願寺との関係を抜きにして語れない。雑賀衆ははじめ、紀伊守護である畠山氏に従う形をとっていた。しかし畠山氏の凋落に伴い、信長が台頭してくる。この信長が本願寺と対立する姿勢が明確になってくると、雑賀にいた本願寺門徒たち「雑賀一向宗」は、本願寺の要請に従って兵を出すことになる。

 本願寺と信長間で繰り広げられた死闘・石山合戦において彼らは大活躍したし、実際に彼らが本願寺の主力であったのは間違いない。しかし雑賀五組の住民すべてが本願寺門徒であったわけではない。例えば浄土宗は、五組の中に結構な数の寺と信者数を抱えていたし、また隣に根来があった関係で真言宗の寺院も多かった。そういう意味では、越前や伊勢長島の一向宗とは異なり、本願寺が絡む戦いでも雑賀全体が主体となる場合は、「一向一揆」という言葉は使わない傾向にあるようだ。

 さてここまで長々と雑賀について説明してきたが、隣にある根来との関係性はどうだったのか。まず根来は、言わずと知れた新義真言宗の総本山であったが、真言宗は信仰よりも学究的な側面の強い宗派である。また前述したように雑賀も、狂信的な一向宗徒のみが治める国ではなかった。戦国期の日本では、北陸における有名な「越中一向一揆」の他、畿内でも「法華一揆」など、国を揺るがすレベルの宗教戦争は案外あったのだが、紀州において奉じる宗派の違いからくる類の争いは、そこまで大規模なものは記録されていない。

 両者の人的交流も盛んだった。倭寇のシリーズでも述べたように、雑賀庄の紀之湊を起点とした南海航路に関する記録には、根来行人の名が頻繁に出てくる。当然、経済的にも強い繋がりがあった。

 根来衆雑賀衆の関係性を象徴するユニークな例として、泉識坊があげられる。根来を代表する行人方子院・根来四院のひとつであり、規模と実力的にはNo.2の座にあった泉識坊だが、この子院は雑賀庄にある土橋氏が設立した子院なのである。雑賀庄に本拠を置く土橋氏は、泉識坊を通じて根来にも強い力を保持しており、雑賀と根来、両地域に跨ってその影響力を及ぼしていたのである。

 こうした例は他にもあって、中郷にあった湯橋家などもそうである。1486年にはあの蓮如がしばし逗留した、というエピソードを持つこの湯橋家は、敷地内に真宗の寺庵を設けているのだが、根来に威徳院という子院を持っていた。そして湯橋家の当主は、代々神主でもあったという。現代の日本人も顔負けのいい加減さ、よく言えば宗派に囚われない鷹揚さである。

 なお、根来における筆頭子院、泉識坊のライバルであった杉乃坊の本拠地は那賀郡小倉荘であるが、これは雑賀の中郷・和佐荘の隣にあった。そうした関係で、中郷に対してかなりの影響力を持っていたのは間違いないようだ。(※誤りがあったので、11月22日に内容を修正しました)

 双方とも各地で傭兵働きをしていた点でも、共通点がある。元根来法師で二十歳頃に還俗し、故郷の雑賀に戻った佐武源左衛門は、1560年頃から1580年にかけて、四国から畿内に渡って幅広く傭兵活動をしている。その彼の記録には、多くの根来衆が登場しているのだ。

 例えば1560年に土佐において本山方に雇われた時は、長宗我部方にいた根来坊主、「阿弥陀院の大弐」を討ち取り、その首を取っている。かと思うと、1570年7月25日に河内の阿保(あお)城で発生した攻防戦では、鉄砲に撃たれて死んだ仲間・中之島六郎太郎の遺体を、同僚である根来坊主「しこく坊の大夫」と共に、2人で回収したりしている。

 その時々で味方だったり敵だったりしているのは、傭兵の宿命なのだろうが、互いに顔見知り同士で、戦うこともあっただろう。戦場で相対した当人たちは、別に悲壮な感じでもなく、もっとドライというか、南国らしいあっけらかんとした感じだったと思われる。そもそも雑賀にしても根来にしても、ご近所さん同士で日常的に出入りが行われているわけだから、昨日の味方が今日は敵になったとしても、特に感じることはなかったに違いない。(続く)

 

 

根来衆と鉄砲~その⑨ 佐武源左衛門の10の鉄砲傷

 おなじみ慶誓こと、佐武源左衛門も鉄砲の名手だった。彼が根来衆であった時期は短く、戦歴の殆どは雑賀衆としてのものなのだが、参考までに「佐武伊賀守働書」に記された彼の武勇伝を見ていこう。自ら記したこの記録によると、生涯で彼が参加した戦いの数は、確認できるだけで20回。鉄砲を駆使して、多くの敵を倒している様子が描かれている。

 一番の見せ場は、1570年に三好側について織田方と戦った際のエピソードである。河内の大海(おおが)という城の矢倉に陣取った源左衛門が、従者に装てんさせた鉄砲5丁を何回も取り替えて発砲し、攻め寄せる敵を何人も打ち倒した、とある。この戦いで彼が取った首は13、この戦闘で死んだ敵方のうち8割は自分が仕留めたものだ、と自慢している。なんとも贅沢な運用法だが、源左衛門のような手練れがこういう使い方をしたら、相当に効果的だったろう。

 他の戦いでも鉄砲を使って、多くの敵を倒している。それにしても大変なのは、戦闘が終わると(もしくは最中でも)、撃ち殺した敵の首をわざわざ取りにいっていることである。源左衛門は首取りにやたらこだわっているが、首のあるなしが褒賞に直結するから、取りにいかざるを得なかったのかもしれない。

 しかし戦闘中の首取りは危険な行為であった。1570年、織田方にいた根来衆と戦闘中に、自分に背を向けて首取りにいそしんでいた糸我左京という根来行人を、源左衛門は容赦なく撃っている。そして今度は、源左衛門がその糸我左京の首を取りにいこうとしたところ、糸我は敵4~5人に救出されてしまい(生死不明)、その首取りはできなかったどころか、逆に15人ほどの敵に追われ、慌てて逃げ出している。

 また「横取りされたので、取り返した」などという記述もある。まずは1557年、雑賀内での耕作地を巡る「荒地の出入り」における戦闘。敵方の武者、平内次郎の胸板を撃ち抜いた後、更に5~6人の敵を倒した。敵が退却したので源左衛門は追撃した。敵の構えを飛び越え、ふと後ろを向くと平内次郎の首を取ろうとしていた者がいたので、引き返してその男に文句を言った、とある。首に先に手を付けられてしまったから、手柄の半分は取られてしまったようだ。この時、かれはまだ20歳前後である。

 次にその19年後、1576年5月3日に本願寺の側にたって、信長方と戦ったときのことだ。雑賀の鉄砲隊に散々に撃たれまくり、信長方の大将・原田直政が戦死した、いわゆる「天王寺合戦」に参加した時のことである。この時も源左衛門は活躍したようで、本人曰く「100ばかり討ち取った」(流石に多すぎると思うが・・)とある。ところが戦闘が終わって、自分が射殺した立派な武者の首を取ろうとしたところ「(雑賀の)宇治の者ども」がその首を取ってしまった、とある。

 鉄砲で倒しても、誰がやったなどという証拠がないわけだから、こうしたトラブルはよく発生したと思われる。しかし源左衛門、この時39歳の男盛りだ。20歳の時は、首を横取りされても半分しか取り返せなかったわけだが、貫禄がつくと同時に、その名も広く知れ渡っていたのだろう。文句を言いに行った挙句、そやつらから見事に取り返し、兜首を穂先に刺して掲げてみせる源左衛門なのであった。

 このように、彼は優れた鉄砲使いであった。だが実は、撃たれた方もすごいのだ。彼の体には12の傷跡があったそうだが、そのうち10が鉄砲傷、1が矢傷、1が太刀傷、なのである。まず矢傷だが、これは1555年の根来における「山分けの出入り」の際に足に受けたものである(同じ出入りの際に、長坂院の中巻を兜に食らっているが、これは矢傷と一緒にカウントされている)。太刀傷とあるのは、どうやら1560年に阿波一宮において、本山勢に雇われて長宗我部勢と戦った時に受けた刀傷のようである。

 

前記事と同じリンク先だが・・1555年・山分けの出入りの際の、源左衛門の暴れっぷりと矢傷を受けた際の経緯は、こちらを参照。

 

 それにしても10の鉄砲傷、というのは何とも凄まじい。以下に彼が記録に残した内訳を記す。(傷を受けた時期の多くは不明)

・頬骨に受けて、玉は抜けずに残留。

・阿保の城で、袖口から1発。玉は抜けずに残留。

・腕に受けて、玉は貫通。

・右の中腕に受けた。

・左の中腕に受けた。玉は貫通。

・足の膝の元に受けた。玉は貫通。

・足の膝に受けた。

・足の踵に受けた。

・後ろの頭骨に受けた。これは重傷だった。

・腿に受けた。

 なんと頭部に2発も食らっている。1発は後頭部で死にかけており、もう1発は顔である。有名なフィンランドのスナイパー、シモ・ヘイヘのように、容貌が大きく崩れていたのではないだろうか。

 

Wikiより画像転載。冬戦争における、フィンランドの伝説的スナイパー「白い死神」こと、シモ・ヘイヘ。撃たれた左頬が崩れている。源左衛門の場合、頬骨に食らった玉はそのまま留まっていたとあるから、彼の容貌はもっと崩れていただろう。先述したように、彼は戦場で首泥棒から首を取り返しているが、こんな迫力ある面構えをしていた源左衛門に迫られて、「否」と言えるものは、そうはいなかったのではなかろうか。筆者なら、ためらわず渡す。

 

 彼が受けた鉄砲玉10発のうち、貫通が4発、そのまま体内に留まったのが2発、とある。残りの4発は外科的手段で摘出したのだろうか?貫通率は40%になる。当時の鉄砲玉は球形が主だったから、現代使われている流線形の銃弾と違って、貫通力はそこまではなかった。代わりに食らった時の衝撃は、相当なものだったはずだ。玉と一緒に抜けるはずの運動エネルギーが全く逃げずに、そのまま身体で受け止めることになるからだ。

 源左衛門は少なくとも1619年、なんと82歳まで生きていたのが確認できる。こんな大けがをしていて、更に体内に玉が2発も残留しているにも関わらず、長生きしているのが驚きだ。鉛毒は平気だったのだろうか。呆れるほどにタフな男である。(終わり)

 

<このシリーズの参考文献>

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

・大砲からみた幕末・明治 近代化と鋳造技術/中江秀雄 著/法政大学出版局

・日本の大砲とその歴史/中江秀雄 著/雄山閣

・鉄砲と日本人/鈴木眞哉 著/ちくま学芸文庫

・日本鉄砲の歴史と技術/宇田川武久 編/雄山閣

・世界史とつながる日本史 歴史・文化ライブラリー33/村井章介 監修

ミネルヴァ書房

・東アジア兵器交流史の研究/宇田川武久 著/吉川弘文館

・新説鉄砲伝来/宇田川武久 著/平凡社新書

・火縄銃・大筒・騎馬・鉄甲船の威力/桐野作人 著/新人物往来社

・図説 中国の伝統武器/伯仲 編 中川友 訳/マール社

・その他、各種学術論文を多数、参考にした

 

 

根来衆と鉄砲~その⑧ 根来の鉄砲隊を率いた男たち 行来左京(おくさきょう)と小密茶(こみつちゃ)

 根来の鉄砲隊といえば、やはり杉乃坊だ。そもそも種子島から火縄銃を持ち込んだのが杉乃坊算長で、津田流砲術という日本初の鉄砲術の流派を起こすくらいだから、当たり前と言えば当たり前なのであるが。この津田流をさらに発展させたのが、彼の子であり兄の養子となって門跡を継ぎ、杉乃坊の最後の門主となった、杉之坊照算こと自由斎である。彼は自由斎流という流派をたて、これを世に広めた。

 この杉乃坊系列の子院に、左京院という子院がある。左京院は和泉国日根郡・入山田村大木を本拠とする、奥左近家という土豪が設立した子院である。子院の門主の名を左京院友章(友童?)、別名を行来(おく)左京とも言い、当時の人々の間でも良く知られた剛の者であった。

 実は彼は1555年に発生した山分けの出入りにおいて、佐武源左衛門こと慶誓と槍を合わせた行人なのである。(拙著「跡式の出入り」においては、主人公も危うく殺されそうになっている。)源左衛門の残した記録により、彼は槍を使っても強かったことが分かるのだが、本領は戦闘の指揮にあるのだ。

 

行来左京 VS 慶誓の戦いの結末は、こちらの過去記事を参照。左京は根来衆を代表する、勇者の一人であった。

 

 1562年、三好氏と戦っていた畠山氏から援軍要請を受け、左京院は86騎の郎党を率いて畠山高政の陣に加わっている。その後、3月5日に発生した「久米田の戦い」において、なんと三好長慶実弟三好実休を鉄砲で仕留める、という大手柄を立てているのだ。この時の状況は、前線にいる味方を援護するため他の部隊が離れた隙を狙い、手薄になった実休のいる本陣に後方から鉄砲隊で奇襲をかける、というものだったらしい。

 本陣を崩されたら、戦さは負けだ。供回りを引き連れて自ら逆襲しようとしたところは、流石は勇将・三好実休である。左京院率いる手勢は少数だったから、十分に勝てると判断したのだろう。だが相手は根来衆である。左京院の手勢に掛かっていこうとしたところ、根来衆の誰かが放った鉄砲の玉が命中、あえなく最期を迎えてしまったのである。総大将を討たれた三好勢は総崩れになり、大敗している。

 左京はこの戦いで、実休の差料・備前長船三好実休光忠」を奪い、畠山高政に献上している。その後、この刀は信長→秀吉→秀頼と伝わっていったようで、その由来と共に、左京の名が広く世に知られていたというわけだ。

 

妙国寺蔵「三好実休像」。腰に差しているのがその「光忠」ということになろうか。彼は敬虔な法華宗徒であり、堺と京の日蓮宗寺院の有力な後援者であった。茶人としても有名で、名物を11点も所有していたという。滅多に人を褒めることのない茶人の山上宗二曰く「武士で唯一の数寄者」。

 

 同じく有名な根来者に、奥右京こと小密茶(小道者とも)という男がいる。惣福院という、那賀郡荒川荘を根拠としていた土豪・奥氏が建立した子院に属する行人である。彼の名を高めたのは、1584年に発生した岸和田合戦だ。 

 紀州勢と対立していた秀吉が、家康と戦うために尾張に出陣した隙をつき、畠山・根来・雑賀の連合軍2万が、岸和田城まで攻め寄せたのである。岸和田城を守る中村一氏は寡兵であったが、意表をついて逆に討って出て、3月21日にこれを破った。たまらず連合軍は撤退することになったのだが、この撤退戦の際、殿を受け持ち鉄砲隊を指揮したのが、この小密茶であったと伝えられている。

 

国会図書館デジタルコレクションより。月岡芳年作「魁題百撰相・根来小密茶」。手に鉄砲を持っている。なお彼の兄を奥大蔵といい、これも高名な武者であったようだ。この錦絵では美男に描かれているが、小密茶の「ミッチャ」には「痘痕(あばた)」の意味があるから、彼の顔には疱瘡の痕が残っていたかもしれない。

 

 追撃してきた中村勢に対して、彼は鉄砲隊を20人ずつの3隊に編成し、交代で斉射を放って寄せ付けなかった、と伝えられている。いわゆるこの三段撃ちの活躍により、彼の武名が知られるようになったのである。

 ただ、この逸話が記載されている「続武家閑談」は、18世紀に書かれた戦国の武辺噺を集めた、いわゆる逸話集であるから信憑性は相当低い。江戸期には既に「長篠合戦における三段撃ち」の故事が知られていたから、これを基に創作したエピソードが小密茶にまつわる武辺噺に入り込んでいた可能性がある。

 

徳川美術館蔵「長篠合戦図屏風」。長篠合戦は江戸期に好まれて描かれた題材の一つで(家康が勝った側にいたからだろう)、この他にもいくつか現存する屏風がある。信長の「長篠合戦における三段撃ち」は江戸初期に書かれた「甫庵信長記」で新たに追加されたエピソードであり、虚構であったという事実はもはや一般常識になりつつある。実際に有効であったかどうか?という実証面からも、やはり否定されている。

 

 先に紹介した行来左京と違って、小密茶が有名になったのは実は明治に入ってからなのである。本願寺は神君・家康公と戦っていることもあって、江戸期に数多書かれた軍記物では、どちらかというと悪者側として描かれていた。そんな関係で本願寺側にたって前線で戦った者たちも主人公たちの引き立て役、要するにやられキャラとしての扱いでしかなかった。

 しかし18世紀に「石山軍鑑」という軍記物が成立する。これは門徒向けに書かれた読み物であったから、本願寺サイドが悪く書かれていなかったのである。そして明治になって、「石山軍鑑」の世界観を受け継いだ「御文章石山軍記」という歌舞伎が上演される。この演目が、徳川家に配慮しまくっていたこれまでの反動からか、それなりにヒットしたのだ。「これは受ける」と判断した、機を見るに敏な大坂の文栄堂が、ほぼそのままの内容の「絵本石山軍記」という本を出版し、これが爆発的に売れたのである。権力者に対して大活躍する、民衆の姿を描いたこの「絵本石山軍記」を底本とした、講談・浄瑠璃、歌舞伎が次々と作られたことによって、演目の主要登場人物のひとりであった小密茶がブレイクしたという次第だ。

 

国会図書館デジタルコレクションより。歌川国芳作「太平記英勇傳・根来小水茶」。こうした歌舞伎や講談に登場する小密茶は、根来忍者の棟梁の一人として活躍したり、秀吉を狙撃しようとして失敗するなど、創作エピソードが多い。秀吉の紀州攻めでは、長さ3メートルの八角棒を操り、敵兵をちぎっては投げ、ちぎっては投げの大活躍を見せる、弁慶のような僧兵として描かれている。ちなみに岸和田の「だんじり祭り」の山車にも、その雄姿が彫られているとのこと。同じように武辺噺を底本にして書かれたと思われる「紀州根来合戦記」という本の中の「根来由緒」に至っては、小密茶は岸和田合戦で死亡したことになっているなど、記録によって矛盾が多い男である。

 

 実際の彼は、非常に長生きしたようだ。1585年の秀吉の紀州侵攻の際には、千石堀城にいてこれと激闘を繰り広げたようだが、落城後も生き延びている。根来滅亡後は地元に逼塞していたが、すぐに同郷の仲間16人と共に浜松に出向き、家康から所領安堵の約束を取り付けている。

 にも関わらず、1614年の大坂の陣では、なんと根来衆を率い豊臣方として大坂城に入城しているのだ。老いてもう一花、咲かそうとしたのだろうか。負け戦ではあったがここでも生き延びた彼は、最終的には300石で紀州浅野家に仕え、主家の転封に従い安芸へ行き、そこで死んだと伝えられている。(続く)

 

 

根来衆と鉄砲~その⑦ 鉄製大砲の鋳造に成功した、凄腕の職人・増田安次郎

 戦国から、いきなり幕末の話になってしまった・・・すぐに話が逸れるのが、著者の悪い癖である。この記事では本筋と少し離れて、その後の日本の鉄砲と、特に大砲の技術的変遷について述べてみたいと思う。

 江戸期に入ると幕府によって鉄砲と大砲の生産は規制され、技術的進化が止まってしまう。しかしペリー来航により太平の眠りから目が覚めた幕府は、鉄砲と大砲の生産をようやく解禁した――と思ったら、今度は各藩に異国船対策として「海陸お固め」を命じるのだ。各藩は慌てて湾岸警備に必須の、鉄砲と大砲の生産に取り組むことになる。

 上記のような理由で注文が殺到したから、幕末において国産鉄砲の生産量は増大している。堺の鉄砲鍛冶・井上家の記録を見ると、1840年の注文数は296丁だったが、1859年には371丁、1866年には459丁と、数がぐんぐん伸びている。「鉄炮師ノ全盛」という言葉が残っているほど、活況を呈していたようだ。

 鉄砲鍛冶職人たちは、海外の技術も積極的に取り入れている。従来の火縄銃だけでなく、菅打ち(パーカッションロック式)銃なども製造していた。また既にある銃の改造も盛んで、前装式の火縄銃を尾栓から詰める方法に改良したものもあった。

 

堺市所有「上下2連・雷管式管ピストル和銃」。1863年に堺の鉄砲鍛冶が製作したもの。日本の職人はすぐに海外の技術をキャッチアップして我が物としたから、和式鉄砲も決して海外の水準に劣るものではなかった。ただあくまでも職人によるオーダーメイドの鉄砲造りであったから、個人で使用するならともかく、軍隊が使用するには向いていなかった。統一規格で大量生産された使い勝手のいい洋銃に、そして最終的には村田銃に取って代わられてしまうのである。堺市における鉄砲鍛冶は明治末頃までには、ほぼ廃業してしまったようだ。

 

 しかし問題は大砲の生産である。鉄砲と違って大砲鋳造のノウハウがなかったから、西欧各国から学ぶしかなかった。当時、日本各地に反射炉が建てられている。大量の鉄を短時間で一気に生産できるこの反射炉の建設は、日本の産業化に欠かせないものであったのだが、建設の目的のひとつは、大砲を鋳造することにあったのだ。

 ところが、この反射炉による鉄製大砲の鋳造はことごとく失敗している。海外ではうまくいくのに、日本では駄目なのだ。1857年、品川台場に配備された36ポンドの国産鉄製大砲を試射したところ、薬室部が破裂する事故が起きている。理由は先の記事で述べた、材料の和鉄による性質の故なのだが、当時の技術者たちには理由が分からず、トライ&エラーを重ねるしかなかった。(ちなみに青銅製大砲の鋳造は成功している)

 タタラで得られた和鉄は、黒鉛化するために必須のケイ素・炭素共が不足していたのだが、実は鋳造の際の炉内温度が十分に高ければ、ケイ酸がケイ素に還元され、鉄中のケイ素を増やすことはできた。そして反射炉を使うと、炉内温度はそこまで上がるのだ。にもかかわらず失敗してしまうのは、なぜなのか?これは反射炉の構造的要因による。反射炉は炉内温度を上げるため、効率良く「燃料の完全燃焼」を行うのだが、これにより酸化性のガスが発生し、期せずして鉄の脱炭現象が行われてしまう。ケイ素が微増しても、元々少なかった炭素が更に減ってしまったので、黒鉛化できず白鋳造になってしまっていたのだ。

 佐賀藩反射炉を使って16門の大砲鋳造に失敗した後、ようやく実用に耐えられる大砲の鋳造に成功しているが、これは原材料にヨーロッパ製のケイ素と炭素が豊富に含まれた鉄を使用したからなのである。佐賀藩は「電流丸」という船をオランダから購入しているのだが、購入時この船のバラストとして積まれていた「荷下鉄」を使って大砲鋳造を行ったのであった。

 この後日本は、タタラ以外の銑鉄方法を求めて、高炉の建設に進むことになる。高炉で精錬された銑鉄ならば、ケイ素・炭素共を適度に含んだものが得られたから、以降は国産の鉄製大砲が、ようやく安定して造れるようになった。明治も後半に入ってからのことであった。

 では江戸期には結局、質のいい鉄製大砲は造れなかったのだろうか?そんなことはなかった。一般にはあまり知られていないのだが、実は凄腕の職人がいたのである。

 その男の名は川口の鋳物師・増田安次郎。幕末に一宮藩や鳥羽藩などが、この安次郎に大砲を注文しており、彼の鋳造した鉄の大砲が各地に残されている。残されたこれらの大砲の試料分析をしたところ、何と黒鉛が検出された。これは「ねずみ鋳造」で造られたということになるのだが、この大砲のケイ素含有率は変わらず低かった。つまり材料は和鉄だったのである。

 

茂原市立美術館・郷土資料館保管「一宮藩大筒」。増田安次郎が鋳造に成功した鉄製大砲。一宮海岸の台場に置かれていた。大・中・小の3種類あったそうだが、大は残念ながら戦後の混乱期に盗まれてしまった。写真は小大砲である。

 

 一介の鋳物師であった安次郎が、これらの大砲の鋳造に成功したのは1844年のことである。彼はタタラで銑鉄された和鉄を、如何にして「ねずみ鋳造」に仕上げたのだろうか?

 鋳造に関する専門家・中江秀雄氏の研究によると、彼は甑炉(こしきろ)を使用したらしい。甑炉はタタラ炉よりは高温であったから、タタラ銑鉄を溶解する際に、若干だがケイ素の微増が期待できた。また銑鉄と炭をミルフィーユのように積み重ねて加熱し、溶けだした銑鉄を一番下の湯だめから取り出す、という方法で溶解するので、結果的に加炭が行われたのである。

 そのようにして出来上がった「なまこ(インゴッド)」を2つに割り、その破面を観察し、「白」であったら同じ手順で再び溶解にかける。これを最終的には破面が「ねずみ」になるまで繰り返し何回も溶解することで、鉄中の炭素量を高めたのではないか?と推測されているのだ。

 つまりケイ素が足らない分を、炭素の量で補ったのである。中江秀雄氏による再現実験の結果、ケイ素が不足していても、炭素量4.53%以上で黒鉛化現象が起こることが確かめられている。

 

「牧方市・鋳物民族資料館」に展示されている、甑炉の内部構造。甑炉の名前の由来は、食物を蒸す際に使用する「甑」の形に由来する。「上甑中甑下甑・湯だめからなり、鉄芯で補強した粘土の輪を積み重ねたもの。湯だめの底部には溶けた金属を流し出す出湯口、中甑には風を送り込む羽口が設けられている。湯だめには長い棹炭を縦に並べ、その上から羽口上部まで木炭だけを積み重ね、さらにその上に一定量の地金と木炭を交互に層状に積み上げて溶解する」とある。

 

 ただこの方法では、大量の鉄を一気に溶かすことはできなかっただろうから、鋳造できる大砲の大きさには限界があったと思われる。それでも小型とはいえ、鉄製大砲の鋳造に成功した増田安次郎は凄いのだ。一般的には無名の彼だが、日本一の鋳物師であったのは間違いない。改めて、日本の職人技術には目を見張るものがある。

 なおこの増田安次郎の血を引く分家が、今も川口の地にて工業を生業として続いているようだ。(続く)

 

日本の鋳造大砲の歴史について、とても分かりやすく紹介した本。著者は金属、特に鋳造の専門家であり、現存する昔の大砲から試料を採取、そのデータをもとに実験を行うなどして、安次郎の技術の再現に成功している。素晴らしい!こうしたアプローチ方法は、文献を専門とする歴史家には成しえないものだ。知的好奇心を満足させる1冊である。