根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑭ 臨済宗・栄西 求めたのは規律正しい生活スタイル「禅 with 戒」

 栄西は平安末期~鎌倉初期にかけて活躍した僧である。備中国吉備津神社の神官の家に生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、かの地で天台宗の教学と密教を学んでいる。しかし彼は、貴族仏教化していた叡山に嫌気がさしていたらしい。中国の正しい仏法を学んで日本の仏法の誤りを矯正しようと、1168年に大陸へと渡っている。栄西、このとき28歳であった。

 当時の中国は異民族である女親族の侵略により、長江より北は金、南は南宋が支配するところになっていた。目指す天台山は長江より南にあったため、南宋渡航する。天台山や阿育王山などに詣でた後に、天台宗の書籍60巻を入手、同年に帰国している。

 帰国してから、栄西密教の研究と修行にまい進する。この時期の栄西は、密教関係の著作を多く残しているのである。順調に出世もし、1175年には誓願寺落慶供養の阿闇梨となっている。

 しかし栄西は、やはり既存の天台密教に納得していなかったのである。どうも本覚思想に代表されるような、比叡山の「ぬるい環境」が許せなかったようだ。

 1187年、意を決して再び大陸へ。しかも大陸はあくまで中継地であって、今回栄西が目指したのはインドであった。300年前に高丘親王が目指したように、仏教が生誕した地・インドへ渡り、かの地で原典にあたってより本質的な仏教を学ばんとしたのである。この時、栄西はなんと47歳で、その求道の精神には頭が下がる。

 しかし結局、臨安府まで行ったもののインドへの渡航の許可は下りなかったのである。そこで栄西は、当時の中国で流行っていた禅宗に着目するのだ。

 禅宗とは何か。一言でいうと、「座禅」を修業の中心に据えて行う仏教集団のことである。その字面の通り「座」って「禅」を行うわけである。ではそもそも「禅」とは何かというと、元々は「精神を統一して真理を追究する」という意味のサンスクリット語を音訳した、「禅那」(ぜんな)の略なのである。

 ここでいう「真理を追究する」ということは、つまりは悟りを得るということを意味する。要するに「人が悟りを得る方法はただ一つであり、それは座禅することでしか成しえない」というのが禅宗の考え方なのである。

 これは単純だが、とても説得力がある論である。なぜならば実際に「お釈迦さまは、座禅することによって悟りを開いた」という、絶対的な証拠があるからである。他宗は小難しい理屈を色々と並べているが、そんなものに惑わされる必要はない。絶対的に正しいのは座禅であって、座禅なしでは悟ることはできない――これこそが禅宗が拠り所とし、誰も反論することができない、シンプルかつ最強の根本なのである。

 栄西はこの禅宗の一派、臨済宗天台山・万年寺の虚庵懐敞(きあんえじょう)より学んでいる。インドまで渡航し、仏教の根本を捉えなおそうとしていた栄西である。理論ばかり先行し、現実と乖離したこれまでの仏教に比して、いわば原点に立ち返ろうという禅宗の教えこそ、彼が求めていたものであったのだ。1191年に虚庵から印可(師匠の法を嗣いだという証明)を得て帰国、栄西は禅の教えを新しいムーブメントとして広げ始めたのであった。

 なお栄西末法思想を奉ずる立場にいた。そんな末法の世であるからこそ、戒や禅が必要、というロジックなのである。末法の世には正法が途絶えるから、念仏を唱えるなどの易しい「易行」などが相応しいというのが、当時流行していた説なのであるが、栄西に言わせると「学識のない人、知恵のない人でも、座禅に専心すれば必ず仏道が成就できる」というわけである。

 こうしたロジックを以てして栄西は禅を説いたわけだが、実のところ彼は禅そのものに惹かれたというよりも、禅寺の「規律正しい生活スタイル」に、より大きな魅力を感じていたようだ。

 栄西は「興禅護国論」という書を著している。仏教学者の末木文美士氏によると、この書を分析すると内容的には禅そのものよりも、「戒」及び「禅宗の規範」に重きが置かれているとのことである。同じく仏教学者の平岡聡氏は、栄西のこうした姿勢を、「戒」との連続性において「禅」を説く「禅 with 戒」と表現している。

 つまり彼は戒律を復興することで、当時の腐敗した貴族仏教を再興しようとしたのである。同時期、南都六宗の中からも戒律復興運動の動きが出てきており、その動きと軌を一にしているのだ。そういう意味では、栄西の思想のスタイルは他の鎌倉新仏教、例えば法然とは異なるといえる。

 栄西の思想の変遷は、始めは天台密教、そこから戒、最終的には禅である。しかも前の思想を否定するのではなく、ある程度重複して同時進行しているのが特色である。境目が曖昧であるといってもいい。対して法然は、浄土宗の考え方を「自力」から「他力」へと、概念を根本から別物に変えてしまっている。またその教えも「専修」念仏であり、(いいか悪いかは別として)思想的には「純度が高い」といえる。

 こうした栄西の特徴を「架け橋的存在」と評する人もいる。古代と中世、日本と中国、密教と禅、比叡山仏教と鎌倉新仏教、そして何よりも戒と禅。異質なもの同士に橋を架け交流させることで、新たな化学反応を促させたのが栄西なのである。

 栄西の禅が「専修」ではなく、「兼修禅」と称される由縁である。次の記事では栄西の、よく言えば「架け橋」、悪く言えば「節操のなさ」が分かるエピソードを紹介しよう。(続く)

 

Wikiより転載、絹本著色・建仁寺両足院蔵「明菴栄西像」。栄西は権力に近づくのに、巧みな僧でもあった。詳細は次の記事で述べるが、成立間もない鎌倉幕府に近づいたところなど、実に機を見るに敏である。こうした経緯があって、臨済宗は身分の高い武家の間で支持を得ることに成功するのである。また彼は喫茶を日本に導入した男でもある。宋で入手した茶の種を持ち帰って、肥前霊仙寺にて栽培を始め、日本の貴族だけでなく武士や庶民にも茶を飲む習慣が広まるきっかけを作った。やがて戦国期には「茶道」という禅的要素を多分に含んだ芸術に昇華されるのだが、この茶道文化の主な担い手は武家であった。これは武家社会において臨済宗が広く受け入れられていたからであり、全ては栄西鎌倉幕府に近づいたことから始まっているのだ。

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑬ 踊り念仏・一遍  行く先々で多大な利益を与えた、興行としての踊り念仏

 法然の浄土宗を皮切りに、道元栄西親鸞日蓮など、鎌倉新仏教の宗祖らは、いずれも旧仏教サイドから弾圧された歴史を持つ。しかし一遍の時衆に関してはそうした例があまりない。これは何故だろうか?

 そのヒントが「一遍聖絵」に描かれている。前記事でも少し言及したが、1284年3月、近江・大津の関寺にて踊り念仏が行われている。この時の踊り念仏を描写した絵巻を見てみると、面白いことが分かるのである。

 

一遍聖絵」より、近江・関寺で開催された踊り念仏。高屋ではなく池の中島に踊り屋が設けられるという、変わったスタイルで行われている。

 

 踊り念仏が描かれたシーンでは、高屋の踊り屋で開催されているものが多いのだが、ここではそうではなく、池の中島に設けられた踊り屋で行われている。ここから視線を左に移してみよう。寺の本堂があるが、よく見ると普請中なのである。普請中ゆえに高屋を建てるスペースがなく、中島にて行われたということかもしれない。つまり踊り念仏は状況に応じて、いろいろなシチュエーションがあったということを意味するのだが、ここからもうひとつ別の意味を見出すことができる。

 普請中の寺で行われたということは、これはつまり「勧進興行」なのである。ここで踊り念仏を開催する際には、寺の建設費用を贖うため寄進が募られたと推測されるのである。

 この関寺はのちに時衆の寺となるのであるが、当時はどこの宗派の寺であったかは分かっていない。ただこの辺りは園城寺三井寺)の縄張りであった。そして一遍らが近江入りした際には、園城寺から「布教よろしからず」という警告を受け取っていたのである。しかしその後、一転して「一遍の化導の趣旨は、因縁がないわけではないから」という曖昧な理由で、園城寺から布教OKの許しが出ている。そこで始めは7日間、結局は延長されて14日間の行法が行われた、とあるのである。

 実際のところ、これは関寺勧進興行の際に多額の金銭が動き、そのうち何割かのあがりが園城寺に支払われた、ということを意味するのではないだろうか?延長したのも、思ったよりあがりが良かったから、ということであろう。

 桜井哲夫氏による「一遍 捨て聖の思想」によると、先の記事で紹介した、市屋道場における踊り念仏を描いた場面で、勧進行為を裏付ける描写があるとのことである。会場入り口に屏風で囲われた場所があるのだが、ここは恐らく勧進した人たちが座る、特等席であったと思われるのだ。

 

一遍聖絵」市屋道場での踊り念仏の一部を拡大。勧進した人用の特等席と思われる場所。富裕層や身分の高い人たちは、牛車からここまで誘導され、仕切られたこの場所でゆっくりと見物したのであろう。周りには護衛と思われる侍たちが控えている。

 

 多くの観客が集まる踊り念仏が行われる際には、その準備から勧進・そして後始末まで、興行を仕切る存在が不可欠であった。こうした興行主がいるということは、つまり「踊り念仏は儲かった」ことを意味するのである。

 一生を遊行で終えた一遍らは、各地を遍歴していた。当時の治安は極めて悪く、土地の悪党どもは盗賊行為も辞さなかったから、一遍ら一行も危険にさらされることもあったようだ。遊行の初期には、一行の尼僧が悪党どもに攫われそうになった、とある。しかし踊り念仏が始まってから彼の名が高まるにつれ、危険度は減っていったようである。

 例えば一遍らが鎌倉から美濃・尾張を経由して、西へ向かった時のことである。旅先の道中には、悪党たちの手により高札が立っており、そこにはこう書かれていたという――「一遍上人に危害を加えてはならない。もしこれを守らぬ者は、我らが誅罰を与えるだろう」。以降、一遍は遊行先では一切の盗賊被害に逢わなかったという。

 このように国中の悪党どもが、一遍に靡いていたのであるが、これも一遍が遊行先で多大な利益を与える存在であった、と認識されていたからではないだろうか。一遍自身は「捨て聖」の生き様を、徹底して貫いていた。一切の財を持たず遍歴していたから、見返りを受け取らなかった。にも関わらず、遊行先の興行を仕切る人々に多大な利益を及ぼす存在であったわけで、彼らにとってはまさしく「福の神」なのであった。

 先の記事で紹介した通り、一遍自身は一派を興さなかった。しかし彼の死後、弟子たちが時衆という宗派を立ち上げている。一遍が起こしたムーブメントを、そのまま放置するわけにはいかなかったのであろう。既に多くの人々が関わっており、多額の銭もまた動いていた。それで食べている人も多かったのである。

 しかし宗教というものは、権益面が強まると純粋性は廃れてしまう傾向にある。時衆もその限りではなく、室町末期になると世俗的かつ雑乱信仰に堕落してしまうのだ。京において、時衆の道場は複数建てられている。四条道場・金蓮寺、五条道場・新善光寺(別名御影堂)、六条道場・歓喜光寺、七条道場・金光寺などなど。

 戦国期の記録魔の公卿・山科言継が、このうちのひとつ、四条道場を訪れた際の記録が残っている。彼の日記から、一部を抜粋してみよう――「道場内において『一遍の名号』があったが、『恵心筆の阿弥陀』と『二十五菩薩三福一体』、そして『日蓮の釈迦』まで一緒に掛けられていた」と、やや呆れた様子で記している。

 時衆以外の異なる宗派のものも、みな見世物として展示されているわけで、特に日蓮宗は排他的かつ攻撃的な宗派で知られており、そもそも浄土系ですらないのだ。にも関わらず、それすら一緒にされてしまっている。理論を重視しなかったとはいえ、幾らなんでも節操がなさすぎる。

 同じように戦国期に、ポルトガル宣教師ビレラが本国に送った報告には「(時衆の)宿坊では僧と尼が同宿雑居し、妊娠堕胎も行われていた」とまである。多分にキリスト教的観点による誹謗中傷や、勘違いも含まれていると思われるので、相当割り引いて考える必要がある。しかし日本人が記した他の記録にも「境内には見世物小屋が立ち並び、遊女もいた」とあるのだ。

 拙著「京の印地打ち」では、四条道場前の通りを主人公が歩く際、寺の塀沿いに多くの立ち売りが並んでいる様子を描いているが、当時の四条道場は宗教的聖域というよりは、いわば新宿歌舞伎町のような歓楽街になっていたのである。

 時衆の信徒たちの中にもまた、ゴロツキのような輩がいた。室町期に以下のような訴えの記録が残っている――「時衆の踊り念仏を称する奴らが、数十人単位で村にやってきた。布施を要求し、やりたい放題。何晩も居座った挙句、村のものをいろいろ奪って去っていった」。

 このように押し売りに近い踊り念仏を行う、筋の悪い輩どもが頻出したらしい。こういうこともあったせいか、時衆は次第に廃れていくことになるのである。(続く)

 

「東山名所図」より。画面上部にある建物が、四条道場・金蓮寺。門前に牛車などが通っている。拙著で主人公が歩いたのが、この通りである。非人たちが集住していた「天部」は、この四条道場の通りを挟んだ向かい側にあった。画像でも確認できるが、四条通りとは竹垣で仕切られていて、その後ろからは竹藪が生い茂っていた。目隠しのためであろう。右手にある四条大橋の入り口にそびえているのは、祇園社の大鳥居である。四条大橋・大鳥居とも、1544年の洪水により流されているので、作中の時点(1555年)には存在しない。しかし1547年の京を描いたと思われる、上杉本「洛中洛外図」には「板橋の四条橋」が描かれていることから、代わりに質素な仮橋として登場させている。主人公はここで「三町礫の紀平次」に、礫の遠距離攻撃を食らうのである。(続く)



中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑫ 踊り念仏・一遍  中世の「ウッドロック」 京・市屋で開催された伝説的踊り念仏

 信州小田切里にて行われた、初の踊り念仏。これを皮切りに、一遍らは踊り念仏を行うようになるのだが、まずは手探りといったところで、遊行先で必ず踊りが開催されたわけではなかったようだ。踊りそのものもまだ出来たばかりだったから、どのような手順ではじまり、どうクライマックスを迎えるのかなど、試行錯誤で行っていたようだ。

 なお「踊り念仏」そのものは平安期の市聖・空也が始めたという説がある。実は一遍自身がそのようなことを言っていたようなのだ。しかしながら空也のそれは同時代の記録には残っておらず、また彼の死後は広がりも見せずに隔絶してしまっていることから、踊り念仏と称されるほどのものではなく、「リズミカルな称名念仏」レベルのものに留まっていたのではないだろうか。

 ではなぜ一遍がそのようなことを言ったのかというと、踊り念仏の格付けのためであったと思われる。偉大な空也の名を借りることで、踊り念仏は由緒あるれっきとした法事である縁(よすが)としたのである。一遍は空也のことを「我が先達」と呼んで非常に尊敬していたから、彼の名を喜んで借りたに違いない。

 いずれにせよ回を重ねるにつれ、場の仕切りや進行、そして踊りそのものも次第に洗練されていったことだろう。「一遍聖絵」には同年3月の鎌倉・地蔵堂にて行われた踊り念仏の様子が描かれているが、ここではわざわざ会場に板屋の高舞台を組まれ、そこで一遍らが踊りながら読経している様子を確認できる。演出面で進化していることが分るのだ。

 

一遍聖絵」より。地蔵堂に建てられた高屋の上で踊る時衆僧たち。周りにいる群衆たちが「貴賤あめのごとく参詣し、道俗雲のごとく群集す」と記録されている。

 

 一遍らは各地でこのような遊行を行いながら、近江に到達する。近江では関寺にて踊り念仏が開催されているが、ここでは池の中島に板敷の「踊り屋」が設けられるというスタイルであったようだ。(これについては次の記事で詳細を述べる)

 東から西へ――次第に京のみやこに近づいていく一遍。かしましい京雀たちの間では「一遍上人という偉い人が来るらしい。そしてそれは、何だか凄いものらしいぞ」という噂が流れていたに違いにない。京に近づくにつれ、一遍に対する期待は膨らんでくる。そして遂に1284年4月、みやこ中の人々が待ち望んでいた一遍が入洛したのである。一行はまず四条京極の釈迦堂に入る。そこで念仏札を配り、踊り念仏を行っている。記録には「貴賤上下群れをなして、人は振り返ることもできない。車も戻れない」とある。

 

一遍聖絵」より、画面中央で肩車をされ、一段高いところから念仏札を配っているのが一遍。釈迦堂の周りは、凄まじい混雑ぶりである。如何に彼の人気が凄かったが分かる。なお一遍自身は徹底した他力の信奉者であり、念仏札は「往生が成った喜び」を共有するために配っていたものと思われるのだが、受け取る方は一遍が配るこの念仏札を、極楽往生を保証してくれる「浄土行きの切符」のようなものと思っていたようだ。なお、当日は外出が憚れるほどの豪雨であったことが、他の記録からわかっている。なので紙でできた念仏札を、絵巻で描かれたように配布できたかどうかは疑問である。

 

 そしてクライマックスは、同年9月、京・市屋道場において開催された踊り念仏であった。市屋道場は、一遍が尊敬するあの空也が建てた道場である。そこで開催される踊り念仏は、一遍にしてみれば特別なイベントであったから、相当気合を入れて踊り念仏を行ったと思われる。

 

一遍聖絵」より。京の市屋道場において開催された踊り念仏の様子。高く組まれた舞台の中央にいるのが一遍上人。足を踏み鳴らしつつ、念仏を唱えている。多くの人が集まって熱狂的な雰囲気だ。とある記録には「(踊り念仏に参加した者どもは)法悦状態で服を脱ぎ、罵詈雑言を叫んでいる」とあり、参加者が宗教的トランス状態に陥っていた様子が伺える。画面上には高貴な人が使用する牛車のほか、被差別階級にいた非人・河原者たちの姿も見える。まさしく「不浄を嫌わず」の教えを体現しているといえる。時衆に帰依した被差別階級の人たちには、特に庭師や声聞師などの名が多く見られるが、これは踊り念仏自体が持つエンタメ的性格の故であろうか。彼らの生業である芸能と親和性があったのかもしれない。時衆に帰依した芸ごとを生業とする河原者として、能で有名な観阿弥世阿弥親子や、銀閣寺作庭で有名な善阿弥などがいる(庭師の又四郎の祖父である)

善阿弥の孫、又四郎についての記事は、こちらを参照。優れた作庭家であったのみならず、自らを律した素晴らしい人であった。

 

 1969年8月15日、アメリカ・ニューヨーク州にて大規模な野外コンサートが行われている。後年、伝説的なフェスであったと称されることになる「ウッドロック・フェスティバル」である。

 この「ウッドロック」は、アメリカ中から予想を大幅に超える40万を超える若者たちが集まったフェスだ。仕切りはアマチュアレベルで無秩序であったにも関わらず、驚くほど平和裏に終わっており(暴力行為の報告はゼロ、ちなみに出産は2件)、今も60年代カウンターカルチャーの最高到達点であったイベントと見なされているのだ。

 一遍の京・市屋道場における踊り念仏も――強引な例えだが――ウッドロック並みの衝撃を当時の日本に与えたのではないだろうか。これに参加した人々は口々に、如何に凄いイベントに参加したか、そしてそれがどんなに素晴らしい体験であったかを、会う人ごとに伝えたに違いない。当時最先端の文化の発信地である、京のみやこで一遍が開催したこの伝説的イベントの噂は、瞬く間に全国に駆け巡ったのであった。

 以降、踊り念仏というイベントは日本のそこかしこで行われるようになる。「喜びのまま踊れ。考えるな、感じるんだ!」――歓喜踊躍した群衆が輪になり、口々に「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、鉦をたたきながら乱舞する。とにかく小難しくなりがちな、これまでの仏教の理論から脱却し、感覚を重視した踊り念仏は、エンタメ性が高く興行的性格の強いものであったから、瞬く間に全国に普及したのであった。

 また決まった型がなかったため、宗教的というよりも娯楽的になり、全国各地でローカル色の強い踊り念仏が行われるようになる。各地で発生したこの踊り念仏が、後年お盆である盂蘭盆会の行事とくっついて、郷土色豊かな「盆踊り」になっていったわけである。確かに櫓の周りをぐるぐる回って踊るというスタイルは、今の盆踊りそのものだ。

 また、近世の初めに出雲の阿国が、このころ民衆に浸透していた踊り念仏に、歌も混ぜて踊ったのが歌舞伎の始まりとなった、という説もある。そういう意味では、踊り念仏は日本の民俗文化に深い影響を与えているのである。

 51歳で、一遍は往生する。文字通り「旅に生き、旅に死んだ」捨て聖の死に様もまた、鮮やかなものであった。先にも述べたが、死に臨んだ一遍は、自らの著作を含む蔵書のほとんどを焼き捨てている(一部は譲渡)。普段から「我の念仏勧進は一代限りなり」と言っていた通りである。また自らの遺骸を「野に捨ててけだものに施すべし」とも言い残している。

 鎌倉新仏教の祖師たちの中で、このような死に方をした僧は彼だけである。まさしく「捨て聖」の名に恥じない、天晴な最期であった。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑪ 踊り念仏・一遍 すべてを捨てて、みな踊れ!

 「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できるのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ。」――これが一遍の主張であることは、前記事で紹介した。

 そして一遍の主張はこう続くのだ――「だから思う存分に、念仏札を配るのだ。そして念仏を唱えるのだ!」

 上記の主張からは、一遍の喜びが伝わってこないだろうか。我々は既に救われているのだ。こんなに嬉しいことがあろうか!念仏札を配るのも、楽しくてしょうがない。配っているうちに喜びが体の中から湧き上がってくる。その喜びに身を任せ、さあ念仏を唱えよう!(※この時点では、まだ踊っていないのに注意)

 これはブログ主の個人的な見解なのだが、宗教的回心を成した後の一遍の遊行は、このような形で始まったのではないだろうか。念仏札の配布と称名念仏は、あくまで救われていることを告知するためのツールであって、救いを求めるための手段ではなかった。しかし大勢の人が一堂に会した時、その喜びを共有するためには、皆で念仏を唱えるのが一番自然だったのではないだろうか。

 勿論、そうではないという研究者も多くいる。一遍の名の由来は、「ひとつにして遍(あまね)く」から来ている。この名乗りから分かるように、一遍は「念仏は何遍唱えるかは問題ではない」と考えていた。しかし念仏札を配る、また念仏を唱えるという行為自体には、きちんと意味があると考えていた、というものだ。

 実際、一遍が配る念仏札にはこう書かれているのだ――「南無阿弥陀仏の六文字を唱えることこそ、極楽浄土への救いの道である」。唱える行為は大事だということであれば、「信じようと信じまいと」という先の言葉とは、些か矛盾してしまうことになってしまわないだろうか。

 この辺りの矛盾だが、捉え方としては2通りあるだろう。まず一遍自身の教義がまだ固まっておらず、整理しきれていなかったということ。思想的にはまだ過渡期であって、矛盾を内包しつつ活動していたということである。彼はひとつところに定住せず、長く住んでも4~5年という感じの生活スタイルであったから、自らの教義を整理してまとめる時間がなかったかもしれない。また法然親鸞に比べると、比較的早くに往生している(享年51)ことも響いたかもしれない。

 もうひとつの考え方、これはブログ主の個人的な見解なのだが――実は一遍の教義がどれほど正確に後世に伝わっているか、些か疑問なのである。彼は死ぬ直前に、自らの著作と所蔵していた蔵書の多くを焼き捨ててしまっているのだ。つまり今に残る彼の教義は、のちに弟子たちによって再編成されたものなのであるから、彼の本意がどこにあったのかは正確には分からないのである。素人ながらブログ主としては後者であってほしいと考えるものであり、彼の本意はこの記事の冒頭で述べた通りだったのではないかと考えたい。

 さて、そんなわけで称名念仏を唱えつつ、念仏札を配るという遊行を行っていた一遍であるが、肝心の「踊り」はいつから始まったのだろうか?

 一遍の遊行に踊りが取り入れられたのは、どうも1279年8月のことらしい。場所は信濃国佐久郡・小田切の里。地元の武士、大井太郎の館を訪れたときのようだ。

 

清浄光寺藏「一遍聖絵」より「信州小田切里」の場面。小田切里で行われた史上初の踊り念仏の様子を描いている。画像左上にいる浅黒い僧が一遍である。右下では庭先で踊り念仏が始まっている。鉦を叩きながらの読経のリズムに合わせて、次第に手拍子が加わっていく。読経している人も、見ている人も「みな既に救われている」、つまり成仏できることが嬉しくてしょうがないのだ。拍子にあわせて足踏みも。遂に僧がひとり踊り始める。ひとり、またひとりと踊りに加わる人が増えていく。いつしかそこにいる全員が踊りの輪に加わっている。踊り念仏は、このように始まったのではないだろうか。「一遍聖絵」には「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで、踊りたくなるうれしさなのだ」と記されている。

 

 上記の画像にある「一遍聖絵」にあるように、踊り念仏は誰かが明確な意図をもって指導して始まったというよりも、自然に発生したもののようだ。

 この大井太郎の館で行った踊り念仏は、なんと三日三夜もの間続いたという。「何かすごいことが行われているぞ」そんな噂を聞きつけて、周辺よりどんどん人が集まってきたのだ。最終的に集まった人数は500~600人。みな何かに憑かれたように、板を踏み鳴らし踊り続けたため、遂には家の板敷きが抜け落ちてしまった。これを喜んだ大井太郎は、修理しないでそのまま記念として保存したという。

 これが「踊り念仏」の始まりなのである。一遍は殆ど財産を持たず、20~40人たちの弟子たちを率い(半数は尼僧だったようだ)、このようなスタイルで各地の遊行を続けた。遊行が続くにつれ、彼についていく人は増えていく。そして回数を重ねるにつれ、踊りそのものも次第にブラッシュアップされていくのである。(続く)

 

 

 

なお発祥の地である長野県佐久市では、「跡部の踊り念仏」として今でも実演が行われていて、重要無形民俗文化財に指定されている。動画を見ると中央に太鼓があり、その周りを踊り手が輪になってぐるぐる回っているのが分かる。「一遍聖絵」でも、僧たちがそのような動きをしていることが確認できる。ただ、音楽や節回し・踊りの動きなどは中世のものと比べると大分、洗練されたものになっている印象がある。一遍が行っていたものは、もっと野趣あふれる感じだったのではないだろうか。

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 踊り念仏・一遍 「信不信を選ばず、不浄を嫌わず」

 鎌倉新仏教の中で、現代に生きる我々にとって最も馴染みがない宗派が「時宗」であろう。現代にも時宗の寺は存在する。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。全国にある時宗の寺の数は、2014年時点で411、信者(というか檀家数)は5万8950人である。10年前のデータなので、今はもっと減っているだろう。

 あまり大きな宗派とは言えず、ここより規模の大きな新興宗教はたくさんある。だが中世前半において時宗は――当時は時衆と呼ばれていたので、以降は「時衆」と記す――時衆は一大勢力であり、特に文化・民俗面で日本社会に多大な影響を与えた宗派だったのである。

 時衆の開祖は一遍上人だ。彼は1239年、伊予松山の河野氏の一族に生まれている。河野氏は水軍を率いる豪族で、戦国期には海賊大将として名を馳せることになる家柄である。

 次男だったので、寺に出された。大宰府にある浄土宗西山派の窪寺の住持・聖達の元で修業したのだが、父の死を受けて1回、松山に戻っている。しかしそこで家督をめぐる騒動に巻き込まれてしまうのだ。身内に斬りかかられ傷を負うが、相手の刀を奪って何とか助かった、という話が伝えられている。この出来事で俗世に嫌気がさした一遍は、本格的に出家し、その生涯を仏の道に捧げることになるのである。

 1274年には、諸国行脚の旅に出発している。念仏を唱えながら全国を行脚し、念仏札を配る旅である。しかし紀州高野山から那智山に赴く途中、とある僧に出会い、そこで衝撃的な体験をするのである。

 たまたま僧の一行に出会ったので、いつものように念仏札を配ろうとしたところ、その中の一人の僧から「いまは信じる気持ちがおきないので」といって札の受け取りを断られたのである。一遍は「そういう気分でなくても、受け取ってください」と言って渡したのであるが、その場を離れて少し経ってから、はて・・・と考え込んでしまったのである。

 その僧は、特に深い意味なく言った言葉かもしれない。しかし一遍にとってはそうでなかったのだ。「信じたまえ、そしてこの札を受け取り給え」一遍はそうした発想で念仏札を配っていたわけだが、そもそも不信の人に念仏札を渡したところで、この僧は往生できないではないか?そうだとすると、渡す行為自体に意味はあるのか?それどころか、大きな過ちを犯したことにならないだろうか?そう考えたのである。

 悩んだ一遍は、熊野本宮に籠る。すると夢の中で熊野権現が老人の姿で現れ、一遍に「信不信を選ばず、不浄を嫌わず」という神託を授けるのである。これを以て一遍は開眼し、遂に一派を興す開祖としての道を歩みはじめるのだ。(踊りはじめる、といった方がふさわしいかもしれない)

 この神託が本当にあったかどうかは置いておいて、一遍の言いたいことはこういうことである――「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できることになったのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ」。

 「信じようが信じまいが」というところが凄いのである。念仏を唱える必要すらないのだ。にもかかわらず、全員が等しく浄土に往けるということだから、概念としては親鸞の「絶対他力」とほぼ同じレベル、もしくはそれ以上にあるといえる。

 この考え方だと、札を受け取る人が阿弥陀仏を信じていなくても構わない、ということになる。あまねく全ての人が既に救われているわけだから。そういう意味では一遍のこの遊行は、「あなたは既に救われているのですよ」と告知するための行為であったといえる。

 ここでもうひとつ注目すべきは「清い人であろうが、穢れた人であろうが」というくだりである。穢れの概念の強かった中世においては、とくに貴族仏教である高野山比叡山などには、例えば屠殺・肉食する者は山に立ち入ってはならないという決まりがあった。そういう人々は、在家である限りは最初から救いの対象にすらなっていないのである。

 「身分は関係ない」というのが法然の浄土宗の教えであるが、ここまではっきりと「不浄を嫌わず」と明言したのは時衆だけであり、これこそが当時の被差別部落の人々が、こぞって時衆に参じた理由なのである。

 

被差別民であった非人たちについては、上記の記事を参照。

 

 もちろん一遍は、上記のような教義を一晩にして確立したわけではない。熊野権現での宗教的回心の後、かつて師と仰いだ大宰府聖達の元へ赴き、そこで自らの思想を語っている。こうした師との対話を通じ、次第に考えが整理されていく。最終的にはここ、窪寺において一遍の教義が完成したと見られているのだ。(続く)

 

一遍聖絵」(「一遍上人絵伝」とも)より、備中国・軽部にて僧の臨終を看取る一遍。絵伝では終始、一遍は肌が浅黒い僧として描かれている。この「一遍聖絵」は、彼の弟子である聖戒によって編集されたもので、関白・九条忠教をスポンサーとして、一遍が死んだ10年後の1299年に成立したものと見られている。聖戒は一遍の高弟であり、ともに各地を遍歴した人物であったので、一遍の容姿に関しては比較的正確な描写であると思われる。この絵伝は第一級の絵画資料であり、これによって当時の町並みの様子や、建物の造りなどが分かるのである。

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 親鸞 教団によって脚色された?その人生

 「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。

 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で1204年に法然比叡山から訴えを起こされたとき、弟子たちを激しく諫めた、と書いた。この時に法然が弟子たちに示したのが、「七か条制戒」である。

 内容としては「他の仏や菩薩を誹謗するな、無知にも関わらず知識のある人たちに対して諍いを吹っ掛けるな、この戒めに背くものは門人ではない」などといった、門人たちに対して厳しく指導するものだ。内容から法然自身は穏健派であったのだが、フォロワーが過激化していたことが推測できて興味深い。

 さてこの「七か条制戒」であるが、最後に弟子たちが署名している。全体で190名の弟子らの名が記されているが、まず筆頭弟子であった信空、続いて隆寛ら高弟の名が続く。親鸞(当時の名は悼空)の名は、ずっと下って87番目である。89番目が先の記事でも紹介した、あの直情家の困ったちゃん・熊谷直実(蓮生)である。まだ若年であったこともあるだろうが、この時点で親鸞の順位はかなり低かったことがわかる。

 親鸞は晩年に自ら「西方指南抄」という書物を記しており、その中にも「七か条制戒」が出てくるのであるが、そこではオリジナル版よりも大幅に人名が減っており(190人→22人)、それに伴い親鸞の順番も21番目になっているなど、自らの順列を大幅にランクアップさせている。

 また親鸞は「自分は『選択本願念仏集』の写経を許された、数少ない法然の高弟のひとりだ」と記している。しかし浄土宗サイドの記録には「筆写を許された人」として、親鸞の名は残っていないのである。

 更に疑問なのが、親鸞流罪になったという件である。師である法然流罪となったとき、連座して高弟らも各所に配流となっている。この時に親鸞も越後に行っているが、これは果たして本当に配流であったのかどうか、微妙らしいのである。

 詳しくは対談本を読んでいただきたいのだが、この越後行きについて、親鸞自身もとても曖昧な書き方をしているようだ。越後に行ったのは確かなのだが、実は自らの意志で行ったのではないか?というのが島田氏の意見なのである。

 対談相手の本郷氏曰く「自分の所属している組織のトップが検挙され、これはヤバいということで、ほとぼりが冷めるまで身柄をかわそうとして、越後の有力氏族の娘であった、恵信尼の伝手で身を潜めた」可能性がある、いうわけである。

 

龍谷大学大宮図書館蔵「恵信尼絵像」。恵信尼は、親鸞の妻である。越後への配流直前に京で娶ったようだが、実は越後に所領を持つ三善氏の娘で、裕福かつ高い教養を持った女性であった。1921年に、彼女が娘に送った手紙10通が西本願寺の宝物庫から発見され、より実像に近い親鸞の姿が分かるようになった。先の記事で少し触れた、風邪をひいた際につい念仏を唱えてしまったエピソードなどは、この手紙から判明したものである。ブログ主などは、親鸞のこういう面に親しみを感じてしまうのだが。なお親鸞は同時代の他の史料には殆ど名前が出てこないので、明治大正期にはその実在を疑う向きすらあった。そういう意味でも、恵信尼の手紙は大発見だったのである。

 

 さてこの親鸞が妻帯していた件だが、実は当時は僧が妻帯すること自体は、別段珍しいことでもなかった。特に上級僧はみな貴族階級に属していたから、その多くは当たり前のように妻帯していたし、下級僧もまた然りであった。親鸞が新しかったのは「隠さず、堂々と妻帯した」という点においてだったのである。

 これに対する後世の評価は「戒律の厳しいなかで、親鸞はそうした規範をあえて自ら乗り越えたのだ」というものである。如何にも強い目的と意志があって、わざと妻帯したような捉え方をしている。

 しかし親鸞自身は妻帯したことに対して、特に言い訳をしていないし、逆にこれを以て高みに上がった、などとも記していないのである。そこまで気負っておらず、自然な形で妻帯したということなのか、それとも少し――世間体的に――恥ずかしく思う気持ちも、どこかにあったのだろうか?個人的には7:3くらいの割合で、2つの気持ちがミックスされていたのでは?と思うものである。

 いずれにせよ、組織のトップが堂々と妻帯し、子を成したことで(6~7人)極めて特異な教団構造がつくられたのである。以降、教団のトップには親鸞の子孫が継いでいくことになったからだ。こんな教団は日本では浄土真宗、つまり本願寺のみなのである。

 この本願寺という組織は、室町期に大いに栄えることになる。8代目に、蓮如という傑出したカリスマが登場したことで、教団が瞬く間に巨大化したのである。後世に編集された親鸞の伝記には、こうした組織による編集作業の手が入っているようだ。

 ただ、これは何も本願寺に限ったことではない。正当性を図るため、後年になって教えの再解釈や歴史の再編集を行うのは、極めて当たり前のことであって、ほとんど全ての組織に当てはまる話でもある。

 思うに、史的な再解釈と実像とのギャップは、その組織が大きくなればなるほど強くなっていくものなのだろう。特に本願寺は、戦国期にはそこらの小大名なぞ、及びもつかぬほどの権力を有していたわけだから、そうした傾向が強く見られるのも仕方のないことだろう。(続く)

 

宗教学者・島田裕克已氏と、中世史学者・本郷和人氏による対談形式の本。島田氏は、かつてオウム真理教を擁護したことでバッシングされた経歴を持つ。かたや本郷氏は、定型からの逸脱を厭わない(とはいえ突飛なことは主張しない)ことで有名な歴史学者で、歯に衣着せぬ2人が鎌倉新仏教を語っているわけだから、刺激的かつ面白い内容にならないはずがない。しかしながら両名の積み上げた知識量もまた半端なく、例えば「神社の社殿の建築の始まりは、早くとも平安末期からで、それまでは存在しなかった」など知らないことがたくさん書いてあって、非常に勉強になった(あの有名な、出雲大社で発掘された巨大な柱跡も、実は鎌倉期のものである)。

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑧ 親鸞 「絶対他力」浄土真宗

 法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することなく慎重に対応したのである。

 その甲斐あって、この時はことなきを得たのだが、2回目のときはそうはいかなかった。何しろ時の最高権力者であった、後鳥羽上皇を怒らせてしまったのである。

 きっかけは1205年に、興福寺より朝廷に出された奏状である。内容としては第1回目と同じ、主に専修念仏の教えの停止を求めたものであった。これ自体はそこまで問題になったわけではなく、うまくやれば大過なく過ごせたかもしれない。

 しかし折悪しくこの奏状の件が解決しないうちに、次の年にとあるスキャンダルが発生したのである。後鳥羽上皇の熊野詣の留守中に、院の女房たちが法然門下の僧、遵西・住蓮のひらいた念仏法会に参加したのである。これ自体は珍しいことではないのだが、両僧に啓蒙された女房たちが、なんと出家して尼僧となってしまう、という事件が起きたのであった。

 これをスキャンダルと書いたのは、遵西・住蓮らと女房らの不議密通の噂が流れたことによる。事実、上皇の不在中に女房らは遵西・住蓮らを呼んで法話を聞いており、その後に御所内に宿泊させているのだ。

 実際にコトがあったか否かは分からないが――学者によってはあった、とみる人もいるようだ。その場合、女房たちは火遊びがバレたので、慌てて出家した、ということになるかもしれないーーいずれにしても「上皇の不在中に御所に宿泊した」という揺るぎない事実はあったわけで、またこれは「あいつらはそういうことをしていても、おかしくないよな」と見られても仕方がない、一部の門下のこれまでの言動が招いた事態だといえる。

 遵西・住蓮ら4人は死罪、法然そしてその弟子らの多くも配流措置となった。これを「承元の法難」という。

 法然九条兼実の計らいで、土佐国から讃岐国への配流に変更される。讃岐では兼実の庇護下に置かれたとみられ、そこで10か月ほど布教したのち、赦免され摂津に移動している。そこで暮らすこと数年、ようやく帰洛が許され京へ戻ってくるのだが、長旅が応えたのか帰京してすぐに往生している。享年80、1212年1月25日のことであった。

 彼の死後、多くの弟子たちが分派することになる。その代表的なものが浄土宗・西山派そして鎮西派であるが、ここから更に分裂を繰り返し、あるものは消滅、またあるものは再び他宗と合流しなど、目まぐるしく変化していく。

 法然を祖とする、そんな数多ある宗門の中で最も巨大化したのは、やはり親鸞浄土真宗であろう。

 親鸞法然の教義の違いというものはそこまで大きくはないのだが、念仏の捉え方に若干の差異がある。過去の記事で、浄土に例えた机の上にいる阿弥陀仏に引き上げてもらうため、手を差し伸べる行為こそが、法然にとっての念仏である、と述べた。机に上がるためにジャンプしたり、よじ登る必要はないのであるが、手を差し伸べないと阿弥陀仏はその手を掴んでくれないのである。

 しかし親鸞にとっての念仏は違う。「南無阿弥陀仏」という称名念仏阿弥陀仏から人への呼びかけであり、それを理解した瞬間に浄土への道は約束されたと考える。その後に自然と口をついて唱える念仏は、阿弥陀仏への報恩、つまり「ありがとう」という気持ちでしかない、としたのである。

 親鸞のこの「絶対他力」は、法然の「他力」概念を更に強化させた感がある。こちらから手を差し伸べる必要さえなく、机の上に阿弥陀仏がいる、と気づくだけでいいのだ。ロジックとしては、仮に念仏を1回も唱えなくても、そのありがたみを理解しただけで浄土へ往ける、ということになる。ではあるが、それを理解した者は、結局は自然と南無阿弥陀仏と唱えてしまうことになるので、理解する=称名する、ということになるわけだ。

 さてこの親鸞であるが、法然の「選択本願念仏集」の写経を許された、数少ない高弟のひとりであり、先に述べた事件で法然が配流になった際も、その立場故に連座して越後に流されている――ということになっている。

 だがこうした親鸞の経歴は、ある程度は本人ないし、後年になって教団が脚色したストーリーなのではないか、という意見がある。次回はそのあたりを紹介したい。(続く)

 

本願寺蔵「安城御影」。絹本著色親鸞聖人像である。法然以上に「他力念仏の絶対性」を強調した「絶対他力」が、その教えの特徴である。そのわりには、親鸞はよく迷ったようだ。例えば重篤な風邪をひいたとき、念仏を懸命に唱えている。これは治療のため念仏であり、つまりは自力念仏ということになるわけで、途中で己の行為の無意味さに気づくのであるが、このエピソードが親鸞59歳の時である。85歳の時には、その著作で「如何に他力であることが難しいか」を詠じている。信心が重要であることは頭では分かっていても、つい救いを求めて念仏してしまうことがあったのだろう。彼は東国での布教に力を入れており、京に戻った後もその影響力は強かった。その名代として長男・善鸞を関東へ派遣するが、そののち義絶してしまうのだ。どうも関東では、加持祈祷などの人気が京以上に根強かったらしく、善鸞は布教の際にそうした方法論を取り入れていたようだ。これは絶対他力の発想からすると、看過できない問題であったとみられている。親鸞自身が晩年になっても「他力は難しい」と嘆息するほどであったから、実子や弟子たちも迷うことが多々あったようだ。

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑦ 法然の専修念仏(下) 本覚思想との相似性

 さてここまで、法然の思想を紹介してきた。彼の分かりやすい「万人を救う」教義は瞬く間に支持を集め、多くの信者を獲得する。

 法然の教団――彼は生前、自宗を興さなかったので、この記事では教団と表現する――はしかし、次第に既存の仏教勢力から敵視されるようになる。

 法然自身は決して、念仏以外の戒律や他行を否定しなかった。念仏は易しい行だから最も優れた行である、としたのであって、従来の荒行は意味がない、としたわけではない。ただこれを成すのは極めて難しいので、自分を含む凡人らには念仏こそが相応しいのだ、というロジックなのである。

 しかしながら彼の唱える「専修念仏」、つまり念仏第一主義は、突き詰めて考えていくと念仏以外の行を否定するものであったから、そういう主張をする者たちが出てきてしまったのである。更に状況を悪化させたのは、一部の門下による振る舞いである。念仏は誰でも等しく救う――ということはつまり、悪人でも救われるわけだ。どうも当時の記録を読むと、法然の元に集まってくる者たちの中には、阿弥陀仏の絶対性を後ろ盾に、盛んに悪行に励むような輩どもがいたようである。 

 ところでこの「悪人でも救われる」という考え方、どこかで似たような話を聞いた覚えはないだろうか?――そう、シリーズの中ほどで紹介した、本覚思想である。

 この世に存在する全てのものは、そのまま覚りの顕現である――つまり在るがままの自然な姿こそが、尊い覚りの姿なのである、という本覚思想はしかし時代が下るにつれ、凡夫そのままの姿こそ正しいのである、という考え方を生み出してしまった。結果、本覚思想を「堕落した己に対する自己弁護」として悪用する者たちが出てきてしまった。

 本覚思想と専修念仏、双方の考え方の出発点は180度違う。本覚思想の「人は最初から成仏している」に対して、法然は浄土思想に基づいて「人は現世での成仏はできない」と主張した。このように異なる考え方であったが、突き詰めると「だから修業は必要ない」という、同じ結論に至ってしまったわけである。

 このように、両者が奇妙な相似性を成しているのは興味深い。人を堕落に導くロジックとしての着地点は同じなのである。そういう意味では五十歩百歩というか、旧仏教サイドも堕落僧を多く有していたわけで、先鋭化した法然門下を責める資格はないのであるが。

 だがそれはそれとして、未だ厳しい戒律を守ったり荒行に励む僧らも、まだ多く存在しており、またそうした僧は深く尊敬されていたのでもある。彼らからしたら、戒律や荒行を全て否定する(ようにみえた)法然教団の教えは許せないものであり、異端視されても仕方のないことであったのだ。

 

画像は江戸期に出版された「選択本願念仏集」。京都市上京区にある廬山寺には、法然自身が書き込みをしたとされている、草稿本が現存しているようだ。うち最初の21文字のみが法然による真筆、残りは弟子たちが代筆したものであることが分かっている。法然はこの書をめったに人の目には触れさせず、写本を許すのも信頼できる弟子だけに限定していた。自らの教えに、こうした危険因子が含まれていることに法然は気づいており、誤読されるのを恐れていたのだろう。

 

 ただ面白いのは、法然自身は戒律を厳格に守っていたことで知られていた僧であったことである。請われれば導師として戒を授けたりもするし、加持祈祷まで行っていた。念仏も無理に何回も唱える必要はない、と教えていたにも関わらず、暇さえあれば唱えていた。

 「自分自身は凡人である」と公言していたにも関わらず、自らの理念と矛盾した行動を取っているのはなぜだろうか。研究者によっては、これを以てして「彼の教義はまだ完成の途上にあったからだ」という人もいるようだ。つまり「思想がまだ徹底していない」と糾弾しているわけである。果たしてそうであろうか?

 まず考えられる理由のひとつとしては、方便としてそれらを行っていたということである。法然はそのパトロンである九条兼実の妻が病に倒れ、加持祈祷を求められた時も快くこれに応じ、モノノケを憑代に憑依させている(兼実の日記には「とても効いた。流石だ、よかった」旨が書かれている)。

 どうも法然は、入り口はそこからでも最終的に念仏へと至ればいいのだ、と考えていた節がある。弟子にあてた手紙にも「堂の建立や写経なども、そういうことをしたいと思う気持ちは自然であるから、やっても構わない」旨が書かれた手紙が残っている。他行も念仏の妨げにならなければ、「(凡人が中途半端にやっても、意味はないと思うけど)やっても構わないよ」というわけである。

 もうひとつ、これはブログ主の個人的な考えなのであるが――例えば念仏を必要以上に唱えるのも、法然は単に「念仏を唱えるのが好きだった」だけではなかろうか。同じように戒律を守っていたのも「これまでそうして生きていたから、自然にそのまま生活していただけ」ではないか?と思うものである。つまり無理をせずに自然なままというのが、彼のスタンスなのである。

 例えば浄土思想的には臨終の際には、藤原道長がやったように「己の指と仏像の指に、五色の糸をつなげるように絡ませる」というのが正しい儀式なのであるが、法然は自身の死に臨みこれを断っている。「既に念仏によってわが魂の往生は決定しているから、そんなことは必要ないのだ」というわけだ。

 ところが代わりに、あの偉大なる遣唐使僧・円仁の「九条の袈裟」を身につけさせてもらっている。浄土思想的には、臨終時には往生しやすくするために浄衣を着るのが正しい姿でもあった。法然は、これに倣ったのだろうか?

 そうではないような気がする。思うに、往生する・しないとは関係なく、往くときは単に同じ天台僧である、尊敬する先達の法衣を身に着けて「記念として」往きたかった、ということではなかろうか。

 勝手な思い込みかもしれないが、法然のこうした無理をしないところ、大らかなところ、そして何より人間臭いところなどに、ブログ主は魅力を感じてしまうものである。こうした彼のカリスマ性もあり、法然の信者は次第に増えていったのであった。(続く)

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑥ 法然の専修念仏(中) 念仏さえ唱えれば「誰でも」往生できる

 他力とは「仏の意志は絶対で、人はそれに関与しない」と考えるものだ。ぶっちゃけて言うと、人間の意志や努力を無下にする考え方でもあるので、現代の多くの日本人からすると、馴染み難い考え方かもしれない。しかし当時の多くの人たちにとって、この考え方はとても前向きに受け止められたのである。なぜか?

 法然の有名な弟子のひとりに「平家物語」にも出てくる、熊谷直実(なおざね)の名が挙げられる。彼は武蔵国・熊谷に住んでいた鎌倉幕府に仕える御家人のひとりで、源平合戦の際に敵将を討ち取っている。しかしこの敵将はこの時、数えでまだ17歳であった童顔の少年・平敦盛だったことに衝撃を受け、出家を志すことになる――というのがその話で、これをもとに能楽幸若舞の「敦盛」が作られている。信長が桶狭間の出陣の際に舞ったのは、この幸若舞「敦盛」の方である。

 さて直実は出家への道を志したものの、その方法を知らず迷っていた。そんな時に法然の存在を知り、彼との面談を乞う。法然を待つ間、直実はいきなり刀を研ぎ始め、周囲の人を驚かせるのだ。

 姿を見せた法然に対し、直実はこれまで武士として人を殺生してきた過去を語り、こんな自分が往生するにはどうしたらいいかを問う。これに対して法然はこう答える――「罪が軽かろうが重かろうが関係ない。南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、誰でも往生できるのだ」。この言葉を聞き、直実は嬉しさのあまり泣いた、とある。

 法然の話を聞くまでは、直実は「殺生を重ねてきた自分が浄土へ往生するためには、手足の1本2本、もしくは切腹でもしなければ叶うまい」と思っていたのだ。だから刀を研いで、その準備をしていたわけである。

 上記のエピソードから分かるように、人の命を奪うことを生業とする武士たちにとって、これまでの仏教の教えでは、往生は手の届かないものと認識されていたのである。だからこそ法然の平易な教えは、そういうものを求めていた武士や庶民階級から、広範な支持を得たのである。

 

 

Wikiより転載、JR熊谷駅前にある「熊谷之次郎直實像」。紹介したエピソードから分かるようにこの直実はかなり、いや相当に直情的な人物であった。所領にまつわる裁判のゴタゴタに巻き込まれた際は、口下手でうまく申し開きできない状況にブチ切れ、証拠書類を投げ捨てて座を立つ、という行動に出て頼朝を唖然とさせている。そんな彼の傍若無人な態度は、出家し法力房蓮生と名を変えた後も、変わらなかった。法然パトロンである九条兼実邸へ行った際に、自ら押しかけて同行したが、身分が違う故に邸宅の外で待たされていた。邸宅内から法話の声が漏れ聞こえてくるが、よく聞き取れない。そこで蓮生は大声で「ああ穢土ほど悔しい場所はない。極楽にはこんな差別はないだろうに。談義が聞きたいものだ。ああ聞きたい!」などと喚いたため、仕方なく兼実が蓮生を邸宅内へ招くと、挨拶もせずにズカズカと入って座敷に座り込み、横で法話を聞いていたという。また法然の弟子・源智は、師から金字の「南無阿弥陀仏」の六字名号を授与されていたのだが、直実はどうしてもこれを欲しくなったらしく、力づくで奪ってしまっている。これを窘めるために法然が直実に送った手紙が、清凉寺という寺に残っている。内容がかなり笑えるので、以下意訳して紹介しよう――「あなたの悪評は、みやこ中に響いていますよ。その性格でも往生はできるけど、私がいなくなった後、仲間とうまくやっていけないでしょう。そもそも念仏が手ぬるいからといって、仲間を縛って叩くとは何事ですか。また私が源智にあげた金色の名号、欲しいので奪ったけれどこれは罪になるのか?と聞いてきましたが、勿論これで往生できないということはないですよ。でも人としてどうなんですか。そういう意味では罪ですよ。墨で書いたものだけど、あなたにも名号を書いてあげたから、金色のやつはちゃんと返しなさい。」――金色の名号を奪ったはいいが、それが原因で往生できないか心配になって、自分からわざわざ法然に聞いているのが笑える。さて、蓮生は果たして金色名号を返したのであろうか?「往生できるのか、安心した!」ということで、きっと返していないような気がする。

 

 専修念仏の特徴はここにある。絶対者である仏の前では、それ以外のものはすべて同じ程度の価値しか持たない。逆に言えば、仏の前では「人は全て平等」なのである。念仏さえ唱えれば、誰であろうと等しく救ってくれるのだ。このような考え方は、これまでの仏教にはなかったものである。

 例えば女性は往生できるのか?という問題。

 初期の仏典では、女性は成仏することできない、ないしは難しいとされていた。しかし「万人を救う」がテーマの大乗仏教が生まれると、この「女性は成仏できない」という概念が問題化してくるのだ。

 そこで生まれたのが「変成男子(へんじょうなんし)」という概念である。これは女性では成仏できないので、生まれ変わって男性になることによって結果的に成仏する、という奇妙な考え方である。どうも男性器があるか否かが大事な要素と考えられていたらしく、仏になることを一心に願って修行していた、ある女性の生殖器が人々の見ている前で突然消え、たちまち男性の生殖器が生じた、などというエロ漫画のネタになりそうな話も創作されている。

 だが法然ははっきりと、「女性でも、そのまま往生できる」と説くのだ。ある時、遊女が法然に「罪深いこの身でも成仏できるのか?」という問いを発している。それに対して法然はこう答えている――「遊女はなるべくなら、やめた方がいい。でもどうしてもやめられない事情もあるでしょう。そういう人たちのために念仏があるのです。だから南無阿弥陀仏と唱えなさい。きっと往生できるから」。

 法然はこのように念仏の前では、修業の多寡は関係なく、男性だろうと女性だろうと、どんな職種であろうと、徳があろうとなかろうと、必ず救われるのだ!と説いた。この徹底した平等性が新しかったのであり、実際に法然の下には多くの女性信者がいたことが分かっている。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑤ 法然の専修念仏(上) コペルニクス的発想転回「ただひたすらに念仏を唱える」 

 法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧である。齢13にして比叡山に登り、その優秀さから将来を嘱望されていたが、18歳の時に比叡山黒谷別所に居を移してしまう。

 叡山内には隠者的生活を営むコミュニティがいくつかあり(かつて源信がいた横川もそうである)、この黒谷もそうした性質を持つ場所であった。つまり山内の出世レースから下りて、真摯に求道を志すことにしたのである。この時点で彼は、叡山の主流の考え方であった天台本覚思想と決別していることが分かる。

 以来、法然はひたすら学問に励む。万巻の経典を読んで、読んで、読みまくった。そして43歳のときに「観無量寿経」を読み、これまで蓄えた知見を基礎とし、遂にひとつの答えに至ったのである。

 それが「念仏を南無阿弥陀仏と称えれば、善悪・老若男女・貧富の別なく、臨終時には阿弥陀仏が来迎し、極楽浄土へ往生することができる」というものである。

 法然は思考を重ねた結果、上記の結論に至ったわけだが、彼はこの教義の最初期のカタチを、経典などの書物をひたすら読むことによって確立させたとみられている。もちろん、他の人と知的交流がなかったわけではないが、どちらかというと喧々諤々と活発に議論をするタイプというよりは、書物を読んで疑問に思った事柄をピックアップして人に教えを乞う、というタイプだったようだ。

 思想というものはある日突然閃いて、そこで完成するわけではない。法然の専修念仏の教えも、時間をかけて構築されたものだ。1175年に上記のような宗教的回心を得た彼は、洛西にある広谷の円照の元を訪れ、そこに活動拠点を移すことにする。

 この円照という僧であるが、彼の父は鳥羽上皇の寵臣・信西藤原通憲)であり、「保元の乱」の際は後白河天皇側として勝利に貢献している。だが続く「平治の乱」で信西は殺害され、一族も失脚してしまう。三男であった是憲は流罪の後に出家して、称名念仏の行者・円照になっていたのである。

 この円照、法然との出会いから2年後に往生してしまうのだが、のち法然が「浄土の教えと円照との出会いは、人として生まれたこの世の思い出だ」とまで語っているほど、彼に影響を与えた人物なのである。おそらく法然は円照と対話をすることで、書物で得た己の知見を整理・フィードバックし、その教義を確立させていったものとみられている。

 法然の専修念仏の教えは次第に成熟し、評判を呼ぶようになってきた。1186年には比叡山・大原にて行われた討論会で、極楽浄土の教えについて語り、並み居る学僧らを感心させている。同年、時の摂政である九条兼実法然の教えに帰依し、その保護者となっている。そして1198年には、彼の教えの集大成ともいえる「選択本願念仏集」が撰述されたのである。

 彼の思想はどのようなものであったのだろうか。詳しく解説してみよう。

 まず法然の教えは、浄土思想+末法思想に基づいたものである。つまり徹底した現実否定なのである。如何なる者もこの世に生を受けては死を免れない。そして今は末法の世であるから、どんなに優れた人であっても現世においては修行しての成仏は不可能、と考えるのだ。その代わりとして、浄土への往生を勧めたのである。(なお、この時点では成仏していなくてもいい。浄土ではそこにいるだけで勝手に修業が捗る、という設定なので、往生先の浄土で成仏すればいいのである)。これが彼の思想の土台にある。

 では次に方法論に移ろう。どのようにすれば、浄土に往生できるのだろうか?その方法はただひとつ、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えればいいのである。法然によると、ここでいう称名念仏には観想を伴わなくてもよい。心を込めて唱えるだけでいいのである。

 「観想へ至る称名」から「ただひたすら称名する」――つまりこれこそが、現代の多くの人が法事の場などで、今も行っている「専修念仏」の始まりなのである。法然が「専修念仏の祖」と言われている由縁だ。

 そして法然は「称名念仏は、自らの意志(自力)で行うものではない」とした。実はこのあたり、とても哲学的で分かりづらい。以下ブログ主が理解したところを記してみる――もし間違っていたら、ご教示いただきたい。

 これまで人は、往生を望んで念仏を唱えていた。つまり「救われたい、だから努力して念仏を唱えていた」わけで、その一番わかりやすい例が、念仏を唱えた回数なわけだ。唱えれば唱えるほど功徳があるわけで、だからこそ良忍の「融通念仏」、つまり「1人が唱える念仏も皆で一緒に唱えると、その人数分だけ唱えたことになる」のような運動が大流行したのである。

 だが法然は、このように主体的に自ら仏に働きかけて往生せん、とする「自力」の行為を是としなかった。自らの思想を記した「選択本願念仏集」によると、念仏は阿弥陀仏が「選択」した行であり、人が「選択」したものではない。

 だから念仏を唱える際は、阿弥陀仏の絶対性に全てを委ねて唱えよ、これこそが「他力」の念仏である、としたのである。

 つまり100%、阿弥陀仏の力で往生する、と考えるのである。そこに自分の努力や意志は一切関係ない。阿弥陀仏を信じ、念仏を唱えた瞬間「すでに往生は約束されている」と考えるのだ。ただポイントとして信心するだけではダメで、行為として「念仏を唱える」必要はあるのだ。

 ただここで唱える念仏は、いわば浄土へ至るために渡された鍵のようなもので、ただ開錠して扉を開ければいいだけである。そこに自らの意志や努力は必要ないのである。

 ・・・どうもうまく説明できない。これに関して、現代の浄土教学の学僧・安達俊英氏がとても分かりやすい例えを示しているので、それを紹介してみよう。

 ――我々が今立っている地面を、迷いの世界とする。その前に高さ1mの机があり、その上が極楽浄土とする。ジャンプして机の上に上がりたいが、力が足らなくて30cmほどしか飛び上がれない。ところが机の上には阿弥陀仏がいて、手を差し伸べてくれている。これに気付いて手を伸ばせば、阿弥陀仏はその手を握り、極楽浄土へと引き上げてくれるのである。

 これまでの浄土思想では、机に登ろうとするならば「少しは自分の力でジャンプしなさいよ」という考えである。阿弥陀仏に救われるならば、人間の努力、つまり自力が少しは必要なわけである。

 しかし法然はそう考えない。自分の力でジャンプしたら手がブレて、逆に阿弥陀仏の手がつかみにくくなる。だからジャンプする(努力する)必要はない。阿弥陀仏に引き上げてもらう方が、安全なのである。阿弥陀仏に全て、わが身をお任せしてしまうのである。これがつまり他力である。ただし手を差し伸べる必要はある。手を差し伸べるとは信心して念仏を唱える、ということである。それ以外のことは不要である――

 これが法然の教えの核心であり、これまでとは全く違う発想なのである。自力は人間中心の発想であるが、他力は仏中心の発想である。人がどんなに努力しようと、どんなに足掻こうと関係ないのだ。

 これは浄土思想のコペルニクス的転回であり、天動説から地動説への変化にも等しい、考え方の主体を根本から変えてしまう教義なのであった。

 この専修念仏、そして他力という考え方が、以降の仏教をどういう風に変えてしまったのか、それを次回以降に説明しよう。(続く)

 

知恩院蔵「披講の御影(隆信御影)」。専修念仏という、新しい教えを説いた法然であったが、自身は生涯寺を持たず、宗派を興すこともしなかった。しかし彼の影響力は絶大で、彼の教えを受け継いだ者たちが、数多くの宗派を興すことになるのである。こうした弟子たちとして親鸞や弁長・証空など、鎌倉新仏教の諸宗派の開祖たちの名が挙げられる。