根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2024-01-01から1年間の記事一覧

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑪ 踊り念仏・一遍 すべてを捨てて、みな踊れ!

「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できるのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ。」――これが一遍の主張であるこ…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑩ 踊り念仏・一遍 「信不信を選ばず、不浄を嫌わず」

鎌倉新仏教の中で、現代に生きる我々にとって最も馴染みがない宗派が「時宗」であろう。現代にも時宗の寺は存在する。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。全国にある時宗の寺の数は、2014年時点で411、信者(というか檀家数)は5万895…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑨ 親鸞 教団によって脚色された?その人生

「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で12…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑧ 親鸞 「絶対他力」浄土真宗

法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することな…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑦ 法然の専修念仏(下) 本覚思想との相似性

さてここまで、法然の思想を紹介してきた。彼の分かりやすい「万人を救う」教義は瞬く間に支持を集め、多くの信者を獲得する。 法然の教団――彼は生前、自宗を興さなかったので、この記事では教団と表現する――はしかし、次第に既存の仏教勢力から敵視されるよ…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑥ 法然の専修念仏(中) 念仏さえ唱えれば「誰でも」往生できる

他力とは「仏の意志は絶対で、人はそれに関与しない」と考えるものだ。ぶっちゃけて言うと、人間の意志や努力を無下にする考え方でもあるので、現代の多くの日本人からすると、馴染み難い考え方かもしれない。しかし当時の多くの人たちにとって、この考え方…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑤ 法然の専修念仏(上) コペルニクス的発想転回「ただひたすらに念仏を唱える」 

法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧である。齢13にして比叡山に登り、その優秀さから将来を嘱望されていたが、18歳の時に比叡山黒谷別所に居を移してしまう。 叡山内には隠者的生活を営むコミュニティがいくつかあり(かつて源信が…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その④ 浄土思想と本覚思想・対立しあう2つの教義

ここまでの流れをまとめよう。 世に無常を感じ、そこからの解脱を目指す。物質や欲に囚われてはいけない。このように本来の仏教の教えは、厭世的側面が強かった。例えば出家。これは本来、持てるもの全てを捨てて解脱に挑む、という行為であったわけだ。 密…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その③ 日本人が自然に手を合わせるのは何故か?「本覚思想」について

これまでの記事で、鎌倉新仏教を構成する重要な3つのピースのうち2つ、「浄土思想」と「称名念仏」を紹介した。この記事では、最後のピースである「本覚思想」を紹介したいと思う。 この本覚思想、実は現代の日本人の精神性にも深く影響を与えている、極め…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その② 観想から称名へ(下) 称名の地位向上と、その流行

称名はこの時点ではまだ、観想ができない人が浄土に往きやすくするための、次善の手段に過ぎない。しかしこの考え方が変わる契機となった書が院政期に出現する。その書の名を「観心略要集」という。 さて、そもそも天台宗の根本教義は「空・仮・中」の三つの…

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その① 観想から称名へ(上) 如何にうまく成仏するか

このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただけ…

根来寺・新義真言宗について~その⑨ 学侶僧の派閥争いと、根来寺滅亡~そして新義真言宗の設立

前記事で紹介したように、紀州・根来寺においては行人方僧侶が力をつけてくるわけだが、学侶僧たちの構造にも変化が出てくる。先の記事で述べた、全国各地から集まってきた僧たち(これを客僧と呼ぶ)と、本籍を根来に置く僧たち(これを常住僧と呼ぶ)との…

根来寺・新義真言宗について~その⑧ 紀州・根来寺の成立と、行人方の台頭

覚鑁派の本流であった大伝法院が高野山から退去し、根来の地に合流したことによって、ようやく本格的な根来寺の興隆がはじまった。軌を一にして、大伝法院伽藍群の建設が本格的にスタートする。金堂大伝法院・鐘楼堂・大塔・阿弥陀仏堂・不動堂など全ての堂…

根来寺・新義真言宗について~その⑦ 覚鑁の弟子たち(下) 根来中興の祖、天才・頼瑜と「大湯屋騒動」

高野において、金剛峯寺と大伝法院の主導権争いは続けられる。とはいっても、この頃すでに両寺とも権門寺院化していたので、皇族や公家たちが座主に就任するのが常態化していた。これが鎌倉期に入ると、権力争いの構図が若干変わってくる。寺社勢力に対する…

根来寺・新義真言宗について~その⑥ 覚鑁の弟子たち(上) 仕事のできるお坊ちゃん・隆海の40年に渡る政治闘争

覚鑁亡き後の根来の地には円明寺があり、そこでも教えは守られ続けてきたようだが、覚鑁派の本流は未だ高野山中にあった。その中心は、何といっても覚鑁が建立した大伝法院である。 鳥羽上皇から多くの寄進を受け、財政的にも豊かであった大伝法院の勢力は、…

根来寺・新義真言宗について~その⑤ 過激派によるテロ・覚鑁殺害未遂事件「錐もみの乱」

高野山を実質的に統べる立場にある「金剛峯寺の座主」に就任することは、覚鑁の強い意志によるものだ。だが彼は決して名誉を求めたわけではない。その証左に、翌1135年には弟子である真誉に、金剛峯寺と大伝法院、両座主の座をあっさり譲ってしまい、自…

根来寺・新義真言宗とは~その④ 覚鑁、高野山の改革に挑む

さてこの新しい教義を、覚鑁はどのようにして広めようとしたのか。 1130年、高野山上において彼は新たに「伝法院」という名の寺院を建立する。密教寺院には、そもそも「伝法会(でんぽうえ)」という教義上の議論を行う、研究会のようなものがあった。空…

根来寺・新義真言宗とは~その③ 空海の再来・覚鑁登場

さて平安期の仏教は(南都六宗も天台も真言も)貴族のための宗教であったわけだが、浄土思想や末法思想にうまく対処できず――というよりも、開き直りに近い姿勢を見せて――平安末期頃から台頭してきた、武士や庶民たちのニーズを満たすことができなかったのは…

根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂・阿…

根来寺・新義真言宗とは~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

ようやくにして根来寺・新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないの…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑭ 番外編 破戒僧・円載(下)

次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(中)

円珍は円載との出会いを「在唐巡礼記」という書物に書き残している。この書は現存しないのだが、「在唐巡礼記」を要約した「行歴抄」という書物が後世になって編纂されたおかげで、2人の出会いはどんなものであったのかが分かるのだ。当該部分に手を加えて…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(上)

遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか? 遣唐使に…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかっ…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取って…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一「三一権実争論」

奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどう…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑥ 他宗をもその内に取り込んだ、空海の先進性

空海により日本にもたらされた密教の教え。空海はそれに独自の解釈を加え、更に発展させる。彼が打ち立てた真言の理論は、天才が収集・編纂した故に、それ以上の解釈や発展がなかなか進まなかった、と言われているほどである。彼の先進性を示す一端として、…

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑤ 目指すところは「スーパーマン」 密教の教えとは

密教はインドにおいて発生した、仏教の一派である。初期の密教は呪術的な要素が多く入っており、極めて土俗的な性格が強いものであった。こうした初期密教を「雑密」と呼ぶ。例えば、初期に成立した「孔雀王呪経」は毒蛇除けの護身呪であり、おまじないに近…