もう1つ、違う出入りを紹介したい。やはり同じ慶誓が参加した「跡式の出入り」だ。先の「山分けの出入り」からわずか1年後、1556年に発生した出入りである。
それにしても、慶誓が参加していない出入りもあったはずなので、こうした戦いが常時、境内において繰り広げられていたということになる。随分と物騒な環境だ。関係ない学侶方の僧はさぞかし迷惑だったろう――案外、どちらが勝つかで賭けをしていた僧なども、いたのではないかという気もするが。
この出入りだが、泉識坊系の「威徳院」と杉乃坊系の「三實院」との間に、相続を巡る争いがあったのが事の発端らしい。ずっと話し合いが続けられていたが、破綻して「跡式の出入り」が発生した。慶誓は泉識坊系の福宝院の行人なので、泉識坊の先兵として活躍することになる。前のエピソードと同じく「佐武伊賀守働書」にそって、戦闘の経過を追ってみよう。
まず三實院の者が、門の際まできて攻めかけてきたので、慶誓らはこれを迎撃するために前に出る。三實院の中間で「とろ」という名の者が、2尺7・8寸(約83cm)の刀を持って、門から3間(約5.4m)のところに盾を置いた。これに対してすかさず慶誓、矢を放ったところ1射目は盾を射抜き、2射目は盾を貫いて、相手の肩に刺さった。
次に近くで三實院の長尊という行人が、慶誓の仲間と槍で突き合っていたので、2間半(約4.5m)の距離で矢を放って、その腕を射た。すると大夫という行人が、槍で突きかかってきたので、これの手首も射抜いてやった。
戦いは更にエスカレートする。杉乃坊の行人たちが次々にかかってきたのだ。慶誓ひるまず、これらにも矢を放ったところ、1本が三福院という行人の眉の上にジャストミート。後頭部まで矢を射抜かれた相手は、即死してしまった。更に張右京という行人に対して、矢を4本放って当てた。また大福院の大弐に対しても矢を放ったところ、籠手の鎖を射抜いた――
慶誓、大活躍である。ちなみに文の最後に「自分1人の弓で5、6人仕留めた」と自慢気に記している。最もこの「佐武伊賀守働書」は、若い頃の手柄話を晩年になってから記したものなので、どこからどこまでが本当のことなのか、分からないのだが。
そして今回、慶誓は1人殺している。頻繁に起きたであろう出入りで、こんなにも簡単に人が死ぬというのは、修羅の国も顔負けの世界ではないか。こうした出入りは、対外戦争の演習的役割を果たしていたのでは、という説があるが、確かに普段からこれだけ鍛えられていたら、根来勢は相当に強かっただろう。
そして最後に矢を射られた大福院の大弐、気づいたであろうか。彼は1年前の「山分けの出入り」の際に、長坂院に7、8カ所も散々に斬られ瀕死の重傷を負った、あの大弐なのである。
前回は仲間だったのに、今回は慶誓の敵に回っているのだ。なぜか。その理由は、根来寺に属する子院が持つ、ある特性にあるのだ。(続く)