根来戦記の世界

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印地について~その⑤ 日本中世編(下)

 さて節句の向かい礫である。京には大小の祭りはたくさんあるが、時代が下るにつれ「祭礼飛礫」は正月と節句、この2つの祭りに集約していったようだ。

 拙著「京の印地打ち」では節句の向かい礫は、加茂川を挟んで行われていたように書いたが、実際にはみやこの辻々で行われていたようだ。刀や棒などの打ち物は勿論のこと、盾まで持ちだしていたようだ。

 下図は1841年に出版された「尾張名所図会」の中の、印地打ちの図だ。「印地打ちの古図」とあるので、古い時代の原図を写したものと思われる。印地打ちに参加している多くの者たちの腰には、刀が差されていることに注目。

 

差しているのは刀ではなくて菖蒲の葉、という説もあるが・・それにしては見物人たちの
腰が引けているように見える

 こうした状況下で、向かい礫が行われるとどうなるか。拙著では、印地打ちたちが刀を手に加茂川を徒歩渡りして、対岸に突撃する様子を描いたが、実際には川などの障害物はない場合が多かった。つまりは打ち物を手に、すぐに敵に突撃できたわけだ。作中とほぼ同じ時期の記録に、加茂の祭りの向かい礫で45人(!)が死んだ、という記録もある。礫で死ぬのではない。近接戦闘で死ぬのである。

 戦国時代に宣教師ビレラが本国に送った報告には、更に驚くべきことが書いてある。「節句の向かい礫では、まず礫を打ち合い、然る後に矢合わせと、鉄砲の放ち合いを行う。最後は槍と刀での戦いで終わる」といった旨の内容があるのだ。冒頭の「節句の向かい礫」という単語を「日本の合戦」に置き換えても、違和感がないほどの凄まじい内容だが、これはどこまで本当なのだろうか。

 いずれにせよ、神事と関連づけられて始まった印地だが、次第に寺社の手を離れ、印地の党や庶民たちによる祭礼時の遊びの色が強くなっていく。時と場合によっては、庶民の鬱屈が爆発し、大規模な殺し合いにまで発展することもあった、ということだろう。戦国時代末期に京に上がっていた大名が、節句の向かい礫を見学しに町に出た、という記録もある。戦国の大名にとっては、町中の喧嘩を野次馬するような感覚だったのだろう。(続く)