根来戦記の世界

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前期倭寇について~その① 前期倭寇の正体

 倭寇と根来の行人。一見関係なさそうだが、意外にも少しあるのだ。このシリーズでは倭寇と根来行人とのかかわり、そして当時の国際的なネットワークについて見てみようと思う。

 まず倭寇には「前期倭寇」と「後期倭寇」がある。なぜ2期に分かれているのかというと、前期と後期では様相が異なっていたからである。連続して変質していった、というよりも、両者は全くの別ものなのである。

 まずは前期倭寇から。年代的には14世紀~15世紀にかけて。記録によると1350年4月、100余艘の倭船が順天府にある漕船を襲った、とある。これまでも松浦党などによる散発的な襲撃はあったようだが、ここまで大規模かつ本格的な襲撃は初めてだったらしく、「高麗史」ではこの年を以て「倭寇の侵」のはじまり、としている。

 これら前期倭寇の主たる略奪地域は朝鮮半島で、のち中国沿岸部も含んだ。略奪対象は何であったか?前述した記事では漕船が襲われた、とある。漕船とは租税であった官米を運ぶ船のことだ。前期倭寇が狙った獲物は、主に米穀などの食料品だったのである。官米を備蓄しておく倉庫なども、よく狙われた。

 

明代の書物「万宝全書」より、凶悪な顔つきの倭寇。鎧を付けずに素肌のまま、日本刀を片手に敵に突っ込んでいくイメージは、この図を基にして描かれた江戸期の本、「異称日本人伝」の倭寇図が明治期の教科書に載った影響による。実際には鎧を着て、ちゃんと武装を整えた倭寇も多かった。

 

 また人も多く攫われた、とある。これにより沿岸部から、多くの人が内陸部へ移住してしまう。同じ理由で海岸近くにあった官庫の多くを奥地に移したが、逆に獲物を求める倭寇集団を内陸部まで誘因する結果となった。初期には沿岸部を襲撃して去るだけであったが、慣れてくると上陸して首都である開封付近にまで進出するなど、陸路の行動範囲が伸びている。

 前期倭寇の構成員は日本人が主だが、高麗人も多く参加していた。彼らは主に水尺・才人と呼ばれていた賤民たちで、それらだけで構成された集団による略奪行も起きていた。また済州島に代表される半島南部沿岸部の人間たちも、かなりの数が倭寇として活動していたようである。

 いずれにせよ、日本人の多くは九州の人間だった。そしてこれら倭寇は、騎馬に乗っていたという記録が多く見られる。前期倭寇の主体は武士だったのではないか、という説が古くから唱えられてきた所以だ。

 「倭寇の侵」と呼ばれる1350年に、日本で何があったか。この年は足利尊氏とその弟、直義が争った「観応の擾乱」が発生した年である。その前年に直義方の武将・直冬が九州に上陸している。九州は一時、尊氏方・直義方・南朝方の三つ巴の戦乱状態になるのだ。前期倭寇の始まりは、こうした動きと重なる。九州での戦争に必要な食料物資、そして奴隷などの人的資源を獲得するために、武士たちが海を渡って略奪行を行った、というわけである。

 前期倭寇の規模として、大きなものだと兵数3000・船数400余、とある。数に誇張があるにせよ、これだけの動員をかけられるということ、また内陸部への侵攻手段として騎馬を多用した、などの事実を見ると、組織だった武士団による略奪であったいう説には説得力がある。実際、「高麗史」1375年の記事には「藤経光」を称する親分率いる倭寇一党が、高麗に至り食料を求めたが、謀殺されそうになったので逃げ去った、とある。この藤経光は、大宰府にいた少弐氏ないし、松浦党名護屋氏の一族だったのでは、と推測されている。

 また「高麗史節要」の1380年の記事には、若き倭寇の将・阿只抜都(あきばつ)が出てくる。彼は全身これ鎧で固めた騎馬武者で、同じように騎乗した多くの手下を率いていた、とある。彼などは菊池党や松浦党などの武士団を率いていた、若き大将だったのではないだろうか。

 だが、この阿只抜都や騎馬集団をモンゴル系の済州島人、とみる説もある。当時の済州島は馬の名産地であり、高麗は元によって支配されていたから、モンゴル系の定住者が多くいたのである。済州島の人々が倭寇に参加していたのは間違いないから、その可能性もあるかもしれない。また先述した水尺・才人たちは、馬を使って移動していた非定住民でもあったから、彼らが略奪の際に騎馬を利用していたとしても、おかしくはない。

 或いは、前期倭寇のきっかけは九州の武士団であったが、時間が経つにつれ内実が変遷していったのかもしれない。ここからは個人的な推測になるのだが、九州の騒乱が静まっていくにつれ、武士による略奪行は減っていったが、代わりにその旨味を知って今更やめられなくなってしまった、対馬壱岐・松浦の三島の住民を主としたものになっていった、ということではなかろうか。またそれとは別に、済州島人など半島南部沿岸部の住民や、水尺・才人たち賤民らも略奪行を行っていた。彼らは時には連合することもあっただろう。こうした多様な略奪集団を総称して「倭寇」と呼んだ、というわけだ。(続く)