根来戦記の世界

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前期倭寇について~その② 前期倭寇の終息

 前期倭寇のピークは、1376年から1389年にかけての13年間である。朝鮮半島における記録を見てみると、それまでは年にひとケタ、多くて年に10回ほどであったのが、1376年に12回を数えた後、翌77年からは29回、22回、15回、17回と、ふたケタ台が当たり前の状況が続き、この13年間を平均すると年に15.3回という襲撃回数になる。記録に載らない小規模なものもあっただろうから、受けた被害は相当なものだったろう。

 なおこの時期、中国は元王朝の崩壊→明の建国、といった混乱期にあたる。特に倭寇に関する元代の史料の多くは、内乱で失われてしまったようで、中国側の記録には不備が多い。ただ朝鮮半島ほどの被害は被っていなかったようである。

 

17世紀の中国の作品、「倭寇図巻」(作者不詳)より。付け火をし、略奪する倭寇この図は1558年の中国における後期倭寇を描いているので、前期倭寇ではないのだが、やっていることはそう変わらない。

 

 高麗も、やられてばかりではなかった。1389年には、前期倭寇の前進基地であった対馬を攻撃している。これにより約300隻の船を焼き、攫われていた多くの捕虜を連れ戻した、とある。高麗は3年後の1392年に倒れ、新たに李成桂によって李氏朝鮮が建国されるが(先の記事に出た、阿只抜都(あきばつ)を射殺した英雄・李成桂である)、彼は疲弊していた国力の立て直しに成功し、倭寇対策として水軍の拡充と沿海の防備を充実させている。高麗末と李氏朝鮮初期の倭寇の記録を比べてみると、明らかにその規模と回数が減っていることが分かる。

 また多くの倭寇が朝鮮側に帰順しはじめる。これを投化倭人、と呼んだ。投化倭人はかなりの数にのぼり、そのまま対倭寇の防御警備に就く者もあれば、船大工、医者、銅の採掘・鋳造などの職につく者もいた。1396年には倭寇の大物「疚六(きゅうろく)」が60隻の船団を率いて投降し、朝鮮から宣略将軍に任じられている。他にも対馬出身の「平道全」が忠清道助戦兵馬使に任じられるなど、朝鮮政府の中枢に入る投化倭人の姿も見受けられるようになる。

 

白石一郎著。倭寇と村上海賊衆を描いた、異色の時代小説。1987年に第97回直木賞を受賞している。この中に「疚六」をモデルにした、強烈なキャラが出てくる。35年以上前の小説だが、素晴らしく面白いので是非読んで欲しい。

 

 同じ頃、日本では足利義満によって南北朝の合朝が果たされ、長きに渡る戦乱がようやく終わりを告げる。義満は明との勘合貿易を行うために、進んで倭寇の取り締まりを行うようになる。大内氏や宗氏など、朝鮮との貿易を認められた地方の大名たちもこれに倣った。特にその前進基地であった対馬の統制政策によって、前期倭寇による襲撃数は徐々に減少していく。

 この後、多少の盛り返しもあった。特に倭寇取り締まりに実績があった、対馬宗貞茂の死によって、1419年には7回の倭寇の侵入を数えている。よりにもよって新当主・貞盛の元で実権を握った重臣は、早田左衛門という元倭寇の親分であったから、取り締まりに手心が加えられたと思われる。

 だがそれも同1419年に発生した、遼東の「望海堝(ぼうがいか)の戦い」における倭寇船団の壊滅、そして「応永の外冠」と呼ばれる朝鮮の対馬攻撃によって、倭寇集団は大きなダメージを受けたようだ。

 散発的な襲撃はこの後も続いたが、1443年には対馬李氏朝鮮との間で嘉吉(かきつ)条約が結ばれる。これは日本・朝鮮間の貿易ルールを定めた性格の条約で、貿易窓口を対馬とし、年に50隻を上限とする歳遣船(さいけんせん)の渡航許可と、釜山浦・薺浦・塩浦の三浦を貿易港として設定する、といった内容のものだ。

 この条約は、対馬にとっては大変に旨味のあるものだった。対馬が窓口になったということは、実質的には宗氏が朝鮮との貿易を独占できるようになったことを意味する。李氏朝鮮から提示された、この飴の効果は抜群だったようで、倭寇の数は急激に減っていき、1444年には世宗によって、倭寇の「終息宣言」が出されているほどだ。(続く)