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前期倭寇について~その③ 李氏朝鮮が払った代償と、三浦の乱

 1443年に嘉吉条約が結ばれたことによって、前期倭寇は終息した。だが、この条約は李氏朝鮮にとっては高くつくものであった。例えば、対馬が貿易のために訪朝した際には、その滞在費、そして交易品の運搬費用は、全て朝鮮側の負担になった。交易品を運ぶ任を負わされた、街道沿いの住民たちの負担は大きく怨嗟の的となった、と記録にある。こんな不利な取り決めに朝鮮側が甘んずるを得なかったのは、倭寇による略奪被害がそれだけ厳しかった、ということであろう。

 そもそも農本主義が国是であった李氏朝鮮は、同時代の日本ほど商品経済が発達しておらず、交易も市場に任せない官貿易であったから、抜け目のない商人たちのいい食い物となった。朝鮮からは大量の綿布が流出し、代わりに日本からは胡椒・丹木・朱紅・銅・金等などが輸入されたが、これらは基本的には贅沢品であった上、極めて日本側に有利なレートでの取引であったため、収支は完全に朝鮮側の赤字、やればやるほど損する構造だったのである。

 そして遂には国庫から、綿布が払底する事態となってしまう。遅まきながらそれに気づいた朝鮮側は、1488年に綿布のレートの変更、次いで金や銅の輸入禁止などの措置をとる。しかし対馬側はそれに構わず、1500年には11万5千斤という大量の銅を持ち込んでその買取りを要求、三分の一を売りつけるという、相当に強引な押し売りをしている。

 年間50隻のはずであった歳遣船も、よく見てみると例外も多い。まず対馬の宗氏一族3名に対し、それぞれ年に7隻・4隻・3隻、船を送れる権利を付与している。また別に年に1~2隻、船を送れる権利を持つものが14名。年に1隻だけ送れるものが27名。更に受職倭人と呼ばれる、朝鮮から官職を与えられて毎年1回だけ訪朝できるもの20人以上。この受職倭人も輸出品を満載した船を仕立ててやってくるのが常であったから、トータルで年に120~140隻は、定期的に通交できたことになる。

 対馬は上記以外にもなんだかんだ理由をつけ、定数外の船を送りつけてくる。「特別の情報を知らせるために」臨時に出す特送船の船倉は常に満載であったし、他の大名からの使い船もたびたびやってきたのだが、これが実在しない勢力の偽使であって、本当は対馬の船なのである。1482年に「夷千島王遐叉(えぞちしまおうかしゃ)」なる謎の人物からの使者が朝鮮を訪れている。これを安東氏が送った使節とする説もあるが、どう考えても宗氏ないしその周辺が誂えた偽使であろう。ほぼ同じタイミングで朝鮮を訪れた「久辺国主李獲」なる者の使節も、同じと思われる。

 更に朝鮮側にとって負担になったのは、釜山浦・薺浦・塩浦の三浦における定住日本人の増加である。三浦に住む日本人は、李氏朝鮮の検断権・徴税権の対象にならなかった。それら日本人(恒居倭と呼ばれた)が三浦周辺の田畑や漁業権を購入、税を払わずにそれらを経営する、というケースが増えていく。こんな好条件な待遇に飛びつかないわけがなく、1436年には200人ほどであった恒居倭は、60年後には3000人を超えるのだ。これは植民地化への第一歩である。

 こうした状況を「腹中にできた腫瘍」に例えた李氏朝鮮では、遂に三浦に対して抑圧政策に転じるのだ。1510年、これに反発した三浦の日本人は、対馬の宗氏と連携して反乱を起こす。これがいわゆる「三浦の乱」である。対馬からの援軍を加え4500人に膨れ上がった反乱軍による攻撃は、当初は順調に進んだが、最終的には官軍の反撃にあい壊滅する。この事件により日本と朝鮮との通交は一時、断絶するのだ。

 1512年に通交は復活するが、規模は以前よりも遥かに制限されたものになってしまう。身から出た錆とはいえ、これは対馬にとっては大きなダメージだった。そこで宗氏は、通商と交渉を少しでも自国に有利にするために、先に紹介した偽使をより大規模かつシステマチックに行うようになる。

 架空の国を拵えるなどの稚拙な技はやめて、手口がより巧妙になってくるのだ。例えば、「小弐政忠」の名を刻んだ銅の図書印が現存するが、どうやらこれは「小弐政尚の子ども」という設定の架空の人物で、朝鮮に通交し通交証明をもらうことに成功したものと見られている。

 そんなのはまだかわいい方で、日本国王室町幕府将軍)の偽使を仕立てての通商・交渉まで、日常的に行っている。李氏朝鮮を訪れた22回の日本国王の使者のうち、本物は2回のみであり、残りの20回は対馬の仕立てた偽使だったというから、堂に入っている。

 

九州国立博物館蔵「対馬宗家旧蔵図書」。宗氏が偽造した、室町幕府将軍の木印である。4種類あるということは、少なくとも将軍4代に渡って使用されていたということだ。

 

 とはいえ、これでようやく李氏朝鮮は一息つけた・・と思いきや、1552年頃から、今度は後期倭寇が始まるのだ。後期倭寇の主な略奪対象は中国沿岸ではあったが、朝鮮半島にもその余波は及んだ。これら後期倭寇は前期倭寇とは構成員が異なっており、対馬と朝鮮間だけで解決できる問題ではなかったから、李氏朝鮮は根本的な対策を打ち出すことはできず、水際での防御に徹するしか対処法はなかった。

 そして1592年には、秀吉による文禄の役が始まる。この文禄の役において、小西行長と組んだ対馬の宗氏が、偽書をつくって秀吉と李氏朝鮮の双方を騙した結果、両者の間が大いにこじれてしまい、開戦に至ったのは有名な話だが、裏にはこうした背景があったのである。宗氏にしてみれば、偽使を立てての交渉など昔から日常的にやっていたことなので、特に抵抗なく行った、ということなのだろう。(終わり~次のシリーズに続く)

 

このシリーズの主な参考文献

倭寇 海の歴史/田中建夫 著/講談社学術文庫

・中世国境海域の倭と朝鮮/長節子/吉川弘文館

・描かれた倭寇倭寇図巻と抗倭図巻」/東京大学史料編纂所 編/吉川弘文館

・増補 中世日本の内と外/村井章介 著/ちくま学芸文庫

倭寇と東アジア通交圏/田中建夫 著/吉川弘文館

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・その他、各種学術論文を多数参考にした。