根来戦記の世界

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後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑤ 倭寇たちの略奪ツアーの行程

 こうした倭寇の略奪船団はどの程度の規模で、どのようなルートを辿り、どう行動したのだろうか。典型的なパターンを見てみよう。

 まず倭寇の親分たちが、南日本を中心とした各地で兵を募る。それぞれ懇意にしている地域(縄張り?)があったらしく、前述した陳東の顔が利いたのは薩摩だったし、徐海は大隅種子島だった。いずれにせよ、船団の集合場所は五島列島で、ここが略奪コースの起点となる。入り組んだ地形で湾が多く、船の停泊には絶好の地であった。王直も自身は平戸にいたが、配下の船団の根拠地は五島に置いていた。

 各地より三々五々集まってきた船が揃い、予め決めておいた日時になると、出発である。風向きの関係上、季節は3月~5月がベストだ。6~8月は台風が来るから危なくて渡れない。9月・10月・12月は渡航が可能。11月と1月、2月は風向きが逆になるので厳しいようだ。日本からの略奪船団は、概ね春と秋の2回来る、と「武備志」にある。

 ちなみに日本より正月に来襲した、という記事が幾つか見受けられるが(前記事の陳東の船団がそう)、これは既に秋の時点で大陸に渡航済で、暴れ始めたのが1月からだった、ということかもしれない。日本に帰るのに適した風向きは11月~2月あたりになるので、もし3月あたりに来襲したとすると、その船団は中国沿岸で8か月は暴れまくることになる――途中で討伐されなければ、の話だが。

 五島から彼らはどこへ向かうのかというと、まず浙江省を目指す。それより北の山東省はそこまで豊かではなかったし、南の広東省はやや遠すぎた。両地域に遠征しないということもなかったが、この時代、浙江省こそが経済の中心であり、最も豊かな地であったから、まずはここを狙ったのだ。

 五島からのルートだが、中国沿岸に至るまで幾つか中継地点がある。下記がその地図である。

 

鄭梁生氏の「明・日関係史の研究」に記載された図を元に、筆者が作成。青い🔲が倭寇の補給地で、オレンジの🔲が侵略された主な都市名を表す。もちろん、上記の地図に記載されていない町も、数多く襲われている。

 

 東シナ海を越える長い航海の果て、倭寇船団がまず辿り着くのが馬蹟島である。薪と水を補給して、ここから2手に別れる。西に向かい洋山経由で杭州湾方面を荒らすルートと、更に南下するルートである。メインはやはり、杭州湾ルートだ。杭州湾の入口にある第2の中継点・洋山には、船を数百隻も停泊できる湾があった上、山頂には淡水池があったので、そこで新鮮な水の補給ができた、とある。ここで英気を養った海賊どもは、杭州湾を取り巻く町々に襲い掛かるのだ。

 南下ルートを選ぶと、第2の中継点は韭山になる。ここから西に向かい、沿岸を荒らすか、更に南下して第3の中継点・大陳島を経由して台州、或いは温州を荒らす、というのが大まかなパターンであった。

 各地を襲ったこうした略奪船団は、終始一体となって行動していたわけではない。中国沿岸で散ってはまた集合、といった動きを繰り返すのだ。彼らは大きな都市の略奪が終わったら「じゃあ次は、ワシはここにいくわ」「ほーん、そんならワイはこっち」といったように、集団ごとに獲物が被らないよう別行動するのである。そして略奪対象の都市の規模が大きかったりすると、再び集まってそこを攻めるなどの行動をとるのだ。なので、記録に残っている各地を襲った倭寇の数は、数十~数千まで幅が広い。

 上陸した倭寇が数十人だからといって、侮ってはならない。何故ならば、その地にいる貧民たちが合流して、雪だるま式に大きくなることがあるからだ。例を挙げると、1553年4月に船を失い、フラフラになって乍浦に上陸した倭寇はわずか40人だったが、周辺の平胡、海塩、海寧を略奪しまくり、官兵や民間人、数百人に危害を加えた、とある。これはたったの40人で行いうる仕業ではない。つまり彼らがトリガーとなって、現地の反体制勢力が蜂起・合流し、巨大な群れとなって周辺を略奪するのである。「ひとたび倭、至ると聞くと、又楽しみて之に従う」という言葉が残っているほどだ。こうした動きは、前期倭寇朝鮮半島でも見られたことであって、「真倭は2、3割に過ぎず」という言葉は、こういう現象からも来ている。

 

天翔ける倭寇(上) (角川文庫)

雑賀の鉄砲衆が、誘われて倭寇に参加する話。面白さは、まあまあといったところ。倭寇を主人公にした小説は、少ないので貴重なのだ。津本氏の本は、剣豪物(特に幕末~明治期)は大変に面白いのだが、大河ものなどの長編はちょっと・・と思っている人は、私だけではないはず。

 

 いずれせよ、倭寇のこうした離合集散の動きは、場当たり的ではあったが、言い方を変えると臨機応変だったので、防ぐ側は相手の動きが予測できず、後手に回るしかなかった。倭寇たちは、こうして中国沿岸部を略奪しまくったのである。(続く)