日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのがルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている日本人が率いていた倭寇集団である。1582年に、この倭寇集団とスペインとの間で「カガヤンの戦い」が行われている。
この「タイ・フーサ」だが、「大夫様」と部下に呼ばれていた日本人だと考えられている。「大夫」というのは、正式には官職ないし神職にある、それなりに偉い位なのである。最も官名なぞ、各自が好き勝手に名乗っていた時代だったから、彼がしかるべき偉い人であったかどうかは、甚だしく疑問である。
ちなみに根来にも、大夫という名の行人がいたことが確認できる。1556年の跡式の出入りで、槍で突きかかっていった挙句、慶誓に矢で射られてしまった、三實院の行人のひとりである。
大夫 vs 慶誓の戦いの顛末は、こちらの記事を参照。慶誓の記した「佐武伊賀守働書」では、ほとんどモブ扱いだが・・
流石にこの大夫が、タイ・フーサと同一人物である可能性はないと思うが、仮に100万分の1以下の確率でも、根来の行人が流れ流れて数奇な運命の末、遠く日本を離れ、遥か南の島ルソン島北部・カガヤンに辿り着いた――そう想像してみるだけでも、愉しくなるではないか。本当は何者であったか、今では知る由もないのだが、いずれにせよ彼は、ここを本拠とした倭寇の集団のひとつを率いる親分になったのである。
マニラに本拠を置くスペイン人たちは、己の交易網の脅威であったこの倭寇集団を殲滅することに決め、ガレオンを中核とした10隻程度で編成された艦隊を送り込む。まず洋上でタイ・フーサの倭寇船団を捕捉、これとの間で接舷戦が行われる。日本刀を手に斬り込んできた倭寇たちと、甲板上で激しい戦いとなった。ここで船長のペロ・ルーカスが戦死している。スペイン側は船尾にマスケット銃士らによる防御陣地を急造、一斉射撃によって何とかこれを撃退した。
ここで勝利をおさめたスペイン艦隊は、カガヤン川を遡っていき、タイ・フーサの本拠地の砦を発見、塹壕を構えてこれを包囲する。倭寇たちはマスケット銃と大砲で守られたこの陣に対して、決死の突撃を3回試みる。そして3度目は互いに刃を交えるほどの接近戦に持ち込むが、あと一歩のところで撃退され、壊滅してしまうのだ。タイ・フーサも、この時死亡してしまったものと思われる。
この倭寇集団だが、規模としてはそう大きいものではなかった。記録によると、タイ・フーサの持っていた船団は、ジャンク1隻・サンパン18隻、とある。先の記事で紹介した林鳳の船団などは、ジャンクだけで62隻とあるから、比べ物にならない。略奪専門というよりは通商がメインの、カガヤンに住み着いていたローカルな倭寇だったと思われる。構成員も倭寇だけではなく、その家族も含めた私貿易集団、とでも呼んだ方がふさわしい集団だったのではなかろうか。カガヤンにはタイ・フーサ一党の他にも、こうした小規模な集団が幾つかいたらしく、一帯には600人ほどが住んでいたと伝えられている。
同じくフィリピンのリンガエンにも、日本人の集団が小さな港を造って住み着いていたことが記録に残っている。この港はスペイン人からは「ポルト・デ・ロス・ハポネス」、すなわち「日本人の港」と呼ばれていた。カガヤンよりマニラに近いにもかかわらず、スペイン人から攻められていないところを見ると、脅威と見られないほど規模が小さかったのだろう。
この集落は15世紀後半から16世紀半ばにかけて、60~80年間ほど存在していたようで、1618年にマニラ総督がスペイン本国に送った報告書には、「年に6~8万枚ほどの鹿皮を積み出している」とある。開拓時代のアメリカにおける、交易村のような存在だったのだろう。この日本人の集団は、最終的には発展著しいマニラに吸収されるような形で、皆そちらに移住してしまったようだ。
戦国期の日本は武具に鹿皮を多用したため、国産だけでは需要が賄いきれず、その多くを海外から買い求めていた。鹿皮の輸入先の例として、フィリピンの他にタイや台湾などがある。台湾の南澳島に同じような性格と規模の倭寇集団が居住していたことが記録に残っている。交易もするが、時に応じて略奪もする、こうした数百人程度の小規模の倭寇集団は、当時の東南アジアを中心とした海域に、それなりの数が存在していたと見られている。(続く)
YOUTUBEに、この漫画の宣伝動画があった。最後は老主人公とタイ・フーサとの一騎打ちになるようだ。なかなか面白そうだ。スペインのアマゾンで売っていたのを発注したのだが、何回やってもキャンセルになってしまう。何とか手に入れたいと思っているのだが・・