根来戦記の世界

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晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑥ 日本人町と鎖国

 東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカであり、スペインのそれはマニラであった。遅れて参加したオランダは先の記事で紹介したように、ポルトガルからマラッカを奪おうとしたが失敗、その代わりにバタヴィアと台湾に拠点を置いた。

 そしてこのオランダとほぼ同じタイミングで、日本人町が東南アジア各地に形成されはじめる。こうした日本人町は、どのようにして形成されていったのだろうか。

 徳川幕府は国内の混乱を治めた後、海外交易の促進と統制を目的とした「朱印船貿易」を行うようになる。日本に拠点を置く者であるならば、国籍に関係なく朱印状が発布された。商人や大名、武士以外にも中国人やヨーロッパ人まで朱印状を受け取った者もいる。1604年から始まり、1635年まで行われたこの貿易で、のべ356隻もの朱印船が東南アジア各港を訪れている。

 

長崎歴史文化博物館蔵「末次朱印船」。長崎の豪商・末次平蔵が奉納した絵馬である。船首には彼のトレードマーク「平」の旗が翻っている。朱印船貿易に乗り出した平蔵は、台湾・フィリピン・ベトナム・タイなどと交易を拡大し、巨万の財を築いた。

 

 これら朱印船が入港した港町に形成されたのが、日本人居住区である日本人町なのだ。形成された町としては、ベトナム中部のホイアン、タイのアユタヤ、カンボジアプノンペン、フィリピンのマニラなどがある。どこも一から植民して町を造り上げたわけではなく、既にある町の中、ないしその近郊に日本人町を造っていく方法であった。

 現地の勢力は、どこも日本人を受け入れざるを得なかった。なにしろ日本との交易は儲かるのである。例えば1580年頃のポルトガルの記録になるが、数多くあるアジア貿易航路で最も稼げたのは、インドのゴア~長崎間であって、他の航路の3~5倍は儲かるルートだった、とある。とにかく皆、日本産の銀を喉から手が出るほど欲しがっていたから、背に腹は代えられなかったのである。

 日本人町は現地の政権からは、一定の自治を与えられていた。タイのアユタヤ、そしてフィリピンのマニラにあった日本人町が特に大きく、最盛期にはそれぞれ2000人ほどの日本人が住んでいたと伝えられている。キリスト教に改宗した人も多かった。

 

Wikiより画像転載。1656年、アンドリーズ・べークマン画。バタヴィア日本人町に住んでいた、無名の日本人キリシタン。この時期、既に日本は鎖国していて帰れないはずだから、彼はジャカルタで骨を埋めたのであろう。もしかしたら、現地に彼の血を引いた子孫が残っているかもしれない。

 

 ただ、現地の権力者が懸念していた通りの事態も起こっている。日本人町の日本人たちが1612年にタイのアユタヤ朝、ソンタム王に対して反乱を起こしたのだ。この時、500人の日本人たちが王宮に乱入したが、撃退され逃げ散ったと「アユタヤ朝年代記」に記されている。この17年後、傭兵隊長山田長政が王位継承に介入して毒殺されているわけだが、こうした動きは他にもあったようだ。

 1633年になって徳川幕府は、5年以上海外に居住した日本人の帰国を禁じ、35年には東南アジアへの渡航禁止令を出す。そして41年に出島制度が制定され、日本は長きに渡って国を閉じることになる。鎖国のはじまりである。鎖国により本国からの人的供給を絶たれた各地の日本人町は、どれも17世紀の終わりころには、現地との同化が進み消滅してしまう。

 もし仮に、本国から日本人町へ人的供給を続けていたとしたならば、こうした町を拠点とした、日本による東南アジア各地への更なる植民や、発展が進んでいただろうか?そうはならなかったと思われる。

 幕府が鎖国した理由は幾つかある。1637~38年にかけて発生した島原の乱の影響が最も大きかったが、流出する一方の日本銀の流出を抑えるという目的もあったのだ。1530年代に石見銀山が本格的な採鉱を始めてからずっとこの方、日本は銀を輸出し、生糸・絹布・綿布などを輸入していた。

 戦国末期から国産綿花の増産が進んだので、綿布の輸入量は減ったのだが、江戸期に入って豪華な小袖などを求める富裕層らが登場したことにより、絹の需要が激増したのである。結果、海外からは大量の生糸が日本に流れ込んだ。消費財である生糸を銀で払って輸入しているわけだから、貿易収支的には望ましい事態ではなかった。

 幕府は初め「糸割符制」を導入し、流通と価格をコントロールしようと試みたがうまくいかず、鎖国を機に貿易相手を中国とオランダのみとした。それでも国産絹の生産が軌道に乗るまでは、銀の流出は止まらなかったようだ。

 日本人町は、しょせんは貿易拠点でしかなかった。一方、東南アジアにおける西欧勢の植民地は、単なる「点」であった貿易拠点から、プランテーション経営という「面」へと、次第に質的変化を遂げていく。先の記事で紹介したオランダのバンダ島虐殺事件も、ナツメグプランテーション経営のためであり、先住民を一掃したあと、労働者として大量の奴隷を入植させている。

 日本にはそういう発想はなかったし、またそれができる経済構造でもなかった。かつて世界の3分の1の産出量を誇った石見銀山からの銀は減産する一方だったし、代わりに輸出できる商品もない。国を閉じなければ、西欧勢による経済的な侵食を、もっと早くに受けていたのではなかろうか。

 アジアにおける西欧勢の植民地化のスピードは、比較的緩やかなものであったが、19世紀になって急に加速する。アジアにおいてこれに長らく対抗できた国は、列強の緩衝国としてのタイと、鎖国政策をとっていた3つの国――すなわち超大国・中国と、東アジアの片隅にあった朝鮮、日本のみであった。(続く)