長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。
1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語、オランダ語など数か国語に堪能であったと伝えられている貿易商人、つまりは倭寇の一員だ。鎖国前の平戸を拠点にしていた、顔思済という親分の元で頭角を現した彼は、この年、その後を継ぐ形で船団を率いることになったのだ。
拠点を平戸から台湾に移した彼は、福建省沿岸で武装活動を行い、顔思済の部下時代に同僚であったライバルたちを次々と滅ぼしていく。当初は100隻程度であった彼の艦隊は、最盛期には1000隻を超えたという。
彼の船団は、かつての倭寇のように中国沿岸部を略奪することなどはしなかった――まあ、たまにはしていたかもしれないが、そんなにはしなかった。そんな危険を冒してまで明王朝と対決するよりも、もっとスマートな方法を選んだのだ。彼のユニークな点は、ライバルたちを滅ぼし唯一の海上武装勢力となったところで、他の商船から通行料を巻き上げたことだ。
東シナ海を航海する商船は、鄭芝龍の旗を立てなければ必ず襲われた。この旗を立てるためには、船1隻につき銀2000両を収める必要があった、とある。制海権を確保した彼は、東シナ海における通行料を独占したのである。瀬戸内海で村上海賊衆が同じことをやっているが、それを外海でより巨大な規模で行ったのだ。
こうすることによって、明王朝と良好な関係を築いた彼は、なんと1628年には海防遊撃という沿岸警備の役職に任命されるのだ。海上貿易に従事しつつ、洋上における公の治安活動をも請け負ったのである。かつての倭寇の大物、王直が描いていた夢を、80年越しで実現させたといえる。43年には、福建都督の位まで与えられている。
だが彼の誤算は、1644年に明が滅ぼされてしまったことだ。もしかしたら新しい体制下でも同じような処遇が与えられるかもしれない、そう期待した鄭芝龍は清王朝に降伏することにする。だがその降伏に、強力に反対する男がいた。他でもない、彼の長男である鄭成功である。
鄭成功は、鄭芝龍と日本人妻・まつとの間に平戸で生まれた、日中ハーフである。幼名を福松といった彼は、7歳の時に福建省に渡り勉学に励み、15歳の時に院試に合格する。かなりのインテリであり、このまま順調に進めば官僚への道が開けていたことだろう。だが明が滅んだことにより、その夢は断たれてしまった。代わりに亡命政権のひとつ、唐王・隆武帝に仕えることになる。帝に寵愛された彼は、国の姓である「朱」を賜り、以降は「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになるのだ。
1646年、隆武帝は北伐の軍を起こす。だがこれに大敗して帝は捕らわれてしまい、獄死してしまうのだ。鄭成功の反対を押し切り、父の鄭芝龍が降伏してしまったもこの時である。以降、2人の途は別れることになる。
亡命政権は代わりの帝を立てるも、次第に清に追い詰められてしまい、遂にはミャンマーにまで逃れている。かの地のタウングー朝・ピンダレー王は、この最後の皇帝・永歴帝を一旦は受け入れるものの、1662年に呉三桂の軍が迫ると、その身をさっさと引き渡してしまう。帝とその一族は雲南で処刑、こうして明の亡命政権は滅んだのであった。
隆武帝亡き後、鄭成功は厦門を根拠地として反清運動を行っていた。清は中原を制したとはいえ、南方は未だ呉三桂ら、明の遺臣たちによる強大な軍閥の支配下にあった。また鄭成功も大艦隊を擁していたから、陸から近いとはいえ海峡で隔てられた厦門を、清は攻めることはできなかったのである。1654年、そんな彼の元に、父の鄭芝龍から降伏の使いがやってくる。しかし彼の意思は揺るがず、父の願いは拒否される。息子を説得でなかったことにより、鄭芝龍は処刑されてしまうのだ。
それにしても鄭成功は粘り強く戦っている。彼を支えたのは、父が編み出した海上通行料の巻き上げシステムと、海外との貿易収入であった。五商という組織を立ち上げ、絹を中心とした品を盛んに海外に輸出しているが、彼の一番のお得意様は日本であった。(日本は既に鎖国していたが、中国相手の貿易は海禁対象にはならなかった。)また彼の実弟は、母方の実家である長崎の豪商・田川家を継いだ七左衛門という男で、資金や物資面で兄を援助している。鄭成功が弟に出した手紙に、例の通行料について書かれた内容が残されている。これにより鄭成功の時代には、大船からは銀2100両、小船からは銀500両を徴収していたことがわかっている。
また日本とのそうした繋がりで、鄭成功は江戸幕府に何回も援軍要請を行っている。こうした要請には、紀州大納言・徳川頼宣が乗り気であった、とも伝えられているが、当然のことながら幕府は困惑した。黙殺、という形で応えている。当時の日本で戦を本気で望んでいたのは、無聊を囲っていた旗本奴くらいのもので、太平の世に慣れ始めていた幕府には「いい迷惑だ」くらいにしか思われなかっただろう。
1658年から翌59年にかけて、鄭成功は300隻の大艦隊を率いて、北伐を慣行する。東シナ海の制海権は依然、鄭成功のものだったから、海から陸へのアプローチは自由自在なのだ。1659年5月には、脆弱な清水軍を一掃し、長江を遡りつつ沿岸の町を次々と占領下に置いていく。清がこの辺りを制してから、まだ10年ちょっとしか経っていなかったから、現地の反体制勢力もよくこれに呼応して立ち上がった。(こういうところも倭寇っぽい。)
艦隊は6月26日には副都・南京付近に上陸、7月12日にはこの南方の最重要拠点を包囲している。だが、この遠征は最終的には失敗に終わっている。南京包囲からわずか12日後の24日には、清の八旗の反撃を受け、大敗してしまったのだ。陸戦では、やはりどうやっても清軍に勝てないのだ。
2万近い兵と多くの指揮官を失うという、手ひどいダメージを負った鄭成功は、ほうほうの体で厦門に退却する。しかしこのままではジリ貧だ。この厦門に清軍はいずれ迫ってくるだろう。そんな状態を打開すべく、鄭成功は目を陸ではなく、海の向こうへと向ける。かつて父が、一時的に根拠地とした台湾――ここを征服することにしたのだ。(続く)