根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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根来と雑賀~その③ 根来vs雑賀 ラウンド1 天王寺合戦(下)

 信長は石山本願寺を包囲する形で各所に砦を築いて、じわじわと本陣に迫っていく。だが本願寺は海岸線に大小いくつもの砦を構築しており、浜手から本陣へと続く地域を確保していた。この海からの補給路を潰さない限りは、本願寺は弱体化しない。海岸線にある木津一帯には、南に突出するような形で幾つかの本願寺の砦が頑張っていた。

 信長の命をうけ、木津にある砦を攻略すべく5月3日、原田(塙)直政を主将とする攻撃隊が天王寺砦から出撃する。空いた天王寺砦には、代わって佐久間信栄と明智光秀が入った。攻撃隊の先陣は三好康長・根来衆・和泉衆、二陣は原田直政・大和衆・山城衆であった。

 ちなみにこの原田直政は、信長の馬廻りである母衣衆出身の優れた行政官で、将来を嘱望されていたひとりである。この時点で山城と大和の両守護に任じられていた直政は、その支配地の広さを見る限りでは、柴田勝家佐久間信盛荒木村重らと並ぶ位置にいた。

 

天王寺合戦の経緯、その①。「石山戦争図」を拡大し、そこに加筆したもの。本陣にプレッシャーをかけていた織田軍にとって、南方に(地図の右側が南)に突き出す形で孤立していた木津砦は、格好の攻撃目標であった。これを攻略せんと、原田隊が攻撃をかける。

 しかし木津の砦が攻撃されていることに気づいた本願寺は、雑賀衆を主力とする1万の兵を「楼の岸砦」から出撃させる。この本願寺勢は、木津砦を攻略中の原田隊を後方から突く形で襲い掛かった。「信長公記」によると、二陣を率いていた原田直政は自ら兵を率いて敵と相対するも、数千の鉄砲を有する雑賀衆に散々に撃たれてしまった、とある。

 前記事で紹介した通り、石山合戦の初期と違い、この時期の雑賀軍はオール雑賀で構成された集団であったから、鉄砲の数が数千あったとしてもおかしくない。撃たれまくって、陣が崩れたところを最後は突撃されたのだろう、原田直政は戦死、名のある近習の将も軒並み討ち死にしている。

 

天王寺合戦の経緯、その②。雑賀衆の鉄砲に散々撃たれ、原田隊が壊滅する。先の記事で紹介した、佐武源左衛門が兜首を奪い返したのは、この時の戦いの際と思われる。

 佐武源左衛門の記録には「敵方にいた本願寺門徒らから報せがあったので、敵の攻撃を警戒して、的場源四郎らと共に100ばかりの兵を率いて『三津寺』で待機していた。夜が明けようとしたから帰ろうとしたら、鈴木(雑賀)孫一がやってきて『もっと明るくなったら来るぞ』と言われたので、そのまま待機していたところ、明け方になって原田隊の攻撃が始まった。(出撃して)鉄砲で攻撃したところ、敵は鉄砲構に陣取っていた」旨を述べている。

 雑賀孫一や的場源四郎、源左衛門など重鎮らが率いる雑賀の精鋭部隊は、スパイ活動によって織田方の攻撃をある程度予測していて、砦で待ち受けていたのである。「楼の岸砦」からの援軍も、攻撃に備えていつでも出撃できるよう準備していたのではないだろうか。原田隊は罠にかかったのであった。(なお上記の地図にある「木津砦」の近くには、幾つかの砦があったと思われる。源左衛門らがいた「三津寺砦」もそのうちのひとつで、原田隊はこれらの砦群を同時に攻めた、ということではないかと考えられる)

 さて肝心の根来vs雑賀の射撃戦だが、此度の軍配は雑賀衆にあがった――というよりも、根来衆はさっさと逃げてしまったような気がする。ちなみに原田隊が率いていた軍勢の数は分かっていない。ただ包囲のため兵力を分散していたこともあり、そう多くはなかったようだ。

 その負けっぷりから推測するに、本願寺と同数あったとは思えないから、多くても精々その半分の5千程度、根拠はないが個人的には2~3千がいいところだったような気がする。前述した通りこの軍勢は、原田直政・三好康長・根来衆・和泉衆・大和衆・山城衆の6つの隊で構成されていた、とある。総数を6で単純に割ったとしたら、攻撃に参加していた根来衆は800~300程度、ならば鉄砲の数は、その25%の200~80丁、といったところだろう。

 楼の岸砦から本願寺勢が攻めてきたとき、根来衆はその軍勢が放つ尋常ではない数の鉄砲の発射音で、すぐに雑賀の主力が来たと分かったはずだ。自軍より10倍以上の鉄砲を持った雑賀衆を前に「こりゃ、勝てるわけがない」と判断して、原田隊が相手をしている隙にさっさと撤退してしまったと思われる。

 

天王寺合戦の経緯、その③。原田隊がやられている間に、根来衆天王寺砦に逃げ込む。しょせんは傭兵働き、命あっての物種ということだろう。砦は包囲される。

 佐久間信栄と明智光秀が守る天王寺砦は、更に援軍を加え1万5千に膨れ上がった本願寺勢によって包囲されてしまう。

 この時、信長は京にいたが「天王寺砦、陥落近し」の報せを受け、馬廻り衆などわずか100の兵を連れて、翌々日の5日に河内若江城へ到着。その地で急いで兵をかき集める。取り急ぎ、集まった軍勢の数は約3千であった。

 待てばもっと集まっただろうが、砦が陥落してしまっては元も子もない。これ以上の援軍を待つことなく翌6日、軍を率いて天王寺砦に急行。自ら先陣の足軽衆に交じって指揮を執り、本願寺の包囲網を突破、砦の中に入ることに成功するのだ。自身も鉄砲で足を撃たれるほどの激戦であった。

 信長が砦の中に入ったことで、本願寺勢はこのまま包囲戦に入ると考えた。もはや袋の中の鼠、二重三重に囲んでからゆっくり料理すればいい。しかし、砦の兵と合流した信長は、敵の意表をついてすぐに砦の南から再出撃、油断していた本願寺勢に襲いかかったのである。

 

天王寺合戦の経緯、その④。一旦、砦の中に入った信長は、すぐに再出撃。包囲網は寸断され、本願寺勢は敗走する。

 信長のこの攻撃は見事なもので、3千~4千の兵で1万5千を撃破するという、桶狭間を彷彿とさせる思い切ったものであった。(この勝利は巷間言われているほどのものではなく、かなり誇張されたものとする説もある)

 いずれにせよ、この敗北により本願寺勢は信長に野戦で勝利する、最大にして最後のチャンスを逃したのである。以降、本願寺勢は外に打って出ることなく、城の中に引きこもることになるのだ。

 この信長の再攻撃に、根来衆の残党は参加していただろうか。多分していなかったような気がする。鉄砲を持った傭兵隊など、スピードが命の強襲には向いていなかっただろう。後詰として砦の中にいて、外に向かって援護射撃をするくらいはしただろうが・・・

 この戦いに参加した根来衆は寡兵であったこともあり、存在感を示すことはできなかった。その一方、本願寺の雑賀鉄砲衆は参加した兵力も多く、織田方の大将・原田直政を討ち取る功を挙げたこともあって、その名を天下に鳴り響かせたのであった。信長は自軍の失態を隠すために、雑賀孫一を討ち取ったと嘘をついて、その偽首を晒したほどである。

 なお、期待を裏切った原田直政に対する信長の怒りは凄まじく、生き残った直政の一族は罪人扱いに近い追及を受け、所領や財産をほぼ没収されてしまったようだ。この戦いにも名前が出てきた佐久間親子や、のち加賀平定に失敗する簗田広正など、信長は失敗した部下に対しては容赦ない態度で臨む男であるが、それにしても厳しすぎる。

 直政には安友という遺児があったそうだ。彼は一時秀吉に仕えるもその後武士をほぼ廃業し、江戸で小児相手の医業を生業にしていたそうである。血で血を洗う戦国時代、その後多くの信長の武将たちが、混乱の中で一族もろとも根絶されたことを考えれば、そのほうが幸せな人生だったかもしれない。(続く)