根来戦記の世界

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根来と雑賀~その④ 根来vs雑賀 ラウンド2 信長による雑賀侵攻と、その先導を務めた杉乃坊(上)

 前記事で紹介したように、岸和田合戦で信長は散々痛い目にあわされる。戦線が崩壊するどころか、危うく自分まで討たれるところであったのだ。

 本願寺の武力の担い手は雑賀である。ならばその本拠地を叩くべし――そう考えた信長は、1577年2月に10万とも号する大軍を動員し、山手勢・浜手勢・信長本隊の三手に分けて、雑賀に侵攻したのである。のちの世に「雑賀合戦」と称される、戦役の始まりである。

 さてこの時、隣にある根来はどのような行動をとったのだろうか。

 この10年に渡る石山戦役で根来衆は終始、信長に味方していた。根来では建前としては、重要な決定事項は全山による合議制で決めることになっていた。しかしこの時期の根来においては、その実態は杉乃坊・泉識坊・岩室坊・閼伽井坊ら「根来四院」による、寡頭制がしかれていた。

 

根来の子院の権力構造については、こちらの過去記事を参照。

 

 そしてこの四院の中でも最大の勢力を誇る、杉乃坊が信長シンパであったのだ。この時期、杉乃坊こそが根来の対外政策の方向性を決めていた、と言ってもいい。(なお、この杉乃坊は雑賀の隣・那賀郡小倉吐前の津田氏が設立した子院であるが、津田氏そのものよりも、杉乃坊の方が強大になって規模が逆転してしまった感がある。古い例えだが、親会社のNTTより、子会社のNTTドコモが大きくなったようなものか。他にもこうした子院はあったようだ)

 この杉乃坊が、信長方についていた理由は定かではない。ただ以下の2つの理由が考えられる。

 この「雑賀攻め」が終わった後、織田方の軍勢が引き上げた後の和泉国には、一族の織田信張と共に、杉乃坊が配されたようである。和泉における、ある程度の利権を確約されていたということだ。またその際には、信長から「平」姓を与えられたという記録もある。

 そしてもうひとつ、根来寺内における権力闘争の意味合いである。杉乃坊の最大のライバルは泉識坊だったのだが、この泉識坊の本拠地は、雑賀庄にある土橋氏が治める地だったのである。

 雑賀と根来の両地域に跨って勢力を保持していた土橋氏は、10年間に渡る石山戦役の間、根来衆に対して泉識坊を通じ、本願寺側にたつように働きかけていた。しかし寺内における、政治的パワーバランスを変えることはできなかったようで、根来の対外方針に関しては、杉乃坊が主導権を握ったままであった。

 結果、土橋氏は雑賀庄の一員として本願寺側に、泉識坊は根来寺の子院として織田側に、それぞれ異なる陣営に属するという、板挟みに陥ってしまったわけである。土橋氏、そして泉識坊にとってはストレスのかかる状況であった。

 そして泉識坊のストレスがピークに達したのが、信長によるこの雑賀攻めだったのである。信長は侵攻に先立って、雑賀五組のうち宮郷・中郷・南郷の、いわゆる雑賀三組を寝返らせることに成功していたから、残った敵は雑賀庄と十ケ郷の二組のみとなった。だがこの残った雑賀庄こそが、土橋氏の本拠地であったのだ。

 この戦いにおいて泉識坊はどの程度、雑賀攻めにコミットしていたのであろうか。記録が残っていないので分からないが、兵を出すことはせず(どうも出兵したのは、杉乃坊系列の子院だけのようである)、終始静観していたと思われる。雑賀の土橋家に、情勢を逐一伝えることぐらいはしていただろう。流石に泉識坊に所属している行人らは、表立って土橋家に味方することはできなかっただろうが、院に属する地下人などの中には、援軍として雑賀入りした者もいたかもしれない。関ヶ原における真田家のように、最悪の場合にはどちらが滅んでも、一方が残るならば良しとする、そんな戦略だったのかもしれない。

 この大軍の侵攻に対して、雑賀衆――というよりも、雑賀庄と十ケ郷の二組はどう対処したか。

 織田軍のみならず、隣の根来寺、そして同じ雑賀惣国の構成員である、宮郷・中郷・南郷の三組まで敵に回ってしまった。そんな四面楚歌の状況にも関わらず、彼らはしぶとく抵抗している。

 まずは浜手勢3万(織田信忠ら一門衆・滝川・明智・丹羽・細川・筒井らの諸軍で編成)の動きを追ってみよう。紀伊侵攻にあたって、浜手勢はまず孝子峠に攻め寄せた。ここで若干の抵抗があったようだが、すぐに敵を追い散らし峠を越えて南下、2月22日には中野城を囲んでいる。中野城はさほどの抵抗を見せず、6日後に降伏開城してしまう(この中野城在番衆の、やる気のなさを責めた顕如の書状が残っている)。

 翌3月1日、この浜手勢に信長本隊も合流。その先にあった「孫一の居城」に攻めかかった、とある。この「孫一の居城」がどこの城であったのか諸説あるのだが、ここでは伊藤俊治氏の説をとり、当時は紀ノ川の中洲にあった中津城とする。

 信長が見ている前での攻城戦だったから、皆、張り切ったろう。馬廻りまで攻撃に加わった、とある。「紀伊風土記」や「紀伊国旧家地士覚書」には、登場人物は違えど、同じような内容の攻め手による首取りの記述が残っている。相当激しい戦いが繰り広げられたようだ。

 だが、この中津城攻防戦の結果がどうなったかは、「信長公記」には書かれていない。ただ城攻めの際には、「鉄砲対策として竹束を使って攻撃した」旨が記されており、孫一自らが防衛戦の指揮を執ったこの城の攻略に、相当苦労した様子が伺える。雑賀衆が有する鉄砲の火力を前に、城を攻めあぐねたものと思われる。その証拠に「信長公記」には、浜手勢のその後の進撃路について触れられていないのである。(信長自身も、さっさと和泉国に引き上げている。)

 浜手勢はここで足止めを食らう。だがもう一手、山手勢3万が雄ノ山峠を越え、東から雑賀庄へと進撃してきたのである。そしてその先頭にいたのは、杉乃坊の根来の行人らと、敵に回った三郷の者どもであった。(続く)

 

GoogleMAPに、当時の城や軍勢の動きを反映させてみたもの。織田軍の攻撃進路は「信長公記」にも断片的にしか記されていない。伊藤俊治氏の論文「織田信長の雑賀攻めについて」を基に作者が作成した、あくまで推定図である。現代とは河川の流れが変わってしまっていることに注意。例えば浜手勢が攻めている中津城だが、当時この城は紀ノ川の中洲に存在していた。川幅も現代よりも広かったと考えられている。