根来戦記の世界

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根来と雑賀~その⑥ 根来vs雑賀 ラウンド3 雑賀の内戦に参加した泉識坊快厳

 先の信長の雑賀攻めにて、侵入者を惣国内に引き入れた宮郷・中郷・南郷の三組。ところが思惑と異なり、信長は大した戦果のないまま兵を引き上げてしまう。梯子を外されてしまった格好のこの三組に対して、十ケ郷・雑賀庄の二組が巻き返しを狙う。

 

1557年3月、信長の「雑賀攻め」直後における根来・雑賀内の勢力イメージ図。青色が信長派、赤色が反信長派を表す(反信長派の構成員のうち、多数が本願寺門徒ではあったが、全てではないことに注意)。宮郷・南郷・中郷は全体としては信長派である。特に中郷には威徳院を有する湯橋家があり、またすぐ隣の小倉荘は杉乃坊の本拠地であったために、根来の影響が強かった。そんな中郷からですら、岡崎家のように郷を抜け出し、雑賀庄に馳せ参じた敬虔な本願寺門徒らがいた。南郷の黒江村や、宮郷の太田家の一部にもそうした門徒がいたようである。三郷の一部が赤色なのは、そうした理由だ。

 

 信長が引き上げてから4か月後、まずは南郷でクーデターが起きる。息を吹き返した形の南郷の本願門徒らが、信長侵攻時に先導を務めた南郷のリーダー格・大野中村の岡本弥助と、大野十番頭の一員・鳥居の稲井蔵之丞の首を要求したのだ。

 南郷は本願寺派vs岡本&稲井派の2つに割れ、両者は8月16日に井松原にて激突する。この「井松原合戦」には、孫一らの手勢も援軍として参加したこともあって、岡本&稲井派は敗れる。以降、南郷は雑賀庄・十ケ郷の影響下に置かれることになった。

 この混乱に乗じてのことだろうか、ほぼ同じ時期に信長は佐久間信盛を大将とした軍勢(7万とも?)を再び雑賀に送り込んだようだ。記録が断片的にしか残っていないので詳細が分からないのだが、なんら成果を上げることなく引き上げている。

 意気上がる十ケ郷・雑賀庄の二組。次の標的は、宮郷の実力者・太田左近を党首とする太田党である。1578年5月に、宮郷にある太田城を十ケ郷・雑賀庄の兵が囲んだ。この包囲にはクーデターにより新体制となった南郷衆の他、中郷衆まで加わっていたらしい。この中郷の手勢は、岡崎三郎太夫本願寺門徒衆であろう。岡崎三郎太夫は中郷のリーダー格のひとりであるが、先の雑賀合戦では雑賀衆に合流して信長と戦った人物である。

 しかし太田城根来衆(おそらくは杉乃坊)の援兵を得たこともあり、しぶとく持ち堪える。十ケ郷・雑賀庄連合軍はこれを攻め切れなかったが、連合軍にとって有利な形での停戦が成立する。

 残る最後のひとつ、中郷においてはこうした戦いの記録は残っていない。だがこれら一連の戦いを通し、包囲戦に参加した岡崎三郎太夫本願寺派が、中郷における実権を握ったのは想像に難くない。こうして雑賀惣国は十ケ郷・雑賀庄が主導する形となった。特に十ケ郷の雑賀孫一が率いる鈴木一族、そして雑賀庄の土橋若太夫が率いる土橋一族、雑賀惣国はこの2つの一族が大きな影響力を持つ、寡頭制のような状態となったのである。

 両巨頭が並び立たないのは、歴史の必然である――そして対外情勢の変化が、両者の対立に拍車をかける。1580年3月に、本願寺が信長と講和を結んでしまったのである。実質、信長に降伏したも同然の内容の講和で、門主顕如石山本願寺を織田方に明け渡し、雑賀・鷺ノ森道場へと居を移した。

 雑賀における本願寺派の最有力者、雑賀孫一もこれに従い、反信長派から信長派へと鞍替えする。だが、土橋若太夫はそうしなかった。そもそも本願寺門徒でない彼が信長の敵に回ったのは、紀州に落ちてきた足利将軍・義昭の激に応じてのことだ。義昭はすでにこの地にはいなかったが(毛利の庇護を受けるため、備後国へ動座)、この時点で彼がプロデュースした信長包囲網は、かなり綻びを見せていたとはいえ、依然として存在していた。本願寺門徒でない若大夫にしてみれば、顕如の意向に沿って信長派に転向する理由がないのだ。

 そしてもうひとつ、土橋家はどうやら土佐の長宗我部家とも関係が深かったようである。何らかの権益を土佐に持っていて、それを長宗我部家に保証されていたのだろうか。この時期、信長は長宗我部と交わした約束(四国は長宗我部氏の切り取り放題)を反故にし、その四国統一にストップをかけていた。両者の関係は極めて悪化しており、激突は時間の問題であった。

 こうして雑賀は信長派の鈴木一族と、反信長派の土橋一族とで、真っ二つに割れてしまう。雑賀内の各勢力は、それぞれが有する信仰や利権、思惑に応じて、どちらかの陣営に属することになる。(ちなみに雑賀に逗留していた顕如は、両者の関係悪化を止めようとしていた。彼にしてみれば、頼りになる手勢である雑賀が内紛で混乱するのは、マイナスでしかなかった。また孫一の信長への急激な傾斜ぶりにも、懸念を持っていたようだ。)

 1582年1月23日、孫一が先手を取って動く。ライバル・土橋若太夫を暗殺する、というテロ行使に出たのだ。この暗殺には、若太夫の親族であった土橋兵太夫・土橋子左衛門らも関与していた上、事前に信長に通達していたともあるから、かなり周到に用意していたことが分かる。

 若太夫の遺児、土橋平丞らは自派の土豪らを集めて、雑賀庄・粟村の本拠地に立てこもった。本家の危機ということで、根来からは門主である泉識坊快厳自らが、威福院ら系列子院の手勢を率いて合流する。(若太夫には息子が5人いたことが分かっているが、泉識坊快厳はそのうちのひとりである。拙著「跡式の出入り」にも登場している)

 しかし時流は完全に孫一側にあった。信長の援兵まで得た孫一は、粟村へと軍勢を進める。2月8日には粟村の本拠地は落城、若太夫の遺児たちは土佐の長宗我部氏の元へ落ち延びるも、泉識坊快厳は討ち取られてしまう。信長の元に送られた快厳の首は安土城下にて晒され、討ち取った寺田又右衛門(援兵として派遣された織田信張の与力)には褒賞が与えられた、という。

 こうして雑賀は、完全に孫一の影響下に置かれる。石山合戦を通じて畿内にその武名を轟かせた孫一は、決して戦さ一辺倒の男ではなかった。機を見るに敏な、戦国の世にふさわしい男だったのである。

 天王寺合戦ではこの男に危うく殺されかけたが、才ある者は愛する信長である。このままうまくいけば、彼は織田政権の下で大名になれたかもしれない。紀伊一国とはいかないまでも、少なくとも雑賀の地は与えられたはずだ――だが、そうは問屋は卸さなかった。

 孫一が雑賀の地を手中におさめてからわずか4ケ月後、天下を揺るがす大事件が起こるのである。そう、本能寺の変である。(続く)