根来戦記の世界

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その① 近木川防衛ライン

※このシリーズでは「秀吉の紀州侵攻」、そして「中世根来寺の滅亡」を取り上げる。ここに至るまでの経緯は、下記リンク先「根来と雑賀」シリーズを参照のこと。

 

 

 諸般の事情で延び延びになっていた、紀州征伐。だが秀吉は、1585年に遂に紀州に対する本格的な侵攻を決意する。これまで有利に進んでいた小牧の役で家康側と停戦してまで、紀州を攻めることを決めたのだ。

 この戦役が始まる直前、85年3月上旬に秀吉側の使者として、高野山の客僧である木食応其(もくじきおうご)が根来寺に遣わされている。戦いの前に、一応は和平の条件を提示したようだ。だがその条件は、根来寺が持っている利権の数々の殆どを召し上げ、代わりに2万石ほどの地を新たに与える、といったものであった。この時期、根来寺は72万石ともいわれるほどの寺領を持っていたと言われている。行人方にしてみれば、とても呑める条件ではなかった。

 学侶方の殆どと、秀吉の力の強大さを知る一部の行人方(岩室坊など)は和平案に傾いていたようだが、その他の行人方は反発した。全山の衆徒が集まっての集会では、激論が交わされたようだ。しかしこの日の夜更け、主戦論者の跳ねっ返りの輩(杉乃坊のようだ)が「和平を結ばせてはならぬ」とばかりに、使者が宿泊していた岩室坊に向かって鉄砲を撃ちかける、という暴挙にでるのだ。木食応其は命からがら下山し、交渉は決裂する。

 秀吉はかねてからの計画通り、3月20日から21日にかけて大阪城から出陣する。堀秀政筒井順慶細川藤孝・忠興親子、中川秀政、高山右近蒲生氏郷宇喜多秀家羽柴秀次羽柴秀長錚々たる面子であり、そして最後に秀吉本隊という、10万の大軍による侵攻であった。

 秀吉のこの動きに対し、紀泉勢はどのように対処したのだろうか?

 まず、ここ2年間ほど続いていた小競り合いにおいて、紀泉勢は幾つかの前進基地を和泉に築いていた。これらの出城は近木川に沿って複数建てられており、防衛ラインを形成していた。主なものとしては西から順に、沢城、畠中城、積善寺城、そして千石堀城である。またこれらの出城と連携し、更に多数の城砦が建てられていたようである。

 

紀泉連合が形成した、近木川防衛ライン。城塞の数は7~12カ所もあったと伝えられている。それぞれが連携した造りになっていて、例えば沢城は東隣にあった窪田城(地図に記載なし)と土居によって連結されていて、その窪田城は対岸にある畠中城と結ばれており、互いに行き来が可能であった、とある。

 紀州に進軍するには、秀吉軍はまずこれらの防衛ラインを突破する必要があった。そして紀泉勢は、実のところ秀吉軍に勝てるとまではいかないまでも、この防衛ラインで撃退する自信があったのである。

 8年前に、信長が雑賀を攻めたときのことを思い返してみよう。あの時、信長は今回の秀吉と同じ、10万と号する大軍をもって雑賀へと攻めてきた。当時これに相対したのは、雑賀庄と十ケ郷の2組のみ。動員兵力は精々2~3千ほどしかおらず、同じ雑賀惣国の宮郷・南郷・中郷まで敵に回る始末。にもかかわらず撃退に成功している。

 あの雑賀合戦の際、信長の浜手勢3万を中津城、山手勢3万を雑賀川、この2つの防衛ラインで食い止めることに成功した。それが成功した理由は何といっても、鉄砲隊の存在である。双方の戦線で、信長方が雑賀の鉄砲隊の攻撃に悩まされた旨の記録が残っている。まして此度は紀泉連合軍であり、1万ほどの兵を動員できているのだ。戦力比でいうとその差は縮まっている(それでも10:1ほどだが)。

 いや、幾ら大軍で攻めかかってこようが関係ない。城に取り付いてきた兵を得意の鉄砲で、片っ端から撃ち倒してしまえばいいのだ。しまいには犠牲の多さに嫌気がさして、攻撃は頓挫するだろう――このような思惑だったようだ。

 彼らの考え方は、そう間違ってはいない――相手が普通の戦国大名であるならば。8年前の雑賀攻めの際の信長は、当時日本で最大勢力であったとはいえ、まだ畿内を中心とした地を制する戦国大名のひとりでしかなかった。だがこの時期の秀吉は、既に戦国大名ではなかったのである。彼の力が及ぶ領域は(従属的な同盟関係にいる大名を含めると)西は北九州から東は三河、北は越後まで、日本の主要部分を占めていたのだ。実質的には、彼は既に「天下人」だったのである。

 これら秀吉の大軍が堺を通過した際、本願寺からは新門跡となった教如をはじめ、下間一族ら供衆らが出迎えており、太刀や馬を贈っている。実は本願寺はこの2年前、1583年の7月には本拠地を雑賀・鷺森道場から堺のすぐ隣、大津の貝塚道場に移転していたのである。

 中世以来の強大な独立勢力であった本願寺はこの時期すでに、新しい時代に即した宗教の在り方――積極的に権力者の傘下に入ることで、宗教権門として発展していく、という道を歩み始めていたのである。一方、旧来の独立独歩の在り方にあくまでも固執した中世根来寺は、滅亡への道へと進んでしまうのだ。

 だが本願寺にしてみても、10年に渡る石山合戦の死闘で多くの血を流した結果、ようやくにして至った結論だったわけであり、そうした経験を持たなかった中世根来寺が新しい道を選べなかったのは、仕方のないことだったのかもしれない。(続く)