根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦

 

 堺を通過して、和泉国を南下する秀吉軍。岸和田城まで来たら、近木川防衛ラインはすぐ目と鼻の先だ。軍の主力は21日の15時頃には岸和田城に到着、16時には千石堀城の目前まで迫っている。

 秀吉軍は到着するや否や、千石堀城にいきなり攻めかかった。攻め手は(諸説あるが)筒井順啓・堀秀政・長谷川秀一の軍勢が主だったようである。総指揮官は羽柴秀次。1万5000人ほどの軍勢だったようだ。対する千石堀城を守るは、根来衆のうち愛染院と福永院を主力とした1500人。守将は大谷左大仁と伝えられている。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より千石堀城を回転拡大。右に流れているのが近木川である。南北2キロほどの丘の先端(舌状台地)に構築されたこの城は、大熊街道をおさえる戦略上の要地に位置していた。戦国大名らの持つ築城術と比べると、根来衆のそれはそれほど優れていなかったようだ。最もこの城は大規模なものではなく、支城のひとつに過ぎなかったのだが。イエズス会の報告には「籠城した城には、非戦闘員も4~5000人いた」とあるが、スペース的にそこまで収納できなかったと思われるので、この報告は疑わしい。

 

 城に近づくと、城方は猛烈な勢いで鉄砲を撃ってきた。寄せ手は城壁になかなか近づくことができない。苦戦しているところに、横合いから紀泉連合の別動隊が奇襲、得意の鉄砲と弓矢で攻撃してきた。紀泉連合の城塞群はそれぞれが連携して建てられていたようなので、この別動隊は近くの高井城、もしくは積善寺城から出撃した部隊だったかもしれない。これに耐えきれず、攻城側はひとまず兵を退く。一度目の攻撃は頓挫したのだ。

 意気上がる千石堀城兵。既に日も暮れかけている。秀吉軍の中にも、この日のうちに城を攻略することに懐疑的な空気が流れる。しかし攻城の総指揮官であった秀次が、強硬に攻撃の続行を主張した。先の「長久手の戦い」における攻め手の総指揮官であった秀次にしてみれば、酷い敗戦で終わったあの時の戦いの汚名を、何としてもここで挽回しなければならなかったのだ。

 秀次は直属の将である、田中吉政・渡瀬繁詮・佐藤秀方らに命じて兵3000人を投入、これを先手とした総攻撃が再び始まる。この秀次勢も、やはり城内からの鉄砲に散々に撃たれてしまったようだ。苦戦した秀次は、予備兵力である馬廻りまで戦闘に投入している。苦しみながらも、じりじりと前進する秀吉軍。多大な犠牲を払いながらも、ようやく大手門から二の丸を落とすことに成功した。

 だがまだ肝心の本丸が残っている。この時点で秀吉軍の損害は、既に1000人を超えていたようだ。本丸を落とすまで、あと如何ほどの犠牲を払わねばならないのか。だがこの時、筒井勢の元にいた伊賀者らが搦め手より本丸に接近、火矢を射かけた。この火矢により城内の建築物に火災が発生、それが火薬庫に誘爆したのである。

 火災と爆発により、混乱する千石堀城内。この機を逃さず、一気に秀吉軍は本丸に侵入、こうして千石堀城はわずか数時間の攻撃で陥落してしまったのであった。

 先の記事でも言及したように、紀泉連合の防衛プランは大量の鉄砲を以て敵を迎撃し、多大な犠牲を払わせその攻撃意図を頓挫させることにあった。そしてそのプランは、当初は想定通りに機能したのである。

 秀吉軍の死傷者は短時間で1000人超え(記録によってはそれ以上)という、多大な数に上っている。攻め手は約1万5000人だが、これは戦闘に参加しない小荷駄隊なども含めた数だろうから、それらを除いた実戦兵力は1万2000人ほどになろうか。更にその中から城内に乗り入れることのない、援護を主任務とする鉄砲足軽弓手などを除いたら、直接城に掛かっていった攻城兵数は更にその60~70%、8000人以下であろう。城に突入しようとした戦闘部隊のうち、12%以上が死傷していることになる。

 千石堀城が落城した契機は、火災による火薬庫誘爆である。だがこの不幸な事故がなかったとしても、千石堀城はやはり陥落していただろう。12%の死傷率にも関わらず、秀吉軍は次々に新手を出していっただろうからだ。

 ここが8年前の信長軍とは違うところで、当時の信長にはここまでのダメージに耐えられるほどの予備戦力はなかった。畿内を制していたとはいえ、石山本願寺は未だ健在、西には毛利氏、東には武田勝頼、そして北には上杉謙信が控えていた。情勢は未だ予断を許さず、兵力を無駄に消耗するわけにはいかなかったのである。

 だがこの時期の秀吉は違った。信雄と家康を従属させた今、直接的な脅威は長宗我部氏くらいしかなかった。その長宗我部氏も、四国の守りに入るので手一杯で、こちらに侵攻してくる余裕などない。秀吉はその潤沢な戦力を、安心して使用できたのであった。

 これに近い戦いが、関東の北条攻めでも行われている。この5年後、1590年に行われた「山中城攻防戦」である。箱根の山中にある山中城は特異な形状をしていて、その建築意図はズバリ「攻めてきた敵を、如何に虐殺するか」というプランの元に設計された城なのである。北条氏はこの城に4000人の城兵と大量の鉄砲を入れて、豊臣軍を待ち構えていたのである。

 

筆者撮影、山中城跡。遺構もよく整備され、北条氏お家芸の障子堀も確認できる。地元のタクシーの運転手は「ワッフル城」と呼んでいた。特筆すべきなのは、この城は落城した経緯の詳細が分かっていることなのである。中村一氏の元侍大将で、実際にこの城に攻め入った渡辺勘兵衛という高名な武士が「渡辺水庵覚書」という体験談を記しているのだ。

 

「余湖くんのホームページ」より画像拝借。箱根山中城。大手門と三の丸を構成する中央部分が残念ながら残っていないが、図にPと書かれた駐車場辺りに大手門、そして現在は集落がある白い部分に三の丸があった。ご覧の通り、逆Ⅴ字型をした特異な形状である。


 旧箱根街道を辿って大手門に攻めかからんとする敵は、岱崎(だいさき)出丸に大量配備された鉄砲に横合いから射撃され、大量の死傷者を出す。敵がひるんだすきに西丸から別動隊が出撃、これを挟み撃ちにして撃退する――そんなコンセプトで設計されたこの城は実際、大手門を攻めてきた一柳直末軍に対して多大な被害を与えることに成功している。千石堀城攻めと同じように短時間で1000人以上の死傷者を出した上、先手の将である一柳直末まで射殺されているのだ。

 だが同時に西丸を徳川家康軍に、岱崎出丸を中村一氏軍に攻められ、あっと言う間に陥落してしまった。秀次軍の兵力はなんと4万5000人にも及んでおり、この城はこんな大軍に同時に多方面から攻められることを、予想していなかったのである。

 千石堀城よりも洗練されていたとはいえ、同じようなコンセプトで設計された山中城も結局は同じような運命を辿った。旧来の戦国大名には有効だった戦略も、天下人の前には通用しなかったのである。既に中世は終わり、新しい時代が始まっていたのだ。(続く)

 

戦場において、侍や足軽たちが実際にどのように行動したか?を軍事の視点から解説した名著。戦国後期の大名の軍隊は「兵種別編成」が成されていたという論は、傾聴に値する。またこの本の中では、渡辺勘兵衛が「渡辺水庵覚書」において記した山中城攻めの経緯が細かく解説されている。城に入ったはいいが、守兵の鉄砲に射すくめられてしばらく身動きできなかったくだりなど、実にリアルである。山中城を訪れた際は、是非この本を片手に、往時を想像しつつ勘兵衛が攻め入ったルートを辿ってみて欲しい。

 

文献を元に、戦国の城をイラストで再現している。やはりイラストだとイメージが湧きやすい。残念ながら「千石堀の戦い」は載っていないが、「山中城の戦い」は載っている。山中城に行く際は、先に紹介した「戦国の軍隊」と併せてこの本を持っていくと完璧である。