根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉本隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の本拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまって、何の抵抗もなかったらしい。
実は秀吉軍の侵攻直前に、雑賀衆の間で深刻な内部抗争が起きていたのである。前日の22日に「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」という旨の記述が宇野主水の「貝塚御座所日記」にある。日記には続けて「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」とある。どうやら岡の衆は、以前より秀吉側にある程度内通していたらしく、前線崩壊の報を聞いて旗幟を鮮明にしたものと思われる。
土壇場で裏切ったのは、岡の衆だけではなかったようだ。こうした内紛は同時多発的に発生したらしく、同日記には「在々所々にて、それぞれに内輪打破れて、右の如し」ともある。いち早く秀吉側についた甲斐あって、鷺ノ森の雑賀御坊や宇治、岡などといった一部の地域は無事だったようだが、その他の地域は軒並み略奪・放火されている。かつてあれほど信長を苦しめた雑賀惣国は、こうして組織的な抵抗などできないまま、秀吉軍に蹂躙されてしまったのであった。
主戦派の土橋一族と湊衆は、船を使って土佐へ逃げた。同日記には「混乱の中、船を出す際に人が乗りすぎて沈んでしまった」旨も書かれている。いずれにせよ所縁のある長曾我部氏が一旦は彼らを受け入れたわけで、土佐側にもそれを裏付ける史料が残っている。
だがこの数か月後には、秀吉による四国侵攻が始まるのだ。当主の土橋平尉は、今度は関東の北条氏の元へと逃れるが、更にこの5年後、関東仕置で三たび秀吉に攻められてしまい、北条氏は滅亡する。身を寄せた先が次々と滅びるという悪運に見舞われた土橋平尉だが(というよりも疫病神)、最終的には毛利氏の元へ身を寄せたようである。
8年前と比べると、嘘のようにあっけなく占領されてしまった雑賀惣国。しかし、その中で頑強に抵抗した城があった。宮郷にあった太田城である。城に籠っていたのは太田家を中心とする宮郷の人々だが、これに近木川防衛ラインや根来寺から逃げてきた残党も加わっていたようだ。
先の記事でも紹介した「根来寺焼討太田城責細記」に、太田城攻めの際に秀吉軍が手ひどいダメ―ジを負った様が描かれている。少し長いが意訳してみよう――「先陣の堀秀政3000騎、二陣の長谷川秀一3000騎が城に向かっていたところ(田井ノ瀬辺りか?)、森の中より太田勢の鉄砲隊300騎ほどが現れた。堀勢はこの鉄砲隊に散々に撃たれたうえ、斬り崩されてしまった。長谷川秀一勢が援護に入ったが、これも伏兵にやられてしまった。そこで三陣の前野長泰3000騎が救援に入ったところ、敵を追い払うことに成功した。逃げる敵を八丁堀まで追撃したところ、森の中から器のごときものを大量に投げつけられた。これが雷のごとき音を出しながら炸裂し、火を出したのである。そのひとつがよりによって大将の前野長泰の衣の裾に着火、部下が慌てて前野と共に川に飛び込んだ――」とある。
このように、雑賀衆が手りゅう弾のような兵器を使用した様が描かれているが、99%フィクションであろう。ただ太田城攻めの際、秀吉軍が大きな損害を受けた戦闘は実際にあったようではある。
どうやら中村一氏の使者一行が太田城に降伏を進めに来たところ、交渉は決裂となって(どうもその傲慢な態度が原因だったらしい)、その際に何らかの形で戦闘が発生した、ということのようだ。この戦いで秀吉側の武者50人ほどが討たれたとみられる。
この中村一氏の使者の一行であるが、なんとあの雑賀孫一が同行した、という記録があるのだ(「紀伊續風土記」)。本能寺の変と連動して起こった土橋一族によるクーデターの際、間一髪の差で雑賀から岸和田城に逃れた孫一だが、どうやら秀吉の元で客将として暮らしていたらしい。秀吉の意をくんだ顕如の指示により使者に立った、ということらしいが、もしこれが本当にあったことだとしたら、さぞかし嫌々行かされたのに違いない。
紀泉の人々にしてみれば、孫一は憎き裏切り者である。交渉が決裂し戦端が開かれてしまったのは、もしかしたら降伏勧告の一行に孫一がいたことも関係していたかもしれない。だとしたら逆効果だったわけだ。
いずれにせよ、孫一本人と思われる人物の動向が確認できる記録はこれが最後になる。この後、程なくして何処かで死んだと思われる。惜しくも戦国大名になり損ねた男の最後は、比較的地味なものであったようだ。
なお彼の子孫は豊臣家に仕えていたようで、彼の子だと思われる「鈴木孫一郎」或いは「すす木孫一」という男の名が、それぞれ1589年と1590年の豊臣軍の陣立書にあることが確認できる。どうやら豊臣軍の鉄砲隊(規模は100~150人ほど)を率いる隊長のひとりだったらしい。
紛らわしいことに、ほぼ同時期に「鈴木孫三郎重朝」という男がいる。秀吉の朝鮮出兵辺りの記録から出てくる豊臣家の鉄砲頭を務めた男であって、先の「鈴木孫一郎」とは別人である。彼はなかなかの勇者であったらしく、関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城攻略の際には本丸に乗り込み、鳥居元忠を討ち取って名を上げている。後に家康に3000石で召し抱えられ、子孫は水戸徳川家に仕えた。或いは彼も、孫一の縁者のひとりであったのかもしれない。(続く)