根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その④ 尼子氏の場合(下)・進まなかった中央集権化

 中央集権化を進めた尼子晴久。彼の改革はある程度は進んだのだが、戦国大名としての尼子家は、次の義久の代に一度滅んでしまうのだ。尼子家が滅んだ原因はどこにあったのだろうか?

 まず晴久がそこまで長生きできなかったのが、大きかった。晴久は1561年12月、47歳の時に急死してしまうのだ。次の当主・義久は祖父や父に比べると――いや比べなくても、遥かに凡庸な男であった。そして前記事の最後に示唆したように、隣には飛ぶ鳥を落とす勢いの毛利元就がいたのだ。代替わりの際の隙に乗じ、元就がすかさず動く。

 元就は以前より、石見銀山を喉から手が出るほど欲していたのだが、晴久在命時には何度攻勢をかけても、これを奪うことはできなかったのだ。しかし義久を組み易し、とみた元就は、まずは石見戦線において和議を結ぶ形で、尼子家の影響力を削ぐことに成功する。この和議に応じた義久は、結果的に尼子側にいる石見の国衆らを見捨てた形となった。これは明らかに義久の戦略ミス、大失態であった。元就は頃合いを見て一気に攻勢をかけ、翌62年には石見銀山の奪取に成功している。そしてこの失策が、尼子家崩壊の序曲となるのであった。

 石見銀山の奪取に成功した元就は、その勢いを駆って出雲本国に対する侵攻を始める。晴久が死んでから、わずか半年後のことであった。そして本城・月山富田城を守るべき「出雲十旗」のうち、自立性の強かった赤穴氏や三沢氏、三刀屋氏などの有力国衆は、あっけなく尼子家を裏切ってしまうのであった。

 出雲本国にまで攻め込まれてしまい、防戦一方となった尼子氏。しかし元就は、短兵急を急ぐことをしない。出雲国内の重要な支城を、時間をかけてゆっくりと攻略するのだ。白鹿城、熊野城、江見城など尼子側の戦略拠点は次々と落とされていき、65年春頃には遂に本城である月山富田城が包囲されてしまう。

 この月山富田城は20年前にも、大内氏の大軍に囲まれている。この時は長期化した戦役を嫌った、大内側の国衆の離反により危機を免れている。義久は同じように長期籠城策を取ることで、その再現を狙うのだ。だが毛利家率いる元就が持つ統率力は、20年前の遠征軍を率いた大内義隆とは比べ物にならなかったのである。またそのために、時間をかけて周辺の攻略を進めてもいたのだ。万全の体制をひいた元就は、65年4月から実に1年以上にも渡って月山富田城の包囲を続ける。義久も粘ったが堪えきれず、1566年11月、遂に降伏開城する。これを以て大名としての尼子家は、一旦は滅亡するのであった。(尼子義久今川氏真と立ち位置が似ている――2歳違いの同世代、偉大な父祖を持つも本人はリーダーに向いておらず、すぐ隣に強烈なカリスマを持つ敵がいた。若くして国を奪われるも、江戸期までのんびり長生きしたところまで同じである。なお後に、尼子分家である新宮党の生き残り・勝久が御家再興に挑むが、こちらは信長に見捨てられ失敗する。)

 晴久が死んで、わずか5年で尼子氏は滅んでしまった。冒頭の問いに対する答えの繰り返しになるが、毛利家と尼子家、それぞれの陣営を率いるトップの資質に差がありすぎた、というのは勿論あるだろう—―だがそれにしても、あっけなさすぎる。

 戦国期の大名たちの代替わりの際には、大きな混乱と試練が待ち構えているのが常である。だがその際のダメージコントロールの度合いは、家中の中央集権化が如何ほど進んでいるかが、大きく影響している印象がある。

 そう考えると晴久の中央集権化事業は、成功したといえるほど進んでいたのだろうか?という疑問が出てくる。「出雲十旗」と謳われた国衆らの半分近くが、すぐに裏切ってしまったことから分かるように、尼子氏は出雲国内の国衆らを譜代家臣化することはできていなかった。

 拠って立つ地が出雲、という大変に旧い土地柄であったのは、不利に働いただろう。なにしろ神話の時代から続く、歴史ある土地柄である。はるか古来からこの地に根付いている、既得権益や仕来りといったものを変えていくのは、強い抵抗があったと思われる。そうした土地柄に効くのは、やはり伝統である。

 先の記事で少しだけ触れたが、この晴久の代に尼子家は、「出雲・隠岐伯耆因幡・美作・備前・備中・備後」八か国の守護に補任された他、幕府相伴衆にまで任ぜられている。これが1552年の時であるが、伝統を重んずる山陰・山陽のような地方においては、こうした権威はかなりの威力を発揮したと思われる。

 晴久は己の地盤安定のために、こうした権威を進んで利用としたともいえる。確かに箔付けには役に立ったかもしれないが、守護を自任する以上、旧い仕組みを根底から改革することはできない。旧世界の体現者である己を、自己否定することになってしまうからだ。出雲大社や他の神社仏閣など、国内の寺社勢力に対する手厚い保護政策も、同じ文脈で語ることができる。こうした政策は出雲という土地柄を根拠地とする以上、仕方ないことだったのかもしれないが、それが尼子家の限界であり、「守護期大名」とも呼ばれる所以でもあったのだ。(続く)

 

山口県立山口美術館蔵「尼子晴久像」。尼子家の最盛期は、彼の祖父である経久の晩年である1541年前後とするのが、学会の通説のようである。経久のように圧倒的なカリスマを持つ人物ではなかったが、急拡大した尼子家の中央集権化を、ある程度進めた功績は大きい。その治世の前半においては、東の畿内方面への侵攻も行っていたが、後半は無理な遠征はせず国内を固め、侵攻は西にのみ注力している。経久のように国衆の連合体のリーダーとなって他国に侵攻する、というやり方では、そこまでのカリスマ性を持たない自分ではこの先やってはいけないことに、どこかの段階で気づいたのだろうか。