根来戦記の世界

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日本中世の構造と戦国大名たち~その⑧ 北条家の場合・京から来た「他国の逆徒」伊勢新九郎盛時(下)

 堀越公方の座を簒奪した茶々丸だが、彼はクーデターと同時に元服し、実名を名乗ったものと思われている。残念ながらその名が伝わっていないので、後世の人間からは常に幼名で記されてしまう運命にある茶々丸だが、関東管領山内上杉氏と連携する道を取る。伊豆はかつて山内上杉氏の守護分国であった関係上、同家と所縁の深い国人らが多かったのだ。対する新九郎は扇谷上杉氏と連携する。そして新九郎の伊豆侵攻をきっかけに、小康状態であった両上杉氏の抗争も再燃するのである。

 伊豆に侵攻するには、新九郎の手勢だけではとても足らないので、今川氏から兵を借りている。葛山氏を中心とする兵だったようだ(新九郎は後に、この葛山備中守の娘と結婚している)。「今川記」には「両家併せて1000余騎」と記されているが、正確な兵力は分からない。いずれにせよ総大将は新九郎であった。なおこの伊豆侵攻より前に新九郎は出家して、号を「宗瑞」としている。京で官僚として生きる道をやめ、この東国で行けるところまで行ってみよう、そう心を決めたものと思われる(記事でも、以降は新九郎ではなく宗瑞で記す)。

 さて江戸期に編纂された軍記物などには、宗瑞は一撃で茶々丸を倒したような記述がされているが、実際にはそんなことはなかった。北条御所にいた茶々丸を追い落とし、伊豆北部を押さえたのは侵攻から2年後、1495年2月より少し前くらいのことのようである。これ以後、宗瑞は韮山城を本拠地としているのが確認できる。そしてこれを機に、今川家にあった自身の所領を元服した竜王丸こと氏親に全て返還、そこにいた家族や家臣らを全員伊豆に呼び寄せたとみられている。ここに至って宗瑞は今川家の配下的存在であると同時に、戦国大名としても自立したのである。

 勢いに乗ってさっさと茶々丸派を攻略したいところだが、そういうわけにはいかなかった。両上杉の抗争が再燃した結果、同盟(というよりも従属に近い)関係にあった扇谷上杉氏を助けるために、相模まで進軍しなければならないのだ。1496年に山内上杉氏が相模西部に侵攻、扇谷上杉氏方の大森氏の居城・小田原城を囲む。宗瑞は援軍として実弟・弥次郎を総大将とした一手を派遣するが、この戦いで大敗してしまうのだ。かなりの数の家臣を失い、大きなダメージを負ったとみられている。この敗戦により大森氏は山内上杉氏に屈してしまう。同時に茶々丸が甲斐を経由して、北から駿河御厨に進出してくる。南北から敵に挟まれた格好になった宗瑞は、一転して守勢に回ることになったのだ。

 

1496~98年にかけての勢力分布イメージ図。伊豆中部~南部は茶々丸の勢力圏で、その中でも特に強力な支持母体だったのは、古くから中部の柿木郷を根拠にしていた、狩野氏であった。北条御所にいた茶々丸を追い出し、伊豆の西部海岸沿いから北部にかけてを影響下においた宗瑞であったが、東北の相模にある大森氏が山内上杉氏に従属、それに呼応する形で甲斐(武田家は今川家の敵であった)から茶々丸駿河御厨に侵入してきたことにより、宗瑞は南北から挟撃される形となった。頼みの綱は、甥である氏親が当主である今川氏のみであったが、こちらはこちらで遠江における斯波氏との抗争に悩まされていた。

 この一連の攻防戦の初期に、実弟・弥次郎が負傷したようだ(もしかしたら先に紹介した小田原城付近での山内上杉氏との戦いで、既に負傷していたのかもしれない)。彼はこの戦傷を機に出家して、僧になったものとみられている。1522年まで生存が確認されているのだが、1497年を最後に各種の行政史料には一切登場しなくなるのだ。身体のどこかに重い後遺症が残り、武将として活動できなくなってしまったと思われる。信頼できる右腕であった弥次郎を失い、宗瑞の苦しい時期が続く。

 ところが宗瑞は2年後の1498年8月には逆に茶々丸を追い詰め、自害に追い込むことに成功しているのだ。この間の経緯が伝わっていないので、どうやって形勢を逆転したのかは不明である。ただこの年の8月25日に、静岡県南部沖を震源とするマグニチュード8.2~8.4という大地震が起きたことが分かっている。そして実は宗瑞は、この地震津波(直後に台風も来たらしい)による混乱に紛れて茶々丸を討伐したのではないか、という説があるのだ。だとすると、奇襲に近い形での一発逆転だったのかもしれない。(黒田基樹氏によると、宗瑞は茶々丸討伐後に八丈島に新代官・御簾(みす)七郎を送り込んでおり、その彼から津波の報告があがっていることから、この地震の前には既に茶々丸は討たれていたのではないか、と推測している。しかし大きな地震の後は余震も多いので、更なる津波被害の有無を報告しただけの可能性もある。)

 いずれにせよ宗瑞は、遂に伊豆一国を手に入れたのである。茶々丸討伐のため、伊豆に討ち入ってから5年後のことであった。宗瑞は引き続き1500年に小田原城を奪取し、相模国にまでその勢力を伸ばす。小田原城は扇谷上杉氏に従う大森氏の居城であったのだが、先に紹介した実弟・弥次郎が大敗した戦い以降は山内上杉氏サイドに転じていたから、宗瑞とは敵対関係にあった。また領地を接する宗瑞とは、権益的にも諸問題を抱えていたと思わる。

 江戸期に編纂された軍記物「北条記」においては、大森領内において狩りの許可を得た宗瑞が奇襲する形で、しかも松明を角に結んだ牛を使って小田原城を手に入れたことになっているが、100%フィクションであろう。では宗瑞は、どのようにして小田原城を攻略したのだろうか?

 実はこの小田原城攻略の年、1500年6月4日に相模湾で大きな地震があったことが分かっている。小田原城において大規模な戦闘の記録が伝えられていないことから、こちらも地震後の混乱に紛れて攻略した可能性が高いのだ。茶々丸征伐と小田原城奪取、共にもし震災後の混乱を利用した攻略だったとするならば、宗瑞は幸運であると同時に実に抜け目ない男であったといえる。

 こうして伊豆だけでなく、相模西部まで手に入れた宗瑞。両上杉の抗争は、休戦を挟みながらも引き続き続いていたから、宗瑞は扇谷上杉氏の援軍として以降も出兵し、活躍している。しかし徐々に、扇谷上杉氏との間に不協和音が生じはじめる。理由は先ほど少しだけ触れた、八丈島をはじめとする伊豆諸島の権益に関わる問題である。たかが諸島と侮るなかれ、これには大きな利権が絡んでいるのだ。

 八丈島からあがる利益としては、まず年貢の他に、特産品として「八条島絹」があり、これは室町時代から高級な贈答品として利用されていた。次に伊豆諸島は太平洋海運の寄港地であったので、それらの船が払う寄港料や関税が徴収できた。最後に難破船の漂着である。漂着した船荷は、全て現地のものになるのが中世の習わしなのだが、これが馬鹿にならない富をもたらすのだ。例えば後年、氏康の代になってからのことになるが、1549年に筑紫船が御蔵島に漂着している。この船が積んでいた唐物(輸入品)の総額は莫大なもので、氏康は入手したそれらの富を領内の神社の修繕費に充てている。

 中世における伊豆諸島の権益は、扇谷上杉氏傘下にある奥山氏と三浦氏が握っていた。しかし1498年の宗瑞による八丈島への新代官派遣により、現地では縄張り争いが発生するようになる。扇谷上杉氏としては看過できない問題ではあったのだが、山内上杉氏との抗争が続く限りは、戦さに強く利用価値のある宗瑞に対して強く出られなかったのである。しかし1506年、扇谷上杉氏は山内上杉氏と和睦を結ぶ。越後守護代・長尾家の援軍を得た、山内上杉氏の攻勢に耐えかねての事実上の降伏であった。

 1508年には八丈島の支配権争いは、宗瑞配下の御簾氏が一旦は勝利したようである。伊豆諸島に限らず、両家の領地が接する相模・武蔵においても、このような権益を巡る諸問題が発生していたものと思われる。互いの配下の権益争いに突き上げられる形で、両家の関係はますます悪化していく。戦国大名間の争いの多くは、こうした形で始まるパターンが多いのだ。そして宗瑞は遂に、扇谷上杉氏に対する侵攻を開始するのだ。1509年のことであった。(続く)

 

みなもと太郎氏の逝去により、名作「風雲児たち」が未完で終わってしまった今、ブログ主に残された唯一の希望である歴史漫画。物語は「応仁の乱」以前の京から始まる。緻密な取材と調査を基に再現された、戦国時代の京の様子は必見。最新の学説を取り入れており(発石車まで出てきたのは驚いた)、フィクション部分も荒唐無稽でなく、実に説得力がある。作者がこの名作で、新九郎の人生をどこまで描くつもりなのかは分からないが(冒頭に少しだけ出てきた、茶々丸討伐まで描くのは間違いないだろう)、欲を言わせてもらえばその後の話、北条三代まで描いて欲しいものだ。