根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その③ 「自力救済」から生まれた「環濠集落」

 古代から中世にかけてのトレンドは、中央集権から地方分権へ、というものだ。絶対的な権力者がいない、ということは逆に言えば、力のある者が自分の好き勝手にできる、ということでもある。事実、中世は「自力救済」、つまり「自分の身は、自分で守る」というのが基本ルールであった。

 例えば「検非違使」は、平安期に京に置かれた治安維持のための組織だが、これは中世には既に存在しない、もしくは機能しなくなっている。代わりに京において軍事的な存在感を増したのが、「六波羅探題」である。ではこの六波羅探題が京の治安維持機能を担っていたかというと、そんなことはないのである。

 彼らはあくまでも幕府から派遣された、「朝廷に対する監視機構」なのである。仮に六波羅探題の前で、私的な怨恨による殺人事件が起きたとしても、事件に介入なぞしてこない。彼らにとっては管轄の範囲外だからだ。もし言ってきたとしても、「他所でやれ、迷惑だ」くらいのものであろう。

 実際に、1484年に京でこんな事件が起こっている――一条烏丸にあった土倉に盗賊の集団が襲い掛かり、土倉の夫婦は殺されてしまった。近所の人々との間で矢戦となったが、放火により一帯が焼けてしまった、というものだ。

 このように中世においては、公の機関としての警察や軍隊など無きに等しいものであった。あるのは権力者が持つ、私軍のみである。やられて黙っていたらやられた方が悪い。自分で何とかしなければいけないのが「自力救済」の基本ルールである。中世は「修羅の国」なのであった。

 こうした理不尽な暴力に、人々はどうやって対抗したのだろうか?方法はひとつで、集まって対抗するしかない。数は力なのである。こうして人々は自衛のために、共同体を発達させることになった。

 こうした共同体の在り方は、複数あった。代表的なものが下記の3つである。

  • 分母を宗教とし、信仰を基に団結するもの。戦国期で特に戦闘的であった宗教集団である「本願寺」などがこれにあたる。
  • 職業ごとに集まって、利によって結びつくもの。特権的商業組合である、各種の「座」などがこれにあたる。
  • 地縁によって集まった、いわゆる「村落共同体」。戦国期の村の殆どはこの形態である。

 一番わかりやすく数も多かったのが③で、全国各地でこうした村落共同体が生まれ、発展していったのが中世という時代なのである。こうした村落共同体の多くは、外部からの攻撃から身を守るため、村落の周辺を塀と堀で囲っていた。こうした村の形態を「環濠集落」と呼ぶが、今でも各地でその名残を見ることができる。特に奈良に多く残っているようである。

 

奈良に現存する環濠集落などを、数多く紹介しているブログ。このブロクによると、環濠集落の内部を走る道は細く、クランク状になっていて見通しが悪いことが多いそうだ。城の内部と同じで、侵入してきた敵を迎撃するためにそうなっているのである。その他、ディープな奈良の歴史も紹介している。

 

 この「環濠集落」が究極的に進化した姿が、かの有名な商業都市「堺」である。遅くとも16世紀半ばには、都市を守る環濠が存在していたことが分かっている。戦国後期の1560年代にはこれが大幅に強化され、海に面する西側以外の三方に深い濠を巡らせており、屈指の防御力を誇っていた。

 「細川両家記」には、次のような記述がある――1566年5月に、この堺の町を拠点とする松永久秀畠山高政に対して三好方が戦さを仕掛けてきたが、戦いそのものは堺の外で行われ、最終的には会合衆らの仲介によって休戦となった、というものである。

 このように、町そのものに対して手出しを控えさせ、また大名間の戦争の調停まで行うほど実力を持っていたのである。いち都市であった堺にこうした離れ業ができたのは、双方とも堺に多額の借銭をしており、堺の持つ資金なしでは立ち行かなかったからであった。

 その力の源泉は海外貿易であり、戦国後期には周囲の権力者たちに取り込まれることなく、自治権を持つ独立した都市として興隆を誇っていたのであった。(続く)

 

堺市博物館蔵「住吉祭礼図屏風」より。堺を描いた絵画資料としては最古のものである。残念ながら、戦国期の堺の町を描いた絵画は存在しないのだ。堺を敵から守っていた環濠は、秀吉によって一旦は埋められてしまっているのだが、それが災いして1615年に発生した「大坂夏の陣」の際において、豊臣方の大野道犬斎による焼き打ちにより、堺の町は燃えてしまっている。もし戦国期の環濠が残っていたら、町はそう簡単には焼かれなかったかもしれない。その後、堺は再建され幕府の直轄領になるのだが、その時の教訓からか再び堀が備えられることになる。江戸初期(1620年頃)の堺の姿を描いたこの絵において、その姿を確認することができる。