根来戦記の世界

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戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘

 本願寺・第10世宗主である証如はこの時17歳で、教団の実権はその祖父であり後見人でもあった、蓮淳が握っていた。細川晴元と組んで、一揆の蜂起を決定したのもこの蓮淳であったが、今や暴走する一揆をなんとか制御下に置こうと、悪戦苦闘する始末。しかし一向一揆の暴走は収まらない。

 一方、新たに幕府を統べる立場となった晴元にしてみれば、そもそも自分が蒔いたタネがこうした事態を引き起こしたわけで、一刻も早く事態を収拾する必要があった。

 細川晴元一向一揆を見限り、その殲滅を目論むことにする。その動きを知った蓮淳は激怒、一揆を鎮める方向から180度方針転換する。8月2日、今やはっきりと敵に回った晴元の本拠地である堺を、一向一揆勢に囲ませたのだ。晴元側の武将・木沢長政が緒戦ではうまく撃退したものの、一向一揆勢の優勢は明らかで、堺は風前の灯だった。

 一方その頃、京で蜂起した法華一揆。彼らから見て東の山一つ越えた山科の地には、一向宗の一大拠点・山科本願寺があった。この上、西にある堺まで一向宗の手に落ちてしまうと、京は本願寺に挟撃される形となってしまう。もはや一刻の猶予もない。堺が陥落する前に、行動を起こすしかない。

 京の町衆はこれまでも、大名どもの乱取りに結束して事に当たり、これを追い払う程度の軍事行動はしていた。また攻め寄せる土一揆勢に対抗するため、独自の自衛軍を組織し、ときには土倉の傭兵と連合して攻めに転じることすらもあった。しかしながら、ここまで大規模な動員は初めてのことだった。

 上京は「革堂」、下京は「六角堂」の早鐘が衝かれる。鳴り響く鐘の音を背に、町衆らによる「打ち回り」が始まった。これは武装した町衆らが、町中をパレードする示威行動なのであるが、回を重ねるごとにその数は増していく。

 まず8月7日の打ち回りで、集まった人数は3~4千人。10日にこの兵力を以て、京の郊外・東山にあった「下の一向堂」こと大谷道場を焼き討ちにする。勢いに乗った法華宗徒らはその数を1万人と倍に増やし、16日から17日にかけて、東山近辺にいた数千の一向一揆らと小競り合いを行い、これを撃破している。

 京における強力な法華一揆の出現に、今度は山科本願寺が焦る番であった。堺を囲んでいる遠征軍との間に、楔を打ち込まれてしまった形となる。遠征軍は包囲を解いて大阪御坊に兵を引いたようだが、8日には木沢方にその大阪御坊まで攻められる始末。主力が大阪御坊に封じられて動きがとれず、本拠地と完全に分断されてしまったことになる。

 山科本願寺は慌てて摂津の一向一揆勢2千を、京近郊の山崎まで呼び寄せる。山科本願寺に入城させようとしたのだろうか。だがこの軍勢も19日、西岡にて法華一揆勢に捕捉され、あっけなく撃破されてしまう。意気上がる法華一揆勢。

 そして8月23日、京にいる法華一揆勢はなんと3~4万人にも膨れ上がったのである。これには晴元サイドの柳本氏や、六角氏などが率いる軍勢も参加していたようだが、主力はあくまでも法華宗徒、つまりは京の町衆らであった。そして翌24日、京に集った軍勢は先手を打って、山向こうにある山科本願寺に対して攻撃を開始したのである。

 山科本願寺は、堀と土塁で守られた本格的な城塞都市であった。しかし早朝に始まった攻囲戦は、わずか5時間ほどで決着がついてしまう。この時、山科本願寺にどれくらいの守兵がいたのかは分からないが、一向一揆軍の主力は大阪御坊から動けないままであったから、多くても数千程度であったと思われる。主力が不在の隙をついての、見事な攻撃であった。

 

Wikiより画像転載。往時の山科本願寺を、現在の町に重ね合わせたもの。巨大な城塞都市であったことが分かる。よくぞ攻め落とせたものだ。ただ法華一揆には戦いのプロはいなかったので、一連の戦闘においては柳本賢治の家臣であった、山村正次という武将が法華宗徒を率いていたようだ。或いはこの山村という男も、法華宗徒だったのかもしれない。また、裏切りもあったようだ。なお堂宇の焼け跡からは、黄金数百両が掘り出されたという記録が残っている。

 

 こうして山科本願寺は灰燼と化してしまった。しかし一向一揆の主力は大阪御坊――ここは後に拡大され石山本願寺と名を変え、山科本願寺に代わって畿内における本願寺の本拠地となる――に依然として健在なのである。

 勢いに乗った法華一揆勢は、晴元の軍勢と協力して大阪御坊まで攻め寄せるのだが、この攻撃は失敗してしまう。一向宗の反撃もあり、京近辺で一進一退の戦いが続く。そんな苦しい戦いが1年ほど続いた後、最終的に和議が成るのである。

 一向一揆勢が引き起こした、これら一連の動乱を「天文の錯乱」と呼ぶ。この乱は各地に深い爪痕を残しつつも終焉し、畿内につかの間の平和が訪れたのであった。

 だが乱の前と大きく変わったことがある――それは京における町衆たちの、社会的地位の向上、そして自治権の大幅な強化であった。(続く)