根来戦記の世界

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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑱ 「お葬式」を発明した曹洞宗

 鎌倉仏教を奉じる教団の傾向として、旧仏教ほど「寄進された荘園」というものを持っていない、ということがある(一部例外はある)。彼らは中世に入って出現した新興勢力であったから、残されたパイであるところの「余った土地」が少なかったわけである。(故に武士階級から支持されたともいえる。一部の宗派を除いて、土地の取り合いで武士たちと競合することはなかったわけだ)。ではどうやって教団を維持していくかというと、主に在家信者による「銭や物の寄付」に頼ることになるのである。

 どこも宗祖が存命の頃は、その個人的な人間関係や、カリスマ性によって集まってくる寄進でやっていける。しかし2代目以降となると、そうはいかなくなるのだ。道元亡き後の永平寺(1246年に大佛寺から改称)が、一時衰退したきっかけもまた、それが理由であった。

 道元の死後、永平寺内で深刻な派閥争いが発生する――後年「三代相論」と名付けられる、長きにわたる騒動である。

 道元から永平寺2世に指名されたのは、孤雲懐奘(こうんえじょう)という、元達磨宗の僧であった。かつて達磨宗の論客であった彼は、道元に論戦を挑んだが論破され、彼の弟子になった男である。達磨宗の高弟であった彼の参入は、同宗の禅僧らが一斉に集団改宗し、道元の元に集った契機となっているのだ。

 そしてこの達磨宗系統の僧らは、永平寺「改革派」の主流メンバーとなるのだ。道元の死後、この改革派は「衆生教化のために、道元が不要とした法式(祈祷などの儀式のこと)も取り入れよう」とする動きを見せたのである。

 こうした動きは、道元死後の収入減と大いに関係あるのではなかろうか。要するに改革派は、より一般受けする祈祷などを永平寺に導入することによって、教団の新規信者の獲得、ひいては収入改善・規模拡大を狙ったわけである。

 しかし道元の遺風を守ろうとする、ストイックな保守派との対立は深まる。元達磨宗ではあったが、懐奘は曹洞宗を統べる立場として中立的な立場を守り、双方の調停・融和に努めたようだ。そうした努力の甲斐あって、彼の存命中はなんとかまとまっていたのだが、改革派であった3世の徹通義介の代に至って、両派は遂に決裂してしまうのだ。

 3世の義介は改革派の主流メンバーを引き連れて、加賀・野市にある大乗寺へと移ってしまう。この分裂は比較的平和裏に行われ、高野山と根来のように、血が流れるような喧嘩別れをしたわけではなかったようだ。大乗寺は引き続き曹洞宗を奉じ続けたし、双方の交流も続いたようだ。しかし改革派が去った後の永平寺は、廃寺寸前となってしまうほど凋落してしまうのであった。

 一方、大乗寺における教団運営は、1302年に大乗寺2世に就任した瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の時代に興隆を迎える。彼は保守派が拒んでいた加持祈祷などを、積極的に教団に取り入れたのである。だが何といっても、彼が行った改革で最も効果があったのが、21世紀の日本人が今も行っている、いわゆる「お葬式」を俗人の葬儀方式として導入したことなのである。

 これまで「仏式葬儀」というものが、日本になかったわけではない。身分が高い人や、富裕層などが行うには行っていたのだが、形式が定まっていなかったのだ。また貧しい庶民層に至っては、例えば京においては葬送地というものがあって、その辺りに行って土を浅く掘って遺体を埋める、程度のことしかやっていなかった(なので、葬送地には野良犬が多かった)。経を唱えるくらいのことはやっていただろうが、簡素なものでしかなかった。

 

京の近くにある鳥野辺は、代表的な葬送地のひとつであった。そこに向かう葬送の列は犬神人によって仕切られており、彼らは副葬品を貰う権利があった。これを「洛中における葬送権」と呼ぶ。しかしこの「お葬式」の発明と共に、「寺内にお墓を造りそこに葬る」という今もおなじみのシステムが、徐々に浸透してくるのだ。そこで犬神人たちは、どうしたかというと・・・詳しくは上記の記事を参照。

 

 紹瑾の発明した「お葬式」のコンセプトは、曹洞宗における「雲水」に対する葬儀を元にしたものである。雲水は修業中の身であるから、身分的には僧になる前の俗人なのである。修行半ばで不幸にも死んでしまった雲水を葬る際には、形だけでも成仏させるため戒を授け、出家した証となる名も授けていた。これがいわゆる「戒名」なのである。

 紹瑾はこの「雲水に対する葬儀」を、同じ俗人である一般人にまで広げ、形式化したのである。これが爆発的にヒットしたのだ。始めに広がり始めたのは高位の武士や、裕福な名主層などの間であったが、次第に経済力が向上した一般庶民にまで広がっていく。

 こうした祈祷や葬式を導入した曹洞宗は、下級武士層や農民層の間にたちまち信者を獲得していったのである。日本海沿いに広がっていったようで、特に東北地方において勢力を広げることに成功している。これを見た他の宗派も曹洞宗を追いかける形で、慌ててこの仏式葬儀を取り入れることになる。「お葬式」はそれほど需要があった、ということであろう。

 

スイス使節団長のエメ・アンベールが描いた「幕末日本図絵」の中にある、幕末の日本の仏式葬儀。宗派によって細かい部分は違う。戒名の代わりに浄土真宗では法名日蓮宗では法号となる。これは何故かというと、両宗には「戒」という概念がないからである。唱えられるお経も、天台宗真言宗臨済宗曹洞宗などは般若心経が多いようだが、浄土系宗派はほぼ阿弥陀経日蓮宗法華経となる。式次第や作法などは、どこも曹洞宗のやり方を参考にしているようで、概ね共通している。

 

 一方、一時は無人寺になってしまうほど凋落してしまった永平寺はどうなったのか。これを立て直したのが、宝慶寺の住持であった義雲という禅僧である。その凋落ぶりを見かねた波多野通貞の後押しを受け、1314年に永平寺第5世に就任する。当時の永平寺は荒れ果て何もなかったので、宝慶寺から什器を持って行ったという逸話が残されている。彼とその後継の努力で、永平寺は持ち直すのである。

 なお、大乗寺2世でお葬式を発明した紹瑾は、1321年に能登において總持寺を開山している。のち大乗寺は室町期に戦火によって焼けてしまうのだが、その代わりに力を持ったのがこの總持寺であり、後醍醐天皇から「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けている。總持寺は江戸期には、徳川幕府より「永平寺と並ぶ大本山」として認定され、今に至るのである(続く)。

 

Wikiより転載、大乗寺2世にして、曹洞宗中興の祖である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)。かなりの傑物で、政治力にも優れていた。商人的感覚もあったようで、比叡山中興の祖と称えられた、良源と似ているかもしれない。実際、道元の頃の曹洞宗はかなり小さな宗派であって、いつ途絶えていてもおかしくはなかったのだ。ここまで大きくしたのは、ほぼ彼の功績なのである。それを裏付けるデータもあって、現存する曹洞宗の寺のうち、実に80%ほどが彼が開基した總持寺系なのである。