さて鎌倉仏教のトリを飾るのは、日蓮宗である。おなじみ日蓮が開いた宗派であるが、開祖の名がそのまま宗派になっているのは、この日蓮宗だけである(ただし江戸期から。それまでは法華宗といった。なのでこのシリーズでは、以降は法華宗とする)。そういうことからも分かるように、日蓮は強烈な個性を持っていた男なのである。
日蓮の名言、というか迷言として「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむげん)、律国賊(りつこくぞく)」というものがある。他宗をここまであからさまに攻撃した開祖は今までになく、その攻撃的姿勢は法華宗そのものにも受け継がれた。「炎上上等」なのである。故に法華宗は、時の政権によく弾圧されている。
この記事では日蓮が、如何にしてこうした過激な思想を持つに至ったか、そしてその後の法華宗の動向について、述べてみようと思う。
日蓮は1222年に安房国・東条に生まれている。過去の記事で述べたように、自らを「旃陀羅(せんだら)が子」と称している。旃陀羅というのは漁師のことである。最もこれは己を卑下した表現であって、12歳の時には地元の天台宗の寺・清澄寺にて初等教育を受けていることから、その地の漁師らを統括する立場にあった、それなりに裕福な家柄であったと推測されている。
清澄寺にて日蓮は天台の基本教義を学び、16歳の時に得度する。清澄寺にて官僧になったのだ。そして2~3年後の、1240年前後に京・延暦寺へ向かう。当時の官僧は、そこで受戒するのが慣例となっていたのである。無事そこで受戒を済ませた日蓮は、そのまま比叡山にて数多の文献を読破し、畿内を中心に各地を遊学している。
日蓮のように、他の多くの鎌倉仏教の開祖たちもまた、延暦寺で天台教学を学んでいる。そして本覚思想に毒された当時の顕密仏教に嫌気がさして、新しい宗派を立ち上げる、というのがひとつのパターンなのである。しかし、日蓮は違った。本覚思想を含む天台思想を勉強して、この時点で日蓮がたどり着いたのは「悪いのは天台宗ではない。念仏を奉じる浄土宗と、それを禁じない幕府こそが、諸悪の権現なのである」というものであった。
この辺りを、もう少し整理して考えてみよう――以下の考察はブログ主による、個人的な日蓮観が多く入っている。異論もあるだろうが、ご容赦を――
まず日蓮の考え方はスタート地点からして、独特なのである。他の鎌倉仏教の開祖たちの多くは、この世は末法であり(末法を認めない道元のような僧もいたが)、そんな絶望しかない世の中で「如何にして自分が、ひいては皆が救われるか」を根本的なテーゼとして持っていた。その題に対する答えとしてそれぞれたどり着いたのが、念仏であったり、禅であったりしたわけである。
しかし日蓮のテーゼは違う。日蓮の生きた時代は、日本が多くの天災に見舞われた時期であった。日蓮30半ばの頃など、6年の間に5回も改元が成されている。改元は大きな災厄があった際に成されるのが常で、実際に「吾妻鏡」などの記述でそれが確認できる。相次ぐ地震、そして飢餓や疫病で多くの人が苦しみながら死んでいったのである。
こうした天災を身近で見て、彼はこう考えた――「何故、国土はこのように荒廃しているのだろうか?人々を救う仏教が盛んに信仰されているのに」――つまり日蓮は「苦しみから人を救う」というよりも、「人を苦しめている天災は、何故にこんなに多いのか?」という疑問に対する答えを知りたくて、経典に挑んでいるのである。
そして長年の思索の結果、天変地異が起こる理由を、彼は遂に突き止めたのである!
それは王法、つまり政治の在り方が間違っているからである。「正しい理念」に基づいて、政治が行われていないから駄目なのである。では正しい理念とは何なのか?それこそが仏法、つまり仏教の教義なのである。
しかし現在は仏教の在り方が間違っている。奇妙なことを主張する宗派が乱立してしまい、正しい教えが守られていない。だから天変地異が起こるのだ。これらの教えを整理して、本当に正しい教えのみを流布し、これに基づいた政治をすることが、正解なのである!
これこそが日蓮の独自性であり、他宗と大きく違うところだ。彼は「立正安国論」においてこう述べている――「国は法によって繁栄し、仏法はそれを信じる人によって輝きを増す」。つまり正しい仏教の興隆なくしては、安国もない、というわけだ。そして国が滅びそうな現在は、何よりも国土と人民のために祈る必要がある。まずは社会の平和と安定、それが成されれば個人の救済につながる、という考え方なのである。個人よりも政治が上なのだ。
こうした性格を持つ法華宗は、当然のことながら極めて政治色が強い宗派となった。日蓮によって開かれてから、今に至るまで常にそうである。詳細はまたシリーズ最後の方の記事で述べるが、現代の日本政界において、創価学会を母体とした宗教色の強い政党・公明党が存在しているのは、こうした背景があるわけである。
それでは次に、日蓮がいうところの「正しい仏法」とは、具体的にどういうものであろうか?彼が選んだ思想の土台となるべき経典は、意外にも天台宗の根本経典である「法華経」なのであった。いわば「天台の根本に帰る」ことを主張したのである。一種の天台原理主義者であるともいえる。
日蓮が再解釈した「天台の根本」とは、端的にいうと次のようなものだ――法華経の神髄は、7文字に凝集されている。それが「南無妙法蓮華経」という「お題目」なのである。そして仏の功徳が凝縮されている、この題目を唱えることにより、現世における即身成仏が可能になる――というものである。
まず方法論として「お題目を唱える」――これは「念仏を唱えることが大事」という浄土宗の「専修念仏」の考え方と同じなのである。更に目指すところは「現世での成仏」であるというところ、こちらは秘法を以て「現世での成仏」を目指す真言宗と、ほぼ同じ発想なのである。つまり日蓮は、否定しているはずの他宗の考え方に影響を受け、それを教義に取り入れているのである。
更に面白いことに、日蓮は末法思想を信じる立場にいるのだが、浄土の存在を否定しているのである。彼は浄土というものは「あの世ではなく、この世にあるもの」と論じている。これは根来寺の開祖である、覚鑁の「密厳浄土」の考え方と極めて近いのだ。
覚鑁の「密厳浄土」に関する記事はこちらを参照。新しい時代に向けて、彼は高野山を改革しようとしたが、果たせなかった。後年、彼の後継者たちが「密厳浄土」の教えに基づいた新義真言宗(根来寺)を立ち上げることになる。
事実、日蓮は1251年に覚鑁の著書「五輪九字明秘密釈」を書写していることが分かっている。そして日蓮が写したこの書こそ、覚鑁が密教と浄土思想の融合を企てた論文だったのである。(※ただし晩年の日蓮は考えを少し変えたようで、その存在を「霊山浄土」と呼んで容認している。)
そういう意味では日蓮の教義は、よく言えば「他宗の優れたところを集めた、ハイブリッド版」、悪く言えば「都合のいいように、ツギハギしたモザイク画」であるともいえるのだ。(続く)