日蓮に関しては、これまで数多くの著作が出ている。何冊か読んでみたが、最も客観性があって面白かった本が、日本中世史・仏教史学者である、松尾剛次氏の著した「日蓮・戦う仏教者の実像」である。以降の記事の内容の多くは、この本に書かれていることを参考にしている。(また記事後半に出てくる「真言律宗」に関しても、同じく松尾氏の著作「忍性・慈悲ニ過ギタ」を参考にしている。)
1252年、日蓮は遊学先より安房国・東条にある清澄寺に帰還する。そしてかの地において、遂に立教開宗を宣言するのである。
実のところ、前記事で述べた彼の教義の多くは、時の経過によって幾分か変遷している。例えば「お題目を唱え、即身成仏を目指し、この世を正していく」という部分に関しても、この時点ではまだそこまではっきりとした形になっていないようだ。
初期から一貫して変わっていない姿勢は、主に2点。まずは「法華経原理主義」とでも形容すべき、法華経への絶対的な傾倒。次に法然、つまり浄土宗に対する激しい敵意である。国家をないがしろにし、己の救済のみに傾倒する(と日蓮は考えた)法然の教えは、どうしても相容れないものであったのだ。浄土宗に対してはこのような姿勢であった日蓮であるが、他の宗派に対してはどのように考えていたのだろうか?
まずは禅宗から。近畿において遊学経験のある日蓮は、禅宗の先駆けである達磨宗のことはもちろん知っていたし、栄西が開基した京・建仁寺に至っては、この時点ではまだ「禅・天台・真言」の三宗兼学の寺であったから、(記録には残っていないが)訪れたことさえあったかもしれない。
しかし禅宗のメインの支持層は、幕府要職に就いている者など武家でも上流階級だったから、京においては未だ少数派であった。関東においてはそれなりに勢力を伸ばしつつあったが、それでも鎌倉に純粋禅の道場となる建長寺が開基されたのが、日蓮立宗の翌年、1253年のことである。そんなわけで、総体としてはそこまで大きな勢力になっていなかった禅宗は、まだ日蓮のターゲットにはなっていなかったのである。
次に真言宗であるが、前半期の日蓮は真言宗に対して、意外にも親和的だったことが分かっている。彼が真言を敵とみなすのは、もう少し後のことである。そもそも日蓮の基本スタンスは天台宗である。これまでの記事で見てきたように、その別名を「台密」と呼ばれるくらい、密教は天台宗を構成する重要な要素のひとつであったわけだから、日蓮も密教的要素を肯定せざるを得なかった。
例えば立宗する10年前のことであるが、1242年に日蓮は「戒体即身成仏儀」という書を著している。この書において日蓮は、念仏に対する法華経の優位性を論じているが、同時に「法華経もまた、真言宗の初期段階である」と論じているのだ。まだ思想が固まる前の段階とはいえ、初期の日蓮は台密の強い影響下にあったことがよくわかる内容である。(ただしこの書は日蓮が書いたものではなく、偽撰であるという説もある)
最後に律宗。ここで日蓮がいう律宗とは、主に「真言律宗」のことを指す。真言律宗とは何か?このシリーズでは、これまでこの宗派について全く触れてこなかった。何故かというと、これまで真言律宗はその名の通り「律宗」から生まれた宗派であり、覚鑁の新義真言宗(根来寺)と同じように、いわゆる旧仏教サイドから生まれた改革運動の一種、として見なされていたからである。
だが最近の研究動向では、真言律宗は鎌倉仏教のひとつとして数えた方がいい、という見方がある。これは何故かというと、彼らの特徴の一つとして、大規模な救済・福祉事業を行ったことが挙げられるからである。
例えば、同じく旧仏教サイドから改革を行った覚鑁の新義真言宗は、教義の上では他の鎌倉仏教に与えた影響はあったものの、基本的には真言という枠組みの中に留まり続けたし、社会的にはローカルな地方勢力としてしか成長しなかった。それに比べると真言律宗は各種の大規模な事業を行っており、当時の社会に与えた影響は、遥かに大きいといえるのだ。
そこでここからは、法華宗についてのシリーズ半ばであるのだが、少しだけ回り道をしてこの大変ユニークな宗派、真言律宗について触れてみたい。
まず「真言律宗」という宗派であるが、彼らがそう呼ばれるようになったのは、実は江戸期からである。当時この教団に所属していた僧らは、別に自分らが新しい宗派を確立したという意識はなく、あくまでも「律宗の一員」として行動していたわけである。なので、これを「新義律宗」教団と呼ぶ人もいる。この記事でも、以降はこの名称を使って紹介していきたい。
さて、そもそも律宗の出発点は「僧が守るべき戒律」についての研究からスタートしたものだ。日本における歴史も古く、その歴史は753年の鑑真の来日にまで遡る。以降、律宗は「南都六宗」のひとつとして、古代の日本の仏教を支えたのである。しかし平安末期に最澄が開いた天台宗は、律宗の定めた戒律から決別し、独自の戒律を定めたため、以降は衰退してしまったのである。
鎌倉期に入り、社会構造の変化により新たなプレイヤーが現れる。武士や庶民階級の台頭である。鎌倉仏教はこうした新たなプレイヤーの需要によって登場したものと捉えることができるが、旧仏教サイドの真言宗から覚鑁が登場したように、南都六宗からも同じような改革の動きが出たのである。そして律宗から出た、改革運動を主導したこの新義律宗集団こそ、後年「真言律宗」と名付けられる教団となるのである。
その先駆けは、平安末期に衰えていた「戒律の復興」を呼びかけた、実範(しっぱん)という僧である。彼は法相宗・真言宗・天台宗の三宗を主に学んだ僧であった。天台宗をも学んでいることから分かるように、彼もまた本覚思想の堕落面に触れ、こうした風潮に対するカウンターとして、「戒律復興」運動を始めたのである(なお彼は覚鑁とほぼ同世代に活躍した僧であり、両者には思想的交流があったことが分かっている)。
こうした流れの跡を継いだのが、奈良にある西大寺の叡尊(えいそん)という僧で、彼もまた醍醐寺などで長年密教を学んだ真言僧であった。真言僧として活動しながらも腐敗した有様に心を痛めた彼は、その理由を「釈迦が定めた戒律に従っていないからだ」という結論に達する。そこで志を同じくする同志たちと、東大寺・法華堂の観音菩薩の前で戒律を厳守することを誓い、官僧から離脱し遁世僧になったのであった。これが1236年のことで、以降「戒律復興」にまい進していくことになる。
活動を開始した、この1236年が「新義律宗」としての開宗した年として位置づけられ、実質的には彼が新義律宗の開祖ということになっている。ポイントは、彼のベースは密教にあるということである。というよりも、この時代の教養ある僧は、多数の宗派を兼学するのが常であった。その中でも最も盛んであったのが密教であったから、彼らのほとんどが天台か真言をベースにせざるを得なかったのであるが。
なので、新義律宗の教義は真言密教を土台にしたものとなる。そのうえで様々な信仰――後述するが「釈迦信仰」「文殊菩薩信仰」「聖徳太子信仰」などがミックスされている。だが何といっても、最も力を入れていたのが「戒律学上の、通受の復興」なのである。
叡尊が重視し、復興させた「通受」とは何か。次回の記事では、新義律宗が追い求めた「戒律の復興」運動と、そうした動きが如何にして大規模な慈善社会事業を行うに至ったか、を見ていこう。(続く)