浄土宗に深く帰依していた、その地の地頭・東条景信は、念仏宗を非難中傷する日蓮に対し、激しい敵意を抱く。景信による襲撃の恐れもあり、日蓮は故郷を離れ、一路鎌倉へと向かうのであった――というのが、現在の日蓮宗に伝わる公式ストーリーである。
しかし実際のところは信仰の問題というよりは、清澄寺と東条氏との間で領家の権益をめぐってのトラブルがあった、というのが真相のようだ。裁判の結果、東条氏が全面敗訴したのだが、この際に清澄寺の僧として精力的に弁護活動に動いたのが日蓮であり、これが理由で景信から憎まれたようである。
だがこうしたトラブルがなくても、いずれにせよ何処かの時点で日蓮は鎌倉へ向かっていただろう。彼の考えでは「仏教の教えで政治を正す」ことが絶対に必要であり、当時の鎌倉こそ政治の中心地であったからだ。
日蓮が鎌倉に着いたのが、1256年ころだと思われる。鎌倉の外れ、名越の地に草案を結び、布教活動――具体的には辻説法を行っていたようだ。清澄寺より離脱した日蓮は官僧としての身分を失っており、いわゆる遁世僧と呼ばれる私僧となっていた。そうなると布施で食っていかざるを得ないので、布教を兼ねた辻説法をすることで、糊口を凌ぐわけである。一石二鳥なのだ。
若宮大路などの大通りでは辻説法は禁止されていたので、市場などが立っていた商業地域で行っていたと思われる。広大な学識に裏付けられた明確な教義、強い目的意識、そして凄まじい熱意を以て布教に当たった結果、この先ずっと彼に付き従うことになる日昭・日朗ら忠実な直弟子たちの他、名越氏の被官・四条金吾(しじょうきんご)、千葉氏の被官・富木常忍(ときじょうにん)、また幕府の有力御家人の夫人であったと見られている名越の尼といった、有力な在家信者らを獲得することに成功するのである。
それにしても日蓮にとって許しがたかったのは、この頃の鎌倉幕府が念仏宗に対し、優遇策をとっていたことである。これは何故かというと、念仏僧である浄光の指揮により、長谷寺にて鎌倉大仏の鋳造が行われていたからである。幕府は浄光に対し、全国規模で勧進を行う許可を与えるなど、後援を行っていたのである。
大仏建立のさなかである1260年7月、日蓮は自らの考えをまとめた「立正安国論」を著し、北条時頼に提出する。この書の内容を要約すると「念仏宗のような邪宗を敬うから、国が乱れたのだ」というものである。
そして実際に「国が乱れた」根拠として、薬師経という経典にある「七難」の概念に触れている。この七難のうち5つ「疫病・天変地異・日蝕月蝕・季節外れの風雨・干ばつ」は既に起こってしまったが、このままでは残り最後の2つ「国内の反乱」「他国からの侵略」が近いうちに起こるであろう、と書いたのであった。
しかし大仏建立で鎌倉中が沸き立つ中、日蓮の主張に耳を貸す者は少なかった。それどころか(あたりまえだが)、「不吉な奴め」と反発を買う始末で、「立正安国論」を提出した1か月後の8月に、怒れる念仏衆らによって名越の草庵が襲撃されてしまうのだ。この事件を法華宗徒は「松ヶ葉法難」と呼ぶ――これを皮切りに今後何回も続く、記念すべき?法難の第1回目である。
草庵を逃れ、向かった先は下総国八幡にある在家信徒・富木常忍の館である。しばしの間、そこで逼塞していた日蓮だが、ほとぼりは冷めたとみて再び名越に戻る。しかし日蓮が戻ったと知った念仏僧らは、今度は幕府に対し正式に「悪口の咎」で訴えを起こしたのである。これを受けて1261年、幕府は日蓮に対し、伊豆配流の決定を下す。これを「伊豆法難」と呼ぶ。
理由は不明だが、日蓮はすぐに許されて、62年には下総の富木の屋敷に戻っている。しばらく鎌倉を離れることにしたのである。64年9月頃には病気の母の看病のため、生まれ故郷の安房に戻っている。しかし11月になって下総に戻ろうと、因縁深い東条の地を通りかかった際に、襲撃者による待ち伏せを受けたのである。
襲ってきたのは、あの東条景信である。執念深い彼は、念仏衆を100人ほどを引き連れて、日蓮一行ら10人を待ち構えていたのである。多勢に無勢、弟子である鏡忍房、信徒の工藤吉隆が殺され、他に2人が負傷している。日蓮自身も左手の骨を折られ、眉間に深い傷を負った、とある(古い時代に造られた日蓮の木像には、額に傷がついたものがあるそうだ。生涯残るような傷跡だったのかもしれない)。これを「小松原法難」と呼ぶ。
しかし不屈の人・日蓮は決してへこたれないのだ。1266年には再び鎌倉へ戻るのである。ところが彼が鎌倉を離れていたこの4年余りの間、この地の仏教勢力図には大きな地殻変動が起こっていたのである。
きっかけは新義律宗のリーサルウェポン・忍性が62年に鎌倉入りしたことである。彼は52年頃から関東教化を目指し常陸国を中心に布教活動をしつつ、幕府中枢に対する布教の機会を伺っていたのだが、10年越しに念願叶って鎌倉入りを果たしたのである。
忍性の働きかけによって、翌63年には新義律宗のボス・叡尊が奈良から鎌倉入りする。そして叡尊は時の最高権力者である北条実時・北条時頼の両名に拝謁し、2人に授戒するという栄誉を果たすのだ。これは鎌倉幕府が新義律宗を公式に認めたということであり、以降、新義律宗は凄まじい勢いで勢力を伸ばしていく。当時、鎌倉で一番多かったのは浄土系の寺だったのだが、これを契機に軒並み新義律宗に塗り替えられていったのである。
鎌倉における念仏僧の、ボス的存在であった新善光寺の念空や、浄光明寺の性仙、極楽寺の観房など、名だたる念仏僧らが次々と新義律宗の僧から戒律を受け、その門下となった。そればかりではない。やや後年のことになるが、かつて日蓮の忠実な在家信徒であった名越の尼まで、新義律宗に宗旨替えしてしまう有様。
そんなわけでこの頃になると、日蓮のターゲットとして新たに律宗、そして禅宗も加わっている。教義的にも、より法華経原理主義へと傾倒していき、舌鋒にもますます鋭さが増していくのだ。(続く)