根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉔ 日蓮最大の危機・竜ノ口法難と、遂にやってきた元寇

 大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと思うが、当時の人たちは大真面目だった。それだけ祈祷には力がある、と信じられていたのだ。

 取り急ぎ幕府は「異国降伏」の祈祷を、建長寺寿福寺臨済宗)、極楽寺・多宝寺(律宗)、大仏殿・長楽寺(念仏宗系)、浄光明寺(四宗兼学だが、メインは律宗)の有力寺院らに依頼したのだが、これがまた日蓮にとっては耐え難いことであったのだ。

 日蓮にしてみれば、この世にはびこる「邪宗を奉じる人々」こそが天変地異の原因で、彼らをこの世から駆逐することこそ、正しい政治の姿を取り戻すきっかけとなると信じてやまないのである。それなのによりによって、彼らに祈祷をお願いするとは!これでは日本の滅亡が早まるだけではないか!この頃より、日蓮の排撃対象として遂に真言宗も加わるようになる。法華独勝の立場に、より近づいていくのだ。

 日蓮の論理としては「天台を奉じる延暦寺こそ、正法を伝える道場であったのに、邪宗延暦寺に入り込み混淆してしまっている」ということになる。つまり天台の密教成分を、邪宗と認定したのであった。この頃より日蓮は、延暦寺の開祖・最澄との直接的な結びつきを意識するようになる。延暦寺を再生させるには、最澄の正法を伝える唯一の門人である自分しかいない、と考えたのだ。

 元からの国書が来て3年経ち、使者のやり取りは依然続いている。1271年の夏は暑く、日照り続きであった。幕府は鶴岡八幡宮建長寺、そして極楽寺の忍性に雨乞いの儀式を依頼することにする。特に忍性は祈祷僧としても著名で、69年には実際に雨乞いを成功させており、霊力のある僧として認識されていたのである。

 これを知った日蓮は、忍性の下に弟子を遣わして「あなたが祈祷を始めて、もし7日以内に雨が降れば、あなたの弟子となろう。だがもし降らなければ、あなたの主張は間違っているということになる」という旨の挑戦状を叩きつけたのである。

 忍性はこれを無視したが、雨は降らなかったのである。日蓮は勝利を喧伝し、次のような内容の書簡を諸寺に送りつけたのである――「今回のことで分かったように、禅・戒・念仏が繁盛している現状こそが、国中の天災の原因なのです。それゆえ、建長寺寿福寺極楽寺などの諸寺の伽藍を焼き払い、これらに仕える僧どもの首を斬って由比ガ浜に並べたら、きっと雨が降ることでしょう」――日蓮に対して、またも訴訟が起こされた。

 特に問題になったのが「伽藍を焼き払い、僧の首を斬る」くだりである。この点に関しては、日蓮は全く申し開きをしなかったようだ――本気でそう思っていたのだろう。当然、有罪となった。「御成敗式目」第12条に照らすと、「悪口(あっこう)の咎」の最高刑は佐渡への流罪である。9月12日、日蓮は逮捕された。

 だが日蓮を逮捕した武士たちは、佐渡への流罪になるはずだった彼を、片瀬にある竜ノ口刑場まで連れて行ったのである。真夜中の1時に日蓮は牢から引きずり出され、斬首されそうになる。しかし首を斬られそうになったその瞬間、江ノ島の方角から「光り物」が出現したのだ。これに驚いた武士たちは日蓮を殺すのを諦めたのである――これを「竜ノ口法難」と呼ぶ。

 この光り物の下り、日蓮その人が著したとされている「種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)」に記されているエピソードである。日蓮自身が「見た」と書き残しているからには、おそらく本当にあったことだろう――日蓮は嘘をつける人ではない(だから、しなくてもいい苦労をしているのだが)。

 ではこの正体は何であったかというと、おそらくは大きな流れ星、いわゆる「火球」と呼ばれるレベルの流れ星だったのだろう。なにしろ奇跡的なタイミングである。当時、流星や日蝕月食など、天体運行に関わる現象は全て奇譚として捉えられていたから、この偶然も日蓮の処刑中止の一因にはなったに違いない。

 

江戸期に出版された、歌川国芳による木版画「相州龍之口御難」。今から23年前の話だが、まだ若かったブログ主が「しし座流星群」を見物するために徹夜した際、火球を見ることができた。わずか1~2秒であるが、夜空に光り輝く火球がこちらに向けて落ちてきたのは驚いた。少しのタイムラグがあって、ゴーという轟音が聞こえてきたのを覚えている。あのレベルの火球が処刑直前のタイミングで空に現れたら、さぞかし度肝を抜かれたことだろう。この絵では、空からの光が武士の刀を打ち、刀が折れたということになっている。

 

 ただし、この「種種御振舞御書」という書物、実は後世になって弟子の手によって書かれた偽撰である、という見方が昔から根強くある。この竜ノ口法難について触れられている、確かに「日蓮の真筆である」と認められている他の文書には、「光り物」の類の話は書かれていないのだ。もしこれが作り話だとするならば、奇瑞なしに日蓮の処刑は中止されたことになる。

 奇瑞があったにせよ、なかったにせよ、処刑が中止になったのは、どうも別の要因の方が大きいようである。日蓮処刑の話を聞きつけた忍性が手を回して中止させた、というのが真相のようだ。1277年に日蓮の在家信者である四条金吾が、主君より法華宗信仰について問いただされているのだが、その際に金吾になり代わって日蓮が陳弁した「頼基陳状」という書状が残されている。そこには「死罪の代わりに遠島になったのは、忍性のおかげでしょう」という旨の記述があるのだ。

 竜ノ口刑場がある江ノ島一帯は、極楽寺の管轄下にあった。「不殺生戒」などの戒律を護持する立場にある、新義律宗の一員である忍性にしてみれば、自分の縄張りで流罪であったはずの人間が処刑される、というのは倫理的に許せないことだったようだ。

 また翌72年に、忍性は10種類の誓願を書いている。その第8誓には「我に怨害をなし毀謗を致す人にも、善友の思いをなし、済度の方便とすること」とある。どう考えてもこれは日蓮のことを指しているのであり、彼は敵である日蓮佐渡配流から早期に許されることを願っていたのである。やはり忍性は「慈悲ニ過ギタ」人であったのだ。

 ともあれ71年10月、日蓮佐渡に流される。佐渡での生活は苦しいものであったようだ。彼の教団も壊滅的なダメージを被る。一時はそれなりの規模になっていた教団も、カリスマである開祖の流罪、そして特に「武士の信者に対しては所領没収」という処罰が下されたこともあって、その多くは他宗に転向してしまったのである。日蓮は「1000人のうち、999人が転向してしまった」と嘆いている。

 このまま何もなければ、日蓮法華宗は数多に生まれ、そしていつしか消えていった新興宗派のひとつとして、歴史の中に埋もれていったに違いない。ところが一発逆転、1274年に彼は赦され、再び鎌倉へ戻ってくるのである。なぜか。

 彼の予言が的中したのだ。いわずと知れた、蒙古襲来である。(続く)