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日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑨ 「弘安の役」に関する、服部氏の新説

 この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。

 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では東路軍が合浦を出たのが5月3日、対馬占領は5月26日以前、志賀島占領は6月6日となっている。しかし実際には、対馬占領は5月8日、15日に壱岐を占領、続いて博多の志賀島占領は5月26日なのである。また通説によると、武士団の反撃があった結果、東路軍は志賀島を放棄したとされているが、実際には元軍は持ちこたえ、志賀島の橋頭堡は維持したままであった」というものだ。

 志賀島占領のタイミングのズレは、何故に発生しているのだろうか?池内説の根拠は「高麗史」にある「『日本世界村大明浦』を26日に占領した」とある一文である。問題はこの「世界村大明浦」はどこなのか、ということであるが、池内氏は「世界村」は対馬、「明浦」は佐賀である、と比定しているのだ。しかし服部氏は、この「世界村大明浦」は志賀島であると比定しているのである(その論拠は、是非本を読んでいただきたい)。

 時期はずれるが、いずれにせよ元軍が志賀島を占領するのは池内説も同じである。ここに対して武士団が攻撃をかける。海からの攻撃が6月5日から6日にかけて行われ、8日が陸からの総力戦であった。通説では、この攻撃によって被害を受けた元軍は橋頭保を放棄、6月の中旬には全軍が壱岐まで撤退した、ということになっている。しかし服部氏は、武士団は相当に相手を圧迫したが、奪還までには至らなかった、としている。

 なぜならば、閏7月(うるう月。この年は7月が続けて2回あった。つまり2回目の7月にあたるので、上記の戦いから2か月後のことになる)5日に「蒙古襲来絵詞」の主役である竹崎季家らが、博多湾南岸の陣から船に乗って、元の艦隊に対して戦いを挑んでいる、という事実があるからである。これは通説では、前記事で紹介した嵐でダメージを負った元軍艦隊にとどめを刺すべく、進軍した戦いを指す。

 通説では、博多湾から出撃した竹崎らは鷹島の「御厨」まで船で移動、そこで元軍艦隊と戦ったことになっている。しかしながら博多湾から鷹島までは、沿岸航海で120kmの距離である。完全武装の武士たちを乗せた小舟が1日で移動するのは、不可能な距離なのだ。一方、服部氏はこの「御厨」は鷹島ではあり得ず、志賀島であるとしている。つまり竹崎らは、出発した湾から目の前の志賀島沖に出撃していった、ということになる。

 

蒙古襲来絵詞」より。閏7月2日の昼に博多湾から船に乗り込み、御厨沖に停泊中の元軍艦隊に殴り込みをかける竹崎季長ら一党。竹崎らが昼12時ころ博多湾から出撃したのは間違いない事実のようで、ここから小舟で120km海上移動して、その日のうちに戦いに参戦するのはあり得ない。だが確かに鷹島南岸には「鷹島御厨」という地名があるのだ。しかし服部氏は「御厨」という地名は「台所」を意味する普通名詞が転じたもので、朝廷に山や海の幸を献上する場を指すことが多く、各地の島の多くは「御厨」に指定されていたという。そして志賀島もその例外ではなく、おそらく御厨と呼ばれていただろう、と推測しているのである。志賀島沖に敵船が停泊していたということは、志賀島の元軍の橋頭堡は依然、健在であったということでもあるのだ。

 

蒙古襲来絵詞」より。元軍が占領した志賀島陣地。この図は詞書が失われているうえ、原本から乖離してしまったらしく、時系列的にどこに入っていたか分からなくなっているが、上記の海戦の直前であったとしてもおかしくはない。真中が空白になっているので分かりづらいが、鳥居の横に柵と板塀がある。元軍が建てたもので、志賀島を要塞化していたことになる。右上には警戒する元の兵士、そしてよく見ると左下の湾には、泳いでいる男と陸に上がったばかりの男がいる。2人はおそらく日本軍の間諜であろう。失われてしまった詞書には「元軍が占領した志賀島まで、泳いでスパイする」というエピソードが書かれていたものと思われる――描かれているこの人物のうち1人は、もしかしたら竹崎季長本人かもしれない。いずれにしても、鎌倉武士団は元軍を志賀島に封じ込めることはできたが、堅牢な陣を攻略することはできなかった。志賀島は陸からは海の中道という1本道でしか繋がっておらず、守るに易く攻めるに難い島なのである。制海権が相手側にある場合は特にそうだ。また博多を攻略するための橋頭堡として志賀島は最重要拠点のはずで、ここを容易に放棄するのは戦略的にあり得ない――というのが服部氏の主張なのである。確かにそうかもしれない。

 

 また服部氏は江南軍の進撃路やタイミングに関しても、通説に対する反論を述べているが、東路軍に関するものほどにはインパクトはないので、この記事では割愛する――「弘安の役」に対する服部氏の主張をまとめてみよう。

 まず元の兵力であるが、東路軍は総兵力2万7000人、江南軍はその倍の5万人ほど。(「高麗史」を元に算出。通説の30%ほどの規模である。ちなみに服部氏は「文永の役」の元軍はさらに少なく1万6500人ほどであった、と算定している)

 東路軍は対馬壱岐を占領する。これが5月中旬のことである。続いて博多湾に進出するも、石塁を見て強襲上陸を断念、5月26日に志賀島を橋頭保として確保し、その要塞化を進める。武士団は6月5日から6日にかけて海から攻め、次いで海の中道を通って陸から攻撃する。激しい攻撃だったようだが、要塞を攻略するまでは至らなかった。しかし元軍も志賀島に封じ込められた形となった。

 そこで元軍は主力の戦闘部隊を志賀島に置いたまま、支援部隊を壱岐まで後退させることにする(通説では壱岐を捨てて、全軍が移動)。これは壱岐を策源地として機能させるためである。志賀島は小さいので、必要以上の兵と物資を置くスペースがなかったのである。しかし制海権が元軍にある限りは、壱岐を補給基地として機能させることができるのだ。

 元軍の意図を見抜いた武士団は、志賀島への補給源を断つべく壱岐に対して船団を出撃させる。これが先の記事でも紹介した、6月29日と7月2日の壱岐に対する攻撃である。この戦さで壱岐の東路軍はそれなりのダメージを負ったようだ。しかし、遂に江南軍が平戸・鷹島にまで到達したという報が入る。

 そこで東路軍は補給連絡のため、一部を平戸・鷹島にいる江南軍の下に遣わすことにする(通説では全軍が移動)。東路軍の一部が江南軍と合流したのが、7月27日のことである。東路軍と意思疎通を図った江南軍は、軍の再編成を進める。ここから東に進撃し、橋頭堡である志賀島をテコとして、博多湾に上陸を果たすのだ。だが、作戦行動に移る前、7月30日夜から翌閏7月1日にかけて、台風が襲来したのである。

 この台風により、江南艦隊は手ひどい被害を受ける。平戸よりも鷹島に停泊していた船がより酷いダメージを負っているようだが、これは船の造りというよりは、停泊場所によるもののようだ。ただ巷間言われているほどではなく、沈船は鷹島沖にて大型船が20隻、小型船を含めても50隻ほどであった。とはいえ、沈まずとも無傷で済んだ船はいなかっただろう。すっかり士気を喪失してしまった江南軍は、退却を検討し始める。

 制海権を維持するために志賀島沖、つまり博多湾付近に停泊していたであろう東路艦隊はどうであろうか。全ての船が沖に停泊していたとは思えず、補給基地である壱岐に停泊していたものもあるだろう。ダメージは負ったとはいえ、江南艦隊ほどの被害ではなかったようで、志賀島要塞も未だ健在なままだ。しかし博多にいて指揮を執っていた少弐経資の下に、江南艦隊の被害状況の一報が入る。「鷹島の元軍艦隊の被害は酷いもので、退却の兆しすら見える」という報告に接した武士団は、ここを先途とばかりに両艦隊に対して総攻撃を挑むことにするのだ。

 まず5日に博多湾海戦が発生。先に紹介した、竹崎らが船に乗って出撃している絵画は、この時のものである。その2日後、7日に鷹島沖海戦が発生する。こうして両艦隊に対して、手ひどい打撃を与えることに成功するのだ。通説では、両方とも鷹島沖で起きたことになっているが、そうではなく2つの海戦が別々の場所で発生したということになる。いずれにせよこれが決め手となって、元軍は全軍退却することになるのであった――

 如何であろうか?確かにこれまでの通説だと、元軍にしても武士団にしても、進撃が遅くやけに愚図愚図していたり、その割にあっけなく撤退したりなど、戦略的に不可解な動きが随所に見られる。そしてそれを説明する理由として、この時代の人たちの戦術や戦略はまだ洗練されていなかったからだ、とする論調すら見受けられるのだ。

 だが冷静に考えてみて、そんな訳はないのだ。服部氏の説だと、当時の人たちも合理的な思考を以て、リアルな戦さに臨んでいたことが分かるのである。(続く)

 

服部氏の力作。是非に手に取って読んでほしい。「伝えたい!」という熱意に溢れる文体であるが、「そういうところが客観的ではない」と感じる人もいるかもしれない。しかし、これが服部氏の持ち味なのだ。特に「東路軍は志賀島を放棄していなかった」というロジックには、感心させられた。本の後半は「蒙古襲来絵詞」の絵解きになるが、これがまた素晴らしく面白いのである。ただ幾つかの点――例えば「元の日本侵略の目的は硫黄であった」などに関しては、やや強引な論理展開では?と思った。しかしながら大筋において、ブログ主はこの本の主張は価値のあるものだと思うものである。