さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗で本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹介した、室町期に盛んであった臨済宗はというと、妙心寺派が最大でその数は約3000である。
鎌倉期から南北朝期にかけて、曹洞宗はまだ小さい教団でしかなかった。ひとつの独立した宗派というよりも、同じ禅宗ということで臨済宗に数多ある林下諸派――大覚寺派や妙心寺派と、同じようなものとして一括りに捉えられていたのである。この記事では、如何にして曹洞宗が室町期以降にその教線を伸ばし、規模を拡大していったか、そしてなにゆえ現代において寺院数がトップであるのか、その理由などを深堀りしてみたいと思う。
まず過去の記事で、道元亡き後の曹洞宗は、永平寺と大乗寺の2派に分かれてしまったことを述べた。
道元が開基した永平寺。道元亡き後のゴタゴタ「三大相論」については、こちらの記事を参照。
永平寺から分派した、大乗寺の2世に就任したのが、やり手の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)である。瑩山はその後、能登に新たに總持寺(そうじじ)を開き、自らがその1世となる。彼の時代に大乗寺と總持寺は発展するのであるが、瑩山が總持寺を託したのが、彼の弟子であった峨山韶磧(がざんしょうせき)である。總持寺2世に就任した峨山は、師と同じく相当のやり手であった上、91まで長生きして多くの門弟たちを育てたということで、總持寺は非常に栄えたのであった。

總持寺2世・峨山韶磧。人材育成に努め、五院・二十五哲の俊僧を輩出した。彼が育てた優れた弟子たちは全国に散り、各地に布教拠点となる曹洞宗寺院をつくりあげた。これらが基盤となり、後の曹洞宗の教線拡大につながるのである。峨山が師に似て非常に優れた僧であったのは間違いない。しかし彼が成功した一番の理由は、実のところその長寿にあったような気がする。これは何も宗教指導者に限った話ではないが、優れたリーダーにより成功した組織は、それが安定した長期政権であればあるほど栄える傾向がある。長生きした者が勝つのである――ただし近代以前に限る。特に世の中の移り変わりが早い現代では、どんなに優れた者でもトップにいる座が長いと社会の変化に対応できず、あっという間に置いていかれるからだ。しかし社会構造の変革がゆっくりであった時代には、いま流行りの「老害」という言葉を使う機会は少なかったのである・・とここまで書いて、秀吉の晩年は酷かったことを思い出した。まあ、あれはレアケースということで・・
なお大乗寺の方は、これも瑩山の高弟であった明峰素哲が2世住持となり、発展して一派を成した。室町初期には足利尊氏の祈願所となるが、その後、戦乱に巻きこまれ伽藍の多くが焼失してしまう。そしてこれを契機に勢いに陰りが出てしまうのである。戦国期には木新保に移転、江戸期には加賀藩家老・本多家の菩提寺となるが、かつての栄光を取り戻すことはできなかった。とはいえ由緒ある寺として、現在も存続している。
永平寺の方はどうなったかというと、これも過去の記事で述べたが、一時は無人寺になってしまうほど、さびれてしまう。永平寺第5世に就任した義雲が立て直しに成功し危うく廃寺を免れるが、規模としてはやはり小さいままであった。室町中期になると、總持寺の峨山派の流れを継ぐ禅僧たちが永平寺を立て直すべく入寺、これにより永平寺は息を吹き返すのであった。
峨山派の禅僧たちは「三代相論」のいざこざで、追い出されるような形で永平寺から出た、總持寺をルーツに持つ派閥である。しかしながら永平寺は道元が開基した由緒正しい寺であったから、彼らは改めて永平寺を根本道場と定めたのであった。1507年には後柏原天皇より「本朝曹洞第一道場」の勅額を下賜されている。これによって永平寺は名実ともに、總持寺と並んで曹洞宗の中心となす道場と認められ、今に至るのである。
このように曹洞宗の発展は、總持寺系の法脈によって維持されていることが分かる。室町期における曹洞宗の禅風もまた、總持寺系の禅僧たちの手によって形作られたわけであるが、その特徴を一言で表現するとするならば、「禅の民衆化」であるといえよう。これもまた過去の記事で述べたが、庶民向けの葬儀を発明し、それをきっかけに地方における教線を拡大していったのが、曹洞宗なのである。
この時期の曹洞宗の語録を見ると、葬儀の際の法話が圧倒的に多く、文集の大半を占めている、とのことである。しかもこの法話は極めて平易な内容で、同時期の五山において流行していた「中華趣味の高尚な文芸作品」のような法話とは、全く異質なものになっている。
要するに一般庶民向けに噛み砕いたものになっており、如何に曹洞宗が庶民の葬儀に力を入れていたか分かる内容になっているのだ。曹洞宗は、このように葬儀や祈祷などといった仏事を武器に、一般庶民層に食い込んでいったのである。
次に曹洞宗はどのような地域の布教に力を入れたかというと、畿内は臨済宗・五山派に押さえられていたから、地方での活動に力を入れざるを得なかった。主に北陸から東北にかけてと、肥前を中心とした九州西部、そして東海地方への布教に成功している。
しかし地方に活路を見出したのは臨済宗の林下諸派も同じことであって、そうなると互いに市場が被るわけである。地域によっては競合することになることもあったようだが、意外にも住み分けができていたようである。
武田氏の領国内における、寺院分布を基にした研究がある。それによると、武田家の直轄地とその周辺にある寺院は、臨済宗・妙心派などの林下が多く、土着性の強い武士が多い地域は曹洞宗が強い、という結果であった。
武田家は戦国大名――つまりは領国の支配者である。そうなると「国を治める王」が持つべき資格である、禅的教養や高い学問性・中央とのパイプなどが必要となってくる。そしてこうしたものを提供できた宗派は、京を本拠とした五山ないし、それと繋がりがあった林下を置いて他にはなかったのである。これに対するに、曹洞宗は民衆の教化に力を入れた。つまり進出する地域は同じでも、対象となる顧客層が違ったのである。
妙心寺派に代表される臨済宗の林下諸派もまた、葬儀や祈祷など庶民に近しい形での布教を行っていたが、庶民層がメインターゲットであった曹洞宗は、より思い切った手段で布教する方法を編み出している。次の記事では曹洞宗が行った、庶民向けのユニークな信者獲得イベントを紹介してみよう。(続く)