「専修念仏」や「他力」という概念を持ち込み、これまでの仏教に大変革をもたらした、偉大なる思想家・法然。彼の死後、長老であった信空が後継となったもののその後、浄土宗は数多くの派閥に分派してしまっている。
どんな宗派でも、開祖が亡くなった後は分派してしまうのは世の習いであり、臨済宗の例などでも見てきた通りなのだが、それにしても浄土宗はその傾向が強い。こうなってしまった理由は何故だろうか?
ブログ主が考えるに、初期の浄土宗は構造的な問題を抱えていたように思われる。それは「法脈というものを重視していなかった」という問題である。
いきなりだが、日本の仏教を料理に例えてみよう。まず仏教というものはインドで発生したものである。かの地で生まれた数多くの考え方は、まず中国へと渡る。そこで中華風に味付け直されたものが日本に渡ってくる。そこから日本に入ってきて、最終的に和風の味付けとなって出来上がったものが、日本の仏教なのである。
こうした流れで日本に伝わった仏教であるから、はっきり言って本場の仏教とは別物となっている。ナンと一緒に食べる本格的なインドカレーと、洋食というジャンルに区別されている現代日本のカツカレーとでは、もはや別の料理となっているのと同じようなものだ。
そして元と大幅に変わってしまったことを(無意識に)自覚しているからこそ、日本の仏教は「相承血脈」という考え方を大事にするのである。「元の教えが伝えようとしていた真実は、最終的に我々が解釈したものこそが正しいのだ!」というのが、彼らのアイデンティティの核であるから、それをきちんと説明するためには、インド・中国・日本と脈々と受け継がれている思想的変遷、つまりは系譜をはっきりさせなければならないのである。これがないということは宗派として致命的で、正統として認められないのであった。
これがなくて苦労したのが、日本オリジナル禅・達磨宗を開宗した大日房能忍である。彼はこれまで日本に散逸した形で伝っていた禅の教えを独学でまとめ、一派を興したのである。詳細はリンク先を参照。
そういう意味では、法然は大日房能忍以上に不利な立場にあった。師がいなかったとはいえ、能忍は既にある禅宗という教えを独学で解釈して一派を立てたわけだから、大陸に規範となるべき教えは存在するのだ。そこで彼は信頼できる弟子を中国に遣わし、かの地の権威ある禅僧から後付けでお墨付きをもらうことで、他宗からの非難を回避しようとしたのである(そしてそれはある程度、成功したのである)。
しかし法然がたどり着いた「浄土門」の考え方は、彼が書籍と思索によって独自にたどり着いた、ほぼ100%オリジナルな国産教義なのである。唐の僧・善導が撰述した「観無量寿経疏」に対して、彼のような革命的な解釈をした僧はこれまで世界に一人もいなかったから、教えを乞うべき相手もいないのである。
事実、彼は「浄土宗には相承血脈の法もなければ、直接、面授によって師の口から法を聞いたこともない」という旨の言葉を残している。これは他宗からしたらとんでもない考え方で、法然の一派は「寓宗」或いは「附庸宗」などという蔑称で呼ばれ、「天台宗に寄生した異端」と見なされていたのである。
そんなわけで浄土宗は、他宗が行っているような方法では自宗の正統性を証明できなかったのである。ただ法然自身も、他宗からのこうした攻撃には辟易としていたようで、のち発言を修正し「浄土五祖」という系統を整理して、インドから中国に至る「相承血脈」を世に示してはいる。だが他宗からは「法然は著作を通して善導の意を知ることができたと主張しているが、結局は誰とも会ってはおらず、直接指導を受けていないということじゃないか」と言われてしまっているのだ。
このように浄土宗は、法脈という概念が弱かった。ゆえに法然の死後、 後継問題にも大きな影響を及ぼし、弟子たちは思い思いに一派をたてることになってしまうのだ。分派を促す因子がこのように浄土宗に内包されていたがために、群雄割拠な状況が生まれてしまったわけである。
法然の死後、乱立した派閥には、西山義・鎮西義・多念義・一念義・九品寺・紫野・白川・嵯峨、そしてのち浄土真宗として独立した宗派となる、親鸞の真宗義などがある。時間の経過と共にある派閥は衰退して消え去り、また吸収合併が繰り返された結果、鎌倉後期には残っていた浄土宗の派閥は4つになっていた。京・三鈷寺を本寺とする西山派、同じく京・九品寺を本寺とする九品寺派、こちらも京・長楽寺を本寺とする多念義派、そして筑後国・善導寺を本寺とする鎮西派である。これらを合わせて浄土四宗と呼ぶ。
これら四宗はもちろん、それぞれそれなりに大きな規模ではあった。それでも4つに分派してしまった分、浄土宗全体としての勢力は相対的に弱体化し、他の鎌倉仏教の台頭を招く一因となってしまっている。せっかくの先行者利益を浪費してしまったといえるかもしれない。
そして四宗はこの後また、懲りずに分裂を繰り返すのだ。白旗派・名越派・藤田派の関東三派、一条派・三条派・木幡派の京都三派、更には一向派などなど、室町期には再び多数の派閥が乱立することになってしまう。
このうち鎮西派の流れを継ぐ白旗派・聖冏(しょうげい)は、先に挙げた構造的弱点を克服するため、宗義の体系を整理し、伝法を明示するなどの努力も行っている。併せて1395年には「白旗式条」を制定し、教団の統制を強化している。こうした努力はある程度成功したようで、1443年には白旗派は「浄土一宗のなかで第一の地位」という綸旨を後花園天皇より賜っているし、その7年後には法然の御廟である知恩院を教団の手中におさめている。そして江戸期になると白旗派の知恩院は幕藩体制のもと、浄土宗の大本山として確固たる地位を占めることになるのだ。

だがこの白旗派も、浄土真宗の発展には及ばない。最終的に法然の直弟子たちの中で最も勢力を伸ばしたのは、親鸞の浄土真宗であるのは万人の認めるところであろう。浄土真宗はなぜこんなに成功したのだろうか?数多くいた直弟子たちの中でも、親鸞のカリスマ性が特別に優れていたというエピソードが残っているわけでもない。事実、法然の弟子たちの中での序列としては、親鸞は相当低い位置にいたことが分かっているし、教義的にもそう大きな違いはないのだ。
浄土真宗もまた浄土宗と同じく、親鸞の死後に多数の派閥に分派してしまっている。浄土宗の構造的問題を、浄土真宗もまた受け継いでしまったと見ることができる。室町後期において浄土真宗を代表する派閥は、まずは京・渋川にあった仏光寺に本拠を置いた「仏光寺派」である。その最盛期には3000の末寺を持っていた。
北陸においては、名僧・如道が専照寺・誠照寺・證誠寺の三寺を中心に教線を広げ、俗に「三門徒派」と呼ばれたこれらは、主に越前にて強い勢力を形成していた。また東海・北陸においても教線を伸ばしつつあった。
北陸から中部にかけて教線を伸ばしていたのが、「高田派」である。高田派第10世に就任した真慧はかなりのやり手で、彼の時代に高田派は大きく勢力を伸ばし、この時期には仏光寺派に次ぐ信者数を誇っていた。
前記事で紹介した通り、現在の日本において単体では曹洞宗の寺の数が1位だが、諸派を合わせると浄土真宗の寺院数が日本一の数を誇っている。しかしながらそこに最大派閥として上位にあげられるのは、いま紹介した仏光寺派でも三門徒派でも高田派でもない。この時点ではまだ、いち弱小寺院でしかなかった本願寺系の派閥なのである。そしてこの本願寺を怒涛の勢いで、たった一代で強大にさせた男こそ、言わずと知れた蓮如なのであった。
流れ的には、このままカリスマ・蓮如が如何にして本願寺を強大化させたのか?を紹介していきたいところなのだが――蓮如については独立したシリーズとして、まとめて紹介したほうかよさそうなので、彼の話題はひとまず置いて、先にまだ言及していない残りの鎌倉仏教、時衆と日蓮宗が室町期にどう発展していったかを紹介していきたい。(続く)