根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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室町期の仏教について~その⑨ 室町期の時衆 念仏札を配る権利「賦算権」とは

 日本には、奈良期頃から遊行僧というものがいた。いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちである。仏僧の格好はしてはいたが、きちんとした学識があったかどうかは怪しいものである。民間呪術の使い手でもあった彼らは、地方を回りながら祈祷・まじないを行う存在であった。

 平安期になり浄土思想の流行によって、彼ら聖の多くは「念仏聖」へとジョブチェンジする。寺院に定住せず、「南無阿弥陀仏」を唱えながら遍歴修行する半僧半俗の存在である。代表的な聖として、平安中期「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいるが、彼は傑出した存在であって、その殆どはもっと怪しげな存在であっただろう。

 さて鎌倉期に登場した時衆であるが、踊りながら各地を回った彼らもまた、一般的には聖の分類に入るといえるだろう。一遍が「捨て聖」を自称していたのは、過去の記事でも見た通りである。

 1278年に一遍が死んだ後、彼が率いた集団は一旦解散する。それを組織化しなおしたのが、一遍の遊行にも同行していた高弟・真教である。彼は一遍より2歳年上の元浄土僧で、1日6回行う礼賛の時には念仏の調声役(音頭取り)を務めるなど、師から最も信頼されていた弟子であった。一遍が死んだ際に、一度は彼の後を追おうとしたが思いとどまり、時衆を再結成し教団を率いることにしたのである。

 もしこの真教が教団を引き継がなかったら、時衆という一大宗派は生まれていなかっただろう、と言われている。一遍の特異な念仏信仰は一代で終わってしまい、歴史に残ったとしても異端として記録されていただろう。泡のように生まれては消える、このような小さな宗教集団は数多あったに違いないのだ。

 さて真教は一遍のように「聖」のスタイルを受け継ぎ、16年間も遊行を続けた。真教もまた師と同じように行く先々で踊っていたと思われるが、実は時衆の教義的には「踊る」という行為自体に、そこまで深い意味はないのである。それ以上に重要な行為があって、それは「念仏札を配る」行為なのである。一遍にしても真教にしても、遊行先で常に念仏札を配っている。

 (ブログ主の解釈だと)この念仏札を配る行為は、「あなたは既に成仏していますよ」ということを気づかせるための行為であり、踊るという行為はその喜びを表現するための行為なのであるが、受け取る民衆の方はそう考えていなかったようだ。

 彼らはもっと分かりやすい形、つまり「偉い坊様から、ありがたい念仏札を貰えば成仏できる」と受け止めたのであった。そうなると配る方も受け取る側の要望に合わせざるを得ないから、念仏札の性格が変質していくことになる。つまり、念仏札自体に価値が出てきてしまったのである。ちなみにこの念仏札を配るのは上人から認められた者でなければダメで、この念仏札を配る行為を「腑算」、配る権利を「賦算権」と呼ぶ。

 

左は「一遍聖絵」より、肩車をされながら念仏札を配る一遍。右は、時宗が今も賦算している念仏札。実際に一遍が配っていたものと、そう大きく変わっていないと思われる。札には「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記してあるが、ここでいう「六十万人」は往生できる人数を指すのではなく、「六」は「南無阿弥陀仏」の六字名号を、「十」は阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という長い時間を、「万」は阿弥陀如来の「万徳」を、「人」は一切衆生が往生し安楽世界の人となることを意味する、とのことである。なお当時から手書きではなく、ハンコのように紙に押して刷っていた。無量光寺には、念仏札の形木が残っているそうである。

 

 真教は遊行を続けながらも、教団の組織化を図っている。一遍はあくまでも「捨て聖」であったから、初期の時衆集団の人間関係は同志的なものであったのだが、それを縦の上下関係に変えている。また18条に渡る「時衆制誡」を定めている。これは時衆が守るべき戒律を示したもので、なかなかに厳しいものであった。こうして時衆は、念仏宗の中ではかなり厳格な戒律を守る教団として生まれ変わったのである。真教はこうすることによって、教団の風紀を引き締めたのであった。

 過去の記事で少し触れたように、エンタメ的性格の強い踊り念仏は、興行という一面も持っていた。そういう意味では時衆僧は、欲望渦巻く世界と隣り合わせで修業していたといってもいい。一遍は徹底して無欲の人であったから問題なかったのだが、こうした興行を続けながら「全てを捨てる」という生き方は、凡人にはなかなかできるものではないだろう。事実、戦国期には京にあった幾つかの時衆の寺は、歓楽街のごとき有様に堕してしまうのである。真教によるこの引き締めがなかったら、もっと早くにそうなってしまっていたかもしれない。

 また真教は遊行先で、道場と呼ばれる寺院を多く建立した。1304年には遊行上人の座を智得に譲り、自らは相模国に草庵を建立、ここに独住した。のちの当麻無量光寺である。旅に生き旅に死んだ一遍とは異なり、(引退したとはいえ)後継ぎの真教が定住したことにより、ここに初めて時衆の本山的性格を持つ寺院が誕生したのである。

 各地に道場を開き(この頃には100ヶ所にも達していた)全国的に教線が広がるとなると、真教ひとりでは念仏札を配ることは不可能である。そこで彼は信頼できる弟子の何人かに、念仏札を配る権利――賦算権を与えた。智得・呑海・真観ら、3人の高弟である。

 1319年に真教が亡くなったのち、智得が2世遊行上人となり(遊行上人という号は真教が初めて名乗ったので、真教から1世と数える)、相模の当麻道場を継いでそこで賦算を行った。呑海は京に七条道場を開いたが、そこに独住することなく、中国地方など各地を遊行して賦算を行っている。真観は京に四条道場を開き、洛中限定という条件付きで賦算権を持っていた。

 しかし翌20年、当麻道場にいた智得が没してしまう。筋目から言うと、次の遊行上人になるのは呑海なのである。しかし彼は各地で精力的に遊行を続けており、当麻道場に帰ってくる気配がないのだ。そうなると、信者が遠くから遥々本山である当麻無量光寺に参詣したにも関わらず、そこに賦算権を持つ上人がいないという事態が発生してしまう。信者が一番欲しいのは極楽行のチケットである念仏札なのに、本山に行ってもそれが貰えないという由々しき事態が5年近くも続いてしまうのだ。

 当麻寺と呑海は文をやり取りするなど、連絡は取り続けていたようだが、それでも呑海は帰ってこない。信者の強い要望と北条得宗家からの催促もあり、もう我慢できないというわけで、智得の一番弟子・真光が、時衆教団における最高位である「知識」の座を継ぐことになったのだ――呑海の了承なしに。

 また真光は、その旨を「よろしくニキ~」とばかりに書状で伝えてきたから、呑海は激怒したのであった。その後、長い遊行を終えた呑海が当麻道場に帰ってきたのは1325年のことである。しかしそこに彼の居場所はなかった。そこで呑海は藤沢に新たに清浄光寺を建て、そこを藤沢道場としたのであった。

 こうして時衆は同じ相模にある、当麻道場・藤沢道場の2大派閥に分割されてしまったのである。とはいえ、僧たちが互いに行き来するなどの交流はあったようだ。なお時代が下るにつれ、四条道場を本寺とする四条派や、六条派、一向派(一向宗ではない)、国阿派など、他にも数多くの派閥が生まれている。

 真教の直弟子であった真観が開いた四条派のように、元から賦算権を持つ(洛中限定だが)派閥もあった。だが真教から許しを得ずに、独自に賦算をしていた派閥もある。国阿派などがそうなのであるが、実のところこれらは元から一遍の教団とは関係なく、聖の集団として独自に活動していたのだが、後から時衆と見なされてしまった集団なのである。

 賦算という行為自体は昔から聖たちが行っていたことであり、時衆の専売特許というわけではなかったから、彼らにしてみれば独自に上人をたてて念仏札を配るのは、昔からやっている当たり前のことなのである。だが時衆が有名になってしまったので、人々からは同じものとして見なされてしまったという次第である。(※12月22日修正:一向派を興した一向上人であるが、彼は賦算を行っていなかったようである。一向派が後に賦算を行うようになったかは不明)

 ただこうした他の派閥の規模はそこまで大きなものではなく、正統性という面においては、なんといっても呑海の藤沢道場が圧倒的に優勢であった。いずれにせよ室町時代中期には、時衆と見なされた全国の道場数は2000にも達している。

 庶民からは「生き仏」として遇されていた遊行上人は、時衆僧らを引き連れて各地の道場を遊行する、一遍以来の伝統を続けていた。しかし道中は危険だし、関所はやたらたくさんあるしで、遊行するということはなかなかに労力がかかるものなのである。

 そこで通行を円滑にするため、必然的に地域の権力者に近づくことになる。すると何らかの保護や利権を獲得することになるから、この頃より遊行上人の権威化・特権化が始まることになるのだ。(続く)