根来戦記の世界

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室町期の仏教について~その⑪ 「時衆過去帳」から分かる、時衆の世俗化と衰退

 時衆の戒が厳しかったことは先の記事で述べた。時衆の最高責任者「知識」は「阿弥陀仏の代官」という位置づけであったから、信者は絶対服従するのがルールで、これを「帰命戒」と称した。彼に対する服従の代償として、帰依した者は極楽往生が確約されるのであるが、服従が絶対的でなかったことが判明した場合には、知識から容赦なく罰則を受けることになる。

 知識は犯した罪の多寡に応じて、改心させるための仕置きである「罰礼」などを下したようだが、あまりに罪が重いようだと教団から追放処分となった。追放処分を許してもらうため、知識の前で必死になって五体投地の礼を繰り返した者がいたことが記録に残っている。

 時衆教団には、代々受け継いできた栄えある「時衆過去帳」というものがある。時衆の信者が死亡、つまり往生した際には台帳に名前が記されるので、これを見れば誰が時衆に帰依したか、そしていつ死んだかが分かるのだ。

 開祖・一遍が在世中の1279年6月に運用が開始されて以来、代々の遊行上人がこれを引き継いできた。ただひたすらに信者の名前と没年が記されている、この過去帳に名前が載るということは、間違いなく往生したという証拠になるわけである。しかし追放処分を受けてしまうと、死後にこの台帳に名が記されることはないから、追放処分を受けた人は必死になって許しを請うたわけである。

 だがこの「時衆過去帳」、たまに法名の上に「不」という文字が書き入れられていることがある。これは何を意味するかというと、死後に破門処分になったということなのである。法名の上に「不」と書かれてしまうというは、不往生処分、つまり往生していたはずなのだが、そうではなく地獄行きが確定したということになるのだ。

 ポイントは死んだ後に悪行が露見した場合でも処分は有効である、ということだろう。「時衆過去帳」は死んだ時点で名が記載される性格のものであるから、「不」の文字が追加されているということは、死後しばらくしてから不往生処分を食らったことを意味するわけである。

 不往生処分の最も古い例を挙げると、尼僧の第一号が1281年?月に死去した西一房、僧の第一号が83年3月に死去した終阿弥陀仏であり、それぞれの名の上に「不」の文字が書き加えられているのが確認できる。まだ一遍存命時に、こうした処分が下されているのが興味深い。時衆の厳しい戒律を示す一例といえる。

 

「時衆過去帳」より、赤丸の囲った部分が追記された「不」の文字。残念ながら、理由までは記載されていないので、何が原因で彼が処分を受けたのかは分からない。元々は往生できていたのだが、「不」の字が追記された時点で地獄行きになるというよりは、悪行が判明したということは、実は往生できていなかったということなので台帳を修正した、というロジックであろうと思われる。

 

 しかしこの「不」追記による不往生処分であるが、南北朝期以降からは記録に現れなくなる。1394年2月3日に死去した能仏房という尼僧の法名に、「不」の文字が追加されているのが最後の例で、これ以降には見られなくなるのだ。同時に生前の追放処分もなくなっていったようだ。

 代わりにこの頃から、法名の没年の時系列がバラバラに記載され始める。この前往生したばかりの僧の法名の横に、四半世紀前くらい前に没した人物の法名を載せたりするのである。

 これはどういうことかというと、既に死亡している人物を後から時衆過去帳に載せ始めたので、没年を時系列順に並ばせることができなくなったからなのである。時衆は上級武士や公家たちから対価(喜捨)を貰うことによって、彼らの父祖の法名過去帳に記載する=往生させる、という先祖供養の新サービスを始めたのであった。

 これと並行して始まったもうひとつの新サービスが、死んだ時点ではなく、まだ生きているうちに名が記載されるというものである。仕組みとしては遊行先で結縁した時点で、台帳に名を載せることができるようになるのだ。その場合、まだ死んでいないから没年が記載されず、その代わり裏書にその人の身分が詳しく書かれることになる。この「身分が書かれる」ところに商業的な匂いがプンプンする。このサービスを利用するには、それなりの銭がかかったということであろう。

 時衆の権威である「時衆過去帳」が、遂にはこのような用途で使用されてしまうわけで、初期の時衆の特徴であった厳しい戒律の運用は、もはや見る影もなくなってしまうのだ。ただこれはどの宗派でも共通する現象なのだが、初期の純粋性が失われて世俗化したということは、同時に教団が巨大化していったということを意味するのである。

 史料として「時衆過去帳」を見てみた場合、まだ生きている人の法名と身分が記載されるようになったことで、かなり高位の武士――高師直高師泰の兄弟など――が帰依していたのみならず、後小松天皇なども帰依していたことが分かるのだ。

 このように世俗化・巨大化した時衆教団であったが、しかし室町期が終わりを迎えると繁栄に陰りが見られるようになる。「時衆過去帳」への法名記入数が「応仁の乱」以降、急激に減ってしまっているのである。

 これは何故かというと、戦乱が全国規模に波及してしまったので、各地を回る遊行が思うようにならなくなってしまったからなのである。全国的な規模で行う遊行こそが時衆のウリであり、信者と勧進を獲得する最大のイベントだったわけだから、これの規模が縮小するというのは営業的には大打撃なのであった。

 上人が各地の道場を訪れることも稀になってしまったので、各道場は食うための代替手段として、地域の有力な大名や国衆と寺檀の関係を結ぶようになる。一族の武運長久と繁栄、そして先祖の菩提を弔うことになった時衆道場は、次第にその一族の氏寺と化していき、寺の住職も一族出身者に限られるようになる。

 こうして各地の道場は知識の統制下から外れるようになるのだ。かつての規律の厳しさが失われてしまった結果、京の一部の道場に至っては境内に見世物小屋が立ち並び、遊女まで置くなど、繁華街化する始末であった。

 

戦国期に歓楽街と化していた、四条道場の様子はこちらの記事を参照。新宿歌舞伎町のような有様と化していたようだ。道を挟んだ反対側には、河原者たちの村・天部があった。

 

 さて歴代の遊行上人は、弟子に遊行上人の座を譲った後は藤沢道場に住み、「藤沢上人」となるのが習いであった。遊行上人は遊行し続け、住まいが定まらないのが建前であったから、OBである藤沢上人が住む藤沢道場こそが、時衆の本山と見なされていたのである。室町末期には門前町も形成され、280~290戸の家と6軒の宿、更には運送を司る伝馬屋敷まであった、とある。

 しかしこの藤沢道場・清浄光寺が焼失してしまうのである。1512年、凄まじい勢いで勢力を伸ばしつつあった伊勢新九郎こと北条早雲による、相模侵攻が開始される。どうも藤沢道場は相模の支配者であった三浦道寸寄りの道場であったらしく、道場は両者の戦いに巻き込まれ、13年5月に伽藍のことごとくが焼失してしまうのだ。当時の藤沢上人・知蓮と、本尊の阿弥陀仏駿河の長善寺に逃れたが、その後、藤沢道場は長い間再建されることはなかったのである。

 焼失以降の藤沢上人たちは、藤沢に住んでいないにも関わらず藤沢上人を名乗ることになり、また何処であろうが彼の住むところが藤沢道場と呼ばれるようになる。前記事で紹介した名僧・不外も、遊行上人を経て第24代藤沢上人に就任しているのだが、彼が独住地として定めたのは豊後の西教寺であったから、彼の在世中はここが藤沢道場と呼ばれたのだろう。当の不外は「前世からの因縁であろうか、このような時代に藤沢上人となっても有名無実な存在でしかない」という言葉を残している。

 焼失から45年後、1558年には第29代藤沢上人・躰光(たいこう)が北条氏に掛け合い「寺の跡地を寄進される」という形で、場所だけは何とか確保したのだが、先立つものがなく、寺の再建はされないままであった。本山を再興するための寄進が集まらないというところに、時衆の衰退ぶりが表れている。

 清浄光寺がようやく再建なったのは、焼失から94年後の1604年で、江戸期に入ってからのことである。時衆は戦国期に大きく勢力を削がれ、かつての勢いを取り戻すことは遂にはできなかったのであった。(続く)