法華宗の開祖・日蓮は、浄土宗を開いた法然のことを大変に憎んでいた。法然の教えは国を惑わす邪宗であって「念仏を唱えると無間地獄に落ちる」とまで言い切っている。しかしながら、この2人には共通点があるのだ。
それは「両人とも師から直接、法灯を授かっていない」ということである。法然が「観無量寿経疏」を独自に解釈して浄土門を開いたように、日蓮もまた「法華経」を中心とする天台教学を独自解釈して法華宗を開いている。
オリジナリティという点においては、鎌倉仏教の先陣を切った法然と、ほぼ同レベルにあるといえる。法然と同じように師のいなかった日蓮は、自らの伝燈を天台宗を日本に持ち込んだ最澄にまで遡らせている。
つまり法華宗は、法然の浄土宗と同じ構造的な問題を抱えていたわけで、日蓮の死後、法華宗は浄土宗と同じように分裂してしまうのである。日蓮には六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)と呼ばれる6人の高弟たちがいたが、すぐにそれぞれが一派を立てることになるのであった。派閥間の教義的な違いは、傍目から見てもそう大きいものではなく(それぞれに言わせると大違いなのだろうが)、はっきり言って些末なものである。
各宗派とも大なり小なり日蓮の方針を受け継いで、それぞれ強烈な方法で布教したから、既存の仏教勢力からの反発も強かった。次々と降りかかる苦難(自業自得ではあるのだが)をものともせず――いや、むしろそうした姿勢が魅せる信仰の強さ故に、法華宗は徐々に広がっていった。特に京において勢力を伸長させることに成功しているが、これはまず朝廷に受け入れられたことが大きい。
京における本格的な布教をはじめたのは、日蓮六老僧のひとり日朗の実弟・日像という僧である。彼は数度の法難を被りながらも、1321年には上京今小路に妙顕寺を建立することに成功しているが、この地は朝廷が日像に寄進した地であった。この時の天皇は後醍醐天皇であり、幕府に対抗するために、法華宗勢力を味方につけようとしたことが背景にあったようだ。
その甲斐あって?妙顕寺は、「建武の新政」後には後醍醐天皇により「勅願寺」の綸旨を下されている。次の足利幕府も宗教的には前政権の方向性を引き継いだから、妙願寺は将軍の御祈祷所に定められた。こうして市民権を得た法華宗は、京において地盤を確立することに成功するのである。
日像の後を継いだのは、公家出身の大覚である。彼は近衛家の一族であったらしく、その出自からくる人脈を生かして、朝廷や幕府とより密接な関係を築くことに成功する。また彼は朝廷から依頼され、たびたび祈祷を行ったが、かなり運がよかった…違った、法力があったようで、干ばつの際の降雨の祈祷に成功し、大僧正の位を下賜され名を高めている。
しかし何といっても京における法華宗を支えたのは、この頃大きな力をつけ始めた商工業者、特に経済力を持ち始めた新興商人たちであった。
日像の最初の檀越は、下京五条坊門に店を構える「柳酒屋」である。拙著1巻にも名前だけ登場するこの柳酒屋の名の由来は,店の前に大きな柳の木があったからとも、柳の樽を使用したからだともいわれており、美酒を販売する大店として知られていた。しかしこの柳酒屋はそんじょそこらの酒屋さんではなく、同時に土倉(銭貸し)を営業する有徳人(大富豪)としても有名であった。
応永年間の「酒屋名簿」には「毎月、公方に60貫の美酒を献上している」と記載されている。つまりこの店だけで年間に720貫もの酒屋役を払っているわけで、幕府が同業者全体に賦課する酒屋土倉役の10パーセント以上を1軒で負担していたとみられている。過去の記事でも紹介したが、このころ五山が幕府に納める「公文官銭」が年間1000貫文であったことを考えると、柳酒屋の資本が凄まじい規模であったことが想像できる。
柳酒屋は妙顕寺を開基する際には日像に莫大な援助を行い、開基檀越としての大役を果たしている。またこれに留まらず、立本寺や妙蓮寺など他の法華宗寺院の開基檀越にもなっている。
妙蓮寺に至っては、柳酒屋の敷地内に置かれた法華堂をそのまま寺に発展させたという経緯があることから、柳酒屋の「柳」の字を分解した「卯木山(うぼくざん)」をその山号としているほどであった。
この柳酒屋をはじめとして、京の商人たちによる法華宗への帰依と援助は、盛んに行われるようになる。洛中において次々に大寺院が建立されていくのだ。15世紀後半には下京を中心に21か所の大寺院が立ち並ぶことになる。
また人の集まりやすい街角などには「弘通所(ぐづうしょ)」が設置され、町行く人々を対象に布教活動が行われた。当時の五山を統べる臨済僧の季瓊真蘂(きけいしんずい)は、「蔭涼軒日録」に悔しさをこめて「法華宗一門建立の盛り」と記しているほどである。
季瓊真蘂が嘆きつつ法華宗の興隆を記したその翌年の67年、「応仁の乱」が発生する。11年続いたこの戦乱は、京の町を焼き尽くす。1480年の正月、疎開先からようやく帰洛なった中御門宣胤(なかみかどのぶたか)は、他の公卿たちと連れ立って東山を歩いてみたが、かつては伽藍が立ち並んでいた街並みが「一乱の始め、悉く荒野」となった有様を見て、「言語道断」と記している。
先の記事で紹介したように臨済宗や時衆など、「応仁の乱」を契機に衰退してしまった宗派は多い。しかし新興商人を檀越とした法華宗は、京が焼けてもものともしないのである。焼け跡から真っ先に立ち上がったのは新興商人たちであり、彼らを檀越とする法華宗の寺院は次々と盛大な造営を行い、多くの寺院の復興が成ったのである。
洛中の他宗派寺院の造成がなかなか進まない中、早くも翌81年、中御門宣胤は復興なった妙蓮寺に立ち寄って「当時法華宗の繁盛は耳目を驚かすもの也」と記している。
「応仁の乱」が他宗の没落の契機となったのに反して、京における法華宗はその勢力を更に伸ばしたのであった。(続く)

天文初年・1532年における「洛中法華二十一カ本山」の大まかな位置を、現在のGoogle mapに載せたもの。大きさ・場所共にそこまで正確なものではなく、あくまでイメージである。また21寺のうち、妙伝寺・学養寺・弘経寺・大妙寺などは所在不明なので、上記の地図には反映されていない。いずれも洛中に位置し、中でも下京の商工業地区に集中していることが分かる。特に地図中に寺名を記した妙顕寺・本圀寺・妙覚寺・頂妙寺・妙蓮寺の寺域は広大で、境内には町屋もあったと推測されている。