根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その① プロローグ・石黒氏と惣海寺を滅ぼした、越中砺波一向一揆

 1474年、蓮如吉崎御坊を去り、二度と北陸には足を向けなかった。前シリーズでは蓮如の動向をメインに紹介していたため、その後の北陸がどうなったかを紹介していなかった。

 そこでこのシリーズでは、北陸の門徒たちがその後どうなったか、そして最終的に如何にして加賀の一向一揆が成功して、「百姓ノ持チタル国」が成立したか?を追ってみることにしたい。一部内容が過去の記事と重複すると思うが、ご容赦を。

 シリーズ第一弾であるこの記事では、プロローグとして加賀ではなくその隣国、越中にて1481年に発生した「越中砺波一向一揆」を取り上げてみよう。

 さて1474年に本願寺門徒の力を借りた富樫政親は、弟の幸千代を駆逐することに成功する。新たに加賀守護となった政親だが、加賀では本願寺門徒の勢力が拡大し、年貢の未進が相次いでしまう。

 政親は門徒らを強く警戒するようになり、遂には一部の本願寺急進派が蜂起する「湯桶一揆」が発生する。だがこの一揆は政親に破れてしまう。一揆勢はこの後、政親との和平を試みるも、吉崎御坊の主戦派であった蓮崇に謀られ、もう一度蜂起するも再び鎮圧されてしまう。ここまでは前シリーズで紹介した通り。

 破れた一揆勢は、東の隣国・越中へと逃れる。その地にある本願寺の有力地方寺院・瑞泉寺に亡命するような形で寄宿していたのだ。これに危機感を募らせていたのが、そこからほど近い地にある福光城を居城とし、砺波郡を支配していた国人・石黒光義である。彼にしてみれば、一揆勢は文字通り「招かざる客」であり、領内の不穏分子たちを誘因する存在であった。事実、年貢未進の動きが始まっていたようだ。

 また一揆勢はここ瑞泉寺を策源地として、隙あらば元の地に戻ろうとする動きも見せていたものと思われる。南ベトナムに対して北ベトナムから越境攻撃してくるベトコンのようなもので、冨樫氏にしてみれば、撃退してもすぐに隣国に逃げ帰ってしまう一揆勢を何とかしたいと思っていたようだ。しかし隣国に侵攻するわけにもいかない。

 そこで政親は石黒氏に対し「これら不穏分子を一掃して欲しい」という旨の依頼を行うのである。両者は同族であったとも伝えられている。また何かしらの援助もあったのかもしれない。こうした事情もあって、石黒光義は瑞泉寺を打倒する決心をしたのである。

 一連のこの騒動に関しては、後世に成立した「闘諍記」という軍記物にしか記述がない。一次史料が存在しないので、どこまで本当なのかは分からないが、同書には「石黒光義が『ここ数年、一向宗がはびこり国主に対して、わがままな振る舞いがはびこっている。瑞泉寺へ加賀から逃げてきた坊主たちが、加賀のように一揆をおこしてしまうかもしれない。先手を打って瑞泉寺を攻撃し、門徒どもを捕縛すべきである』と述べた」とある。

 石黒氏のこの動きに呼応したのが、天台宗・医王山惣海寺の衆徒らである。医王山惣海寺は、奈良期の僧・泰澄(たいちょう)が開基したと寺伝にある、地元の武士たちと強い繋がりのある寺であった。門徒らの惣海寺領に対する年貢未進も始まっていたのではないだろうか。惣海寺からは300の兵が合流、併せて1600の兵が福光城に集結するのである。

 本願寺門徒らの情報ネットワークは、こうした動きをいち早く察知する。そもそも瑞泉寺は、本願寺第5世・綽如の代に建立された由緒ある寺である。建前としては蓮如の次男である蓮乗が住持であったが、蓮乗は加賀にある本泉寺の住持をも兼ねていたため、瑞泉寺には在住していなかった(またこの時期、病に伏せっていたようだ)。

 当時、瑞泉寺の実権を握っていたのは蓮欽という僧である。彼は蓮如をクーデターにて門主に就任させた功のある、あの本泉寺如乗の妻であり男勝りの女傑であった、勝如尼の一族である。流石の蓮如も、大恩ある叔父の一族を無下にはできなかったようで、彼女の一族は北陸本願寺において強い勢力を有していた。

 抜け目のない蓮如は、蓮欽にも11女・了如尼を嫁がせていたものの、この時期の瑞泉寺は未だ本願寺の中央集権体制に組み入れられておらず、ローカル色の極めて強い寺院であったのである。いずれにせよ、瑞泉寺の呼びかけに応じた門徒の数は総勢5000にも及んだ、とある。

 1481年2月18日、進撃してきた石黒・惣海寺勢1600に対し、瑞泉寺勢5000は山田川の田屋川原に陣を構える形で迎え撃った。予想よりも数の多い瑞泉寺勢に対し、石黒勢は驚いただろう。しかし今更ここで引くわけにはいかないのだ。覚悟を決めて相対することになる。

 

瑞泉寺に集まった軍は、瑞泉寺周辺から2000余、山田谷・般若野郷から1500余、射木郷から1000余、五箇山から300余の、総勢5000であった。彼らの武装は「竹鑓、クマデ、棒、鎌」であったとあり、如何にも百姓一揆というイメージであるが、どうであろうか。個人的には石黒氏から離反した中小の在郷武士たちがその主力であり、武装にはそれほど差はなかったような気がする。なお瑞泉寺は戦さに先立ち、一揆勢不利の際には五箇山に潜伏し、ゲリラ戦を挑むつもりだったようだ。

 

 しかしここで光義は、本願寺の恐ろしさを思い知ることになる。西に位置する湯桶谷と土山坊から、併せて2000人余の軍勢が蜂起、それぞれ医王山と福光城に不意打ちの形で襲い掛かったのだ。双方ともに軍勢は出払って、もぬけの空であったから、火をかけられてしまい、あっという間に炎上してしまったのである。

 この時点で、惣海寺の本堂はともかく福光城の本丸は陥落していなかったようだが、寺と城下が炎上した際にあがった煙は戦場から丸見えであったから、石黒・惣海寺勢は、戦意を喪失してしまったのである。

 陣はあっという間に崩れ、追撃を受けた連合軍は壊滅。石黒光義以下主従16名は安居寺まで逃げるもそこで自害、福光石黒氏は滅亡してしまったのである。

 また医王山惣海寺も堂宇48坊ことごとく焼かれ、その歴史も断絶してしまい、今では本堂がどこにあったかすら、不明のままである。

 

土山御坊と湯桶谷で蜂起した門徒勢が、後方から襲い掛かる。医王山と福光城下は炎上し、腹背に敵を受けた連合軍の陣は壊滅する。土山御坊は瑞泉寺の支坊的存在であり、この時は蓮如の4男である蓮誓がリーダーであったが、彼はこの戦いにはあまり関わっておらず、どうも同坊に寄宿していた元石黒家中の坊坂四郎左衛門なる人物が戦いを主導したようである。一方の湯桶谷は、あの下間蓮崇の影響下にあった地域である。この時期には既に蓮崇は破門されていたが、同地に隠棲していたという説がある。彼が指揮を執っていたことはあり得ないが、裏で暗躍していた可能性は否定できない。いずれにしても、この一向一揆本願寺首脳部が指揮したものではなく、現地勢力が主役の一揆であった。なお上記の戦い自体が行われなかった、という説もある。何しろ記録が「闘諍記」にしかないので、後世に捏造された可能性もあるのだ。だが同時期に何らかの形で一揆が発生したこと、医王山惣海寺はある時期を境に廃寺になってしまったこと(火災の後も発掘されている)、福光石黒氏も滅んでしまっていることは間違いない。

 

 福光石黒氏と惣海寺、現地の二大勢力を逆に滅ぼしてしまった一向一揆勢。加賀における富樫氏の運命を予感させる出来事であった。

 これを以てして、砺波郡が本願寺領になってしまったわけではなく、引き続き越中守護の統制下に置かれていたようだが、一帯は本願寺――というよりも、瑞泉寺の影響力下に置かれるようになる。(続く)