さて高尾城に籠る富樫政親に対する攻撃は、6月5日に始まったようだ。初日は小競り合いで終わっている。まずは様子見というところであろうか。
なおこの前後に、越中から畠山政長軍が、能登からは畠山義統(よしずみ)軍、越前からは朝倉貞景軍が富樫氏の救援に赴いたが、それぞれ国境であえなく撃退されてしまっている。これについては後述する。
7日早朝、一揆軍の攻撃が始まる。「官地論」によると、高尾城を攻めたのは5万ほどであったらしい。対する富樫方は、籠城当初は1万ほど集まっていたのだが、「形勢利非ず」ということで、大分減っていたようだ。反撃してきたのが2000ほど、とある。いずれにしても城方は大敗して、本郷修理・額丹後守・高尾若狭守など有力武士500人、郎党1000人が戦死した、とある(ただこれらの数字は誇張されたもので、実数はそれぞれ三分の一以下ではないか?とブログ主には思われる)。
その日の夜、政親は最後の酒宴を開く。この時、一揆方の勝願寺と光徳寺と交渉して、己の妻子を朝倉氏のもとに送り届けてほしい旨を依頼する。願いは受け入れられ、両寺の保護のもと妻子は脱出するが、この妻はのち、本願寺の宿敵・高田派の真慧と再婚するのである。
翌々日の9日朝、総攻撃が始まる前に降伏勧告が行われた。城中からは投降者が続出、残るは主従以下300名以下となる。なお投降したにも関わらず、一揆弾圧の張本人とみられていた本折常範は、数十人に囲まれて惨殺された、とある。
政親は身の丈2mを越える大男で十人力であった、と伝えられており(大分誇張されているが、大柄ではあったのだろう)、大手門に突撃し暴れまわった後に、最後は切腹して果てた。彼の首は一揆軍の名目上の総大将である、大叔父にあたる富樫泰高の下に送り届けられる。泰高は首を前にして「思ひきや 老木の花の 残りつつ 若木の桜 まづ散らんとや」と詠んだ、とある。
この戦いで政親一派は、ほぼ壊滅に近いダメージを受けたようだ。ただこの一戦を以て、守護勢力がすべて滅び、加賀一国が本願寺のものになったわけではない。お飾りとはいえ富樫泰高は一揆軍の総大将であったし、一応は2000の兵を動員し従軍していたようだから、この時点ではまだそれなりの力は持っていたようだ。しかし加賀における支配権は、徐々に本願寺に移行していくことになるのだ。
戦後、政親とその与力の領地が欠所分として大量に発生する。例えば守護代であった棚橋一族は、主たる同族7人が自害しており、「蔭涼軒日録」には「彼らが代官を務めていた横北荘は『代官不在の地』になってしまった」とある。こうした領地の多くは当然のことながら本願寺勢のものになったし、また未だ様子見であった末端の庶民たちも、そのおこぼれにあずからんと更なる門徒化が進んでいったようだ。
過去記事の中で、加賀には守護とはまた別の統治機構である「郡」が存在したことを述べた。この郡の担い手は国人らや在郷武士たちであったが、更にこの下部に「組」という組織の存在が確認できる。この「組」の担い手は、村落共同体である惣村・惣庄らである、いわば庶民たちであるが、一揆以降はこれら末端百姓層らの殆どが本願寺門徒化したと見られている。
このようにして「長享の一揆」において本願寺勢は守護を滅ぼし、加賀において前代未聞の「百姓ノ持チタル国」を樹立させたわけだが、蓮如はこれに対し、どのような立ち位置で接していたのであろうか?
そもそも蓮如は、1475年8月に北陸における主戦派たちの手から逃れるようにして吉崎御坊を後にしている。各地に送った「お上に逆らうな」という旨の御文章の内容からも分かるように、徹底した非戦派であって「加賀一向一揆は急進派による暴走であった」というのが、かつての通説であった。
しかし最近の研究動向によると、蓮如の立ち位置は変わっているようだ。蓮如が吉崎御坊を去ったのは事実だが、引き続き自身の息子・娘たちを盛んに北陸の大寺院に婚姻という形で送り込んで、北陸寺院の中央集権化を進めている。前記事で少し触れたように、一揆が発生した時点で加賀における本願寺勢力は、子息たちが住持を務める「加賀三箇寺」大きな力を持っていた。各種の史料から、それらは裏付けられるのだ。

にも関わらず、「長享の一揆」について書かれた「官地論」には「加賀三箇寺」が一切登場しないのは何故だろうか。この書は真宗関係者が書いたものであって、あえて本願寺首脳部の関わりを薄める意図があったのではないか?という説を唱えている学者もいるのだ。
一揆発生時、蓮如は山科本願寺の造営に注力していた。つまり京の近くにいたわけで、蓮如についての著作を書いている作家の真継伸彦氏は、「『長享一揆』の勝利の一因は、蓮如が京において政治力を駆使し、富樫政親への隣国からの援軍派遣を阻害したからではないか」と推察している。
一揆勢が国境を固める前に、隣国からの援軍が加賀に入っていれば情勢は変わっていたかもしれない。また実際に送られたそれぞれの軍も、国境における小競り合い程度であっけなく引き返している。タイミングの遅さとポーズだけの援軍派遣、これが蓮如の政治的な運動の結果だとするならば、見えない形で強力に援護していたということになる。
自ら旗を振って反乱を呼びかるのは、蓮如のスタイルではなかった(「文明の一揆」を除く。ただしこれは主たる攻撃対象が高田派であった)。これは物理的暴力を好まないという、彼個人のキャラクターからくるものだろう。しかしだからといって自分に有利な結果をもたらした一揆自体を、否定するほどの非戦派ではなかったのだ。
蓮如の一揆に対する態度は、曖昧であったといっていい。暴力沙汰は嫌いだから自ら推進することはしないが、それでも起こってしまった一揆は、これはもうしょうがないから追認するしかないかないだろう。その結果、手にした果実は美味しいから手放すつもりはない。でも暴走は困るから、ほどほどであって欲しい。だから「お上の言うことは聞け。年貢は払え、押領するな」と御文章を送る。
実のところ、山科本願寺を建立するにあたっては、加賀からの送金もかなりの部分を占めていたと見られている。つまりは蓮如が禁じたはずの、未納ないしは押領された年貢が原資だったわけで、ダブルスタンダードなのである。また前述した通り、自分の子息たちを北陸要所に配置しており、この「加賀三箇寺」は急進派たちと共存共栄の関係性にあったといえる。
こうしたことから蓮如は「一揆に背を向けたポーズをとりつつ、一向一揆がもたらした現実の果実だけは食べようとした」と指摘されているのだ。言い得て妙である。
上記のような考えを以て、改めて蓮如と一揆の関係性を見てみると、いろいろと見え方が変わってくる。例えば、下間蓮崇の件である。湯桶一揆の際、蓮如を謀る形で一揆を暴走させた罪で破門された蓮崇だが、実は代わりに泥を被っていただけの可能性すらあるのだ。蓮如の心中を慮った蓮崇が、忖度し行動した結果、失敗したに過ぎない、というわけだ。仮に湯桶一揆が成功していたなら、蓮如はどのような態度をとっていたか気になるところである。
ただブログ主は、蓮如のこうした姿勢こそが、加賀一向一揆の成功につながったのではないかと思うものである。いわば政教分離的な思想の下で、加賀の一揆とその後の統治が行われたわけで、その期間はおよそ100年に及ぶのだが、大きな混乱は起きなかった。
思考実験をしてみよう。戦国期に一揆を起こすほどの力があったのは本願寺こと一向宗、そしてもう一方の雄は法華宗である。仮に法華宗の宗教的指導者に、蓮如と同レベルのカリスマ僧がいたとするならば、どうなっていただろうか。おそらく彼は一揆の先頭に立って、旗を振っていたに違いない。法華宗の目指すところは開祖・日蓮以来、「仏法と王法が一致する王仏冥合」だからである。
仮に何処かの国で、このような形の法華一揆が成功したとしよう。その国は政教が一致した、より完璧な形の仏法王国になっていたはずだ。しかしながらそれ故に、その仏法王国は早期に瓦解していたのではないだろうか。
室町期の日親に端を発する法華宗の急進派セクトに、「不受不施派」というものがある。これは「法華宗徒以外からは、受けず施さず」という教義で、この考え方を突き詰めると「法華宗徒以外は人ではない」という思想にすら繋がりかねない、過激なものであった。武力による法華一揆で仏法王国が際立した暁には、こうした過激な教義が伸長していた可能性がある。
法華宗の日親については、こちらの記事を参照。決して挫けず信仰を貫いた人であるが、狂信的であったともいえる。
左右問わず行き過ぎたイデオロギーの行く末は、碌なことにならないのは過去の歴史が証明している。過激な宗教政策が現地の反発を招き、またこれを警戒する外部勢力も、より早くかつ強力に介入し、この仏法王国は滅んでいたのではないだろうか。
一向一揆に対する蓮如の態度は、死ぬまで曖昧なままであった。一揆の成立当初に埋め込まれたこうした初期条件が、その後の一向一揆の方向性をある程度、規定したと考えることもできるだろう。加賀において過激な宗教政策が採用された事例は見当たらず、「郡」や「組」の統治主体は中央から派遣された本願寺の大坊主ではなく、最後まで国人たちや在郷武士、そして惣村にあったのだ。(続く)