富樫政親を滅ぼした一向一揆勢。これに激怒したのが時の将軍・足利義尚(よしひさ)である。そりゃそうである。荘園横領しまくっていた六角氏を成敗するために行われた「鈎(まがり)の陣」は、「応仁の乱」のち弱まってしまった将軍権力の威信回復を目的としたものだ。
そんな中、無理を押して駆けつけてくれたのが富樫政親であったのに、その不在の隙をついて加賀で蜂起し、あろうことか急いで戻った政親を討って滅ぼしてしまったわけで、義尚にしてみれば己の手足をもがれたのも同然なのである。
怒れる将軍は蓮如に対し、加賀一向一揆に関わった本願寺門徒の「総破門」を命じたのである。蓮如は急ぎ加賀で指導的地位にいた息子たち4人を呼び寄せ、対応策を練った。
蓮如が頼ったのは細川政元である。この頃「半将軍」とも呼ばれ、将軍以上に権勢があった政元に反対されては、義尚も否といえない。蓮如に対する「門徒の総破門」要請は取り下げられ、代わりに「叱責」するだけという、大して意味のない行為に置き換えられたのであった。
この時、蓮如が加賀門徒たちに送った「お叱りの御文章」というものが残っている。内容は次のようなものだ――「諸門下において悪行を行う者がある由を聞いた。言語道断のことである。今後このようなことを企てる者があれば、永久に聖人の御門徒を追放する。この旨を堅く知らせるので取り締まるように」
一揆のことを「聞いた」など伝聞で書いてあり、まるで他人事のようである。しかし息子たちを加賀の大寺院の要所に送り込んでいた蓮如が、一揆の動向を知らないわけがなく、こういうところに蓮如のしたたかな政治家的な面が見られる。いずれにしても、手紙を送るだけで総破門が逃れられるものなら、お安いものであった。

地蔵院蔵・足利義尚「絹本著色騎馬武者像」。室町幕府第9代将軍・足利義尚。義政と正妻・富子の間に生まれた実子で、彼の誕生がトリガーとなり「応仁の乱」が発生したのである。1473年、9歳という若年で将軍の座に就いたが、実権は引き続き義政が握ったままであった。仕方のないことであったが、しかし義尚が成人してからも義政はなかなか権力を手放さなかったのである。これは己の趣味である、銀閣寺造成などの予算を手放したくなかったためと見られている。87年、23歳になった義尚の主導で、六角氏征伐が行われる。自ら2万の兵を率いて出陣、六角高頼はたまらず観音寺城を捨てて甲賀郡へ逃亡する。形としては勝利したので京に凱旋してもいいところなのだが、義尚は引き続き近江国・鈎(まがり)の地に陣を構え、その在陣期間は1年5か月という長期に及ぶのだ。この「鈎の陣」には公家や大名たちが盛んに出入りし、様々な儀式まで行われ、実質的な将軍御所として機能していた。京から離れることで、父・義政の影響力を排さんとしたものと見られている。しかし義尚は在陣中に酒に溺れ、89年にわずか25歳で病没してしまうのだ。
いずれにしてもこの頃には、本願寺は時の政権中枢と強いコネクションを有していたことが分かる。幕府御家人の他、天皇家・公家や守護に至るまで、本願寺と何らかの形で関わっていない有力者はいなかった。
既に本願寺の教線は近畿・北陸を中心に各地に広がっていたわけで、不在地主である彼らの領地にも多くの門徒たちがいたのだ。門徒らによる押領に曲がりなりにもブレーキをかけられるのは、唯一本願寺首脳部だけであったから、誼を通じておく必要があったのである。
また蓮如の実娘のうち2人は、白川家や中山家など下級公家に嫁いでいる。食うのに窮していた貧乏公家には、本願寺の財力はよほど魅力的に映ったに違いない。みな喜んで迎え入れたのであった。
続いて他の寺社勢力との関係性を見てみよう。例えば、畿内にて絶大な権勢を誇っていた比叡山。過去の記事でも言及したが、本願寺はそもそも青蓮院の末寺である。更に「寛正の法難」を経た後は、叡山西塔の末寺にもなっており、年30貫という銭を叡山に上納していた。しかし本願寺は強大な力を持ってからも、律儀に上納を続けており(本願寺にしてみれば、はした金であったろう)、形の上では未だ叡山の末寺であり続けたのである。
例えば本願寺の後継ぎが得度する際には、親鸞聖人にならって代々青蓮院にて得度するのが古くからの慣習であり、これは第10代の証如の代まで続いている。比叡山にしてみれば、力をつけてからもメンツを立てて後輩のままでいてくれる、ある意味ありがたい存在なわけで、両者の関係性はそう悪くなかったのであった。
そんなわけで中央政権と結びついていた本願寺は、強い政治力を有していた。本願寺という組織を守りつつ発展させるためには必要なことではあったが、しかしそれ故に中央で発生する政変に巻き込まれることになるのだ。きっかけは1493年4月に発生した「明応の政変」である。
この頃、幕府において最も力を持っていたのは、尾州畠山家と細川家の両家である。鈎の陣で義尚が病死したのち、第10代将軍に就いたのは足利義稙(よしたね・彼はこの後2回名を変えており、この時点では義材という名であったが、記事中では混乱を避けるために義稙で統一する)であったが、この義稙の擁立に力があったのが畠山政長であり、それに反対していた細川政元は政治的に後れを取っていた。
更に政長はライバル・総州畠山家を征伐すべく、義稙を総大将として担ぎ出し、河内国に対する軍事行動を起こす動きに出る。これが成功すれば、長年に渡り分裂していた畠山家の統一が成るのだ。細川家を率いる政元としては、政敵が強大化するのを座して見ているわけにはいかなかったのである。
そこで政元は義稙と政長が河内国に遠征した隙を狙い、京においてクーデターを起こしたのだ。新将軍に擁立されたのは、堀越公方・足利政知の息子であった清晃(せいこう)である。政元は日野富子、伊勢貞宗らを味方につけて、清晃を第11代将軍・義澄(よしずみ)として就任させたのであった。
なおこのクーデターに大きく関わっていた、幕府の高級官僚・伊勢貞宗であるが、義澄を将軍に擁立する際に大いに功があったことが、貞宗の従兄弟である新九郎こと北条早雲が関東にて躍進するきっかけとなるのである。(続く)
伊勢新九郎こと、北条早雲の立身出世ストーリーはこちらから始まる記事を参照。また実は蓮如の第1・第2夫人である如了尼・蓮祐尼の姉妹は、伊勢一族である伊勢貞遠の娘であり、蓮如の跡を継いで本願寺門主となった実如は蓮祐尼の息子であることから、早雲とは親戚ということになる。