根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑨ 攻勢から守勢にまわる本願寺、そして実如の死

 1506年・永正三年の一向一揆は、概ね失敗に終わった。特に越前における敗退は痛手で、朝倉氏によって一向宗は爾後禁制とされたし、聖地・吉崎御坊も焼き払われてしまった。

 朝倉氏は門徒たちの財産を全没収のうえ国外追放、加賀との国境は陸のみならず海路まで封鎖する、という徹底した措置を行ったのである。

 越前における本願寺の有力寺院といえば、藤島超勝寺と和田本覚寺だ。超勝寺は1392年に本願寺5世である綽如の次男・頓円によって創建された寺である。本覚寺は元高田派寺院であったが、本願寺第3世覚如の教化によって本願寺に転派した寺である。双方ともに蓮如以前から頑張って、北陸で活動していた地方寺院だ。

 この2大寺院、此度の一向一揆の一翼を構成していたこともあり、加賀への亡命を余儀なくされている。ただ両寺共にその古さ故に、南加賀にも多くの門末がいたので、亡命先でも寄って立つ地盤があった。彼らは越前亡命衆のリーダー格として加賀で活動していくことになる。

 この越前亡命衆は、失地回復を目指してこの後何回も越前への侵攻を試みるが、全て失敗している。特に悲劇的だったのは翌7年8月に行われた、坂北郡伊佐郷における「帝釈堂口の戦い」であるが、これに関して興味深いエピソードが残っている。

 この戦いで、和田本覚寺の坊主のアジ演説「進む足は極楽浄土へ往き、退く足は無間地獄に落ちていくと思い、覚悟を決めて戦え」に奮い立った、加賀の玄任とその一党300人は言葉通り一歩も引かずに戦い、全滅してしまったのだ。ところがアジ演説を行った当の坊主は、真っ先に逃げ帰ってしまったのである。

 戦後、戦死した玄任の妻が布施を持って本覚寺を訪れた。逃げ帰った当の坊主は、涙を流す妻に向かって法話じみたことを言って慰めたのであるが、その妻は「私が泣いているのは夫のためではありません。夫は退かずに戦ったので、極楽往生したことは疑いありません。でも逃げてきた御坊はお言葉のごとく、必ずや無間地獄に落ちると思うと、気の毒でなりません。それがおいたわしくて涙が流れたのです」と冷ややかに答えたという。

 これは朝倉方の目線で書かれた軍記物、「朝倉始末記」に記載されているエピソードなので、本当にあった話かどうかは眉唾ものだが、これに近い感情を持っていた遺族は多くいたのではないだろうか。

 さて己が命じた一揆が失敗したことに気落ちしていた実如であるが、それどころではない事態が発生する。翌07年6月23日、盟友・細川政元が部下である香西元長の手の者に、湯殿で暗殺されるという大事件が起きるのである(永正の錯乱)。

 この報せを聞いて愕然とした実如は、翌24日未明に山科本願寺を脱出、寺宝を抱えて堅田本福寺へ避難するのである。如何に実如と政元が深い盟友関係にあったかわかる。前年に海津浜で上口勢を救った明顕・明宗の親子は、喜んで実如を匿ったのであった。

 それにしても政元の死は、本願寺教団にとっては大打撃であった。1508年7月、よりにもよってかつて政元によって追放された前将軍・足利義稙が、西国大名・大内義興に擁立され将軍として復帰してしまう。中央政界における本願寺の影響力は、水泡に帰してしまったといってもいい。

 しかしいつまでも堅田に隠れているわけにもいかないのだ。実如の母は幕府の高級官僚・伊勢氏の出である。政所執事である伊勢貞陸(さだみち)のツテを使って、新政権に接触する。出来たばかりの義稙政権も、近江には敵対する足利義澄+細川澄元がいたから、本願寺勢力と敵対するのは得策ではない。交渉が行われた結果、身の安全が確保されたのだろう、1509年に実如は山科本願寺に帰還したのである。

 この後、畿内は混乱の渦に巻き込まれる。基本的には大内勢を擁する義稙政権の優位は揺るがなかったのだが、これに敵対する細川澄元はなかなか手強く、何度も京へ侵攻してくる(両細川の乱)。また政権内においては大内義興氏・細川高国畠山尚順らの政治的パワーゲームが繰り広げられていたから、実如にしてみれば下手に動かず、山科からじっと情勢を見守るしか手はなかった。

 山科本願寺の城塞化が進んだのも、この頃のようである。またこの期間、金のなくて困っていた朝廷(当時の後柏原天皇の治世は26年におよんだが、金のかかる即位の礼をあげるまで、21年待たなくてはならなかった)に莫大な献金を行い、上人号や紫衣着用の権利、そして天皇勅願寺となることに成功している。物理的な守りを固めつつ、権威面では高みに登ることで教団の安泰を図ったのである。

 1518年に入り、幕府より「一向一揆停止令」を出すように、との命令が下される。記事冒頭で記した、越前の朝倉氏の加越国境封鎖は10年にも及び、北国からの年貢の流通が滞っていた。これに悲鳴を上げた公家や寺社勢力からの要望もあり、幕府が朝倉氏と交渉したところ、封鎖を解く条件として一向一揆の停止を求めてきたのである。

 実如はこれを受け入れる。もはや外への拡大政策をとれる状況にはないのだ。同年4月、実如は以下の3か条の掟を定めている。

1・武装や合戦の禁止

2・派閥を造ることを禁止

3・年貢未払いの禁止

 この掟の主な対象はもちろん北陸の門徒たちであり、本泉寺蓮悟を通じて彼らに布達されている。だがこの掟は、越前亡命衆にとっては死活問題であった。かつて門主の命により一揆を起こしたのに、敗れて国を追われてしまった。それが今になって戦ってはいけないという。これに納得できない亡命衆のリーダー格・超勝寺実顕と本覚寺蓮恵が皆を代表して抵抗する。

 そしてついに、本覚寺蓮恵が表立って意義を唱えたのである。蓮悟からその旨の報告を受けた実如は、蓮恵を容赦なく破門に処している(のち赦免)。同じように不満を持った坊主たちは間違いなく他にもいただろうが、実如のこの処置に皆、震え上がってしまったのであった。

 翌19年の夏には、一門一家制度を再編成している。教団の頂点にいるのは門主である。まずその門主の兄弟を「御連枝」とした。その「御連枝」の嫡流、つまり跡取りが「一門」である。そして嫡流でない次男以下を「一家」と定めたのである(以前とは言葉の定義が変わっているので紛らわしい)。このように一族内の格付けを明確にすることで、少数の連枝寺院が一家衆以下の末寺を統制するという形となり、教団の更なる中央集権化を進めたのである。

 同19年そして翌20年には、長尾為景による父の仇討ち、神保・椎名氏を対象にした越中侵攻が行われている。攻められた両氏は本願寺とは敵対しておらず、緩い同盟関係とでもいうべき間柄にあったが、山科としては局外中立を保っている。結果、椎名慶胤と神保慶宗は討たれてしまうのであるが、頑ななまでに一向一揆停止令を守る実如なのであった。

 1525年2月、実如は往生する。68歳であった。彼の後を継ぎ本願寺門主10世となったのは彼の孫である証如である。

 元々、実如は後継として三男・円如を指名していた。円如は学に秀で、リーダーとしての資質もあった聡明な人物であり、着々と実績も積んでいたのだが、4年前に32才で亡くなってしまっていた。すると嫡男である証如に相続させるのが筋、ということになる。

 問題なのは、証如がまだ10才の少年であったことだ。そこで実如は、若い門主を補佐する5人の後見人を指名したのである。それが下記の表の5人である。

 

この5人の最高幹部を指して、本願寺では「題名の五子」と呼ぶ。秀吉がまだ幼かった秀頼の後見として「五大老制」を定めたように、この「題名の五子」もまた、指導者間のパワーバランスを考えた上、定められたものである。しかし合議制が長続きしたケースは、古今東西殆どないのだ。「五大老制」が早期に崩壊してしまったように、この「題名の五子」制度もまた、同じように崩壊してしまうのであった。

 

 実如はあくまでも平和主義者であって、一揆の暴走を抑制しようと努力したができなかった、という論が古くからある。確かに彼の後半生はそうであったが、それはあくまでも一揆が失敗した上、盟友・細川政元を失ってからのことである。攻勢限界点を迎えたため、守勢に転じたに過ぎない。

 彼自身は生真面目な性格であって、特に父・蓮如を崇拝すること甚だしく、蓮如の決めたことなら庭木1本動かさないほどであった、とある。そんな彼が崇めた蓮如には、時に相反する二面性があった。宗教的指導者としての蓮如と、組織指導者としての蓮如である。

 思うに実如は、宗教的指導者としての才能は乏しいことを自覚していた(継ぐ際に自分でもそう言っている)。そこで彼は自分にできることを、つまり蓮如の築いた教団を発展させるため、組織指導者としての役割に全力を尽くしたのである。そのためならば、何万人もの門徒を死地に追いやる一揆蜂起を命じることも、やぶさかではなかったのであった。(続く)