根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑩ 「このうらみ、はらさでおくべきか」ルサンチマンの塊・蓮淳という男

 実如が指名した「題名の五子」の、5人中3人は「百姓の持ちたる国」加賀から選ばれた、いわゆる「加賀三箇寺(さんかじ)」の住持であり、実如の弟たちでもある。この加賀三箇寺であるが、そもそも如何にして成立してどのように発展していったのか、その経緯を振り返ってみたい。

 蓮如が加賀との国境にほど近い、越前国・吉崎の地に御坊を創建したのが、1471年のことである。そこから本願寺の快進撃が始まるわけだが、他宗派の大寺院をそこに所属している門徒ごと取り込む、といった形で大きくなっていたので、彼ら地方大寺院らの力は保持されたままであった。門徒の急激な増大に、教団体制がついていかなかったのである。

 そこで蓮如は蓮乗・蓮悟・蓮鋼・蓮誓の4人の実子を加賀に送り込み、それぞれに寺を与え、現地のローカル寺院たちを統括する役割を与えたのである。

 4人の中の最年長者は蓮乗である。蓮乗は主に越中で活動、砺波一向一揆などで活躍したが、若い頃に落馬した時の傷が原因で虚弱体質であった。1482年には隠居してしまっている。以後はどうも、寝たきりのような状態であったようだ。

 隠居した蓮乗の跡を継いだのが、蓮乗の娘を娶った蓮悟である(叔母と結婚したことになる)。蓮乗の持つ権限を委譲されたということもあって、加賀三箇寺の中での筆頭格は若松本泉寺の住持である、この蓮悟ということになった。

 蓮悟は北陸門徒たちの司令官的立場にいた人で、山科にいた蓮如、そして次代の実如から大きな信頼を寄せられていた。性格的には怜悧というか、ドライな人柄であったと伝えられているが、跳ねっ返りのローカル寺院たちを押さえつけるには、必要な資質だったかもしれない。

 それにしても、現地の門徒らを指導するのは大変なのである。彼らは本願寺の説く教義に魅力を感じて門徒になったというよりは、教団に所属することで利益を得んとして門徒になった者たちが多かった。隙さえあれば他領を押領するし、それどころか隣国で勝手に一揆を起こすなど、言うことを全く聞かないのである。

 「不在領主らの土地が、現地勢力に押領される」という現象は、戦国時代のトレンドではあったが、それにしても北陸に荘園を持つ不在領主たち全てを敵に回すのは得策ではなかった。山科本願寺は中央政権と良好な関係を保とうとしていたわけで、山科にいる門主の元には公家や寺社、朝廷から「押領をやめさせてくれ」という嘆願が大量に届くのである。

 3人は時には上から押さえつけ、時には下手に出るなどして、あの手この手で現地勢力の懐柔を試みるわけであるが、それでも仕切り切れず、門徒の暴走を許してしまうことはある。すると蓮悟は怒れる実如から「なんたるザマだ。お前も共犯か」などと書簡で叱られるのであった。

 とかいいながら一方で山科は、一向一揆をうまく利用しようと蜂起命令を出したりするわけであったから、双方の間にたつ蓮悟の苦労は筆舌に尽くしがたいものがあっただろう。加賀門徒が何だかんだいっても山科本願寺の指揮下にあったのは、そんな苦労を何十年も続けてきた蓮悟らの努力によるところ大であった。

 そんなわけで蓮如から実如に門主が代わった後も、蓮悟・蓮鋼・蓮誓の3人の兄弟たちは、教団において最高幹部で在り続けたのである。(蓮乗は1504年に父に先立って死亡)。実如が主導した「永正三年の大乱」においては、蓮悟らの力なしではあそこまでの規模の蜂起は実現しなかっただろう。

 さてこの3人は、いずれも蓮如の第一・第二夫人の息子たちである。夫人らは姉妹であったため、子どもらはほぼ実の兄弟に等しい関係性にあったようだ。しかし彼女らが産んだ男子のうち、1人だけ僻地に追いやられている僧がいた。それこそが此度の記事の主人公であり、「題名の五子」にも選ばれた、蓮如の第13子・蓮淳なのである。

 彼はまだ幼いころに、近江大津の顕証寺に預けられ、ずっとそこで過ごしている。長じて26、7歳のころ顕証寺の住持となり、付近にある他の寺の住持も兼ねるようになる。3人の兄弟たちとは違って、畿内を中心に活動していたわけであるが、しかし何といっても本願寺の力の源泉は北陸なのである。彼は3人兄弟たちが活躍しているのを、指を咥えて見ているしかなかったのだ――「このうらみ、はらさでおくべきか」。

 また彼が住持を務めていた顕証寺は、そもそも本願寺の仮の祖廟を目的として建てられたものであり、寺格は高いが直接の門末を持たない寺であった。つまり経済的基盤に乏しかったのである。

 この辺りの門徒たちは、これまで記事中で何度も名前が出てきた、堅田にある本福寺の門末なのである。本福寺蓮如の子らが住持を務める寺ではないが、門主の緊急避難先として何度も活躍しており、教団内において独特の存在感を持つ存在であった。

 叡山の僧兵たちに襲われた「寛正の法難」の際には蓮如を匿っているし、「永正の錯乱」発生時には実如の避難先となり、そのまま2年近くもそこで過ごしている。代々の住持は門主に献身的に尽くし、それを誇りとするような寺だったのである。蓮淳もこの大寺に対しては、一歩引かざるを得なかった――「このうらみ、はらさでおくべきか」。

 

Wikiより転載、堅田本福寺。鎌倉後期に善道が本願寺覚如の弟子となり、創建されたとされている。後を継いだ第2世・覚念は浄土宗に転じたが、次代の第3世・法住の代に仏光寺派を経て、本願寺派に復帰した。この法住であるが、湖賊の町・堅田にある寺の住持に相応しく、バリバリの武闘派であった。19歳年下の蓮如に傾倒すること甚だしく、師が危機に陥るたびに「さあ出番だ」とばかり部下を率いて、その窮地を何度も救っている。以前紹介した、桶作りのオッサン「桶の尉(いおけのじょう)」は、この本福寺の門末のひとりで、法住より派遣されたボディーガードであった。蓮如を献身的に支えた寺であり、その寺風は代々の住持に引き継がれたのである。

 

 過去記事でも紹介したが、1506年に実如の指示により、一向一揆勢は越前・朝倉氏を南北から挟撃している。その際に南の近江から北上する上口勢を、頑張って動員した人こそこの蓮淳なのだが、その数は僅か300ほどなのである。

 一方、蓮悟らが動員した下口勢は、30万とも号する大軍であった。実数はおそらく3万程度だったと思われるのだが、それでも兄弟たちと比べると動員兵力のケタが2つほど違った。これはそのまま、教団内における力関係を現したものと見て間違いないだろう。

 しかもこの戦いにおいて、上口勢は戦況に何ら寄与することもなかった。九頭竜川にて下口勢が破れた報を聞き、あっけなく撤退している。それどころか朝倉勢に追撃され、海津浜に追い詰められ全滅しそうになる始末。

 この際に舟を出して助けてくれた人こそ、堅田本福寺の住持・明顕と明宗親子だったのである。彼にとっては屈辱だったことだろう――「このうらみ、はらさでおくべきか」。

 そんなわけで蓮淳は、魔太郎のごとく強いルサンチマンを抱えて生きてきたわけであるが、1509年頃から彼に対する風向きが変わってきたのである。永正の一向一揆が失敗に終わり、また中央政権との太いパイプが切れてしまった本願寺は、長い守りの期間に入ることになる。そうなると戦い方も変わり、これまで行ってきたような「一向一揆の蜂起」という物理的手段よりも、畿内における政治的な駆け引きが重要、ということになる。

 そして蓮淳はこうした駆け引きが得意だったのである。実如はすぐ近くに住む、政略に長けたこの弟・蓮淳を相談役にした。守りに入った実如の治世の後半は14年間にも及ぶのであるが、この期間中に実如は蓮淳の力を頼むこと大であったと思われる。また抜け目ない蓮淳は、実如の後継ぎであった円如に自分の娘を嫁がせることにも成功している。

 「機は熟した――」教団内において、確固たる地位を築いたと判断した蓮淳は、積もり積もった怨念を晴らすべく行動するのである。相手は憎き、堅田本福寺だ。1518年11月にまず蓮淳は、実如におねだりして堅田にあった堅田御坊(称徳寺)を手に入れる。(この堅田御坊は元々、本福寺蓮如の別邸として建て寄進したものであった)。

 この堅田御坊に移ってきた蓮淳は本福寺に対して、「蓮淳一家並びに、家老衆の生活費すべてを負担し、お盆には志、春秋には彼岸銭を上納せよ」と申し付けたのである。この時の本福寺の住持は明宗であったが、「本福寺顕証寺の末寺ではない」という最もな理由でこれを断ったのである――「このうらみ、はらさでおくべきか」!

 怒った蓮淳は本福寺に対して、自分が書いた内容通りの詫び状の提出を求め、更には本福寺が持つ寺宝のことごとく、そして門末の全員を顕証寺に移すことを求めたのである。断られることを前提とした、無茶な要求であった。

 当然のことながら明宗はこれを拒絶する。すると蓮淳は本福寺の門末代表を呼び出し、とある文書に署名を迫るのであった。

 その内容は「本福寺は長年に渡って、堅田御坊の銭米を盗んでいたことを認めます」というものだったのである。渋る門末代表に対し、蓮淳は「署名しなければ地獄に落とす」と脅し、無理やりこの偽造文書にサインさせたのであった。そして「してやったり」とばかり、早速この文書を実如に示し、本福寺を破門にさせたのである。

 しかし流石に、各方面から「無体すぎる」という声が上がったのである。門主・実如もまた細川政元が暗殺された「永正の錯乱」時には本福寺に避難し、1年8か月も世話になった身であったから、明宗の人となりはよく知っているのだ。

 しばらくして実如は、この文書に対して「首を斬るぞ、腹を切れと言われても、こんなことは書かないはずだ。よくぞ書いたものだ。珍しいこともあるものだ(一体どういう経緯で出されたものなのか?)」と論評しつつ、本福寺に対する破門を撤回したのであった。蓮淳の無茶なやり方を、暗に批判したのである。

 蓮淳による今回の企ては失敗に終わった。しかし彼による(一方的な思い込みによる)復讐劇の幕は、まだ上がったばかりだったのである。(続く)