根来戦記の世界

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本願寺の興亡・百姓の持ちたる国編~その⑪ 「今まで冷遇されていた僕が門主の筆頭後見役になったので、これまで馬鹿にしていたやつらをざまぁ!します」の巻

 まだ幼い証如の補佐として成立した、「題名の五子」制度。この5人の中で、実績・影響力共に突出していたのは、北陸における最高司令官・蓮悟であった――実如が亡くなるまでは。

 1519年に実如によって定められた、「一門一家制度」のルールをもう一度確認してみよう。まず絶対的頂点に立つのは門主である。その兄弟を「御連枝」、その嫡流つまり跡取りが「一門」、嫡流でない次男以下が「一家」である。要するに、当主の血筋に近ければ近いほど偉く、下位は上位に絶対的に従わなければいけない、というルールなのである。

 つまり代替わりすると、「御連枝」のメンバーが変わってしまうのである。

 新たに門主になった証如には、兄弟はいない。まだ10歳だから、当然子どももいない。実父である円如は既に死んでいる。となると最も血が近い二等親は、母である鎮永尼のみということになる。

 その次に近いのが三等親である祖父母、おじ・おばたちということになる。証如の叔父として、「題名の五子」のひとりに選ばれている実円がいる。円如の実弟である彼は三河本宗寺の住持であり、東海地方を任されていた。しかし彼以上に血が濃い人物がひとりいた――蓮淳である。彼は証如の大叔父であると同時に、外祖父にもあたるのである。

 対する蓮悟らは証如にしてみれば四等親以下、殆ど会ったこともない遠い親戚である。「一門一家制度」ルールに則ると、蓮悟らの教団内地位は代替わりによって大幅に後退してしまったのである。こうして筆頭後見役は最も血が濃い上、常に証如の近くに侍っている蓮淳が務めることになったのである。

 実如が死んだ2年後の1527年、蓮淳は9年前にやりかけていた復讐を再び行うことにする。堅田本福寺の門末たちに働きかけ、称徳寺(堅田御坊)に移籍させる裏工作を始めたのである。この頃、称徳寺には「大阪一乱」によって追放されていた実賢が赦されて、蓮淳の手下として住持として入っていた。実のところ門徒たちの中でも、力のある一家衆寺院への直参化を望む動きがあったようだ。長いものに巻かれた方が、教団内において何かと有利なのである。

 大津の大物門徒・了西や、因幡や播磨などの一部門徒が移籍する動きを見せたので、本福寺の住持・明宗は慌てて各地を飛び回って思いとどまるように説得する。「おれは、門徒にもたれけり」蓮如が残したこの言葉通り、如何に多くの太い門徒を抱えているかが寺の死活問題だったから、離脱は何としても阻止せねばならないのだ。

 明宗のこの動きを、手ぐすね引いて待っていたのが蓮淳である。「いやしくも一家衆寺院である称徳寺(堅田御坊)への門徒の移動を阻止するということは、本願寺に対する反逆行為である」という理屈で、明宗を再び破門処置にしたのである。

 前回取りなしてくれた実如は既に亡く、門主・証如はすべて蓮淳の言うがままであったから、庇ってくれる人は誰もいない。この二度目の破門によって門末の殆どを失ってしまった明宗は、伝来の財産を切り売りして食いつながなければならない羽目になってしまったのである。

 こうして9年来の復讐を遂げた蓮淳の、次なるターゲットは「加賀三箇寺(さんかじ)」である。代替わりによって教団内地位が大幅に低下してしまった加賀三箇寺のリーダーたち、蓮悟、蓮慶(隠居した蓮綱の嫡子)、顕誓(21年に死亡した蓮誓の嫡子)であるが、この3人とは対照的に教団内地位が大幅に向上した男がひとりいた。越前亡命衆のリーダー格のひとり・超勝寺実顕である。

 彼を評して曰く「いずれ本願寺を滅ぼす男」。これは実如の後継ぎになるはずだった円如が残した言葉で、死ぬ直前まで実顕のことを警戒していたという逸話が伝わっている。政略に長け、策謀を巡らすことに生きがいを感じるような男であった。

 過去の記事で、1518年4月に実如が定めた3か条の掟(合戦の禁止・派閥の禁止・年貢未払いの禁止)に、越前亡命衆が強く反発したことを述べたが、この時に不満分子を代表して蓮悟に異を唱えたのが、亡命衆のリーダー格であった本覚寺蓮恵である。後に撤回されたとはいえ、罰として彼は実如から一度破門されてしまっているわけであるが、この時奇妙なことに、同じリーダー格である超勝寺実顕は沈黙を保っており、破門を免れているのだ。

 こういうところが、実に巧妙なのである。機を見るに敏、自分は絶対にボロを出さずに実利だけ取っていくような男なのである。蓮淳はそんな実顕に、自分と同じ匂いを感じ取ったのかもしれない。彼に己の娘を娶らせたのであった。

 こうして実顕は、晴れて一門一家に迎え入れられたのである。蓮淳にしてみれば娘婿、証如にしてみれば伯父にあたるわけで、新体制の下では門主の数少ない三等親にあたることになる。超勝寺は北陸でTOP5に入る規模の大寺院ではあったが、立ち位置としては本福寺と同じ地方の大寺院に過ぎない。それが一気にレベルアップしたわけである。蓮淳は彼を通して、加賀に影響力を浸透させんとしたのである。

 

この2つの寺の歴史は古い。大谷朝堂から本願寺へ寺院化を果たしたのが、第3世・覚如である。この覚如が1311年に越前での布教時に出会ったのが「和田ノ信性」という男であった。この和田という男、どうも越前国和田庄の土豪であったらしく、元々は浄土真宗の他派門徒であったのだが、覚如の教えに帰依し「和田道場」を開いたのである。後年、この和田道場が2つに分裂し、「和田本覚寺」と「藤島超勝寺」となった。両寺は越前平野から国境を越えて北上、加賀の山間部にも教線を伸ばし、多くの寺や門徒を獲得していったのである。蓮如が吉崎に進出し、本願寺のビッグバン的拡大が行われた際に、最も恩恵を受けたのがこの両寺であろう。蓮如にしてみても、この地に深く根を張っている両寺の意向を無視して、布教を進めるわけにはいかなかったのである。永正3年の一揆が失敗し、越前から追放された2寺は加賀において、蓮悟ら加賀三箇寺に対抗する存在となっていく。

 

 さてこの頃、中央政界でも大きな変化があった。1528年5月頃、京を支配していた細川高国が大敗して、細川晴元畿内を制圧したのである。これまで本願寺は高国に従う形をとっていたのだが、抜け目のない蓮淳は早速、晴元と連絡を取って新政権と誼を通じることにしたのである。

 両者の間で話われた一番の議題は「加賀~越中に存在する、高国与党の荘園をどうするか」であった。晴元にしてみれば、自分の敵である高国与党の策源地を奪い、その力を削いでおきたいところである。そして蓮淳はこれを承知したのである――同じ「題名の五子」メンバーである、蓮悟らには一切相談せずに。

 実如の指令による「永正3年の一向一揆」以来、加賀・越中においては散発的な一向一揆はあったものの、比較的平和な期間が続いていた。これは実如自身が望んだことであり、蓮悟らもそうした方針に基づいて、現地勢力とは比較的平穏な関係性を樹立していたのである。

 そもそも加賀守護である富樫氏は(実権はなかったが、細々と生き残っていた)、晴元と敵対する将軍義晴に従う形をとっており、かつて死闘を繰り広げた越前朝倉氏、越後長尾氏もまたそうであった。彼らと協調路線をとっていた蓮悟らにしてみれば、新たに細川晴元と組んで場をかき乱すようなことは、したくないわけである。

 そこで蓮淳は腹心の部下である下間頼秀を加賀に派遣、自分の娘婿である超勝寺実顕と組ませて、加賀・越中における高国与党の領地を盛んに押領し始めるのである。

 1528年頃より、こうした動きが始まったようだ。記録には、下間頼秀が加賀における寺社の所領に関する依頼を勝手に扱うようになり、また越中においては太田保の地の押領を進めるなどの行為を行っている。

 超勝寺実顕はというと、現地の郡一揆や蓮悟らが決めたルールを悉く破り、逆に山科に対して何度も加賀三箇寺を讒訴する行為に及ぶ。これまで加賀における諸問題の仕切りを任されていた蓮悟にしてみれば、完全な越権・反逆行為であった。

 蓮悟らも山科に対して両者の非道を訴えるのであるが、なにしろ黒幕が蓮淳なのである。訴えても形勢利非ず、こうした状況が2年強も続くのだ。蓮悟ら加賀一門衆の忍耐は限度に達していた。

 1531年2月、西国に逃れていた細川高国が巻き返し、京を奪回する。勢いに乗った高国は堺にいる晴元を討つべく、摂津に侵攻した。陣は長期間に及び、晴元派の山科本願寺も攻められる可能性があるということで、教団本部も防戦に大わらわとなった。

 畿内が混乱に巻きこまれ、山科が動けない今がチャンス!と見た本泉寺蓮悟らは、高国らに呼応する形で、同年閏5月に加賀で兵を挙げるのである。攻撃対象は超勝寺&本覚寺。こうして「本願寺教団最大の分裂」と評される「享禄の錯乱(大小一揆とも)」が始まったのである。(続く)