根来戦記の世界

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旅行記~その⑩ 北陸旅行記 上杉氏の居城・春日山城 上杉家のお家騒動「御館(おたて)の乱」に至るまで

 リアルが忙しく、なかなか更新できなくなってしまいました。いましばらく旅行記が続くので、お付き合いいただければ。話を春日山城に戻します。

 登城ルートを辿っていくと、本城部分に到達します。まずは三の丸です。三の丸→二の丸→本丸と段々畑のような配置になっているんですね。

 

地図上の案内には、三の丸に「上杉三郎景虎屋敷」とありますが、当然建物は残っていません。今回取り上げる「御館の乱」の主人公になります。

 

 歩いてみて思ったのですが、この春日山城、防御施設としては優秀かもしれませんが、何だか粗野というか、洗練された造りになっていないような印象です。上杉氏の城はそんなに多く見ていないのですが、築城センスはそこまで高くなかったのではないでしょうか。

 推察するに、上杉氏は他国に侵略はしても、攻められるパターンは少なかったということが原因のひとつではないかと思います。逆に、上杉氏や武田氏にやたら攻められることの多かった北条氏は、異様に築城技術が発達しており、そのこだわりや美的センスはマニアといってもいいほどです。

 この春日山城も他勢力に攻められたことはほぼなく、実際に戦火に見舞われたことは1回しかありません。春日山城で行われたその戦いこそ、1578年3月の謙信死亡直後に発生した「御館(おたて)の乱」です。今回の記事ではこの「御館の乱」について取り上げようと思います。

 上杉謙信には実子はいませんでした(そもそも正室がいませんでした。同性愛的性向を持っていた、と言われる由縁ですが、実際のところは分かりません)。その代わりに養子が複数いました。全部で4人、畠山義春・山浦国清・上田顕景そして北条三郎です。

 それぞれ他家から人質のような形で謙信の元にやってきた4人ですが、当初後継ぎとして認定されていたのは、北条家からやってきた三郎こと、上杉景虎でした。

 一般的に上杉謙信は、武田信玄との川中島における死闘のイメージが強いですが、彼が真に追い求めたのは関東管領の座です。主目標はあくまで関東であり、主敵は北条氏なのです。謙信は個人的な野望からことに挑んだわけではなく、「幕府による天下静謐」こそが至上である、と信じてこれを行っていた節があります。とてもピュアな人ですね。

 

Wikiより画像転載、上杉謙信公御肖像(上杉神社所蔵)。その名を知らない者はいない越後の義将・上杉謙信室町幕府体制の保持を目指したことや、鎌倉仏教に興味を持たず真言宗を奉じていたことから分かるように、思想的には守旧派に属する人でした。そんな旧体制を体現する彼が、ここまで勢力を伸ばせた理由は何だったのでしょう?ブログ主からは3点あげたいと思います。

まずは前記事で紹介したように、①越後という国の財政が極めて豊かであったこと。苧麻の件は紹介済みですが、謙信は領内に港と鉱山を多く抱えていたのです。港では柏崎と直江津、この2つだけで年に4万貫の収入があった、とあります。また鶴子銀山や高根金山、上田五十沢銀山などからあがってくる収入も、相当なものがあったようです(有名な佐渡金山は本間氏の領土であり、上杉氏のものではありませんでした。そもそも本格的に稼働し始めるのは江戸期に入ってからです)。

②として、ピュアなまでの理想論を大義として掲げていたこと。謙信の行動原理は、基本的には彼なりに解釈した「義」に基づくものなのですが、ある意味、イデオロギー的な域にまで達していた印象があります。拙ブログの「仏教シリーズ」を読んでいただいた方には分かると思いますが、人はこうした分かりやすい大義に熱狂し、ついていくものなのです。しかし掲げる大義が立派であったとしても、リーダー自身に傑出したところがなければ、誰もついていきません。

その最後のピースである③、その卓抜した軍事的才能こそが、謙信を謙信たらしめた最も重要な資質であるといえるでしょう。とにかく戦闘に強い!これに関しては乃至政彦氏の著作「謙信越山」が参考になります。その攻撃方法は、敵本陣を目指し大将の首を取るという、凄まじいものでした。なので対戦相手は彼との野戦を徹底して嫌ったのです(そりゃそうだ)。特に関東では連戦連勝、野戦では勝てない北条氏は籠城策を取らざるを得ませんでした。戦場における鬼神のような強さが、青臭いまでの理想論を担保した結果、一種の神懸ったカリスマ性が形成されたのでした。

 

 そんなわけで謙信は1560年から8年間、毎年のように関東侵攻を繰り返していました。北条氏は今川・武田両氏と三国同盟を結んでおり、上杉氏と国境を接する武田氏と共に謙信に対抗していたのですが、1568年に情勢が大きく変わります。武田信玄による駿府攻めにより今川家が滅亡、三国同盟が瓦解してしまったのです。以降、北条氏と武田氏は交戦状態に入ります。

 翌69年、北条氏康は外交方針を大きく転換、なんと関東管領の座と上野国の大部分を謙信に渡すという条件で、上杉家と越相同盟を結んだのです。更に北条家は謙信の元に、氏康7男・北条三郎を養子として送り込みました。

 謙信は人質というよりも、本気で己の後継者にしようと三郎を迎え入れたようです。ここが謙信らしいところなのですが、「関東管領・上杉家の次代当主は、関東の実質的支配者である、北条家出身の三郎にすることが筋だ」と考えていたらしく、これにより東国を静謐に導けると本気で思っていたようです。

 ちなみにこの三郎、「上杉年譜」や「北条軍談」などの各種軍記物に、「この人は大変な美男子で、当時の人々は彼の美しさを歌にして歌ったほど」とした旨の記述があります。また「彼と一夜契った人が、別離を悲しんだ」という記述もあることから、三郎は衆道の嗜みもあった、と言われる所以となっています。

 しかし当時でいう「一夜の契り」には、「一晩中語り合った」という意味もあったそうで、必ずしもそうした関係を意味するわけではないそうです。ただそうした可能性はあったかもしれず、これまた同じような性癖を持っていたかもしれない謙信が(実際に手を出したかどうかは別として)美男子である三郎のことを好ましく思った、ということはあったかもしれません。

 1570年、三郎は越後入りし謙信の姪と祝言をあげ、上杉景虎と名乗ります。景虎は三の丸に屋敷を与えられ、謙信のお膝元で暮らしはじめるのでした。

 長くなってしまいました。次回に続きます!(続く)