1569年6月に結ばれた、上杉・北条両家による「越相同盟」。これに伴い、翌70年に北条三郎は越後入りします。以後、三郎は上杉景虎として春日山城・三の丸に屋敷を構え、謙信の後継者として遇されることになります。

ブログ主撮影、春日山城・三の丸。奥にある標識が屋敷跡です。しかし各種文献では「景虎は屋敷を二の丸に構えた」とあります。これは何故かというと、現在とは呼び方が違ったためだと思われます。

春日山城の段々畑のようになっている曲輪ですが、現在では下から順に、三の丸・二の丸・本丸と呼ばれています。しかし当時は二の丸・本丸は「本城」と呼ばれ、他と区別されていたようです。現在三の丸とされている部分は、当時は二の丸と呼ばれていたのでしょう。いずれにせよ、中枢である本城の真下に屋敷を構えさせたということは、跡継ぎに相応しい待遇であったとされています。
景虎は妻となった謙信の姪(清心院)とも仲が良かったようで、翌71年には待望の男子・道満丸を授かっています。しかし肝心の上杉・北条間の連携は、夫婦仲のようには、うまくいかなかったのでした。
北条氏にしてみれば、そもそもこの同盟の主目的は武田氏対策でした。しかし同盟が成った直後、69年9月に信玄は上野国から関東に侵入、北条領を荒らしまくります。
北条氏は百戦錬磨の信玄に振り回され、本拠・小田原城まで囲まれる始末。帰路についた信玄を三増峠で待ち構え、後ろから氏政本隊が追いかける形で挟撃しようとするもうまくいかず、甲斐への撤退を許してしまいます(三増峠の戦い)。

神奈川県HPより、三増峠古戦場説明版。「三増峠の戦い」はどう考えても、北条勢が勝てる戦いでした。信玄はここを突破しなければ甲斐に帰還できませんが、峠には北条家武闘派の氏照・氏邦が陣取り、後ろからは氏政自身が軍を率いて追いかけてきています。信玄は敵地で挟み撃ちになっているわけで、凡庸な武将ならばここで軍を壊滅させていたことでしょう。
しかしながら上記の説明版を見る限り、峠に布陣しているのは武田勢であり、北条勢は逆に峠の麓にいます。位置が逆転しているのは何故でしょう?氏照らは「武田勢と正面から衝突するのを避けて、峠から下りた」というのが通説になっています。あえて道を空けて、逃げるところを後ろから襲い掛かろうとした、というわけです。しかしそもそも氏政本隊がすぐ近くまできているわけで、本隊到着まで峠で粘ればいいだけのはずです。にもかかわらず峠から下りて道を開けるのは納得がいきません。兼ねてから疑問に思っていたところ、面白いブログを見つけました。それによると、武田勢は緒戦で配下の浅利信豊を囮として差し出し(浅利は戦死)、北条勢がこれに襲い掛かった隙をついて、巧みに位置を入れ替えたのではないか、というものです。
信玄は腹心・山県昌景率いる別働隊を、威力偵察のため志田峠から迂回させていましたが、この別動隊が陣が入れ替わったタイミングで北条勢に襲い掛ったのです。昌景のこの高所からの奇襲が決定打となりました。北条勢は手ひどいダメージを受け、信玄は無事に甲斐に軍を戻すことができました。戦術的にも戦略的にも信玄の勝利です。もしこの説が正しいとするならば、信玄の戦さの采配ぶりは芸術的といえるもので、感心します。謙信とはまた違った強さですね。一方、氏政の動きはのろく、戦場に達したのは勝敗が決した後でした。真相はどうあれ、北条勢の敗因はひとえに本隊の機動の悪さでしょう。
上記の説を述べているブログ。よくできていて分かりやすいです。
この時、信玄が後顧の憂いなく上野国に侵入できたのも、謙信による牽制が機能しなかったためです。謙信は北条氏と「69年8月15日以前に信濃に出兵する」旨の誓約を交わしていましたが、実現しなかったのでした。
これには幾つか理由があって、謙信が越中遠征の真っ最中であったこと、また将軍・義昭による武田・上杉間の和平仲介(甲越和与)があったことなどが理由としてあげられますが、北条氏にしてみれば不満を残す出来事でした。
その後、謙信は北条氏の要請によって上野・下野両国に幾度か出兵を果たします。しかし北条氏との連携は、様々な外的要因によりいずれもうまくいかず、機能したとは言い難い結果に終わっています。
謙信にしてみても、そもそも同盟の前提条件である領土割譲が成されていないではないか、という不満がありました。北条氏から上野国の領有を認められたといっても、実際にその地に生きる国衆たちにしてみれば、軽々に「はいそうですか」と従うわけにはいきません。情勢がこの先、どう変わるかなぞ分かったものではないのです。
実際、新田郡を支配していた由良成繁に至っては、形式的には上杉氏に従ったものの、裏では北条氏に「浮沈を共にすべく」という内容の書状を送っています。
また謙信は上野だけではなく、北武蔵や下野の地も要求していましたが、その辺りの帰属に関しては有耶無耶になっていました。この点も謙信には不満だったようで、70年正月には下野の国衆である佐野昌綱の居城・唐沢山城を攻めています。
謙信にしてみれば、関東管領である自分に従わない国衆を懲らしめて何が悪い、ということでしょうが、北条氏にしてみれば傘下の国衆のひとり。慌てて仲介に入っています。
また上野国以外の大名たちにしてみれば、「俺たちは見捨てられた」と感じてしまうのも、無理ならぬことでした。今まで北条氏の関東侵攻に対抗してきた佐竹氏・里見氏は謙信を見限り、武田氏と同盟を組んでいます。これまで味方だったのが、敵に回ってしまったわけです。やはりこの「越相同盟」は、構造的に無理があったのでした。
実のところこの越相同盟、同盟を主導してきたのは北条氏康なのですが、氏康は70年8月頃より中風により床に就いてしまいます。ある程度の実権が正嫡・氏政に移ったことで、北条氏の外交方針が変わってしまいました。三郎が越後入りしたのが70年4月ですが、それから1年も経たずして氏政は氏康に無断で、武田家との同盟を模索し始めているのです。
氏政にしてみれば、武田・北条そして上杉という形で、新・三国同盟を結びたかったようです(三和一統)。もしこれが実現していたら、思考実験としてはかなり面白かったのですが、曲がったことが大嫌いな謙信はこの噂を聞いて気分を害したらしく、71年4月に氏康に宛てた書状でその真偽を詰問しています。こうした動きを知らされていない氏康は慌てて否定しますが、翌5月に氏康は死去、その年の12月には新当主の氏政は、武田氏と和平を結んでしまったのでした。
後からそれを知らされた謙信は激怒、氏政に「手切の一礼」を送りつけます。わずか2年という短さで、越相同盟は破綻してしまったのでした。
謙信にしてみれば、上杉と北条が手を結ぶことで「東国の静謐と新秩序」を到来させんとする意気込みだったのです。その障害が、隙あらば上野国に進出する武田であり(事実、北条家は上野国どころか、小田原近辺まで信玄に荒らされている)、そのために徳川と同盟し、織田とも連携して対武田包囲網を敷いたのに、全てはぶち壊しになったわけです。
三郎こと景虎は、越後入りした後は上杉家と北条家との仲を取り持つ「取次」として忙しく働いていました。それなのにこの有様です。同盟は手ひどい形で裏切られ、上杉家の体面は大きく傷つけられました。景虎の上杉家における政治的立場はどう変化したのでしょうか。(続く)