御館(おたて)において6000の兵を集めた景虎。一方の景勝は城を占拠したはいいものの多勢に無勢、撃って出ることができません。
5月17日、景虎勢は遂に春日山城に向けて進撃を始めます。大将である桃井伊豆守率いる軍勢は全く抵抗を受けることなく、春日山城の千貫門まで達しました。しかしここで景勝勢の待ち伏せに会い、手ひどい反撃を受けるのでした。

戦いがあった「千貫門」は現在の大手道にはなく、搦め手にあたる道にあります。実は戦国期には、この搦め手が大手道として使用されていたようなのです。春日山が廃城になったのは1607年ですが、今ある大手道はそれまでのどこか、1580~1607年の間に新たに造成されたということになります。いずれにせよ、この戦いが春日山城にて唯一発生した戦闘ということになります。
退却しようとするも大手道は狭く、手間取っている間に多くが討ち死にしてしまいます。谷底に落ちた者多数、桃井伊豆守まで戦死してしまったのです。景勝にとってこれは大きな意味のある戦いでした。ここで負けていたら、後のない景勝は間違いなく終わりだったでしょう。緒戦の小競り合いで勝利したことで、一息つけたのです。
しかし情勢は予断を許しません。不利な状況は変わっていないのです。一方の景虎は本国関東に助勢を要請しますが、折り悪く北条氏は佐竹氏を滅ぼすべく結城城を囲んでいた最中でした。とにかく腰の重い氏政ですが、この佐竹攻めも長い準備をかけて行った遠征です。予定外の計画を嫌う氏政は、この遠征を中止してまで助けにいくという決断を下すことはできなかったのです。代わりに同盟関係にあった武田勝頼に、助力をお願いすることにしました。
要請に応じて勝頼は越後との国境に接近、春日山城を目指し北上してきます。景勝の与党である上田庄は、背後にある景虎方の沼田・厩橋両城に、また揚北衆は、これまた景虎の要請により軍を起こした蘆名勢に牽制され、動けません。景勝は敵中に孤立したまま、更に武田家を相手にしなければならないのです。どう考えてもオワコンでした。
しかし6月7日、景勝は逆転の一手を打ちます。勝頼に使者を送り、「東上野および信濃国飯山城の割譲、そして1万両の贈与」を申し出たのです。この1万両は、春日山の金庫にあった金だと言われています(苧麻と鉱山で稼いだ金でしょうか)。
信長・家康との死闘で武田家の財政は極めて悪化しており、この申し出は勝頼の目には極めて魅力的に映ったのでした。また景虎が家督を手に入れた場合、上杉家は北条家と一体化とまではいかないまでも、極めて親密な関係性になるはずです。武田・上杉・北条の「新・三国同盟(三和一統)」は勝頼の目指すところでもあったのですが、いくら何でも北条に有利すぎるだろう、という思いもあったのです。
武田軍の動きが、川中島・海津城で止まりました。そこから先に進みません。迷っているのです。そんな勝頼の決断を後押しすべく、景勝は6月11日に春日山から出撃しました。勝頼を味方につけなければ敗北は必至でしたから、ここが勝負どころなのです。この日、迎撃に出てきた景虎方と激戦が繰り広げられました。
この居多ヶ浜(こたがはま)における戦いで、景虎方の一騎当千の勇者・上杉十郎、そして平賀左京之介が討たれます。景勝方の完勝です。翌12日にも再び出撃、御館城下に放火し周辺の数千戸を焼き払ったのでした。景勝はとにかく戦さに強い!
彼は幼少期から上田衆を率いて激戦区を渡り歩いています。実戦の経験、実績共に豊かで、そのキャリアは景虎の比ではありませんでした。謙信の旗本たちの多くが景勝についたのも、こうした面が評価されたのかもしれません。亡き謙信の強さは伝説的なものでしたが、劣勢であるはずの景勝が緒戦に連勝することで、「我こそが謙信の跡を継ぐ資格があるのだ」ということを示したと言えるでしょう。
意気上がる景勝方。景虎方は逆に、独力での春日山攻めを諦めてしまいます。これ以上、戦いを重ねても失態が続くばかりだ。武田勢がすぐ近くにいるわけだから、それと呼応して城を攻めればいい――景虎のそんな思惑は、しかし手ひどく裏切られることになります。
6月29日、海津城からようやく越後に入った勝頼は、春日山城そして御館からそれぞれ1里しか離れていない木田の地に陣を構えますが、そこから動きません。そのまま双方を牽制する構えを見せたのです。
勝頼は景勝の提案をのみ、景勝・景虎間の和睦斡旋を行うことにしたのです。とりあえず両者を和睦させ、景虎しいては北条氏との関係性を悪化させずに手を引く。その後に景勝が勝ってくれれば領地が手に入ってラッキーだし、いずれにしても1万両はすぐにGETできるわけです。景勝の見事な外交的勝利でした。
ただ和睦交渉と言っても、景虎にはそんなつもりは全くないわけで、実質的には勝頼と景勝が勝手に進めた交渉だったようです。納得できない景虎は、交渉の最中に景勝方にゲリラ戦を仕掛けては、撃退されています。少しでも立場を有利にしようとしたのでしょう。しかしそんな動きもむなしく、8月29日に勝頼は(貰うものはしっかりと貰って)意気揚々と信濃に引き揚げてしまったのでした。
景虎の頼みの綱の、武田勢がいなくなってしまいました。戦闘ではどうも分が悪く、景勝には勝てません。最も頼りになるはずの北条家は何をしているかというと、この頃ようやく北条氏照・氏邦ら北条勢が北上、先行していた厩橋城の北条(きたじょう)勢・沼田城の河田勢と合流し、坂戸城に襲い掛かっています。
越後に入るには三国峠を越さなければなりません。峠を越したすぐ先にあるのがこの坂戸城で、先に進むには何としてもここを落とす必要があるのです。かなりの激戦が展開されたようですが、ここは景勝の本拠地です。城方の戦意は極めて高く、北条勢の攻撃を寄せ付けませんでした。坂戸城はひたすら耐えます――時間を稼いでいるのです。そして10月、遂にその時が訪れました。初雪です。
雪が降ると、三国峠は通れなくなるのです。北条勢は越後侵攻を諦めて、関東に引き返します。景虎は見捨てられたのでした。(続く)

坂戸城ジオラマ。こうしてみるとかなり大きな規模の山城であったことが分かります。山頂までまっすぐ一本道なので、攻めやすそうに見えますが・・・

ひたすらに九十九折りの山道が続きます。かなり大変な登山でした。縄張りの巧みさというよりも、険峻な地形そのものを生かした城だったようです。

本丸頂上からの眺めは絶景でした。これまでの山城の中でも1、2を争う美しさです。実物はこの写真の10倍良いです。