五箇山の歴史は比較的新しく、南北朝あたりまでしか遡れません。もちろんそれ以前から人は住んでいたのですが(縄文時代の遺跡が至る所にあります)、公的な政治体制のもとに、はっきりと組み入れられたと確認できるのが、その辺りということになります。
どうもこの時期、南朝サイドの人々が落ち延びてきて、細々と暮らしていた現地の人たちと融合し、在地化したようです。五箇山を代表する神社である白山宮に、南朝所縁の宗良親王や新田一族の霊が祭られていることからも、それが分かります。
その後、本願寺による教化が始まります。この地における本願寺の浸透はかなりのもので、カリスマである本願寺8世・蓮如も訪れたようです。1481年に発生した「越中砺波一向一揆」の際は、五箇山とその周辺から300人が参陣して、石黒氏を滅ぼすのに一役買っています。
越中砺波の一向一揆に関しては、こちらを参照。「百姓の持ちたる国・加賀」成立の前哨戦というべき戦いでした。蓮如がまだ部屋住みであった時代から支え続けた、弟子のひとり赤尾道宗は、この五箇山の人でした。また越中は、蓮如の曽祖父・綽如(しゃくにょ)が瑞泉寺を開いたことから、比較的早く本願寺の教線が伸びていた地域でもありました。
江戸期に入り、加賀藩の統制下に入ります。五箇山は(というか、それ以前からですが)稲作が出来ず、大変厳しい環境でした。米は取れませんから、主食は粟・稗・そば・豆類・野菜になります。また何らかの形で、年貢を加賀藩に納めなければなりません。
1715年の記録によると、五箇山の産物としては「糸・漆・蝋・麻・たばこ」などがあります。これらを換金して、年貢としてお上に納めるわけです。とはいえこれら雑多な産物は、あくまでスキマ時間に行っていたバイトみたいなものでした。
五箇山の主要産業は3つありました。1つ目は紙漉き、つまり製紙です。紙漉きの原材料は「楮(こうぞ)・三椏(みつまた)・黄蜀葵(とろろあおい)」といった、土地が痩せていても育つ植物だったので、五箇山でも栽培が容易だったのです。
古くは五箇山が本願寺に対し、紙を納めたという史料が残っています。五箇山に住んでいた蓮如の弟子・赤尾道宗が、1501年に自らの信条を記した文書が残っていますが、この紙が五箇山産のものではないかと言われていることから、この頃から紙漉きが行われていたことが推測できます。
江戸期になり、紙漉きは主要産業物のひとつとなりました。加賀藩の指定生産物として、五箇山で生産した紙が「御用紙」として買い上げられるようになったのです。加賀藩2代目藩主・前田利長に、下梨の市介という人物が「中折紙20束」を贈った際の受領書が残っているそうです。
維新後、五箇山の紙漉きは藩の保護政策の対象ではなくなったため、一旦は廃れます。しかし明治後半に「大判製紙方」という新技術を取り入れ、息を吹き返します。大規模な工場が建設されたわけではなく、あくまでも各家庭が行う家内制手工業のままでしたが、数百軒の民家がこれに携わっていた、とあります。その全盛期は大正から昭和にかけてでした。
紙漉きは雪深い真冬に行われました。まだ夜も明けやらぬうちから紙を漉く「ペッタン、ペッタン」という音が隣近所から聞こえてくると、「慌ただしい親父だ。紙屋の犬ころめ」などと憎まれ口を叩きながら、みな負けじと紙を漉く作業に入った、という記録が残っています。この紙漉きは昭和10年代までは、五箇山の経済を支える重要な産業で在り続けました。
2つ目に養蚕があります。日本における養蚕の歴史は相当に古く、中国で280年ころに編纂された「魏志倭人伝」にその旨が記載されています。一説には紀元前に遡る可能性すらあるともいわれています。
8世紀ごろの律令体制下では租庸調の品目のひとつとして、武蔵や美濃などで盛んに養蚕が行われていました。ただしそこまで質の高いものではなく、高級品はやはり中国からの輸入品でした。
五箇山における養蚕ですが、南北朝の頃に始まったという伝承があります。ただ産業のひとつとしての起源はそこまで古いものではなく、他の多くの地域と一緒に、江戸期になってからのようです。
日本において主要産業としての養蚕が各地に定着するのは、17世紀も後半になってからです。それまで高級衣料の原材料としての絹は、中国からの輸入に頼っていました。日本は絹を輸入して、対価として銀を輸出していたのです。詳細はリンク先の記事を参照のこと。

合掌造りの家屋は、その多くが3~4階建てになりますが、暖気が上にあがる2階以上が養蚕に適していました。画像は復元された蚕棚の様子。このように蚕棚がずらりと立ち並んでいました。夜に布団に入って寝付くと、上階からしゃりしゃりと蚕が桑の葉を食べる音がして、それを子守唄代わりに眠ったそうです。

昭和初期の五箇山、養蚕の様子。いや~凄まじい量の繭ですね!江戸期から昭和にかけて、冬は製紙、夏は養蚕が五箇山の人々の生活を支えたのでした。
そして最後に来るのが塩硝製造です。そもそも塩硝とは何でしょう?
鉄砲を放つには、鉛玉と黒色火薬が必要です。黒色火薬の配合は決まっているわけではありませんが、大体が硝石75%、硫黄10%、木炭15%になります。
この硝石の別名を塩硝といい、その正体はカリウム鉱石です。鉱石とありますが、土壌中の有機物や、動物の排泄物に含まれる尿素、アンモニアなどの窒素化合物を細菌類が分解することで生成される物質になります。由来は有機物なので、そういう意味では石炭と同じですね。
ただこのカリウム鉱石、水溶性のため雨が降ると溶けて土中に拡散してしまいます。また良質の肥料だったため、植物が好んで養分として吸収してしまいます。このため鉱石として採掘するためには、雨が降らず植物の少ない乾燥地帯が最も適していることになります。逆に雨の多い日本では、鉱石は産出されづらいのです。
そこで輸入に頼っていたわけですが、戦国末期ごろ「古土法」という採掘方法が海外から伝わりました。これは馬小屋や厠の床下の土を採取し、灰汁で煮出して硝石を採取するものです。定期的にアンモニアが供給される土なので、微生物が反応し、硝石が多く生成されたわけです。
五箇山の塩硝製造は、この「古土法」を更に進化させたものです。厠の下のような環境を人為的に効率よく作り出し、いわば「硝石の畑」を製造したわけです。五箇山の人々は、どのような手順で「硝石の畑」を製造していたのでしょうか?(続く)