合掌造り家屋で営まれていた大家族生活は、これまでの記事で見てきたように、五箇山の生計を支える産業に適した形態だったといえます。特に養蚕に関しては、多くの人出を必要としました。
こうした家には、嫁いでいかなかった家付きの女たち、要するに小姑たちがうじゃうじゃいた、とあります。これは何故かというと、俗に「五箇山千軒」と言われるほど、加賀藩は五箇山の世帯数を一定数に制限していたからです。
他家に嫁いでいく先がないので、必然的に家付きの独身が多くなったわけです。しかしながら、そうした小姑たちが未婚のまま、子どもを作ってしまうこともありました。その場合、世帯主の子どもとして育てられた、とあります。
江戸期の農村は、新生児の「間引き」が行われていたことで有名ですが、地域差が大きかったようです。そして実は五箇山のあった越中は、間引きはあまり行われていなかったものと推測されるのです。
これは何故かというと、浄土真宗では間引きは禁止されていたからなのです。かつては本願寺の「百姓の持ちたる国」であった加賀とその周辺国は、幕藩体制に組み込まれた後も、引き続き真宗王国で在り続けました。
「天明の大飢饉」状況下においても、北陸では比較的間引きは行われず、他の地域、特に間引く文化が根付いていた北関東と比べると、世代別の人口構成比は比較的バランスが取れたものになっていました。江戸後期には、北関東の大名たちはいびつな人口比による労働力不足を解消するために、北陸から多くの移民を募っています。
北陸から北関東への真宗移民については、こちらのWikiの項目を参照。
そんなわけで五箇山においては、世帯主の兄弟である小姑・小舅の数は多かったのでした。中でも小姑のボス的存在である長女はベーサと呼ばれ、それなりに地位が高かったようです。ベーサは世帯主の妻、カカサに次ぐ権力を握っていたとのことですが、この記録は比較的豊かになった昭和に入ってからのものなので、より貧しかった江戸期では、また違っていたかもしれません。
ただこれも時代によって程度は異なると思われますが、五箇山の人の全てが大家族生活をしていたわけではありませんでした。我々がイメージするような合掌造りの家は各集落に8〜10軒ほど、ましてや50人規模の大家族世帯の家に至っては、1~2軒ほどであったと推測されています。
小規模な家屋も多くあったようです。いわゆる「天地根元造り」というもので、日本におけるもっとも原始的な住宅形態と言われています。屋内に柱がなく、壁すらありません。屋根だけで構成されているのです。五箇山にも1軒だけ現存しています。下記の画像がそれになります。

現地では「ナンマンダブツ建て」と呼ばれ、五箇山には各所に見られたようです。現在ではこの1軒しか現存しておらず、今は倉庫として利用されています。昭和の始めまで、実際に岩本さんというお婆さんが住んでいたとのことです。これは要するに、縄文時代の竪穴式住居に近い住居なのです。
零細農家は上記のような建物に住み、世帯を構えていたものと思われます。独り暮らしの人も多数いたでしょう。
婚姻はいとこ同士が多かったようです。なにしろ隔絶された環境なので、近縁のものとしか結婚(できればですが)できなかったのでした。人間関係も相当、濃かったものと思われます。
そんな五箇山にも新しい風が吹くことがありました。流人たちです。過去記事で紹介しましたが、新しい民謡を持ちんだ遊女・お小夜のように、外の世界からやってくる流人たちは、非日常をもたらしてくれる「客人(マレウド)」でもあったのです。
口伝ですが、五箇山に名を遺した面白い流人がいたことが伝わっています。彼の名をタツノスケといいます。
武士だったと思われますが、罪状は分からず、名のみで姓も伝わっておりません。いつの時代に来たのかも分かりません。前田藩士だったのは間違いないようで、五箇山に流されてきたのは16歳の時だった、と伝えられています。
これがとんでもない美男子であり、また若殿のような品格を持っていたとのことで、五箇山の女たちが色めき立ったのでした。彼は上背も大きく凶暴で、護送の途中に役人たちを相当てこずらせたようです。これを根に持った役人たちは復讐のため、タツノスケを籠の渡しに乗せて川の中ほどに至った際に、わざと綱をゆすぶったのでした。
見るも恐ろしい谷の中空で揺さぶられたタツノスケは、しかし悲鳴をあげるわけでもなく、増悪に燃える目ではったと役人を見据えていた、と伝えられています。それを見ていた女たちは、その凄壮な美に「タツノスケさま~!」と益々熱をあげたのでした。なにしろ娯楽の少ない地だったので、歌舞伎役者のような扱いをされたのですね。
タツノスケは重罪だったので、猪ノ谷村の坂本家の横にある流人小屋に入れられていました。しかし「タツノスケ推し」の女性たちが数多くいたので、タバコだの食べ物だのを密かに差し入れされ、少なくとも最初のうちは、それなりにいい目にあっていたようです。
さて流人小屋に入れられて25年(!)ほど経ったある日のこと(過去記事で、小屋に入れられるような禁錮刑は長生きできなかったのでは?と書きましたが、そうでもないようです)、タツノスケの世話をしていた男が牢屋の前に立って「おめでとうございます。この度お許しが出たとのことで、城下にお戻りになられます」と口上を述べたのでした。
喜んだタツノスケが外に出たとたん、待ち構えていた役人たちが一斉に襲い掛かって縛り上げます。タツノスケは「おのれ騙しおったな、許さぬ」と暴れましたが、長年の禁錮生活で体もなまっていたので、どうしようもなく坂本家の大黒柱に縛りつけられてしまいました。
実は流人小屋を他の場所に移転するということで、凶暴で知られるタツノスケを如何に移送するか頭を悩ませた結果、こうした方策をとるに至ったとのことでした。タツノスケは一晩中、縄を解け、刀を持ってこい、皆殺しにしてやる、と叫び続けていたそうです。
舞台となった坂本家は昭和の中ほどまでは残っていて、タツノスケがくくりつけられた黒光りした栗材の柱も、実際に見ることができたそうです。
次の日に移送された後、タツノスケがどうなったかは分かりません。恐らくそう長くはなく、死んだものと思われます。(終わり)
<このシリーズの主な参考文献>
・「幻の街道をゆく」七尾和晃/著 東海教育研究所/編
・「人づくり風土記・富山」 牧野昇・会田雄次・大石慎三郎/監修 社団法人 農村漁村文化協会/編
・「山の民俗文化資料集成・第二巻」 谷川健一/編 三一書房/