2025年夏の旅行記(もう年末ですが)、今回の記事で最後になります。
五箇山に前後して、井波・瑞泉寺も訪れました。瑞泉寺は越中における本願寺の要といえる寺でその歴史は古く、1390年に本願寺第5世・綽如(しゃくにょ)によって開基された寺になります。

瑞泉寺大門。本堂は残念ながら明治に入ってすぐの1879年に火災に遭ってしまい、全焼してしまいました。今、建っている建物の殆どは大正時代に再建されたものですが、江戸中期の1785年に建てられたこの大門は、幸運にも火災を免れました。
過去記事でも紹介しましたが、綽如は学問的に傑出した人物であったようです。足利義満に見いだされ、明から送られてきた難解な国書を正しく解釈し、相応しい内容の返書を送り返すのに功がありました。褒美として、義満は綽如に対し「勧進状」を与えたのです。
この「勧進状」は「越前・越中・飛騨・信濃・加賀・能登」6か国から、寺院建立のための資金を集めることを許可する内容になります。これらの資本を元に、綽如は井波の地に瑞泉寺を建立したのでした。
当時の越中は、南朝方の根拠地でした。北朝方に与する義満にしてみれば、この地を懐柔する必要があり、宗教面でその役目を期待されたのが綽如であった、ということでしょう。綽如はかなり用心しながらことを進めたようです。越中入りしたのが1384年で、その6年後に瑞泉寺を建立するのですが、その間、現地で布教活動をした痕跡が残っていないのです。
南朝勢力にしてみれば、綽如は義満の意を受け、仏法を武器として北朝方を滅ぼさんとやってきた敵でしかありません。また越中は天台・真言宗の勢力が大変強い地域でもあり、これらを極力刺激しないように気を使っていたものと思われます。
しかしながら、やはり現地の抵抗は強かったのです。1393年4月24日(6月12日とも)、綽如は44歳で病死しますが、実は南朝勢力によって井栗谷で暗殺され、遺体は谷内川に捨てられた、という言い伝えも残っているのです。また綽如がせっかく建てた瑞泉寺も、彼の死後45年間は無住職の時代が続いたようです。それだけが理由ではないかもしれませんが、越中における抵抗勢力は強かったのでした。
ただこの瑞泉寺、長い間住職が不在であったとはいえ、地元の有力者である竹部氏らの手によって、しっかりと運営はされていたようです。なので、時間をかけつつもそれなりに信者は増えていたものと思われます。
はっきりと潮目が変わったのが、1436年のことです。暗殺された?綽如の孫である如乗が、京・大谷の本願寺より瑞泉寺に送り込まれ、長年空位であった瑞泉寺住職となったのです。
この如乗という僧、元は比叡山・青蓮院の僧でしたが、門主の義円と非常に仲が悪かったようです。よりによってその義円が第6代室町将軍・義教になってしまったため、彼から逃げるようにしてたどり着いた先が、この瑞泉寺だったのです。
この如乗、蓮如の叔父にあたる人物でもありますが、蓮如とはわずか3歳年長なだけでした。幼いころは共に暮らした間柄で、また蓮如が第8世に就任する際の立役者でもあります。
異母弟である応玄が留守職にほぼ就任しかけていたところを、北陸から遥々京までやってきて話をひっくり返し、クーデターに近い形で蓮如を本願寺8世に据えたのです。こうしたことから分かるように、彼の政治的手腕は相当なものであったと思われます。
蓮如に至るまで苦戦しつつも、本願寺が如何に勢力を伸ばしていったか?そして蓮如が本願寺留守職に至った経緯は、こちらの記事を参照。
先に述べたように、瑞泉寺自体は竹部氏ら御堂衆により、恙なく運営されていました。舞台は既に整えられていたのです。そこにやってきた如乗の手腕により、瑞泉寺は栄えはじめたのでした(のち如乗は瑞泉寺を竹部氏に任せ、自身は加賀二俣坊の住持に就任)。
如乗は蓮如を擁立したわずか3年後の49歳で死んでしまうのですが、如乗の未亡人・勝如尼がこれまた相当な女傑で、蓮如の次男・蓮乗を娘婿に迎えます。彼女の庇護のもと蓮乗は瑞泉寺、そして二俣坊から名を変えた本泉寺の住持をも兼ねることになります。
こうして瑞泉寺は一門衆の寺として、越中における門徒衆を率いることになり、1481年に発生した「砺波一向一揆」においては、主導的役割を果たすことになるのでした。
加賀一向一揆の先駆けとなった「砺波一向一揆」については、こちらの記事を参照。瑞泉寺を主力とする一向一揆が、有力寺院と国人を滅ぼすという、エポックメーキングな出来事でした。その後の北陸の歴史を変えた戦いであった、といってもいいでしょう。
しかし本願寺は、結局のところ中央政権の軍門に降ります。1581年、秀吉の部下・佐々成政による侵攻により陥落、瑞泉寺は全焼してしまいます。
江戸期に入ると、幕藩体制の中に取り込まれていき、戦国期に有していた自治権や軍事力などは、全て剥奪されてしまいました。それでも越中は引き続き浄土真宗が強い地のままでしたから、多くの信者を抱え、それなりに裕福ではあったようです。瑞泉寺の復興にあたり、数多くの寺院彫刻が成された関係で、井波は日本有数の木彫り職人を有する地となるのでした。

左は大門正面の軒下に当たる部分に刻まれている彫刻。右は名高い「獅子の子落とし」という彫刻で、大門の横にある勅使門に刻まれています。番匠屋九代・七左衛門の代表作であり、日本彫刻史上の傑作と称されているそうです。

そんな関係で、井波では今でも伝統工芸品としての「井波彫刻」が製作されています。門前町である「八日町通り」を歩いていると、そこかしこに実物大の猫の木彫りがあります。長年かけて一人の職人さんが作ったそうで、どれも可愛いです。これを探して町ブラするのはとても楽しかったです。

軒先や屋根の上など、猫がいそうなところを探すと見つります。10匹以上見つけましたが、全部は探しきれませんでした。なんと31匹もいるそうです。
門前町である八日町通りはかつては栄えていたものと思われますが、現在では人はほとんどいなくて静かでした。だがそこがいい!ちょっと立ち寄って見るだけにするつもりが、もの凄く落ち着けたので、結局3~4時間ほど滞在してしまいました。
なお写真を撮るのを忘れたのですが、道の中ほどに「田舎まんじゅう本舗・よしむら」という饅頭屋さんがあります。ここの饅頭、餡に氷砂糖を使っているのですが、これが絶品でした。お立ち寄りの際は是非、購入をお勧めします。(終わり)