根来戦記の世界

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本願寺の興亡・信長死闘編~その① 本願寺のプリンス・顕如

 旅行記+αが、思ったより長くなってしまいました。まさか13記事まで伸びるとは・・・それにしても旅行に行くと、世界が深まっていいですね。本で読むのと実際に行ってみるのとでは、情報の質が違います。頭の中だけではなく、肌感覚で理解できるというか・・・1週間程度の国内旅行でしたが、学べることがたくさんありました。

 3カ月ぶりに本編に戻ります。最近仕事が忙しく、更新頻度も下がってしまいましたが、お付き合いいただければ幸甚です。

 さて、これまでカリスマ蓮如の誕生、その布教による爆発的拡大、加賀「百姓ノ持チタル国」誕生、教団の中央集権と戦国大名化、畿内における一向一揆の暴れっぷり、などなどなど、本願寺教団の歴史を見てきたが(記事数にして36)、このシリーズではクライマックスといえる顕如と信長の死闘、中世・本願寺教団の終焉、そして教団が近世において如何に生まれ変わったか?を見ていこうと思う。一部内容が過去記事と重複することもあろうが、ご容赦を。

 本願寺証如の息子・顕如が生まれたのは1543年1月のことである。母は庭田重親の娘・顕能尼である。庭田家は「羽林家」の家格を持つ公卿であるが、中流程度の家格であり、はっきりいって貧乏公家である――というかこの時代、殆どの公家は貧乏なのであるが。

 これまでのシリーズで見てきた通り、本願寺の成長スピードは異常である。弱小教団が100年足らずで多くの寺を傘下に収め、加賀一国まで手に入れてしまった。その富と権勢たるや、そんじょそこらの大名なぞ遥かに越えている――なにしろ守護大名すら滅ぼしてしまう戦力を持つのだ。

 しかし本願寺には、絶対的に足らないものがあった。それは世俗界における権威である。本願寺門主は代々親鸞の血をひくということで、血統の点では申し分ないのだか、あくまで浄土真宗という狭いジャンルに限った話である。

 寺院化するまえの本願寺は大谷廟堂という親鸞の墓を祭る施設であって、門主もそもそもは墓を守る「留守居」にしか過ぎなかった。社会的ステータスは決して高くはなかったのである。

 そこで本願寺門主は、中央政権と強く結びつくことによって自らの安泰を図ると同時に、家格のギャップを埋めるべく妻を公家から迎え入れることになるのだ。

 蓮如の後を継いだ実如も、公家である高倉家から妻を迎え入れている。高倉家の家格は庭田家より下の家格である「半家」、つまりは下流公家であったから、位的には少しずつあがっているといえるかもしれない。いずれにしても公家たちは、唸るほどの富を持つ本願寺へ、喜んで娘を送り込んだのであった。

 顕如が生まれた時期は、近畿一円を混乱の渦に巻き込んだ一向一揆(享禄・天文の乱)は既に収まっており、本願寺が守りの時期に入っていたタイミングである。山科から駆逐されてしまったとはいえ、大阪には巨大な寺内町が建設されつつあり、顕如は平和な時代に大阪御坊で何一つ不自由なく育った、生まれながらのプリンスだったのである。

 1554年、顕如は弱冠12歳にして得度を行っている。本願寺門主は代々、得度式を青蓮院で行うのが慣例であったのだが、それをやめ本願寺の本寺である大阪御坊にて得度している。

 本願寺は形の上では叡山の末寺であるが、資金・規模・信者数など既にあらゆる面で叡山を凌駕していた。もはや宗旨の異なる宗派で、得度式を行う必要もないのだ。かつての叡山ならば、こうした末寺の思い上がりを「生意気な、懲らしめてやる」と難癖をつけたところであろうが、もはや時代は違うのである。叡山としても大人しく「ですよね~」と肯じざるを得ないのであった。

 なお顕如の父の証如は、得度式を済ませた翌日に死亡している。享年39。どうも急激に体調が悪くなったようで、己が倒れる前に急いで得度させたというのが真相のようだ。いずれにせよ、バトンは顕如に託されたのであった。

 ちなみに1525年に父・証如が若くして跡を継いだときは、5人の後見人による合議制「題名の五子」制度が定められている。しかし、あっという間に破綻してしまい、血で血を洗う内戦に発展してしまった。その主たる原因は「題名の五子」の一人である蓮淳にあり、彼が「享禄の錯乱」を引き起こしたことは、過去記事で紹介した通り。

 

 加賀で行われた内戦「享禄の錯乱」については、こちらから始まる一連の記事を参照。

 

 蓮淳の持つドロドロとしたルサンチマン本福寺の明宗を追い詰めた手段に見られたような、その執念深さに辟易する人は多いだろう。しかし外戚である加賀三箇寺を滅ぼし、下間兄弟ら力をつけすぎた側近を粛清し、金沢御堂を設置するなど、彼の力によって本願寺の中央集権体制が整ったことは間違いないのである。

 顕如の時代には、官僚機構の制度化が進んでいたようだ。もはや「題名の五子」のような、教団有力者による合議制をとる必要はなく、顕如の後見役は祖母である慶寿院鎮永尼が務めることになる。ちなみに慶寿院は蓮淳の四女であり、父譲りの手腕を発揮することになるのだ。

 さて顕如が第11世・本願寺門主になった時点で、本願寺は如何ほどの勢力をもっていたのであろうか?具体的にはどの程度の収入があったのであろうか?この時点での本願寺・大阪御坊(石山本願寺)の収入の柱は、主に3つあった。

 まず1つ目は「百姓の持ちたる国」加賀からの収入。過去記事でも紹介したが、顕如の父・証如が記した「天文日記」によると、1536年時点で加賀一国からあがってくる金額は年2000貫に達する、とある。これは純粋に本願寺本寺に上納された金額のようだ。

 ちなみに同時期(1529年)の越後長尾氏の総収入は、5457貫である。しかし領地経営のための支出は7296貫にも達しているから、差し引きで1839貫の赤字経営なのである(不足分は借銭で補っている)。

 本願寺も、もちろん教団経営やら各種法事やらにかかるお金があっただろうから、2000貫を丸々自由に使えたわけではないだろう。しかし相当な実入りであったことが分かる。とはいえ織田信長の父・信秀は、ほぼ同時期の1540年に伊勢神宮に700貫、また1543年に朝廷に参内したときには何と4000貫(!)という大金を寄付しているのだが。

 織田家は領内に流通拠点である知多半島を抱えていたので、財政的には相当豊かであったのである。後年、信長が飛躍した理由のひとつでもあるのだ。(続く)

 

戦国後期は、商工業が飛躍的に伸び始めた時代でもある。本格的に上がってくるのは江戸期からだが、経済成長が始まるタイミングだったので、後年になればなるほど、各種記録に残る金額は多くなっていく傾向にある。

前述の長尾家の1839貫の赤字は1529年時点のものであるが、約40年後の謙信の頃の上杉家の財政は相当に改善されており、柏崎と直江津2つの港だけで年4万貫の収入があったようだ。謙信死後の1578年、景勝が春日山城の金庫を開けた時には、2万両(約6万貫ほど)を越える金が入っていたという。

1572年に武田信玄が西上作戦を行った際、遠征費用をねん出するため各種の臨時税を課している。この時は総額で2万貫ほど集めたようだ(かなりの重税で、領内は相当に疲弊した)。また1576年に法華宗の寺が京の信徒たちに大々的に寄進を募った際は、僅か10日間で1200貫が集まった、とある。そんなわけで加賀からの収入も、顕如の時代にはもっと増えていたかもしれない。

にもかかわらず、この時期の日本は全体としてインフレが起きておらず、逆にデフレであったとされている。一見矛盾する現象であるが、近代以前の経済システムや金銭価値を現代の基準で評価するのは、非常に難しいのである。そもそも社会構造が根本的に異なるから、評価の仕様がないともいえるのだが・・・

ただ理由の一つとして、今でいう中央銀行のような貨幣を鋳造する機関が存在せず、流通する貨幣が不足していたことが挙げられる。室町後期から戦国期にかけて日本で流通していた主な貨幣は、勘合貿易で明から輸入していた永楽通宝などである。(上記画像は通販サイトからの転載。1500円くらいで売っているようだ)

しかし明の海禁政策により銅銭の入手が困難になり、日本全国で深刻な銭不足に悩まされることになるのだ。「京銭(きんせん)」「打平(うちひらめ)」などの各種私鋳銭もあったのだが、質・信用力共に低かったのである。

1540年代より盛んになった倭寇の活動により、相当量の銅銭が日本に流入したと思われるが、それでも増大する一方のGNPを支えるほどの量を確保することはできなかった。優良鉱山を有する地域では、代替として銀による支払いも増えたようだが、額面が大きかったため大口取引がメインだったようである。そこで信長の頃より世界でもユニークな、コメの生産を基軸にした「石高制」に徐々に切り替わることになるのである。