中世に出現した、新しい仏教のカタチ
甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物…
元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんと…
大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと…
日蓮は焦っていた。なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。 彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことな…
浄土宗に深く帰依していた、その地の地頭・東条景信は、念仏宗を非難中傷する日蓮に対し、激しい敵意を抱く。景信による襲撃の恐れもあり、日蓮は故郷を離れ、一路鎌倉へと向かうのであった――というのが、現在の日蓮宗に伝わる公式ストーリーである。 しかし…
さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。 戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめ…
日蓮に関しては、これまで数多くの著作が出ている。何冊か読んでみたが、最も客観性があって面白かった本が、日本中世史・仏教史学者である、松尾剛次氏の著した「日蓮・戦う仏教者の実像」である。以降の記事の内容の多くは、この本に書かれていることを参…
さて鎌倉仏教のトリを飾るのは、日蓮宗である。おなじみ日蓮が開いた宗派であるが、開祖の名がそのまま宗派になっているのは、この日蓮宗だけである(ただし江戸期から。それまでは法華宗といった。なのでこのシリーズでは、以降は法華宗とする)。そういう…
鎌倉仏教を奉じる教団の傾向として、旧仏教ほど「寄進された荘園」というものを持っていない、ということがある(一部例外はある)。彼らは中世に入って出現した新興勢力であったから、残されたパイであるところの「余った土地」が少なかったわけである。(…
前回の記事で、禅宗の教えの根本は「人は本来仏であり、生きることは悟りに向かって進んでいくことでもある」と紹介した。とてもポジティブな考え方なのであるが、これもまたどこかで似たような思想を聞いたことがないだろうか? そう、またもおなじみ「本覚…
禅系統の鎌倉仏教としては、前記事で紹介した栄西の臨済宗の他に、道元の興した曹洞宗がある。臨済宗との違いは何なのであろうか? 今回の記事は内容はなかなかに難しいので、書いているブログ主も自分の解釈が正しいかどうか、若干自信がない。致命的な間違…
禅宗を日本に持ち帰った栄西。しかし実のところ、他の宗派の例に違わず、禅の教え自体は、奈良時代から平安時代にかけて既に伝わっていたのである。例えば平安時代前期には、唐の禅僧・義空が皇太后・橘嘉智子に招かれて来日し、檀林寺で禅の講義が行われて…
栄西は平安末期~鎌倉初期にかけて活躍した僧である。備中国・吉備津神社の神官の家に生まれ、13歳で比叡山延暦寺に登り、かの地で天台宗の教学と密教を学んでいる。しかし彼は、貴族仏教化していた叡山に嫌気がさしていたらしい。中国の正しい仏法を学ん…
法然の浄土宗を皮切りに、道元・栄西・親鸞・日蓮など、鎌倉新仏教の宗祖らは、いずれも旧仏教サイドから弾圧された歴史を持つ。しかし一遍の時衆に関してはそうした例があまりない。これは何故だろうか? そのヒントが「一遍聖絵」に描かれている。前記事で…
信州小田切里にて行われた、初の踊り念仏。これを皮切りに、一遍らは踊り念仏を行うようになるのだが、まずは手探りといったところで、遊行先で必ず踊りが開催されたわけではなかったようだ。踊りそのものもまだ出来たばかりだったから、どのような手順では…
「人が勧めるから成仏できるのではない。大昔に阿弥陀仏の願いが叶った結果、全ての人が往生できるのだ。それはもう決まったことで、念仏を信じようが信じまいが、その人が清い人であろうが、穢れた人であろうが関係ないのだ。」――これが一遍の主張であるこ…
鎌倉新仏教の中で、現代に生きる我々にとって最も馴染みがない宗派が「時宗」であろう。現代にも時宗の寺は存在する。総本山は神奈川県藤沢市にある清浄光寺である。全国にある時宗の寺の数は、2014年時点で411、信者(というか檀家数)は5万895…
「鎌倉仏教のミカタ」という、中世史を専門とする本郷和人氏と、宗教学者である島田裕克已氏が行った対談本がある。これがなかなか面白く大変勉強になったので、その主張を一部紹介してみたい。 特に刺激的なのが、親鸞の経歴に関してである。先の記事で12…
法然はその生涯で数回の法難に遭遇しているが、第1回目のそれは1204年に起きている。比叡山から天台座主・真如に、専修念仏の停止を求める訴えが起こされているのだ。こうした動きに対し、法然は弟子らを厳しく窘めるなどの動きに出た。反発することな…
さてここまで、法然の思想を紹介してきた。彼の分かりやすい「万人を救う」教義は瞬く間に支持を集め、多くの信者を獲得する。 法然の教団――彼は生前、自宗を興さなかったので、この記事では教団と表現する――はしかし、次第に既存の仏教勢力から敵視されるよ…
他力とは「仏の意志は絶対で、人はそれに関与しない」と考えるものだ。ぶっちゃけて言うと、人間の意志や努力を無下にする考え方でもあるので、現代の多くの日本人からすると、馴染み難い考え方かもしれない。しかし当時の多くの人たちにとって、この考え方…
法然は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した僧である。齢13にして比叡山に登り、その優秀さから将来を嘱望されていたが、18歳の時に比叡山黒谷別所に居を移してしまう。 叡山内には隠者的生活を営むコミュニティがいくつかあり(かつて源信が…
ここまでの流れをまとめよう。 世に無常を感じ、そこからの解脱を目指す。物質や欲に囚われてはいけない。このように本来の仏教の教えは、厭世的側面が強かった。例えば出家。これは本来、持てるもの全てを捨てて解脱に挑む、という行為であったわけだ。 密…
これまでの記事で、鎌倉新仏教を構成する重要な3つのピースのうち2つ、「浄土思想」と「称名念仏」を紹介した。この記事では、最後のピースである「本覚思想」を紹介したいと思う。 この本覚思想、実は現代の日本人の精神性にも深く影響を与えている、極め…
称名はこの時点ではまだ、観想ができない人が浄土に往きやすくするための、次善の手段に過ぎない。しかしこの考え方が変わる契機となった書が院政期に出現する。その書の名を「観心略要集」という。 さて、そもそも天台宗の根本教義は「空・仮・中」の三つの…
このシリーズでは、中世に出現した「庶民のための仏教」、いわゆる鎌倉仏教を取り上げてみようと思う。内容が過去の記事と重複する部分もあるかもしれないが、ブログ主が頭の中を整理するために書いている意味もあるので、復習だと思ってお付き合いいただけ…