五箇山における塩硝製造ですが、これには誰もが関われたわけでなく、ある条件を満たすものだけが参加できました。具体的には、それなりに大きな家屋を持つ世帯のみです。理由はシンプルで、「古土法」から進化した、この「土硝法(培養法とも)」では、養蚕が行えるほど大きな家屋の床下で行われていたからです。いろいろと試行錯誤した結果、以下のような方法に落ち着きました。
まず比較的アクセス容易な床下に、縦3mほどの穴を掘ります。この穴の底にまず「稗がら」を厚さ15cmほど敷きます。これが底になります。
次に「蚕の糞」と「乾いた土」をよく混ぜたものを約30cm、その上に干し草を約15cmの順番で、層状に何回も重ねていきます。肝は蚕の糞で、規模はどうあれ養蚕ができるほどの大きさの家屋を持っている家でなければ材料の供給ができず、生産できなかったわけです。
蚕の糞に含まれている尿素やアンモニアに硝化細菌が反応し、カリウム鉱石、つまりは塩硝になったわけです。尿素やアンモニアが含まれている手近な材料といえば人糞です。事実、カリウムは優秀な肥料でもあったので、江戸期にはこうした「し尿」は肥溜めで発酵させ、肥料として畑にまかれていたわけですが、土硝法には使用されませんでした。なぜでしょうか?
衛生的な観念は別として、まず人糞は水分が多すぎたのです。土硝法で使用する材料は、乾燥していることが重要でした。蚕の糞は粒状で乾燥しています。草も干し草で、夏に刈ったものを炎天下でカラカラに干した、とあります。また使用される土も「黒く粘りなく、よく乾くもの」が使用されていました。
硝化細菌は湿気が多いと、大人しくなってしまったようで、乾燥した「好気的状態」を保つことが大事だったようです。人に限らず馬糞・牛糞などもそうですが、動物のそれは水分が多すぎて「嫌気的状態」になってしまい、てきめんに生産量が落ちてしまったのでした。
なんと現代に「古土法」で、塩硝造りをした人がいることに衝撃。この人、なんか得体のしれないものを色々作って食べています。実に面白いです。

左の画像が培養土の断面図。穴に詰めたこの培養土に対し年に3回、追加で蚕の糞・干し草を加えながら、鋤で上下を切り返します。底30cmほど残したところまで鋤返した、とあるのでかなりの重労働でした。右画像がその「切り返し」作業風景になります。これを4年間繰り返せば、塩硝土の出来あがりです。塩硝土から塩硝を如何に採取するかですが、以下のような手順になります。

まずは「土たれ」という、塩硝土を桶に入れ、水に漬ける作業になります。カリウム鉱石は水溶性なので、こうやって塩硝成分を水に溶け込ませて抽出するのです。この塩硝が溶け込んだ水を取り出し、塩硝土を再び水に漬けます。これを何度か繰り返します。塩硝成分が抜けきった残土を、再び床下に戻して、切り返し作業を行います。硝化細菌はまだ生きているので、適切なメンテナンスを続ける限り、毎年ここから一定の塩硝を採取することができるようになるのです。

「灰汁煮」。塩硝水が100としたら、元の3%の量になるまで、ひたすら煮詰める作業です。煮詰めた濃い塩硝水を、灰で濾します。これをさらに50%煮詰る作業が「小煮」です。一夜置いて冷ますと、塩硝が結晶化します。カリウム鉱石の抽出に成功したのです。これをこそげ落し、砂のようになったものが「灰汁塩硝」です。

しかしまだ終わりではありません。このままでは、純度が低いのです。この「灰汁塩硝」に水を加え、更に煮詰めます。細かい手順はいろいろあるのですが、こうした精製作業を2回行って純度を高めたものが「上塩硝」です。右のガラス瓶に入っているのがそれです。
なおこの「土硝法」で得られる硝石の結晶量は、「古土法」の3倍だった、とあります。幕末の五箇山では、年間40トン!も生産していたようです。凄い量ですね。
さてこの出来上がった塩硝を前田藩に納めるわけですが、それなりの代価が支払われた、とあります。昭和になってからの聞き書きなので、どこまで信頼性があるか分かりませんが、石油缶1つ程度の分量で、米が1石2斗(約180kg・米俵換算で3俵ほど)支払われたようです。
先の記事で、「おじさ・おばさ制度」について言及しました。五箇山はある意味、伊那谷南部以上に隔絶された環境でしたが、この地にはこれまでに紹介してきたような幾つかの産業があったので、豊かとは言えないまでも、そこまで酷い社会風土にはならなかったようです。
また意外にも、流刑地であったことも有利に働きました。流人たちは武士身分の者が多く、藩からある程度の給金が支払われていたのです。流人たちは金を地元に落としたわけで、そういう意味でも歓迎される存在だったのでした。
そんなわけで酷い環境の割には、五箇山の人々はそれなりの暮らしぶりをしていたのですが、「稲作ができない」という構造的な問題を抱えていました。それが如実にでるのが飢饉のときです。米のみならず全体的に食料自給率が低かった五箇山は、不作の時はピンチなのです。他所から買いたくても、モノがないわけですから。
1782年から88年にかけて、日本全国を襲った「天明の大飢饉」の際は、五箇山では60%の住民が餓死した、とあります。(続く)
























戦いがあった「千貫門」は現在の大手道にはなく、搦め手にあたる道にあります。実は戦国期には、この搦め手が大手道として使用されていたようなのです。










