弘安の役から18年後――鎌倉期も終盤にさしかかった1299年に、建長寺で入門試験が行われている。記録によると、この時の試験において上級でパスしたのは2人だけ、うち1人が夢窓疎石という僧であった。彼はこの時25歳、既に京と鎌倉の禅寺においてかなりの研鑽を積んだ、前途有望な僧であった。
彼は元々、奈良の東大寺で受戒した真言僧である。しかし天台の高僧であった師の死に臨んで、その教えに疑義を抱くようになり、禅宗へ宗旨替えしたのである。極めて優秀な頭脳の持ち主であった夢窓は、建長寺にて最終的には修行僧の最上位である「首座(しゅそ)」の座にまで昇り詰めるのだ。しかしそこで壁に突き当たってしまう。どうしてもその先にある悟りの境地に達することができず、ひどく思い悩んでしまうのだ。
これには理由がある。当時の建長寺の住持は、宋から来た一山一寧という中国人僧で、彼は日本語を解さなかったからなのだ。禅宗では日常生活の全てを修業と考える。修行僧は悟りを得た師と共に密に暮らし、師の生き様そのものから学びつつ、出された公案に挑むわけである。しかし日本語を喋れない師とは筆談で意志の疎通を図らざるを得ない。これでは禅の機微が伝わるわけがないのである。
そんな時に名僧・高峰顕日(彼は日本人であった)の教えを受ける機会があり、夢窓は彼に啓発されることになる。思い切って建長寺を離れた夢窓は、まずは東の果て陸奥へ、次いで常陸を彷徨い、悟りを求めてもがき苦しみ続けるのであった。
修行をすること数年、夢窓は1307年に鎌倉・浄智寺の住持になっていた高峰顕日の下で、遂に大悟することになるのである。この時、夢窓は32歳であり、彼の人生はまさにこれから、というところである。しかし夢窓は甲斐から美濃へと、引き続き地方において隠棲の人生を続けるのであった。
時の執権、北条高時は夢窓の名声を聞き、鎌倉における禅林における指導者に迎えようと使いを出す。しかし夢窓はこれを避け、土佐の吸江庵に逃れてしまう。1319年にどうしてもと強要され渋々、鎌倉まで呼び戻されるのだが、すぐにまた何だかんだ理由をつけて、相模に隠棲してしまうのだ。
夢窓がここまで徹底して権力から距離をとった理由は、何故だろうか。しかし彼は、後醍醐天皇の招きには応じて、京都五山の南禅寺には入寺しているのである。要するに夢窓は、権力ではなく北条氏を避けているのである。どうも幕府の先行きを予測していたようだ。
果たして1333年5月、夢窓の予感は当たったのである。鎌倉幕府が滅亡したのだ。この時、夢窓は鎌倉・瑞泉寺にいたのだが(とにかく全国規模でよく引っ越す人である)、後醍醐天皇は彼を京に呼び戻し、五山最高峰の地位に就ける。そして自ら衣鉢を受け、仏道における弟子になるのであった。
後醍醐天皇の「建武の新政」はすぐに失敗し、代わりに足利幕府が成立する。しかし尊氏は後醍醐天皇のとった宗教政策をそのまま踏襲したから、夢窓の重用は続いた。尊氏・直義の兄弟もまた、夢窓の衣鉢を受けその弟子となるのであった。
このように仏道の師として高名な彼であるが、政治家としても優秀であった。マルチな才能を持っていた彼の守備範囲は大変広く、成し遂げた仕事は多岐に渡っている。そんな彼が行った最も重要な仕事は何かというと、日本全国に「安国寺と利生塔」を建てる、というプロジェクトなのである。
1345年より始まったこの事業は、名目上は「敵味方問わず、長く続いた戦乱の戦死者の霊を弔うため」に行ったものである。この事業により、全国66国・2島に渡って安国寺と利生塔が建てられることになるのだが、これらは地方における禅宗の布教拠点として機能することになるのだ(この時に建てられた安国寺は今も幾つか現存している。しかし残念ながら、利生塔は1つも残っていないので、その詳細は不明である。五重塔であったことくらいしか分かっていない)。
幕府にしてみても、この事業を進める上で強力なメリットがあった。布教地点として機能した両施設は、地方の民心慰撫・治安維持の役割をも果たしたのであるが、それだけではない。各地に置かれた寺塔には城郭が築かれた上、更に警固人まで置かれているのだ。つまり、幕府の軍事上の拠点としても機能することになったのである。このように宗教・軍事の両面において、地方に睨みを利かすことで、各地の守護を統制下に置こうとしたのであった。
このように夢窓疎石は室町幕府の後援を得つつ、その支配構造の一翼を担うことで臨済宗の教線を拡大していったのである。臨済宗は成立当初から鎌倉幕府と協調路線をとっていた宗派ではあるが、ここまで幕府と一体化させた契機をつくったのは、この夢窓なのであった。こうした形で幕府と結びつき、生存戦略を選択した宗派は今までになく、夢窓が定めたこの方向性は室町期を通じて機能し続けることになる。
夢窓は1351年、77歳でこの世を去っている。後醍醐天皇をはじめ、七代の天皇から国師号を受け「七朝の帝師」とまで謂われ、弟子の数は一万人を超えたという。彼が室町幕府において果たした役割は、極めて大きいのであった。(続く)