根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~番外編その① 中世的リゾーム構造 vs 近世的ツリー構造

 なぜ根来寺は秀吉に負けたのだろうか?何とかして、体制を維持したまま生き延びる道はなかったのだろうか?このシリーズ番外編では、日本中世社会が持つ、独特の社会構造について考察してみたいと思う。

 まず根来寺滅亡について、学侶僧らはどう考えていたのだろうか?根来寺に日誉という学侶僧がいた。20歳戦後で根来寺に入り、そこで修行を積んでいる。根来滅亡直前に高野山に避難し、命永らえた後は京都の智積院に行き、最終的には能化三世となった傑物である。中世根来寺滅亡後、新義真言宗の中興の祖とも称えられた、極めて学識のある人物であった。

 彼は晩年に「根来破滅因縁」という書物を記している。その書物の中で彼は、根来寺の破滅の因は寺自体にあったと言い切っている。二つの因により院坊堂舎が焼かれ、一山離散という破局を招いたのだ、と説いているのだ。この彼が言うところの「二つの因」とは何か。

 一つ目。まずは行人衆の武力による悪行が度重なって生じた、というもの。中世の根来寺行人方の子院が大きな権力を握っていて、少なくとも寺の対外方針については、行人方四院がその方向性を決めていたのは、過去の記事で紹介した通り。要するにこうした行人方の対外膨張政策が、中央集権の利害と衝突した、というものである。

 

 二つ目。学侶僧の能化職をめぐる対立である。根来の学侶僧には常住方と客僧方、二つの派閥があって、それぞれが学侶僧のトップの座である能化職に就かんと、政治的な争いを繰り広げていた。戦国末期には、山内を二分する紛争に発展し、山内の仏事も絶えるほどであったらしい。

 この日誉が残した書物によってまた、行人僧間だけでなく、学侶僧間にも激しい派閥争いがあったことが分かるのである。根来寺はその境内において幾つもの集団があり、それらの微妙なパワーバランスの上で成立していた組織であった、ということだ。しかもそうした集団の構成員は、同時に複数の集団に所属しているという重層的なもので、その時々で発生するトラブルの種類によって立ち位置を目まぐるしく変えるという、複雑極まりない関係性にあったのである。

 さて本郷和人氏の書作「武士とは何か――中世の王権を読み解く」によると、日本中世の社会構造を図にして表すと、下記のように表現できるという。

 

本郷和人氏の著作にある図を基に、著者が大幅に手を加えたもの。例えばαはAとC、複数の主君を持っている。主君Cの元、αの同僚であるβはまた、別にBという主君を持っている。このように主従関係が錯綜していて、上下関係も曖昧なのが中世日本社会の特徴である。

 

 こうした「多対多」の複数の関係性で結びついたネットワーク構造を「リゾーム構造」、または「散りがかり構造」と呼ぶ。これが日本中世の典型的な社会構造なのだ。

 さて過去の記事で、根来寺行人方子院の複雑な関係性について触れたことがある。

 

 リンク先の図を見ていただければ分かるが、系列ごとの主従的なタテの関係性と、共同体ごとの同志的なヨコの関係性が錯綜していることが分かる。この図を本郷氏が述べるところの、「リゾーム構造」的な関係性に置き換えて考えることもできるだろう。根来寺もまた、典型的な中世的構造を持つ組織だったことが分かる。

 こうした複雑怪奇な組織形態、リゾーム構造に対して、信長以降の近世的性格を持つ戦国大名の組織形態はいたってシンプルなものであった。いわゆるツリー構造である。

 

本郷和人氏の著作の図を基に作成。上意下達の、分かりやすいツリー構造である。

  

 日本全国をこうしたツリー構造の下に、一元的に再編成し中央集権化をしようとしていたのが織田家であり、またその後継者である豊臣家である。このツリー構造の中に、異なる体制であるリゾーム的な組織の存続など、決して許されないことであった。典型的な中世的組織であった根来寺との対立は、避けられないことであったといえる。

 そしてリゾーム構造の組織は、指揮系統が一本化されているツリー構造の組織には、決して勝てないのである。リゾーム的組織は、複雑なパワーバランスの上に成り立っている組織なので、何か事を成そうとしても、組織本来が持つ潜在エネルギーを発揮することができない、エネルギー効率が極めて悪い組織なのである。

 リゾーム構造を持つ会社で働くことを想像してみよう。仕事を進めるのに、えらく苦戦しそうなことは分かると思う。各部署ごとに縄張りがあるわけだから、部署間の調整をするのに如何にも労力と時間が掛かりそうだ。(今の日本にも、こうしたゾンビ企業がありそうである。競争のない特殊な免許事業に守られた会社や、お役所などでも見られる光景かもしれない。)一方、ツリー構造の会社だと、トップダウンで指揮系統がはっきりしているので、話が早い。無意味な労力が発生しないのである。

 勿論ツリー構造にも欠点はある。上に立つ人間の資質によって、組織の質が大きく左右されてしまう、ということは、悪い面でもそうなってしまうのだ。

 義元亡き後、今川家が滅んだ理由がそれである。氏真は全くもって組織のリーダーに向いていない人物で、そうした人物がツリー構造のトップになると、その組織はガタガタになってしまう――無能は罪なのである。対するに、信長は非常に優れたリーダーであった。しかし別の意味で問題のあるリーダーでもあった。織田家は信長のブラック気質の故に滅んだ、といっても過言ではないだろう。

 またひとつの主を頂点とするツリー構造を持つ武士は、家名を守るために命をかけることができた。例え己が死んでも、跡継ぎが家を保てばよし、とする価値観のもと彼らは行動する。それを担保するのがツリーの頂点にいる主家であった。トップの保証があるから、一族繁栄のために時には命を捨ててまで戦うのだ。戦国も晩期に入ると、そうした近世的な武士の価値観が広く浸透してきた時期だったから、そういう意味でも効率よく彼らは戦った。

 だが根来衆はそうではない。中世のモットーは「自力救済」である。自らを守るのは自分だけである。何かあったら、一応は属する組織が後ろ盾となってはくれるはずなのだが、武士特有の倫理観に裏打ちされたものほど、確固たるものではなかった。自分の財産は自分で守るしかない。そうなると、一番大事なのは結局は自分の命、ということになる。

 小牧の役の最中に、根来衆が大軍を動員し岸和田から大阪にかけて侵攻していながらも、中途半端な戦果をあげることしかできなかったのも、上記の理由で説明できる。特に城攻めなど、己の命を危険に晒してまで行う行為は、彼らが最も不得手とするものであった。武士と違って先駆けしたところで、リスクに見合うメリットなどなかったから、誰もやりたがらなかったのだ。またそうした経験に乏しかったから、城攻めのノウハウなども持っていなかっただろう。

 近木川防衛ラインがあっけなく崩壊してしまったのも、これが理由だ。もう勝ち目がないと分かると、城を自ずから焼いて逃げ去るか、降伏開城してしまった。一族の名と財産を守るためなら、己の死をも厭わぬ武士と違って、彼らには「財産を守るためには、とにかく今を生き抜く」という選択肢しかとれなかったのである。

 最後にもうひとつ。真言宗は学問としては優れていたが、宗教としては信仰色が薄い?宗派でもあった。これはまた別のシリーズで延べる予定だが、真言は大衆を救う、というよりは、自らを救う、という色の強い宗派である。真言宗を奉じる人々にとって信仰心は、(キリシタン本願寺門徒などと比べると)戦う理由としてのモチベーションにはなりえなかったのであった。(続く)

 

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑧ 紀州征伐後、それぞれのその後

 根来寺は炎に焼き尽くされた。太田城も陥落し、雑賀惣国も滅亡した。

 根来寺の近くには粉河寺がある。根来ほど規模は大きくなかったが、同じように武装した僧兵たちによって運営されていた寺社勢力のひとつであった。この粉河寺も、根来寺が炎上したのとほぼ同じタイミングで秀吉に侵略され、同じように炎上している。

 真言の総本山である高野山はどうなったか?根来寺粉河寺が炎上したのが3月23日。高野山へ秀吉の使者が来たのが4月10日のことであった。「降伏しなければ、両寺と同じように焼き尽くす」という脅しに抵抗できるわけもなく、秀吉お気に入りの僧侶、木食応其を間に立て高野山は降伏した。

 こうしてルイス・フロイスが記したところの「紀伊における、大いなる宗教的共和国」の数々は全て鎮圧されてしまった。これで紀泉における抵抗は全て終わったのである――と思いきや、どっこい紀州の国人衆は実にしぶといのであった。粘り強く抵抗を続けた者もいたのである。

 最も手強かったのは、紀中は日高平野を制していた湯河氏である。湯河氏は足利将軍家の奉公衆を務めるほどの家柄であり、そういう意味では他の国人衆とは一線を画していて、例えば紀州守護である畠山氏が彼らに兵の動員をかけるには、幕府を通じて働きかけるなどの手段を必要としたほどである。

 そんな独立独歩の性格の強い湯河氏の、当時の当主は湯河直春。秀吉軍の侵攻に対して本城である亀山城を捨てて山中に移動、ゲリラ的な戦いを繰り広げたのである。これに手を焼いた秀吉は、なんと湯河氏に本領安堵を許したのだ。大軍を動員すれば、潰すのは訳ないことであっただろうが、費用対効果を考えたのであろう。こうして湯河氏は見事、意地を張り通すことに成功したのであった。

 いずれにせよ1586年前半には紀泉は全て平定され、秀吉政権の支配下に置かれる。そして紀泉の寺社勢力・国人衆は、新しい領主の下で大規模な再編成、つまりはリストラの嵐に遭うのであった。

 まずは根来・高野・粉河寺などの寺社勢力。それぞれが有していた全ての権益は取り上げられ、(以前の規模と比べると)僅かな所領しか持つことを許されなかった。時期によって異なるが、大体1万~2万石といったところである。だが一番の大きな違いは、これまで有していた「中立性と不可侵性」を失ったことである。寺社勢力は中世を通じて、どんな権力であろうとも境内における他者の介入を許さなかった。時の権力に迎合することはあっても屈することはない(少なくとも正統性の面では)、そんな存在だったのである。しかしこれ以降、例えば徳川幕府の下では寺社奉行の管轄下に入ることで、中央集権の枠組みの中にしっかりと位置づけられたのである。

 

和歌山県立博物館蔵「根来寺境内絵図」。江戸後期に描かれたものであるが、江戸期には存在したはずの建物がなく、逆に昔あった建物が描かれていることから、中世の根来寺を復元して描いたものと思われる。

 

紀伊国名所図会巻之六・根来山全図」。こちらは江戸期の根来寺を描いたもの。当時の様子がよく分かる。中世根来寺と比較すると空き地が多くなっていて、境内の範囲も狭くなっているものと思われる。

 ではこれら寺社勢力に属していた行人や氏子たちは、どうなったのだろうか。

 まずは我らが佐武源左衛門であるが、雑賀滅亡後は羽柴秀長に仕えていたようだ。秀長を総大将とする四国討伐戦に参加して一揆の討伐に参加している。秀長没後はその子である秀保、その後は代官の桑山家、更には浅野家と、紀州の支配者は次々に変わっていくのだが、源左衛門自身は基本的にはその都度、紀州にやってくる新しい支配者に仕えたようである。最後は浅野家の転封に従い、広島に居を移しているが、その際の知行は500石であったことが、史料上確認できる。そして彼は、その広島で自らの自慢話…じゃなかった、人生の振り返りを記した「佐武伊賀守働書」を上梓したのち、波乱万丈の人生に幕を下ろすのであった。

 彼の子孫は、二系統残ったようだ。まずは浅野家に仕え続けた長男・甚右衛門の系統。明治期の当主・勝次郎まで佐武家の存在が確認できる。もうひとつの系統は、もうひとりの息子・源太夫の系統で、こちらは紀州徳川家に仕えたようだ。末裔である佐武万太郎は剣をよく使い、神風連の乱西南戦争の際には陸軍中尉として戦役に参加し大いに活躍、祖先に恥じない働きぶりだったらしい。

 源左衛門ほど高名でなくても、鉄砲という特殊技能を持っていた者たちは、再就職先には比較的困らなかっただろう。例えば杉乃坊の津田家(津田算正)は秀長に仕えているし、岩室坊勢祐は関ヶ原の後に毛利輝元に仕え、名字を根来家に変えた後は、1500石程度の領地を有する重臣として幕末まで続いている。

 最も華麗なる転身を遂げた例として、和泉国・成真院の氏子である中家の小佐次盛重がいる。

 

成真院の小佐次盛重(熊取大納言)は、高井城に籠城していた根来衆のリーダー格のひとりである。彼の戦いぶり(というか、あまり戦っていないのだが)については上記の記事を参照。

 

 熊取荘の支配者であった中家は、江戸期を通じて地元の郷士代官・大庄屋役を務めたのであるが、当主である盛重自身は家康に仕え、その子孫は3400石の大身旗本として成功したのである。よほどうまく立ち回ったのだろう。なお徳川家はこの中家だけではなく、数多くの根来衆を根来同心として召し抱えている。拙著「根来戦記」の主人公が率いる大楽院・古川家もそのひとつで、紀州征伐を何とか生き延びた後は、この根来百人組の一員として幕末まで続くことになる。また浅野家も、一時紀州を治めていた関係上、多くの根来衆を召し抱えている。

 とはいえ武士として再就職先を見つけられたものは少数派で、その多くは帰農している。先に紹介した秀長に仕えた杉乃坊・津田家であるが、主家が滅ぶなどして仕える先をコロコロ変えた挙句、最終的には地元の那賀郡新荘村に戻って大庄屋としてその地に根付いた、とある。これは他の紀州の国人衆も同じで、帰農した者たちはかつて自らが治めていた領地に住まい、その地の顔役として命脈を保っていったようだ。武士を捨て庄屋となった代表的な例に、和泉国は嘉祥寺(地名)の北家などがいる。だが食い扶持を見つけられず、仕方なく地元を離れ全国、或いは海外に散っていた者たちも多かっただろう。

 実際のところ、「夢をもう一度」とばかりに、大坂の陣の際には多くの元土豪たちが蜂起している。大阪城からの呼びかけに応じ、各地で一揆を起こしているのだ。(あっと言う間に鎮圧されているが。)

 この時、大阪城に入った元根来衆たちもいた。最も有名なのは以前の記事でも紹介した根来の勇者・奥小密茶で、彼は元根来衆ら100人を率いて大阪城に入城している。

 

小密茶については上記の記事を参照。根来を代表する勇者のひとりであった。

 

 なお先述した根来組らは、成瀬正一配下としてこの大坂の陣に参加しているから、元根来衆同士が戦場で対峙したことになる。銃火を交えたかどうかは定かではないが・・いずれにせよ、この戦いでも生き延びた彼は浅野家に再就職して、佐武源左衛門の同僚となっている。晩年は転封先の広島で隠居した者同士、縁側で茶を呑みながら昔話にでも花を咲かせていたのだろうか。(終わり)

 

<このシリーズの参考文献>

・戦国合戦大事典 第4巻/戦国合戦史研究会 編/新人物往来社

・中世終焉――秀吉の太田城水攻めを考える/海津一朗 編/清文堂

田尻町史 歴史編/田尻町史編纂委員会/田尻町

・戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆鈴木眞哉平凡社新書

・和泉戦記/中井保 著/泉州出版社

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

・その他、各種学術論文を参考にした

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑦ 太田城陥落と中世の終わり

 1585年4月5日前後に堤防が完成、早速紀ノ川の支流・宮井川(大門川上流をこう呼ぶ)の水を引き入れ始める。秀吉側にとって都合のいいことに、堤完成後にちょうど雨が降り始めたこともあって、あっという間に一面の満水となったらしい。その様は大海に浮かぶ小舟のようであった、とある。別の記録には、堤防の内側にあった民家には浮いて水面を漂うものもあった、とある。

 前記事でも触れたが、太田城の東側には南北に走る「横堤」という堤防があった。太田側の記録である「根来焼討太田責細記」には「この横堤は秀吉側の水攻めに備えて築いたもの」という旨の記述があるが、囲まれている最中に外に出て工事などできるわけもなく、やはり以前からあった治水目的のものだったのだろう。いずれにせよこの横堤のおかげで、城そのものは浸水からはしばし持ち堪えたようだ。

 しかし嵩を増す一方の水圧に耐え切れず、8日前後、遂にこの横堤が切れる。どっと押し寄せた水は、あっと言う間に人々の腰まで濡らした。この奔流から逃れるために蛇やネズミ、イタチまでなりふり構わず人の体に這い上ってくる有様。遂に城内まで水に漬かってしまったのである。

 しかしやはり突貫工事には無理があったのだ。横堤が切れた翌9日、宇喜多家の担当部署であった北側の堤が切れた。付近に陣取っていた宇喜多の軍勢も水に飲まれ、溺死者が多数出たといわれている。

 

堤が破れた辺りはこの辺りでも低い土地で、嵩も高くしなければならなかった上、元々あった川の流れを遮るように築堤された部分であったことから、水圧が最もかかる個所であったと推定されている。故事として長らく語り継がれてきたのだろう、この場所には「出水」という地名がついている。(該当箇所には更に「切れ戸口」という地名がついている、と書いてあるサイトを見たが、真偽のほどは未確認。知っている方がいたら教えてください)あまり信用できない太田城側の記録では、水練の達者である松本助持(すけもち)という武士が、150間に渡って堤防を決壊させた、とある――どうやったのかは不明であるが。

 一時的に水が引いたことで、城内の士気は上がった。だが秀吉は再びの突貫工事で堤を修繕、水嵩は再び増えてしまう。

 この堤が切れる前なのか後なのか、記録によって異なっているのだが、秀吉方が湖と化した堤防内に船を進水させ、太田側との間でなんと船戦さが行われた、とある。例の「根来焼討太田責細記」には、「横堤が破れる前に船を出して攻めてきた秀吉側に対して、城からは鉄砲などで反撃してこれを多数沈めた」旨が書かれてある。しかし、そもそも「横堤があったので、城は水に沈まなかった」と直前の文にあるから、城中から船と交戦できるはずもないのだ(或いは太田側は横堤の上に出て、そこから秀吉側の船と交戦したということかもしれないが・・)。同記録にはまたこの船戦さの際、朝比奈摩仙奈という尼法師が単身秀吉方の船に乗り込んで大暴れした、という漫画みたいな描写もあるが、これもフィクションであろう。

 船戦さが行われたのは、間違いないようで、同時代の複数の記録に残っている。おそらく宇喜多家の堤が破れた後、修繕して再び堤内に水が満たされた後に行われたものと思われる。幾つかの記録には「安宅船が使用された」という記述があるのだが、そんな大船を運用できるほど喫水が深かったかどうか?取り回しの勝手が良い小早舟を使用したものと思われる。いずれにしても、この船を出しての攻撃はあまりうまくいかなかったようで、その辺りの記述は共通している。

 

惣光寺蔵「総光寺由来太田城水責図」より、太田城部分を拡大したもの。船を使った城攻めが描かれているが、小早舟が使われていることになっている。横堤の存在も確認できる。

 ここまで秀吉方の攻撃を何とか凌いでいた太田城ではあるが、せっかく切れた堤もすぐに直されてしまったし、外から助けが来るあてもなし、籠城方は完全に手詰まりであった。これ以上、意地を張っても意味はない。開城交渉の結果、「主戦派のリーダー格、53名の命」と引き換えに他の者の命は助ける、という条件で開城することになった。この53名というのは先の記事で紹介した、和平交渉が破れた際に戦闘となった際に出た、秀吉方の武者の死者の数と同じにしたようだ。

 4月27日、約1か月に渡る籠城の後、太田左近以下主だった者たちの中から選ばれた53名が切腹して果てた。またその妻子18~28名(記録によって異なる)が磔にされた、とある。だが残りの城内の人々の命は助かったのである。ただし条件があった。それは「全ての武器の携帯を許さず、20日分の食料と鍬鍬・鍋釜・牛馬など家財道具のみ持ち出しを許す」というもので、つまりは帰農を条件とした降伏である。これは今後、秀吉政権によって全国に渡って行われる刀狩り――つまり兵農分離の先駆けとでもいえるものだ。

 こうして太田城は開城し、雑賀における最後の組織的成功は終わった。惣国の崩壊と共に「中世」という時代も終わりを告げたのである。(続く)

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑥ 太田城水攻め堤防

 さてこの太田城だが、現在の和歌山駅のすぐ西側にあった。城内と推定される場所からは、日用品として使われた土器などが出土しており、生活の場であったと考えられている。古くからある環濠集落から、城に発展した城市だったのだろう。瓦なども出土していることから、城内には寺院なども建っていたと思われる。フロイスの報告にも「この城郭は、まるでひとつの町のようであり~云々」という、それを裏付ける記述がある。

 宮郷に秀吉軍が入ってきたのが3月23日で、前記事の戦闘が行われたのが25日あたりのようだ。戦闘の後、この太田城に対して秀吉は水攻めを行うことを決定するのだが、築堤作業開始が3月28日以降であると推定されている。その後、突貫工事によって4月5日には堤が完成したらしい。「立案→計画→工事→完成」まで、なんと約10日間(!)という驚異的な短期間である。

 宇民正氏による論文「『太田城水攻め』の土木技術面からの検討」によると、この工事に使われた土の量は20万2千㎡にも及んだという。工事期間を1週間としてこれを人力に換算すると、毎日15万人ほどが工事に動員されたと考えられるという。各大名に堤造りを競わせ、担当箇所の堤を一番早く築けた家には褒賞を与える、という手段を取ったようだ。

 それにしても立案に3日、工事に7日の計10日間、全て含めた上でのこの日数である。地形の調査をいつ、どうやってしたのか?建築計画は誰がどうやって決めたのか?どこからどのように人を動員したのか?土木に使用する道具は?土はどこから運んだのか?住むところは?食事の手配は?糞尿の処理は?数多あるこれらの問題を全て解決し、わずか10日間で工事を成し遂げることは本当にできたのだろうか?

 こうした疑問を持つのも当然で、この水攻めは巷間伝えられている程の規模ではなく、より小規模なものだっただろうという論(額田雅裕氏「地形学・歴史地理学から見た太田城水攻め」)も過去に提起されている。

 

現在の地形に当時の状況を当てはめたもの。ご覧の通り、長大な堤防である。太田城の大門前を流れていたので、その名がついた旧大門川(青で示した線)は、現在は流れが細く一部は暗渠になってしまっているが、当時は流量も多く川幅もかなりあった。ちなみに先の額田氏の論だと、太田城はやや東(地図上だと右)にずれた、旧大門川の西側にあったとされている。そこだと地形的に高所に囲まれているので、工事量が遥かに少なくて済む、ということらしい。

 

 しかしこの論はそもそも「この規模の工事がこんな短期間にできるはずがない」という前提から出発しているので、これが正しいとするならば太田城の位置のみならず、規模まで大幅に縮小して(下手したら5分の1、つまり2割ほどの大きさにしかならなくなって)しまう。また文献で示される数多くの事柄との整合性がなくなってしまうという、より大きな問題が発生してしまうのだ。

 例えば地図上にオレンジ色で示した「横堤」の存在である。これは秀吉の侵攻前から存在した治水用の堤であったと考えられているもので、水攻め時にはこれにまつわるストーリーが伝えられているのだが、額田氏の論だとそれらは存在しないことになってしまう。

 また宇民正氏によると、この横堤の存在があったことで、水攻めには二段階のプロセスがあったと推定される、とのことである。まず第一段階として、導水が始まるも横堤に阻まれて、そこから東の部分(地図上では右)がまず水で満たされる。その後、横堤を越えて残りの西側にも水が流れ込み、堤防内全てが満水となる。これが第二段階である。つまり導水が始まっても第一段階では、横堤より西側の堤(地図上では左、逆コの形をした部分)は2日間ほど使用されなかったはずなので、その部分の工事はそれだけ延長して行えたはず、とのことである。

 やはり通説通りの規模での土木工事であった、というのが正しいようだ。雑賀ではここ以外に大きな戦闘もなかったので、動員した兵士をそのまま工事の人員に転用したと考えれば、人や兵糧の手当てはつく。また戦国の軍隊にとって、戦時の陣地構築や付城を築くなどの普請行為は普段からやっていたことであった。彼らは土木工事に長けた集団だったから、現代人の我々が考えるほどハードルの高いものではなかったのかもしれない。また既に備中高松城攻めで、大規模な水攻めを経験していたことも大きい。秀吉の帳中には、堤防建築のノウハウを持つテクノクラートの集団が存在していた、ということだろう。

 とはいえこの規模の工事を10日間でやったわけであるから、やはり凄いのだ。流石は天下人というべきか、驚くべきプロジェクト遂行能力である。しかしながら詳細は次回述べるのだが、やはり突貫工事には相当の無理があったのである。(続く)

 

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その⑤ 自壊する惣国

 根来寺を侵略した同じ日、1585年3月23日には秀吉軍の先手が雑賀にも入っている。翌24日には、秀吉本隊も紀ノ川の右岸を進んで、土橋氏の本拠地である雑賀庄の粟村を占領した。居館を守るべき雑賀の者たちは、前日の夜にことごとく逃げ去ってしまって、何の抵抗もなかったらしい。

 実は秀吉軍の侵攻直前に、雑賀衆の間で深刻な内部抗争が起きていたのである。前日の22日に「雑賀の岡の衆が湊衆に鉄砲を撃ちかけ攻めた」という旨の記述が宇野主水の「貝塚御座所日記」にある。日記には続けて「雑賀も内輪散々に成りて、自滅之由風聞あり」とある。どうやら岡の衆は、以前より秀吉側にある程度内通していたらしく、前線崩壊の報を聞いて旗幟を鮮明にしたものと思われる。

 土壇場で裏切ったのは、岡の衆だけではなかったようだ。こうした内紛は同時多発的に発生したらしく、同日記には「在々所々にて、それぞれに内輪打破れて、右の如し」ともある。いち早く秀吉側についた甲斐あって、鷺ノ森の雑賀御坊や宇治、岡などといった一部の地域は無事だったようだが、その他の地域は軒並み略奪・放火されている。かつてあれほど信長を苦しめた雑賀惣国は、こうして組織的な抵抗などできないまま、秀吉軍に蹂躙されてしまったのであった。

 主戦派の土橋一族と湊衆は、船を使って土佐へ逃げた。同日記には「混乱の中、船を出す際に人が乗りすぎて沈んでしまった」旨も書かれている。いずれにせよ所縁のある長曾我部氏が一旦は彼らを受け入れたわけで、土佐側にもそれを裏付ける史料が残っている。

 だがこの数か月後には、秀吉による四国侵攻が始まるのだ。当主の土橋平尉は、今度は関東の北条氏の元へと逃れるが、更にこの5年後、関東仕置で三たび秀吉に攻められてしまい、北条氏は滅亡する。身を寄せた先が次々と滅びるという悪運に見舞われた土橋平尉だが(というよりも疫病神)、最終的には毛利氏の元へ身を寄せたようである。

 8年前と比べると、嘘のようにあっけなく占領されてしまった雑賀惣国。しかし、その中で頑強に抵抗した城があった。宮郷にあった太田城である。城に籠っていたのは太田家を中心とする宮郷の人々だが、これに近木川防衛ラインや根来寺から逃げてきた残党も加わっていたようだ。

 先の記事でも紹介した「根来寺焼討太田城責細記」に、太田城攻めの際に秀吉軍が手ひどいダメ―ジを負った様が描かれている。少し長いが意訳してみよう――「先陣の堀秀政3000騎、二陣の長谷川秀一3000騎が城に向かっていたところ(田井ノ瀬辺りか?)、森の中より太田勢の鉄砲隊300騎ほどが現れた。堀勢はこの鉄砲隊に散々に撃たれたうえ、斬り崩されてしまった。長谷川秀一勢が援護に入ったが、これも伏兵にやられてしまった。そこで三陣の前野長泰3000騎が救援に入ったところ、敵を追い払うことに成功した。逃げる敵を八丁堀まで追撃したところ、森の中から器のごときものを大量に投げつけられた。これが雷のごとき音を出しながら炸裂し、火を出したのである。そのひとつがよりによって大将の前野長泰の衣の裾に着火、部下が慌てて前野と共に川に飛び込んだ――」とある。

 このように、雑賀衆が手りゅう弾のような兵器を使用した様が描かれているが、99%フィクションであろう。ただ太田城攻めの際、秀吉軍が大きな損害を受けた戦闘は実際にあったようではある。

 どうやら中村一氏の使者一行が太田城に降伏を進めに来たところ、交渉は決裂となって(どうもその傲慢な態度が原因だったらしい)、その際に何らかの形で戦闘が発生した、ということのようだ。この戦いで秀吉側の武者50人ほどが討たれたとみられる。

 

惣光寺蔵「総光寺由来太田城水責図」より。江戸時代に作成されたもの。図の中央で燃えているのが根来寺である。その下にある戦闘風景が、先ほど紹介した秀吉方の武者が討たれた戦いであると思われる。

 

 この中村一氏の使者の一行であるが、なんとあの雑賀孫一が同行した、という記録があるのだ(「紀伊風土記」)。本能寺の変と連動して起こった土橋一族によるクーデターの際、間一髪の差で雑賀から岸和田城に逃れた孫一だが、どうやら秀吉の元で客将として暮らしていたらしい。秀吉の意をくんだ顕如の指示により使者に立った、ということらしいが、もしこれが本当にあったことだとしたら、さぞかし嫌々行かされたのに違いない。

 紀泉の人々にしてみれば、孫一は憎き裏切り者である。交渉が決裂し戦端が開かれてしまったのは、もしかしたら降伏勧告の一行に孫一がいたことも関係していたかもしれない。だとしたら逆効果だったわけだ。

 いずれにせよ、孫一本人と思われる人物の動向が確認できる記録はこれが最後になる。この後、程なくして何処かで死んだと思われる。惜しくも戦国大名になり損ねた男の最後は、比較的地味なものであったようだ。

 なお彼の子孫は豊臣家に仕えていたようで、彼の子だと思われる「鈴木孫一郎」或いは「すす木孫一」という男の名が、それぞれ1589年と1590年の豊臣軍の陣立書にあることが確認できる。どうやら豊臣軍の鉄砲隊(規模は100~150人ほど)を率いる隊長のひとりだったらしい。

 紛らわしいことに、ほぼ同時期に「鈴木孫三郎重朝」という男がいる。秀吉の朝鮮出兵辺りの記録から出てくる豊臣家の鉄砲頭を務めた男であって、先の「鈴木孫一郎」とは別人である。彼はなかなかの勇者であったらしく、関ヶ原の戦いの前哨戦・伏見城攻略の際には本丸に乗り込み、鳥居元忠を討ち取って名を上げている。後に家康に3000石で召し抱えられ、子孫は水戸徳川家に仕えた。或いは彼も、孫一の縁者のひとりであったのかもしれない。(続く)

 

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その④ 根来炎上

 近木川防衛ラインを、あっけなく突破されてしまった紀泉連合。そのまま南に軍を進めた秀吉軍は、23日には山を超えて根来寺に入った。風吹峠と桃坂峠、2つの峠を同時に越えて北から境内に侵入したと思われる。

 この秀吉による根来寺侵攻の詳細を、隣の雑賀太田党の目線から記した、「根来焼討太田責細記」という記録がある。江戸前期に書かれたもので、これには秀吉軍と根来行人らによる、根来寺を舞台とした激しい戦いの記録が記されている。少し長くなるが、要旨を見てみよう――

 秀吉軍に対するは、泉識坊をはじめ、雲海坊・範如坊・蓮達坊、そして杉乃坊といった面々。これら荒法師ら総勢500騎を率いるは、津田監物こと杉乃坊算長であった。(中略)攻めてきた秀吉軍に向かい、津田監物は100騎を率いて突撃する。敵陣が崩れたので、これを二十町あまりも追い立てるが、その隙に別動隊が門前に押し寄せ、鬨の声をあげる。

 城門には児童や老僧しか残っていなかったので、これを畏れて狼狽しているところを、攻撃隊は門を突破してしまう。取って返した行人方のうち、雲海坊は川口治郎という武者を、多聞坊は平賀図書といった武者を討ち取るも、乱戦の中2人とも命を落としてしまう。

 山内に突入した秀吉軍の増田・片桐・筒井・堀らの軍勢は、建物に火を放ったので、境内は燃え始めた。(中略)多くの僧が逃げ惑うところ、軍兵は容赦なく切り捨てたので、折り伏した骸が丘のように積まれた。

 大将・津田監物は、打ち物とっては並ぶ者なしの勇者であったから、和部金吾隼人や渡邊何某といった武者と同時に立ち合い、2人とも斬り捨ててしまう。しかし、さしもの勇者・監物も、直後に大谷慶松(吉継)と増田長盛に斬り伏され、首を取られてしまうのであった。

 最終的に秀吉軍が取った首は、衆徒のもの400以上、一揆の者の首が234。生け捕った者が根来の僧が200以上、一揆の者ども214人。味方で死んだのは190人、手傷を負ったのは300人ほどであった――

 以上、まるで見てきたような書きぶりだが、どこまで本当なのかは怪しいものである。記されている戦いの様相も、如何にも後世に創られた軍記物といった内容であり、そもそも鉄砲を得手としている根来衆なのに、それらを使用した描写は一切なく、打ち物取って戦う様しか描かれていない。しかもここに出てくる守兵の大将・津田監物(杉乃坊算長)であるが、1567年には既に死んでいるのが確認されているのだ。

 

算長こと津田監物は、種子島から根来に鉄砲をもたらした、歴史上の重要人物である。彼については、過去のこちらの記事を参照。

 

 実際のところ、戦える行人らは全て近木川防衛ラインに動員されていたようで、組織的抵抗は殆どなかったようだ。だがこの秀吉の大軍に対して、津田監物の息子であり、自由斎流砲術の開祖でもある、津田自由斎は最後まで戦って殺された、とも伝えられている。なのでこの自由斎を、父である津田監物と混同して描写した可能性はゼロではない。

 いずれにせよ自由斎は刀剣を振るって戦ったのではなく、最後まで愛用の鉄砲を抱えて戦った、と信じたい。松永久秀に殺された剣豪・足利義輝のごとく、持てる秘術を思う存分に駆使しての討ち死だったのだろうか。

 そうした個人レベルの武勇はともかくとして、近木川防衛ラインが予想よりも早く突破されたことから、根来の僧たちは取るものもとりあえず逃げ出していたようだ。竹中重門(あの竹中半兵衛の子)が記した「豊鑑」という書物には、「寺々はみな明けうせ、僧俄かに落ち行たりと見えて、器以下取り散らかして置けり~」とある。つまり寺内には、奪うものが豊富にあったはずなのである。このお宝満載のほぼ無人根来寺に、秀吉軍は駐留する。そしてその日の夕刻から夜にかけて、境内に火災が発生したのである。

 これが放火だったのか、それとも失火だったのかは分からない。

 ルイス・フロイスの「日本史」には「夜が明けたら、秀吉による略奪禁止令が出されそうな気配を察した足軽どもが寺に火をつけて、どさくさに紛れて略奪しようとした」旨が書かれている。如何にもありそうな話で、これが真相に一番近いのではないだろうか。

 火の回りは意外に早く、秀吉が泊まっていた宿所(泉識坊)まで焼けそうになったので、慌てて山上に避難した、とある。折からの強風に煽られて、火は境内の建物のことごとくを嘗め尽くしてしまったのだ。

 天を焦がす業火は夜空を赤く染め、その照り返しは遠く離れた大津の貝塚道場からも見えたようだ。本願寺顕如の祐筆・宇野主水は「貝塚御座所日記」に、「煙立ちてより、その夜大焼。天輝く也。根来寺放火」と書き残している。顕如以下、本願寺の重鎮たちは、山向こうの夜空を照らしつつ燃え続ける根来寺に向かって合掌し、経を手向けたのではないだろうか。

 一夜明け、境内は灰塵と化していた――今の根来に、中世以来の建物が殆ど残っていないのは、この時の火災で燃えてしまったからである。だが幾つか火を免れたものがある。まずは寺の宝と言える大塔、そしてその隣にあった大伝法堂と大師堂である。境内の他の場所から、川の流れで分けられるような位置にあったのが幸いしたのかもしれない。

 

Wikiより画像転載。今も根来寺境内に聳え立つ、国宝「根来寺多宝塔」と重要文化財「大伝法堂」。この大塔の落飾は1547年で、建築に半世紀ほどかかっている。高野山で発展した、日本独自の「多宝塔形式」による建築物であるが、五間四方というここまで大きなもので現存しているのは、この大塔のみである。なおこの塔には根来焼討時の弾痕が残っており、鉄砲を使った戦闘が一部あったものと推測される。大塔の隣にあり、同じく焼け残った「大伝法堂」であるが、残念ながら京の天正寺(近江の総見寺とも)の建築に使われる健材として解体され、運ばれてしまっている。中にあった三尊もこの時に持ち去られてしまったが、こちらは後に返還されている。現存している「大伝法堂」は、江戸後期に再建されたものである。

 

Wikiより画像転載。同じく焼け残った、重要文化財「大師堂」。1391年頃に建立されたものと推定されている。大塔の斜め前に位置しており、同じく焼き討ちを免れている。これらの建物とは別に、南からの根来寺の出入り口であった、前山に位置していた南大門も焼け残ったが、こちらは羽柴秀長大和郡山城の城門に転用するために運び去ってしまったので、現存していない。

 

 秀吉軍の侵攻があったにも関わらず、境内に残っていた僧らもいた。根来で生まれ育った、どこにも行く当てのない老いた者や、貧しい者たちだったのであろう。その多くは斬られるか、焼かれるかして殺されてしまったに違いないが、虐殺を生き残った者たちもいたのだ。

 だが一夜明け、彼らの目に映ったのは灰燼と化した一山であった。死を覚悟した彼ら(50~60人)は経帷子(死装束)を身に纏い、秀吉の前に姿を現す。流石にこれを哀れに思ったのだろう、秀吉は彼らに食物を与えるように指示している。

 彼らはしばらくの間、大塔と大伝法堂、大師堂の近くに住み着いていたらしい。奇跡的に焼け残ったこれらの堂宇は、彼らの心のよすがであったことだろう。しかし20日ほどたって、秀長から遣わされた大工たちの一団がやってくる。何をしにやってきたのか訝しむ彼らに向かって、大工たちは大伝法堂を解体しにやってきた、と告げたのである。

 もはや生きる望みをなくした彼らは、西大門の先にあった大門池に次々と身を投じたのである。こうして池に身を投げた老僧たちは、42人にも及んだと伝えられている。彼らが浮かんでこないように、若い僧がひとり畔に残って、長い竿を使い上から押さえていた、という悲しい記録(ルイス・フロイス「日本史」)が残っている。

 こうして中世根来寺は、終焉を迎えたのであった。(続く)

 

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡〜その③ 紀泉連合の敗北と、防衛ラインの崩壊

 千石堀城攻めとほぼ同じタイミング、もしくはそれよりやや早く、近木川ライン中央に位置する積繕寺城(しゃくぜんじじょう)も秀吉軍の攻撃にさらされている。

 籠城兵力はよく分かっていないが、戦略上重要なこの城に兵力を集中させたのは間違いないところだ。紀泉連合は近木川ラインの諸城塞に1万ほどの兵力を分散配置していたようだが、その半分近くはこの城に籠城していたのではないだろうか。この積善寺城に籠っていたのは、根来衆であった。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」に著者が加筆したもの。原図を90度、回転させてある。江戸後期に描かれた図なので、どこまで正確なのかは不明。積善寺城は近木川防衛ラインの中央に位置し、要石の役割を果たしていた。

 

 秀吉軍の先鋒、丹後与一郎の一手がまず積善寺城南方に迫り、城方との間で銃撃戦が展開された。城からの弾幕は強烈で、うち一弾が丹後勢の馬印に当たった、とある。

 だがこの攻撃は攻め手の勇み足だったようで、秀吉は一旦兵を退かせている。まずは千石堀城攻めに全力をあげることにしたのだ。数時間後に千石堀城は爆発炎上、派手に陥落する。

 意気上がる秀吉軍。改めて修繕寺城を攻めるは細川忠興大谷吉継、稲葉典道、筒井定次、佐々行政、伊藤弥吉などといった面々であるが、これに更に蒲生氏郷池田輝政らも加わった、とある。秀吉軍の総兵力の方も判然としないが、2~3万はいたのではないかと思われる。

 先鋒を務めた細川忠興軍に対して、紀泉連合軍は城内から討って出てきたという。或いはこれも、連携していた近くの砦から出撃してきた別動隊であったかもしれない。

 細川隊はこの隊の弓鉄砲による攻撃に激しく晒されてしまう。細川家の記録にはこの時、先駆けの武者・沢村才八が鉄砲玉を7発食らい、うち1発は身体を貫通して深手を負った、とある。また武藤喜左衛門や杉原伝八ら、名のある武者が何人も討ち死にしたようである。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より、千石堀城(左下)・積善寺城・(左上)、高井城(右下)を拡大。積善寺城は、持仏観音堂であった所を中心に、周辺の村落を堀や土塁で囲み要害化した城である。規模は東方が78間(約142m)、二重堀が設けられ、西方が93間(約170m)、三重の堀があり、北方は130間(約236m)で堀は三重、南方は120間(約218m)で堀は三重、外郭には更に池があった、と伝えられている。

 

 だが多勢に無勢、援軍を加えた寄せ手の攻撃に耐え切れず、根来衆らは城内に退去し籠城戦に入った。軍勢が近づくと、城内から盛んに矢や鉄砲玉を撃ちかけてきたようだが、隣に位置する千石堀城が陥落したのが心理的に堪えたのだろう。翌22日に、城はあっけなく降伏開城してしまったのであった。

 この積善寺城、そして千石堀城の前面には高井城があり、成真院率いる熊取大納言坊(小佐次盛重)ら根来衆が籠っていた、と伝えられている。この高井城は集落を取り込んで城郭化した、環濠集落のような城であったようだ。福島正則軍に攻められており、おそらく積善寺城よりも先に落とされてしまったものと思われるが、守将である熊取大納言坊は落ち延びている。(このとき彼は秀吉側に従軍していたという、全く逆の話も伝わっている。いずれにせよ、彼はこののち様々な戦役に参加した後、名を根来右京と改め子孫は幕臣となり、三千四百石の大身旗本として栄えることになる)

 最も海岸に近い沢城、そして畠中城はどうなったのだろうか?

 まずより前線に位置していた畠中城であるが、「百姓の持ちたる城なり」と記録にあることから、泉南地方の土豪である神前(こうさき)氏の本館であった可能性が高いとされている。この城は寄せ手の攻撃を少なくとも1回は撃退したようだが、大軍による包囲と千石堀城の落城で士気が失せたらしく、その日の夜のうちに自ら城に放火し、退却している。

 沢城に籠っていたのは、雑賀衆だ。城内に紀州街道を取り込んでおり、古くからあった薬師堂を中心に要害化した城だったらしい。守将は的場源四郎とも伝えられているが、定かではない。守兵の数は6000と書かれた記録もあるが、かなり誇張された数字だと思われる。いたとしても千石堀城と同数の1000~2000がいいところだろう。この城を攻めるのは、中川秀政と高山右近

 

右下が畠中城、左下が窪田城、そして一番上が沢城。それぞれが土居によって連結され、有機的な連携が取れる設計の城塞コンプレックスとなっている。ただこれは江戸後期になって造られた図面であるので、本当にこのような縄張りであったかどうかは怪しいところである。なお窪田城における攻城記録は伝えられていない。

 

 城にいた雑賀衆からの一斉射撃により、攻め手はいきなり多数の死傷者を出したようだ。当時の本願寺の記録に「21日より攻め手は(沢城の)壁際に打ち寄せたが、城内からの鉄砲により多くの手負いを出した」と書かれた旨のものがある。

 だが中川秀政はひるまず自ら前線にたち、じりじりと二の丸の堀際まで攻め寄せる。翌々日の23日までには二の丸も陥落、本丸直下まで迫ったようだ。そしていざ本丸に突入せんとする直前、城内から和平の合図である笠が出された、とある。城兵は命を許され、各地に落ち延びていったという。

 この沢城の陥落をもって、近木川防衛ラインは完全に一掃されたことになる。一番長く抵抗した沢城ですら、3日間しかもたなかったのであった。

 実のところ、上記で紹介したこれら根来の出城の多くは、防御力の低い平城であった。丘の上に建てられ複数の曲輪に空堀や石垣があった、戦国期らしい堅城といえるのは千石堀城のみである。「根来出城図」を見てみると、出城の中で「城」と記載されているのは千石堀城と沢城のみで、他は「村」と記されている。ラインを構成した城の多くは、交通上の要所にある村落を要塞化しただけの「村の城」であったのだ。

 秀吉は戦術上最も手ごわい千石堀城を落としてしまえば、他の諸城の攻略も楽になると考えていたようで、戦略上重要な積善寺城を一気に攻めず、まずは千石堀城攻めの方に全力をあげた。千石堀落城時の火薬庫爆発の轟音と火柱は全ての城から見聞きできたはずで、最も防御力の高かったはずの城がわずか数時間の戦闘で落城してしまったことが、秀吉の思惑通り防衛側の士気に致命的なダメージを与えたといえよう。

 そしてこの防衛線を突破された今、秀吉軍から根来そして雑賀の地を遮るものは、何もなかったのである。(続く)

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その② 千石堀城攻防戦

 

 堺を通過して、和泉国を南下する秀吉軍。岸和田城まで来たら、近木川防衛ラインはすぐ目と鼻の先だ。軍の主力は21日の15時頃には岸和田城に到着、16時には千石堀城の目前まで迫っている。

 秀吉軍は到着するや否や、千石堀城にいきなり攻めかかった。攻め手は(諸説あるが)筒井順啓・堀秀政・長谷川秀一の軍勢が主だったようである。総指揮官は羽柴秀次。1万5000人ほどの軍勢だったようだ。対する千石堀城を守るは、根来衆のうち愛染院と福永院を主力とした1500人。守将は大谷左大仁と伝えられている。

 

岸和田市立郷土資料館蔵「根来出城図」より千石堀城を回転拡大。右に流れているのが近木川である。南北2キロほどの丘の先端(舌状台地)に構築されたこの城は、大熊街道をおさえる戦略上の要地に位置していた。戦国大名らの持つ築城術と比べると、根来衆のそれはそれほど優れていなかったようだ。最もこの城は大規模なものではなく、支城のひとつに過ぎなかったのだが。イエズス会の報告には「籠城した城には、非戦闘員も4~5000人いた」とあるが、スペース的にそこまで収納できなかったと思われるので、この報告は疑わしい。

 

 城に近づくと、城方は猛烈な勢いで鉄砲を撃ってきた。寄せ手は城壁になかなか近づくことができない。苦戦しているところに、横合いから紀泉連合の別動隊が奇襲、得意の鉄砲と弓矢で攻撃してきた。紀泉連合の城塞群はそれぞれが連携して建てられていたようなので、この別動隊は近くの高井城、もしくは積善寺城から出撃した部隊だったかもしれない。これに耐えきれず、攻城側はひとまず兵を退く。一度目の攻撃は頓挫したのだ。

 意気上がる千石堀城兵。既に日も暮れかけている。秀吉軍の中にも、この日のうちに城を攻略することに懐疑的な空気が流れる。しかし攻城の総指揮官であった秀次が、強硬に攻撃の続行を主張した。先の「長久手の戦い」における攻め手の総指揮官であった秀次にしてみれば、酷い敗戦で終わったあの時の戦いの汚名を、何としてもここで挽回しなければならなかったのだ。

 秀次は直属の将である、田中吉政・渡瀬繁詮・佐藤秀方らに命じて兵3000人を投入、これを先手とした総攻撃が再び始まる。この秀次勢も、やはり城内からの鉄砲に散々に撃たれてしまったようだ。苦戦した秀次は、予備兵力である馬廻りまで戦闘に投入している。苦しみながらも、じりじりと前進する秀吉軍。多大な犠牲を払いながらも、ようやく大手門から二の丸を落とすことに成功した。

 だがまだ肝心の本丸が残っている。この時点で秀吉軍の損害は、既に1000人を超えていたようだ。本丸を落とすまで、あと如何ほどの犠牲を払わねばならないのか。だがこの時、筒井勢の元にいた伊賀者らが搦め手より本丸に接近、火矢を射かけた。この火矢により城内の建築物に火災が発生、それが火薬庫に誘爆したのである。

 火災と爆発により、混乱する千石堀城内。この機を逃さず、一気に秀吉軍は本丸に侵入、こうして千石堀城はわずか数時間の攻撃で陥落してしまったのであった。

 先の記事でも言及したように、紀泉連合の防衛プランは大量の鉄砲を以て敵を迎撃し、多大な犠牲を払わせその攻撃意図を頓挫させることにあった。そしてそのプランは、当初は想定通りに機能したのである。

 秀吉軍の死傷者は短時間で1000人超え(記録によってはそれ以上)という、多大な数に上っている。攻め手は約1万5000人だが、これは戦闘に参加しない小荷駄隊なども含めた数だろうから、それらを除いた実戦兵力は1万2000人ほどになろうか。更にその中から城内に乗り入れることのない、援護を主任務とする鉄砲足軽弓手などを除いたら、直接城に掛かっていった攻城兵数は更にその60~70%、8000人以下であろう。城に突入しようとした戦闘部隊のうち、12%以上が死傷していることになる。

 千石堀城が落城した契機は、火災による火薬庫誘爆である。だがこの不幸な事故がなかったとしても、千石堀城はやはり陥落していただろう。12%の死傷率にも関わらず、秀吉軍は次々に新手を出していっただろうからだ。

 ここが8年前の信長軍とは違うところで、当時の信長にはここまでのダメージに耐えられるほどの予備戦力はなかった。畿内を制していたとはいえ、石山本願寺は未だ健在、西には毛利氏、東には武田勝頼、そして北には上杉謙信が控えていた。情勢は未だ予断を許さず、兵力を無駄に消耗するわけにはいかなかったのである。

 だがこの時期の秀吉は違った。信雄と家康を従属させた今、直接的な脅威は長宗我部氏くらいしかなかった。その長宗我部氏も、四国の守りに入るので手一杯で、こちらに侵攻してくる余裕などない。秀吉はその潤沢な戦力を、安心して使用できたのであった。

 これに近い戦いが、関東の北条攻めでも行われている。この5年後、1590年に行われた「山中城攻防戦」である。箱根の山中にある山中城は特異な形状をしていて、その建築意図はズバリ「攻めてきた敵を、如何に虐殺するか」というプランの元に設計された城なのである。北条氏はこの城に4000人の城兵と大量の鉄砲を入れて、豊臣軍を待ち構えていたのである。

 

筆者撮影、山中城跡。遺構もよく整備され、北条氏お家芸の障子堀も確認できる。地元のタクシーの運転手は「ワッフル城」と呼んでいた。特筆すべきなのは、この城は落城した経緯の詳細が分かっていることなのである。中村一氏の元侍大将で、実際にこの城に攻め入った渡辺勘兵衛という高名な武士が「渡辺水庵覚書」という体験談を記しているのだ。

 

「余湖くんのホームページ」より画像拝借。箱根山中城。大手門と三の丸を構成する中央部分が残念ながら残っていないが、図にPと書かれた駐車場辺りに大手門、そして現在は集落がある白い部分に三の丸があった。ご覧の通り、逆Ⅴ字型をした特異な形状である。


 旧箱根街道を辿って大手門に攻めかからんとする敵は、岱崎(だいさき)出丸に大量配備された鉄砲に横合いから射撃され、大量の死傷者を出す。敵がひるんだすきに西丸から別動隊が出撃、これを挟み撃ちにして撃退する――そんなコンセプトで設計されたこの城は実際、大手門を攻めてきた一柳直末軍に対して多大な被害を与えることに成功している。千石堀城攻めと同じように短時間で1000人以上の死傷者を出した上、先手の将である一柳直末まで射殺されているのだ。

 だが同時に西丸を徳川家康軍に、岱崎出丸を中村一氏軍に攻められ、あっと言う間に陥落してしまった。秀次軍の兵力はなんと4万5000人にも及んでおり、この城はこんな大軍に同時に多方面から攻められることを、予想していなかったのである。

 千石堀城よりも洗練されていたとはいえ、同じようなコンセプトで設計された山中城も結局は同じような運命を辿った。旧来の戦国大名には有効だった戦略も、天下人の前には通用しなかったのである。既に中世は終わり、新しい時代が始まっていたのだ。(続く)

 

戦場において、侍や足軽たちが実際にどのように行動したか?を軍事の視点から解説した名著。戦国後期の大名の軍隊は「兵種別編成」が成されていたという論は、傾聴に値する。またこの本の中では、渡辺勘兵衛が「渡辺水庵覚書」において記した山中城攻めの経緯が細かく解説されている。城に入ったはいいが、守兵の鉄砲に射すくめられてしばらく身動きできなかったくだりなど、実にリアルである。山中城を訪れた際は、是非この本を片手に、往時を想像しつつ勘兵衛が攻め入ったルートを辿ってみて欲しい。

 

文献を元に、戦国の城をイラストで再現している。やはりイラストだとイメージが湧きやすい。残念ながら「千石堀の戦い」は載っていないが、「山中城の戦い」は載っている。山中城に行く際は、先に紹介した「戦国の軍隊」と併せてこの本を持っていくと完璧である。

 

 

秀吉の紀州侵攻と根来滅亡~その① 近木川防衛ライン

※このシリーズでは「秀吉の紀州侵攻」、そして「中世根来寺の滅亡」を取り上げる。ここに至るまでの経緯は、下記リンク先「根来と雑賀」シリーズを参照のこと。

 

根来と雑賀 カテゴリーの記事一覧 - 根来戦記の世界 (hatenablog.com)

 

 諸般の事情で延び延びになっていた、紀州征伐。だが秀吉は、1585年に遂に紀州に対する本格的な侵攻を決意する。これまで有利に進んでいた小牧の役で家康側と停戦してまで、紀州を攻めることを決めたのだ。

 この戦役が始まる直前、85年3月上旬に秀吉側の使者として、高野山の客僧である木食応其(もくじきおうご)が根来寺に遣わされている。戦いの前に、一応は和平の条件を提示したようだ。だがその条件は、根来寺が持っている利権の数々の殆どを召し上げ、代わりに2万石ほどの地を新たに与える、といったものであった。この時期、根来寺は72万石ともいわれるほどの寺領を持っていたと言われている。行人方にしてみれば、とても呑める条件ではなかった。

 学侶方の殆どと、秀吉の力の強大さを知る一部の行人方(岩室坊など)は和平案に傾いていたようだが、その他の行人方は反発した。全山の衆徒が集まっての集会では、激論が交わされたようだ。しかしこの日の夜更け、主戦論者の跳ねっ返りの輩(杉乃坊のようだ)が「和平を結ばせてはならぬ」とばかりに、使者が宿泊していた岩室坊に向かって鉄砲を撃ちかける、という暴挙にでるのだ。木食応其は命からがら下山し、交渉は決裂する。

 秀吉はかねてからの計画通り、3月20日から21日にかけて大阪城から出陣する。堀秀政筒井順慶細川藤孝・忠興親子、中川秀政、高山右近蒲生氏郷宇喜多秀家羽柴秀次羽柴秀長錚々たる面子であり、そして最後に秀吉本隊という、10万の大軍による侵攻であった。

 秀吉のこの動きに対し、紀泉勢はどのように対処したのだろうか?

 まず、ここ2年間ほど続いていた小競り合いにおいて、紀泉勢は幾つかの前進基地を和泉に築いていた。これらの出城は近木川に沿って複数建てられており、防衛ラインを形成していた。主なものとしては西から順に、沢城、畠中城、積善寺城、そして千石堀城である。またこれらの出城と連携し、更に多数の城砦が建てられていたようである。

 

紀泉連合が形成した、近木川防衛ライン。城塞の数は7~12カ所もあったと伝えられている。それぞれが連携した造りになっていて、例えば沢城は東隣にあった窪田城(地図に記載なし)と土居によって連結されていて、その窪田城は対岸にある畠中城と結ばれており、互いに行き来が可能であった、とある。

 紀州に進軍するには、秀吉軍はまずこれらの防衛ラインを突破する必要があった。そして紀泉勢は、実のところ秀吉軍に勝てるとまではいかないまでも、この防衛ラインで撃退する自信があったのである。

 8年前に、信長が雑賀を攻めたときのことを思い返してみよう。あの時、信長は今回の秀吉と同じ、10万と号する大軍をもって雑賀へと攻めてきた。当時これに相対したのは、雑賀庄と十ケ郷の2組のみ。動員兵力は精々2~3千ほどしかおらず、同じ雑賀惣国の宮郷・南郷・中郷まで敵に回る始末。にもかかわらず撃退に成功している。

 あの雑賀合戦の際、信長の浜手勢3万を中津城、山手勢3万を雑賀川、この2つの防衛ラインで食い止めることに成功した。それが成功した理由は何といっても、鉄砲隊の存在である。双方の戦線で、信長方が雑賀の鉄砲隊の攻撃に悩まされた旨の記録が残っている。まして此度は紀泉連合軍であり、1万ほどの兵を動員できているのだ。戦力比でいうとその差は縮まっている(それでも10:1ほどだが)。

 いや、幾ら大軍で攻めかかってこようが関係ない。城に取り付いてきた兵を得意の鉄砲で、片っ端から撃ち倒してしまえばいいのだ。しまいには犠牲の多さに嫌気がさして、攻撃は頓挫するだろう――このような思惑だったようだ。

 彼らの考え方は、そう間違ってはいない――相手が普通の戦国大名であるならば。8年前の雑賀攻めの際の信長は、当時日本で最大勢力であったとはいえ、まだ畿内を中心とした地を制する戦国大名のひとりでしかなかった。だがこの時期の秀吉は、既に戦国大名ではなかったのである。彼の力が及ぶ領域は(従属的な同盟関係にいる大名を含めると)西は北九州から東は三河、北は越後まで、日本の主要部分を占めていたのだ。実質的には、彼は既に「天下人」だったのである。

 これら秀吉の大軍が堺を通過した際、本願寺からは新門跡となった教如をはじめ、下間一族ら供衆らが出迎えており、太刀や馬を贈っている。実は本願寺はこの2年前、1583年の7月には本拠地を雑賀・鷺森道場から堺のすぐ隣、大津の貝塚道場に移転していたのである。

 中世以来の強大な独立勢力であった本願寺はこの時期すでに、新しい時代に即した宗教の在り方――積極的に権力者の傘下に入ることで、宗教権門として発展していく、という道を歩み始めていたのである。一方、旧来の独立独歩の在り方にあくまでも固執した中世根来寺は、滅亡への道へと進んでしまうのだ。

 だが本願寺にしてみても、10年に渡る石山合戦の死闘で多くの血を流した結果、ようやくにして至った結論だったわけであり、そうした経験を持たなかった中世根来寺が新しい道を選べなかったのは、仕方のないことだったのかもしれない。(続く)

 

根来と雑賀~その⑧ 紀泉連合軍の大阪侵攻 岸和田合戦と小牧の役

 85年3月、信雄の秀吉派三家老粛清を機に、羽柴と織田&徳川の両陣営は臨戦態勢に入った。領地の大きさでは秀吉に比するべくもない織田&徳川は、紀泉連合との連携を試みる。

 話は飛ぶが根来滅亡後、生き残った根来衆の一部は「根来組」として家康に召し抱えられることになる。そんな根来組が、自らの出自由来を記した「根来惣由緒書」という書物がある。書かれたのは江戸期も後半に入ってからの1811年なのであるが、この「由緒書」によると「小牧の役」の際、「秀吉より味方するよう使いが来たが返答しなかったが、権現様(家康)からの使者(井上正就)が持ってきた手紙には、我らを頼るという内容が書かれていのでこれを受け、西国より攻め上がる秀吉の軍勢を大阪表に防ぐため、大阪城に出陣、云々」旨が書いてある。まるで根来衆は家康の要請に従って決起したようなことになっているのだ。

 だがこれは後年になって、この時の根来組と徳川家の縁起を、箔付けのため殊更に強調したもののようである。使者が来たのは事実のようだが、当時の根来衆にしてみれば大身とはいえ家康は単なる一地方の大名で、同盟者以上の存在ではなかった。根来衆の当時の記録には「家康」と呼び捨てにしたものも残っているのだ。

 実際に紀泉連合との細かい交渉事に当たったのは、織田信雄重臣であった佐久間信栄(のぶひで)だったようだ。彼は信長に追放された重臣佐久間信盛の息子であり、あの「天王寺合戦」にも参加している男である。父の死後、許されて織田信雄の家臣となっていた彼は、追放期間中は紀州寒川に住んでいた。また近くの保田庄には、彼の親族にあたる保田安政(猛将・佐久間盛政の弟。保田家に養子に入っていた)の一族がいたのだ。そうした伝手を評価され、紀泉連合との折衝を任されていたようである。

 ともあれ強力な同盟者を得て、これを好機と見た紀泉連合は早速、和泉に軍を差し向けることになる。同じ反秀吉連合の一員である四国の長宗我部勢も、連携して海から攻めてくれることになった。後年「岸和田合戦」と呼ばれる戦いの始まりである。

 まず3月18日、2手に別れた紀泉連合は海陸から進撃する。海からは長曾我部旗下の管氏の水軍が、大津城まで攻め寄せた。陸路を行く紀州勢は岸和田城下まで迫る。実はこの前日の17日には、小牧方面に進出してきた徳川軍の先陣と、羽柴側の森長可軍との間で既に戦闘が開始されている。徳川軍と雌雄を決すべく大坂から出陣しようとしていた秀吉は、出兵を延期せざるを得なかった。

 兵力で劣る中村一氏岸和田城から出撃せず、籠城策をとった。紀泉勢はこれを包囲する。19日と20日は雨が降ったので、合戦は行われなかったようだ。鉄砲を多数持っていた紀泉勢が、火縄が濡れるのを嫌ったためであろう。雨が上がった翌21日になって、雑賀の土橋兄弟が指揮を執る4~5000の兵が岸和田城に攻めかかった。更に長宗我部水軍(130隻)と連携した紀泉勢の別動隊が、陸路で堺まで進撃した。

 紀泉連合の攻勢は、なおも続く。22日には建設途上の大阪城を焼き討ちせんと、軍勢の先手が大阪城下の天王寺にまで達したようだ(あの「天王寺合戦」の舞台となった地である)。実際、城下町には火がつけられ火災が発生している。小牧方面が気になる秀吉は、その前日の21日には大阪を出発していたのだが、報せを聞いて慌てて軍を返している。最終的には紀泉連合の攻勢は頓挫し、目的を達することなく退却したのであるが、秀吉は肝を冷やしたはずである。

 しかし紀泉連合は結局、岸和田城を落とせなかった。後年に編纂された戦記物「常山紀談」では、中村一氏勢の大活躍により紀州勢が大敗した、という筋書きになっている。だが実際には、大阪城在番衆の黒田長政生駒親正らが奮戦したようである。その証拠に両名は「(紀州勢の)首を数多打ち捕らえ、比類なし」とのことで、岸和田合戦の功として恩賞2千石が与えられているのだ。

 中村一氏が直接的な褒賞に預かったという記録はない(残っていないだけかもしれないが)。だがどちらかというと、消極的な戦い方のせいで大阪まで攻め込まれたということで、評価を落としたのではないだろうか。紀州征伐がすべて終わった後、一氏は栄転と言う形で近江水口6万石の大名として国替えになるのだが、2年間に渡って和泉の最前線で奮闘した割には、加増額は約3万石と少めである。

 いずれにせよ、紀泉連合があきらめて一旦兵を引いたのを確認した秀吉本隊は、ようやく小牧へと軍を進めることができた。25日に岐阜に到着、27日に前線最寄りの犬山城へと入城している。しかしそこで秀吉が目にしたのは、土塁を築きがっちりと守りを固めた徳川軍であった。小牧において、堅牢な野戦陣地を構築されてしまっていたのである。

 「山﨑の戦い」や「賤ケ岳の戦い」で見られるように、戦さにおける秀吉の持ち味は軍団の迅速な移動、そしてそこからの急襲である。想像以上のスピードで襲い掛かってくる秀吉軍相手に、敵は不利な体勢で迎撃せざるを得ず、秀吉はこの方法で何回も敵を撃破してきた。だがこの戦いにおいては、紀泉連合を相手に小競り合いを続けている間、貴重な時を稼がれてしまったので、その手法は取れなかったのであった。

 代わりに秀吉は強引な手を取らざるを得ず、分遣隊を迂回させて敵陣後方に中入りさせるという、大胆だが無謀な策に出る。4月9日に行われたこの「長久手の戦い」において秀吉は賭けに負けて、局地的大敗を喫するのだ。

 

豊田市郷土資料館所蔵「長久手合戦屏風図」。この中入り策は池田恒興森長可が献策した、ということになっているが、実際には秀吉がやる気で両者はその意を受けて進めていた、というのが真相のようだ。ちなみに両者ともこの戦いで敗死してしまっている。

 短期決戦の思惑は外れ、戦いは長期戦に入る。対陣は8ケ月にも及んだのだ。千日手ともいえる状況の中、三者ともそれぞれ問題を抱えていた。まず信雄は領地である伊勢・美濃の居城を秀吉にことごとく落とされてしまい(佐久間信栄の蟹江城も落城、尾張に逃亡している)、真っ先に音を上げてしまう。勝ち目はないと判断した信雄は、同盟者である家康に一言もないまま、11月15日に秀吉と単独講和を結んでしまうのだ。驚くべき見勝手さである。

 残された家康は、厳しい立場に追い込まれる。実のところ、予想以上に長引いた戦役の負担は家康の肩に重くのしかかっており、領国では荒廃が見られはじめていた。長雨による洪水にも祟られ、飢饉が発生していたようである。富と人的資源という点では、しょせんは田舎大名であった家康は、中央を制していた秀吉には遠く及ばなかった。戦費は既に底を尽き、徳川家の財政は破綻寸前だったのである。

 だが秀吉にしてみても、お膝元の畿内をこれ以上、放っておくわけにもいかない事情があった。紀泉連合がしつこく和泉で蠢動していて、その対応のためもあって、秀吉は6月21日~7月18日、7月29日~8月15日、10月6日~10月25日と戦場を離れ、大阪城に帰還せざるを得なかったのである。まずはこの五月蠅い紀泉の連中を何とかせねばならぬ。こうして家康とも、講和と相成ったのであった。

 家康の生涯はピンチの連続なのであるが、この「小牧の役」の際も相当危なかった。彼がこの戦役を何とか引き分けに持ち込めたのは、勿論「長久手の戦い」における大勝利あってのことなのだが、これをうまくアシストしたのは、根来・雑賀を中心とする紀泉連合だったのである。(終わり~次のシリーズに続く)

 

<参考文献>

田尻町史 歴史編/田尻町史編纂委員会/田尻町

顕如:信長も恐れた「本願寺」宗主の実像/金龍静 木越祐鑿 編/宮帯出版社

・戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆鈴木眞哉 著/平凡社新書

・鉄砲と日本人/鈴木眞哉 著/ちくま学芸文庫

・雑賀一向一揆紀伊真宗/武内善信 著/法蔵館

真宗教団の構造と地域社会/大阪真宗研究会 編/清文堂

・戦国期畿内の政治社会構造/小山靖憲 編/和泉書院

・豊臣政権の形成過程と大阪城中村博司 著/和泉書院

・和泉戦記/中井保 著/泉州出版社

根来寺衆徒と維新時代の吾が祖/古川武雄 著

和歌山市雑賀地方史―6世紀から平成12年まで―/松田文夫 著

・信長・秀吉の紀州攻め史料/松田文夫 著

・その他、各種学術論文を参考にした