甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。
見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成されたようだ。特に「文永の役」の予言が当たったのち、彼の名は非常に高まった。
1274年10月に「文永の役」が起こったとき、日蓮はどう考えたのだろうか。「ほーら見ろ、俺が言った通り。自業自得だ」そう溜飲を下げたに違いない――そう考えるのは、(ブログ主を含めて)凡人なのである。これについて彼が書いた手紙が残っている。要約して紹介しよう――「日本国を助けようと日蓮は頑張ってきましたが、逆に迫害を受けたので山林に隠れました。かねてからの警告、『蒙古が来る』を少しでも聞き入れてくれていれば、ここまでの被害がなかったのではないかと思い、心が痛みます。人々がみな対馬や壱岐のような目に逢うかと思うと、涙が止まりません」――
過激な主張をする人なので誤解されやすいのだが、彼は実に心優しい人なのだ。そんな人柄だったので、彼を慕って100人もの弟子や信者が集まってくるのであり、また彼らを養うために日蓮は苦労するのである。日蓮とその弟子たちを養うために、各地の信者たちは様々なものを寄進している。これに対して日蓮は懇切丁寧な礼状を書いているが、それらは全て仏法の教えを説くスタイルを取っているなど、残された手紙はどれも細やかで心が籠っているのだ。
「文永の役」から7年――1281年5月、日蓮が予言していたように、元軍が再び対馬に来襲する。「弘安の役」の始まりである。今度の総兵力はなんと15万(!)以上、軍船が4400隻という、想像を絶する大軍であった。
まずは朝鮮半島より東路軍5万が襲来、5月21日~26日にかけて対馬・壱岐を蹂躙。6月初頭には博多湾沖に姿を現している。しかしながら、今回は鎌倉幕府も備えていた。海沿いに総延長20kmにもわたる石築地(高さ・幅とも平均約2m)を築き、浜には逆茂木や乱杭も設置されていたのである。
東路軍はこれを見て強襲上陸を断念し、6月6日に博多湾突端にある地続きの志賀島に上陸、ここに橋頭堡を築くことにする。しかし血気に逸る鎌倉武士団は、陸路・海路双方からここに猛攻を加えるのだ。これに辟易した東路軍は橋頭堡を一旦放棄、壱岐島まで後退することにする。まず前哨戦は、鎌倉武士団の勝利であった。
しかし元軍の主力は、未だ到着していない江南軍10万なのである。予定より遅れ、6月中旬に大陸より出航した江南軍が姿を見せたのは、ようやく7月に入ってからのことだ。まずは平戸を占領しここに橋頭堡を築いた後、鷹島まで進出する。一方、一旦は壱岐島まで兵を引いた東路軍であるが、度重なる日本軍の襲撃に悩まされていたこともあり、船団を移動させ、江南軍と合流することに成功する。こうして総勢15万の兵がようやく集ったのである。7月の終わりのことであった。
ここまで東路軍に対し優位に戦いを進めていた武士団であるが、新たにやってきた江南軍の存在は予想外であった。どうも日本軍は東路軍が壱岐島から鷹島に移動したのを、撤退と誤認していたようである。平戸に元の大軍が集結している報に接した京都の官務・壬生顕衡は、その日記に「恐ろしい知らせだ。実に驚いた」旨を記している。
しかしバーサーカー・鎌倉武士団は怯まない。合流を果たした元軍に対し船戦を仕掛けている。7月27日の昼から28日の明け方まで、鷹島沖に停泊している艦隊に対し、長時間に渡って波状攻撃をかけているのだ。
元軍はというと、矢継ぎ早に攻めこんでくる武士団の襲撃に、態勢を立て直す暇もない。攻めてきたはずなのに、逆に守勢に回ってしまっている。先手を取られてしまい、イニシアチブをとることができないのだ。
そして7月30日の夜、北九州を大型の台風が襲ったのである。
鷹島・平戸沖に停泊していた多くの船が、兵と共に海の底に沈み、元軍は大ダメージを負う。武士団はこれに対して容赦なく、とどめの攻撃をかける。翌月の5日・7日に行ったこの戦いが決定打となり、元軍は撤退を決定するのだ。乗れる船がなく、多くの兵が取り残された鷹島は、殺戮の場と化した。こうして2度目の元寇も、撃退されたのであった。
――以上が、「弘安の役」のこれまでの通説である。この説は1931年に刊行された、池内宏氏による著作「元寇の新研究」において発表されたものを土台としており、若干の修正を加えつつも、現在でも広く学会の支持を得ている。実際、Wikipediaの元寇の記事を覗いてみても、概ね上記のような内容となっている。
しかしながら、この元寇に関して、「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」という、大変面白い本が出ている。著者は服部英雄氏。過去記事で紹介した、秀頼の出自について刺激的な説を述べた、あの学者である。次回の記事では「弘安の役」について服部氏の説を紹介してみたい――これを読むと、通説とはやや異なる様相が見えてくるのである。(続く)
秀頼の出自について、服部氏の説を紹介した記事はこちらを参照。服部氏はなかなか過激な論を述べることで有名な人でもある。中にはその過激な論を受け付けず、眉を顰める学者もいるようだ。ブログ主はしかしながら、こういう人がいないと議論は硬直してしまうものだから、必要な人材だと思うものである――やや強引な倫理展開もあるが、そこまで荒唐無稽というわけではなく、特に意表をついた視点には、納得できるところがある。