根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑨ 倭寇による国造り・台湾王国樹立とその滅亡

 オランダ勢力を駆逐して、台湾を手に入れた鄭成功はさらに南方、スペイン人の占領するフィリピンに目を向ける。彼の旗下にいたイタリア人修道士をマニラに遣わし貢納を要求した、という記録が残っている。これは現地のスペイン人に、ちょっとした恐慌を巻き起こした。すぐにでも鄭軍が攻めてくるに違いない、そう思い込んだスペイン軍は戦時の内応を恐れ、先手を打って在マニラ中国人を虐殺するという暴挙に出たのだ。(事実、そういう動きもあったのだ)

 報告を聞いて激怒した鄭成功は、マニラを占領せんとフィリピン攻略を企画する。だがこれが実現する前、1662年6月に鄭成功は病死してしまうのだ。台湾征服からわずか数か月後、この時まだ37歳の英雄の早すぎる死であった。長生きしていたら、かつて林鳳が成しえなかったフィリピン占領という夢まで実現するところであった。事実、当時の在フィリピン・スペイン軍の規模と実力では、鄭軍には勝てなかっただろうとみる学者は多い。

 彼の死後、息子の鄭経が跡を継ぐ。だが叔父である鄭襲ら、一族との跡目争いが発生、その勢力は大きく削がれてしまう。中国大陸における拠点は1664年までには全て陥落、鄭氏政権は台湾に引きこもることになる。

 

Wikiより画像転載。「鄭経肖像画」。彼は弟の乳母との間に子を成していて、激怒した父・鄭成功により、危うく処刑されそうになっている。これは当時の儒教的価値観からすると、近親相姦に近いスキャンダルだったらしい。

 

 この鄭氏政権のモットーは「反清復明」であったから、明王朝の末裔である朱以海を擁していた。しかし彼は、鄭成功が死んだ同年の62年の年末に、44歳で没している。(死因は喘息が悪化したため、とされているが本当だろうか。)以降も鄭氏は自ら王号を称することはなかったが、周辺はそう見ていなかったようだ。この時期の鄭氏政権は、イギリス東インド会社と通商条約を結んでおり、イギリスの史料には「台湾王国」、或いは「フォルモーサ王国」と記されている。また鄭経に対して「陛下(Your Majesty)」の呼称を使っている。足利幕府将軍のように、海外からは独立国家の王として見られていたようだ。

 そして幸運なことにこの鄭経の下には、陳永華という優れた内政官がいたのだ。陳永華は兵による屯田をすすめ、台湾における農業生産力を向上させた。また製塩技術を改良して良質の塩を得られるようにした他、甘藷の栽培も行っている。更には清の海防を担当する将軍に賄賂を贈り、沿岸における密貿易を再開させている。これら一連の優れた施策により、鄭氏政権下の台湾は一応の安定を見せたのである。

 

ikiより画像転載。赤色が鄭氏政権の支配していた領域で(一時的なものも含む)、オレンジ色が鄭軍の最大侵攻領域。いずれも海や河沿いで、後期倭寇の侵略地域と重なっているのがよく分かる。唯一の違いは、膠州湾沿岸に攻め入っていないことだ。その代わりに、長江を遡って南京近辺を攻めている。略奪が目的の後期倭寇と、政権打倒が目的であった鄭軍との違いがここに現れている。いずれにせよ制海権が命綱で、水から遠く離れてしまうと、その力を保つことができなかったのは後期倭寇と同じで、それが鄭軍の限界であった。台湾も全域を支配していたわけではなく、島の南西部分だけである。当時、台湾の奥地は未開発のジャングルであった。また北部には、しぶとくオランダ勢力が残っていた。

 

 1673年、大陸で軍閥呉三桂らによる「三藩の乱」が発生する。鄭経はこの乱に呼応する形で再び大陸侵攻を行い、厦門周辺を回復することに成功する。呉三桂らの軍は一時、長江以南を占領する勢いをみせるが、清軍の反撃により敗退を重ね、その支配領域は次第に減少。1678年に呉三桂は病死、乱そのものも尻すぼみになり、81年には完全に鎮圧されてしまう。鄭軍も清軍の侵攻に耐え切れず、80年には厦門を放棄、再び大陸から撤退している。

 この時の清の皇帝は、中国史上でもベスト5に入るほどの名君・康熙帝だ。呉三桂ら反乱分子の殲滅に成功、後顧の憂いをなくした康熙帝は、本腰を入れて台湾攻略に取りかかることにする。こういう時に焦らずに、時間をかけて海軍を育成するところが名君の証なのだ。準備万端これならいける、そう判断した康熙帝は1683年になって、遂に台湾攻略の大艦隊を出陣させたのである。

 1万人の兵員を乗せた600隻の大艦隊が、鄭軍の前線基地である澎湖島に攻め入った。劉国軒率いる200隻の鄭水軍は、これと応戦するが多勢に無勢、7月16日に澎湖島は陥落する。その勢いを駆り、艦隊は9月3日に台湾に上陸する。鄭政権の3代目、鄭克塽(ていこくそう)(鄭経の次男・正室の子。81年に死亡した鄭経の遺言による後継者は例の長男であったが、反対勢力のクーデターにより殺害されてしまう。この時、鄭克塽はまだ12歳の若年であったが、反対派により擁立されその座についた)はここに至って抵抗する無駄を悟り、清朝に降伏した。この時の清軍の総司令官は、福建省水師都督の施琅(しろう)という、皮肉にも鄭成功の父・鄭芝龍の部下であった男である。台湾占領後、彼は鄭成功の廟を訪れ、その前で号泣したと伝えられている。

 こうして、鄭氏による台湾統治は終わりを告げたのである。

 一介の倭寇であった鄭芝龍が東シナ海を制覇し、明の高官となった。更にその息子は独立王国まで造ってしまった。3代・22年という短い期間ではあったが、この国は確かに存在したのだ。これは倭寇のひとつの到達点であるといえる。この快挙を王直や林鳳らが知ったら、どう思っただろうか。

 なお蛇足だが、現代の台湾海軍には鄭成功の名を冠した「成功級」という名のフリゲート艦シリーズがある。これに対抗する意図があったのだろう、中国海軍が旧ソ連から購入した空母に「施琅」と名付ける計画があったらしい。流石にあからさますぎると判断されたらしく、結局は「遼寧」という艦名に落ち着いたという経緯がある。(終わり)

 

(あとがきのような雑感)

 さて長きに渡ってお送りした「倭寇」に関するシリーズも、今回で最終回となる。元々は「根来行人と倭寇との関係性」をテーマとした、4、5回の記事で終わるだろうと思って始めたシリーズであった。しかし当時のことを調べれば調べるほど面白くなってしまって、根来行人に関するどころか倭寇以外にも話が及び、こんなに長くなってしまった。トータルで22記事である。当初1つの予定であったジャンルを、分類し直している。以下の3つである。

・「前期倭寇とは」3記事

・「後期倭寇に参加した根来行人たち」10記事

・「晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち」9記事

 記事の内容にも、ちょくちょく修正&補足を入れたから、UPされた直後よりも分かりやすくなっているはずである。時間があるときにでも一気に読み直していただくと、また違った印象を受けるかもしれない。

 これまで倭寇や密貿易に関する漠然とした知識はあったのだが、各種論文をきちんと読み込んでみると、知らないことばかりであった。鎖国前の日本やアジア各国、そしてヨーロッパ勢がここまでダイナミックに交流していたとは、お恥ずかしながら私にとっては驚きであった。

 それにしても改めて思うのは、この時期の日本という国が世界有数の資源大国であって幸いであった、ということだ。一時、世界に流通する銀の30%を産出したという、石見銀山産の「佐摩銀」こと「ソーマ銀」。日本を訪れた商人たちは、皆すべからくこのソーマ銀が目当てであったから、これがなかったら彼らがこんなにも日本に来ることはなかったのだ。鉄砲の伝来も遅れていただろうから、戦国の歴史も変わっていたかもしれないし、ここまで多数の鉄砲を(一説にはピーク時で、全国で5万丁)生産・所持することも、なかったはずだ。

 日本は17世紀初頭に国を閉じてしまう。この鎖国により日本の文化は、寝かされたワインのごとく熟成され、独自の江戸文化が生まれるわけだが、仕込みの段階でここまで大量の海外の文物・知識・文化が入っていたからこそ、あそこまで芳醇な味わいになったのではないだろうか。もし石見銀山がなかったとしたら、江戸文化ひいては日本の文化は、今とは全く異なる、もっと底の浅い、味気ないものになっていたかもしれない・・

 さて次のシリーズは「根来衆と鉄砲」ないしは「戦国期の京」を予定している。双方とも幾らか書き溜めている記事があるのだが、もう少々手を入れてシリーズとして首尾一貫したものになってから、公開する予定である。

 

 

このシリーズの主な参考文献

鄭成功 南海を支配した一族/奈良修一 著/山川出版社

・台湾の開祖 国姓爺鄭成功/森本繁 著/国書刊行舎

・16・17世紀の海商・海賊/越村勲 編/彩流社

大航海時代の日本人奴隷/ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子 著/中公選書

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史/渡邊大門 著/星空社新書

・〈身売り〉の日本史/下重清 著/吉川弘文館

・堺-海の文明都市/角山榮 著/PHP選書

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・貿易商人王列伝/スティーブン・R・ボウン 著/悠書館

・はじめに交流ありき 東アジアの文学と異文化交流/染谷智洋 編/文学通信

・その他、各種学術論文を多数参考にした。

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑧ 倭寇vsオランダ ゼーランディア城攻防戦

 当時の台湾はオランダの勢力下にあった。その拠点は台南のゼーランディア城にあり、支城として近くにプロヴィンシア城があった。鄭芝龍が明の高官であった30年~40年ほど前、鄭一族とオランダは矛を交えた時期もあったが、概ね商売上のよき取引相手であった。しかし1661年4月30日、その息子・鄭成功は300隻の艦隊に1万1700人の兵員を乗せて、ゼーランディア城に攻め入ったのである。

 台湾総督コイエットの元に「鄭成功が台湾を狙っている」という情報が届いていないわけではなかったのだが、攻めてきたその数には仰天した。当時のオランダ方の記録には、「霧が晴れたのち、多くの船が北線尾港口にあるのが見えた。マストは大変多く、森のようであった」とある。

 当時この辺りで唯一、船を安全に駐留できる港であった台江内海(安平港)に入るためには、大砲を備えたゼーランディア城のある岬の突端を通るか、向かいの北線尾島にある鹿耳門溝(ろくじもんこう)という、非常に浅くて細い水路を通るしかなかった――はずだったのだが、この日はよりによって大潮の日だったのである。その日を狙って侵攻した鄭艦隊は、午前10時の満潮時に難なく鹿耳門溝を通過、台江内海に侵入し兵を一斉に上陸させた。まずはプロヴィンシアとゼーランディアの連絡線を遮断することに成功する。

 

台南赤嵌楼の展示図に、筆者が加筆したもの。沿岸流によって運ばれた砂礫が湾の入り口で細長く堆積し、入り口を塞いでいる。こうした地形を「砂州」と呼ぶ。砂州の隙間に形成された鹿耳門溝は、本来はボート程度しか通れないほど浅くて狭い水路であった。しかし鄭水軍のジャンクは喫水の浅い平底船であったから、普段よりも潮位が大きく変化する大潮を利用して、水路を突破することができた。

 

 翌5月1日、オランダ軍のペデル大尉率いる250人がゼーランディア城から出撃、北線尾島に逆上陸し、鄭軍の陣に対し攻撃を仕掛けている。勇敢だが、無謀な攻撃であった。どうも「しょせんは倭寇、大砲の音を聞いたら逃げ散るだろう」と、舐めきっていたようだ。これまで相対してきたような、ただの略奪集団ならそうであっただろうが、鄭軍は大国・清を相手に何年も戦ってきた歴戦の軍隊である。正面に50門の小型仏郎機(フランキ)砲を配備していた4000の兵に迎撃され、壁に投げつけられた生卵のごとく、攻撃部隊は粉砕される。部隊のおよそ半分近く、118名の被害を出しほうほうの体で撤退、先頭にいたペデル大尉もあえなく戦死してしまう。

 海上ではオランダ艦隊が善戦した。わずか3隻だけの小艦隊であったが、大砲を使って鄭軍の多くの船を沈めたのである。しかし多勢に無勢、鄭軍は30隻以上の船で囲んで応戦し、雨のように火矢を射かける。オランダ艦隊の新鋭戦艦・へクトール号は、甲板上で発生した火災により火薬庫が誘爆、沈没してしまった。残った2隻も命からがら逃げだして、鄭軍は陸海で大勝利をおさめたのである。

 

台南熱蘭遮城博物館蔵「ゼーランディア砦」より。南から北に伸びた砂州の上に建てられたこの城は、煉瓦造りの3層構造になった「内側の砦」と、それに付随した長方形の「外側の砦」とで構成されていた。城壁の四隅には大砲が置かれており、南西には望楼が建っていた。城の左に広がっている街並みは居住地区で、城との間には市場や処刑場があった。

 

 5月4日、支城であるプロヴィンシア城は降伏開城する。この時点で、まだ900人の兵士を擁していたゼーランディア城は、籠城戦に入った。オランダのアジアにおける拠点である、バタヴィアからの援軍を待つことにしたのである。7月30日、そのバタヴィアから10隻の船と750人の兵員を乗せた艦隊が到着する。港の外に姿を見せたこの援軍を見て、ゼーランディアのオランダ軍の士気は高まった。だがこの時は風が強かったために、艦隊の1隻が座礁、鄭軍に捕獲されてしまう。しかたなく一旦退避、9月16日に改めてオランダ艦隊による攻撃が開始された。

 鄭成功は迎撃のために艦隊を派遣、オランダ軍は短艇を下ろしてこれと激しい洋上戦闘が繰り広げられた。数に勝る鄭艦隊はオランダ艦隊を撃破、オランダ側はこの戦いで戦艦カウケル号が爆破炎上、ほか数隻が拿捕され、なんと1288人が死亡・捕虜となってしまう。一方、鄭軍の被害は150人ほどであったというから、前回以上の一方的な勝利であった。

 この戦いでオランダ軍の継戦能力は失われる。士気も落ち、ゼーランディア城からは逃亡して敵側に投降する人員が続出。鄭成功は翌62年1月25日にとどめの攻撃を仕掛けた。これが決め手となって、オランダ側から停戦交渉の申し入れが入り、2月にゼーランディア城は降伏開城した。これにより、オランダの38年間にわたる台湾統治は終わりをつげ、鄭成功支配下に入ったのである。

 オランダ側の記録によると、包囲網の最中のオランダ人捕虜に対する鄭軍の扱いは、相当過酷なものだったらしい。捕まった男性の多くは拷問され命を落とし、女子どもは奴隷にされている。正式な降伏が受け入れられた後は、多くのオランダ人は私物を持って退去することが許されたが、奴隷となった女性に関してはその限りではなかった、とある。この女性たちの悲劇は、海外で劇の主題にもなっているほどだ。

 こういう容赦ないところは、倭寇らしいといえば倭寇らしいが、オランダも立場が逆だったら、それ以上に酷いことをしたはずだから(バンダ島の虐殺を見よ)、お互い様のような気がする。そういう時代のそういう戦いだった、ということであろう。(続く)

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑦ 倭寇から明の忠臣になった男・鄭成功

 長きに渡って倭寇を紹介してきたこのシリーズも、ようやく終わりに近づいてきた。最後はトリを飾るのに相応しい男の登場である。

 1625年。鄭芝龍という男がいた。福建省出身の彼は、故郷の閩南(びんなん)語の他、南京官話、ポルトガル語オランダ語など数か国語に堪能であったと伝えられている貿易商人、つまりは倭寇の一員だ。鎖国前の平戸を拠点にしていた、顔思済という親分の元で頭角を現した彼は、この年、その後を継ぐ形で船団を率いることになったのだ。

 拠点を平戸から台湾に移した彼は、福建省沿岸で武装活動を行い、顔思済の部下時代に同僚であったライバルたちを次々と滅ぼしていく。当初は100隻程度であった彼の艦隊は、最盛期には1000隻を超えたという。

 彼の船団は、かつての倭寇のように中国沿岸部を略奪することなどはしなかった――まあ、たまにはしていたかもしれないが、そんなにはしなかった。そんな危険を冒してまで明王朝と対決するよりも、もっとスマートな方法を選んだのだ。彼のユニークな点は、ライバルたちを滅ぼし唯一の海上武装勢力となったところで、他の商船から通行料を巻き上げたことだ。

 東シナ海を航海する商船は、鄭芝龍の旗を立てなければ必ず襲われた。この旗を立てるためには、船1隻につき銀2000両を収める必要があった、とある。制海権を確保した彼は、東シナ海における通行料を独占したのである。瀬戸内海で村上海賊衆が同じことをやっているが、それを外海でより巨大な規模で行ったのだ。

 こうすることによって、明王朝と良好な関係を築いた彼は、なんと1628年には海防遊撃という沿岸警備の役職に任命されるのだ。海上貿易に従事しつつ、洋上における公の治安活動をも請け負ったのである。かつての倭寇の大物、王直が描いていた夢を、80年越しで実現させたといえる。43年には、福建都督の位まで与えられている。

 だが彼の誤算は、1644年に明が滅ぼされてしまったことだ。もしかしたら新しい体制下でも同じような処遇が与えられるかもしれない、そう期待した鄭芝龍は清王朝に降伏することにする。だがその降伏に、強力に反対する男がいた。他でもない、彼の長男である鄭成功である。

 鄭成功は、鄭芝龍と日本人妻・まつとの間に平戸で生まれた、日中ハーフである。幼名を福松といった彼は、7歳の時に福建省に渡り勉学に励み、15歳の時に院試に合格する。かなりのインテリであり、このまま順調に進めば官僚への道が開けていたことだろう。だが明が滅んだことにより、その夢は断たれてしまった。代わりに亡命政権のひとつ、唐王・隆武帝に仕えることになる。帝に寵愛された彼は、国の姓である「朱」を賜り、以降は「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」と呼ばれるようになるのだ。

 

台湾博物館蔵「鄭成功肖像画」。台湾の国民的英雄である。若い頃、南京の大学に留学し、稀代の文人・銭謙益に師事していたほど学があった。まさか将来、自分がこの南京に攻め入ることになるとは思ってもいなかっただろう。

 

 1646年、隆武帝は北伐の軍を起こす。だがこれに大敗して帝は捕らわれてしまい、獄死してしまうのだ。鄭成功の反対を押し切り、父の鄭芝龍が降伏してしまったもこの時である。以降、2人の途は別れることになる。

 亡命政権は代わりの帝を立てるも、次第に清に追い詰められてしまい、遂にはミャンマーにまで逃れている。かの地のタウングー朝・ピンダレー王は、この最後の皇帝・永歴帝を一旦は受け入れるものの、1662年に呉三桂の軍が迫ると、その身をさっさと引き渡してしまう。帝とその一族は雲南で処刑、こうして明の亡命政権は滅んだのであった。

 隆武帝亡き後、鄭成功厦門を根拠地として反清運動を行っていた。清は中原を制したとはいえ、南方は未だ呉三桂ら、明の遺臣たちによる強大な軍閥支配下にあった。また鄭成功も大艦隊を擁していたから、陸から近いとはいえ海峡で隔てられた厦門を、清は攻めることはできなかったのである。1654年、そんな彼の元に、父の鄭芝龍から降伏の使いがやってくる。しかし彼の意思は揺るがず、父の願いは拒否される。息子を説得でなかったことにより、鄭芝龍は処刑されてしまうのだ。

 それにしても鄭成功は粘り強く戦っている。彼を支えたのは、父が編み出した海上通行料の巻き上げシステムと、海外との貿易収入であった。五商という組織を立ち上げ、絹を中心とした品を盛んに海外に輸出しているが、彼の一番のお得意様は日本であった。(日本は既に鎖国していたが、中国相手の貿易は海禁対象にはならなかった。)また彼の実弟は、母方の実家である長崎の豪商・田川家を継いだ七左衛門という男で、資金や物資面で兄を援助している。鄭成功が弟に出した手紙に、例の通行料について書かれた内容が残されている。これにより鄭成功の時代には、大船からは銀2100両、小船からは銀500両を徴収していたことがわかっている。

 また日本とのそうした繋がりで、鄭成功江戸幕府に何回も援軍要請を行っている。こうした要請には、紀州大納言・徳川頼宣水戸光圀の父)が乗り気であった、と伝えられているが、当然のことながら幕府は困惑した。黙殺、という形で応えている。当時の日本で戦を本気で望んでいたのは、無聊を囲っていた旗本奴くらいのもので、太平の世に慣れ始めていた幕府には「いい迷惑だ」くらいにしか思われなかっただろう。

 1658年から翌59年にかけて、鄭成功は300隻の大艦隊を率いて、北伐を慣行する。東シナ海制海権は依然、鄭成功のものだったから、海から陸へのアプローチは自由自在なのだ。1659年5月には、脆弱な清水軍を一掃し、長江を遡りつつ沿岸の町を次々と占領下に置いていく。清がこの辺りを制してから、まだ10年ちょっとしか経っていなかったから、現地の反体制勢力もよくこれに呼応して立ち上がった。(こういうところも倭寇っぽい。)

 艦隊は6月26日には副都・南京付近に上陸、7月12日にはこの南方の最重要拠点を包囲している。だが、この遠征は最終的には失敗に終わっている。南京包囲からわずか12日後の24日には、清の八旗の反撃を受け、大敗してしまったのだ。陸戦では、やはりどうやっても清軍に勝てないのだ。

 2万近い兵と多くの指揮官を失うという、手ひどいダメージを負った鄭成功は、ほうほうの体で厦門に退却する。しかしこのままではジリ貧だ。この厦門に清軍はいずれ迫ってくるだろう。そんな状態を打開すべく、鄭成功は目を陸ではなく、海の向こうへと向ける。かつて父が、一時的に根拠地とした台湾――ここを征服することにしたのだ。(続く)

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑥ 日本人町と鎖国

 東南アジア各地には、イスラム教徒や現地勢力が築いた小規模な王国が幾つかあったが、16世紀初頭からポルトガル人やスペイン人ら西欧勢が交易網の結節点に町を形成、こうした周辺の小王国を滅ぼして植民地化を進めていった。ポルトガルの拠点はマラッカであり、スペインのそれはマニラであった。遅れて参加したオランダは先の記事で紹介したように、ポルトガルからマラッカを奪おうとしたが失敗、その代わりにバタヴィアと台湾に拠点を置いた。

 そしてこのオランダとほぼ同じタイミングで、日本人町が東南アジア各地に形成されはじめる。こうした日本人町は、どのようにして形成されていったのだろうか。

 徳川幕府は国内の混乱を治めた後、海外交易の促進と統制を目的とした「朱印船貿易」を行うようになる。日本に拠点を置く者であるならば、国籍に関係なく朱印状が発布された。商人や大名、武士以外にも中国人やヨーロッパ人まで朱印状を受け取った者もいる。1604年から始まり、1635年まで行われたこの貿易で、のべ356隻もの朱印船が東南アジア各港を訪れている。

 

長崎歴史文化博物館蔵「末次朱印船」。長崎の豪商・末次平蔵が奉納した絵馬である。船首には彼のトレードマーク「平」の旗が翻っている。朱印船貿易に乗り出した平蔵は、台湾・フィリピン・ベトナム・タイなどと交易を拡大し、巨万の財を築いた。

 

 これら朱印船が入港した港町に形成されたのが、日本人居住区である日本人町なのだ。形成された町としては、ベトナム中部のホイアン、タイのアユタヤ、カンボジアプノンペン、フィリピンのマニラなどがある。どこも一から植民して町を造り上げたわけではなく、既にある町の中、ないしその近郊に日本人町を造っていく方法であった。

 現地の勢力は、どこも日本人を受け入れざるを得なかった。なにしろ日本との交易は儲かるのである。例えば1580年頃のポルトガルの記録になるが、数多くあるアジア貿易航路で最も稼げたのは、インドのゴア~長崎間であって、他の航路の3~5倍は儲かるルートだった、とある。とにかく皆、日本産の銀を喉から手が出るほど欲しがっていたから、背に腹は代えられなかったのである。

 日本人町は現地の政権からは、一定の自治を与えられていた。タイのアユタヤ、そしてフィリピンのマニラにあった日本人町が特に大きく、最盛期にはそれぞれ2000人ほどの日本人が住んでいたと伝えられている。キリスト教に改宗した人も多かった。

 

Wikiより画像転載。1656年、アンドリーズ・べークマン画。バタヴィア日本人町に住んでいた、無名の日本人キリシタン。この時期、既に日本は鎖国していて帰れないはずだから、彼はジャカルタで骨を埋めたのであろう。もしかしたら、現地に彼の血を引いた子孫が残っているかもしれない。

 

 ただ、現地の権力者が懸念していた通りの事態も起こっている。日本人町の日本人たちが1612年にタイのアユタヤ朝、ソンタム王に対して反乱を起こしたのだ。この時、500人の日本人たちが王宮に乱入したが、撃退され逃げ散ったと「アユタヤ朝年代記」に記されている。この17年後、傭兵隊長山田長政が王位継承に介入して毒殺されているわけだが、こうした動きは他にもあったようだ。

 1633年になって徳川幕府は、5年以上海外に居住した日本人の帰国を禁じ、35年には東南アジアへの渡航禁止令を出す。そして41年に出島制度が制定され、日本は長きに渡って国を閉じることになる。鎖国のはじまりである。鎖国により本国からの人的供給を絶たれた各地の日本人町は、どれも17世紀の終わりころには、現地との同化が進み消滅してしまう。

 もし仮に、本国から日本人町へ人的供給を続けていたとしたならば、こうした町を拠点とした、日本による東南アジア各地への更なる植民や、発展が進んでいただろうか?そうはならなかったと思われる。

 幕府が鎖国した理由は幾つかある。1637~38年にかけて発生した島原の乱の影響が最も大きかったが、流出する一方の日本銀の流出を抑えるという目的もあったのだ。1530年代に石見銀山が本格的な採鉱を始めてからずっとこの方、日本は銀を輸出し、生糸・絹布・綿布などを輸入していた。

 戦国末期から国産綿花の増産が進んだので、綿布の輸入量は減ったのだが、江戸期に入って豪華な小袖などを求める富裕層らが登場したことにより、絹の需要が激増したのである。結果、海外からは大量の生糸が日本に流れ込んだ。消費財である生糸を銀で払って輸入しているわけだから、貿易収支的には望ましい事態ではなかった。

 幕府は初め「糸割符制」を導入し、流通と価格をコントロールしようと試みたがうまくいかず、鎖国を機に貿易相手を中国とオランダのみとした。それでも国産絹の生産が軌道に乗るまでは、銀の流出は止まらなかったようだ。

 日本人町は、しょせんは貿易拠点でしかなかった。一方、東南アジアにおける西欧勢の植民地は、単なる「点」であった貿易拠点から、プランテーション経営という「面」へと、次第に質的変化を遂げていく。先の記事で紹介したオランダのバンダ島虐殺事件も、ナツメグプランテーション経営のためであり、先住民を一掃したあと、労働者として大量の奴隷を入植させている。

 日本にはそういう発想はなかったし、またそれができる経済構造でもなかった。かつて世界の3分の1の産出量を誇った石見銀山からの銀は減産する一方だったし、代わりに輸出できる商品もない。国を閉じなければ、西欧勢による経済的な侵食を、もっと早くに受けていたのではなかろうか。

 アジアにおける西欧勢の植民地化のスピードは、比較的緩やかなものであったが、19世紀になって急に加速する。アジアにおいてこれに長らく対抗できた国は、列強の緩衝国としてのタイと、鎖国政策をとっていた3つの国――すなわち超大国・中国と、東アジアの片隅にあった朝鮮、日本のみであった。(続く)

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その⑤ 東南アジアにおける日本人傭兵たち

 サイヤ人ばりに戦闘能力が高かった戦国期の日本人は、傭兵としての需要も大きかった。最も有名なのは、タイの傭兵隊長山田長政であるが、他にも例は幾らでもある。1579年にタイのアユタヤ王朝がビルマラオス連合軍に侵略された際には、500人の日本人傭兵がアユタヤ側に雇われて戦った、とある。1596年1月18日には、スペイン軍のカンボジア遠征に日本人傭兵団が参加している。2年後に行われた同遠征にも、別の日本人傭兵団が雇われている。このように大小さまざまな規模の日本人傭兵団が、東南アジア各地にいたということだ。

 

静岡浅間神社蔵「山田長政 日本義勇軍行列の図」より。タイの軍団と共に行進している日本人軍団。薙刀らしきものを肩に担いでいる。この時代の東南アジアにおいては、優れた武器であった日本刀の需要は高く、刀身を輸入して加工し、槍の穂先につけるなどしていた。この薙刀も或いはそうかもしれない。

 

 自由な身分の兵士ばかりだったわけではなく、奴隷兵士たちも多かった。インド・ポルトガル領ゴアの市参事会の記録に「島を守備するために、日本人奴隷の兵士が必要だ」とある。だが、同じ文書に「日本人奴隷が解放されると、現地人と結託して反乱を起こす恐れがある」とも記されている。相当な数の日本人奴隷が兵士として働いていて、その戦闘力が評価されていた(そして恐れられていた)ことが分かる。

 オランダ東インド会社は、その本拠をバタヴィア(現在のジャカルタ)に置いた。1620年1月に行われた、バタヴィアにおける人口調査では873人の住民が記録されているが、そのうち71人が日本人であった。12人に1人というかなりの割合になるが、その殆どが傭兵であったらしい。

 翌21年に、バタヴィア総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンが自ら兵を率い、ナツメグの産地であるバンダ諸島で現地住民の大虐殺を行う。島民の90%以上、約1万2000人を殺害、もしくはバタヴィアに連行し奴隷にして売り払ったと言われている。この悪逆非道の行為によって、クーンには「バンダの虐殺者」という異名がつくのだが、これに参加した2000の兵のうち、87人がクーン直轄の日本人傭兵であったそうだ。彼らは刃物の扱いに長けていたので、特に斬首刑の執行役として重宝されていたようだ。

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以下、ややショッキングな画像があるので注意!

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バンダネイラ博物館蔵「バンダにおける、伝統的指導者たち44人の虐殺」。1621年5月8日に行われた、処刑シーンを描いた近代絵画。処刑を担当している日本人傭兵が、まわしをつけた力士にしか見えないのが、異様にホラーな雰囲気を醸し出している。

 

 こうした傭兵たちの供給元は、浪人たちであった。戦国の世が終わり、徳川幕藩体制の元、多くの大名が取り潰しの目にあう。大量に溢れた浪人たちが、糧を求めて海外へ渡ったものと見られている。根来の元行人たちの中にも、そうした者たちがいたかもしれない。

 なお日本人と同じように、傭兵としての需要が高かった民族に「カフル」と呼ばれたアフリカのモザンビーク人がいる。モザンビークでは部族間の抗争が盛んで、日本と同じように人取りで捕まった奴隷がポルトガル人に売られていた。そういう関係で、戦士たちが多かったのかもしれない。ポルトガルの宣教師に日本に連れてこられ、信長の目に留まって武士となった元黒人奴隷「弥助」も、インド経由で来たモザンビーク出身の奴隷兵士であった。

 彼らカフルの戦闘能力は非常に高かったらしい。1606年にオランダはポルトガルからマラッカを奪わんと、11隻の艦隊を送り込んでいるが、失敗している。この時にオランダ軍を迎撃したポルトガル軍には日本人傭兵もいたようだが、主力はカフル、つまり黒人奴隷兵士だった。その勇猛な戦いぶりには攻撃側の指揮官である、ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(先述したバンダの虐殺者)が感心しているほどだ。

 こうしたアフリカ人奴隷、或いは傭兵が、自分のために奴隷を購入することもあった。1631年の記録に、メキシコにおいてファン・ビスカイノというアフリカ人奴隷が、日本人奴隷ファン・アントンを解放した、という記録が残っている。解放に要した費用は100ペソであったそうだ。

 14~15世紀における、日本を含めたアジア・アフリカの人々の移動距離の長さと、遠い異国の地で逞しく生き抜く力には驚かされる。(続く)

 

 

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その④ 海外に売られていった日本人奴隷(下)

 アジアにおける奴隷貿易は、如何ほど儲かったのだろうか?1609年に人さらいに騙されて、マカオで船に乗せられ、マニラにて売りに出された中国人の少年少女たちの史料が残っている。それによると、誘拐犯からの仕入れ値は1人につき10パルダオ、マニラにおける販売価格は120~130パルダオ、とある。12倍から13倍で売れたということなので、相当儲かる商売だったのだろう。

 ただポルトガル人によるこれらの奴隷の扱いは、そう酷いものばかりではなかったらしい。例えばアジアにおけるポルトガル人の根拠地・マカオの港湾機能は、日本人に限らずこれら奴隷たちの労働によって支えられていたのだが、賃金の50%は本人のものになったようである。財産を貯めて自分で自分を買い取れば、いずれ自由になれたのだ。元奴隷だったが自由になれた日本人の名が、記録に数多く残っている。

 その中の一人に、ペドロ・ルイス・ジャポンという名の元奴隷の日本人がいる。(ちなみにポルトガル人に買われた奴隷は、皆すべからく洗礼を受けさせられキリスト教徒になっている。買主は購入から半年以内に、異教徒を改宗させる義務があったようだ。なのでポルトガル風に改名しているのだ。)彼は貯めたお金でわが身の自由を買い取った後も、引き続きマカオで港湾作業に従事していたようだ。1590年に、ポルトガルから入港した船にロープをかける作業などを行って、24ペソを稼いでいる記録が、その船の商業日誌に残っている。なかなかのやり手だったらしい彼は、単なる肉体労働者ではなく、必要に応じて賃金奴隷を雇う請負業者でもあったらしい。アフリカ人、ベンガル人、そして同じ日本人の奴隷を雇って、船の補修に必要な木材を調達していたことが分かっている。

 人のいいポルトガル人の元で働いていた家庭内奴隷などは、主人の死と共に自由になれる者もいたようだ。恩給まで受取っている者もいる。1562年に日本で生まれ、1583年21歳の時、奴隷としてマカオにやってきたマリア・ペレスという日本人女性は、主人の遺言で奴隷身分から解放された後は、職業的召使としてマカオの商人宅を転々とした、と伝えられている。更に運のいい者は、養子同然に育てられ、遺産を相続したものまでいるのだ。

 もちろんこうした美談は、人の好い主人と、性根のいい奴隷との間でのみ成立したことであって、酷い主人による虐待行為なども多かったろう。実際、夫が気に入っていた日本人女性奴隷に嫉妬したポルトガル人女性が、その奴隷を壮絶な拷問にかけた末、殺害した話も残っている。

 隙さえあれば、逃げ出す奴隷もいた。わが身を奴隷として売る日本人奴隷もいたが、自らを売った代金を懐に入れ、マカオに着いた途端に中国領に逃亡する、そのような事例が相次いだらしい。そういうのは大抵、罪を犯して故郷にいられなくなり、逃げてきたような筋の悪い輩だ。犯罪者に金を渡して、タダでマカオに連れてきた挙句に野に放ったようなもので、色々な意味で大損である。

 奴隷も人間だから、まともな人もいれば、どうしようもない怠け者の人間や、反抗的な人間などもいたことだろう。こうした「素直でない」奴隷たちを利用して、ポルトガル人がスペイン人に行った、とある嫌がらせを紹介しよう。

 商売上のことで諍いが生じたので、ポルトガル人らはスペイン人の町であったマニラに対して、復讐することにした。彼らはアルコール依存症や窃盗癖のある者、元強盗犯などの「選りすぐりの」奴隷たちを集めてマニラに送り付けたのである。この中には日本人もいたらしいのだが、マニラ市内で売りに出されたこれら札付きの悪党どもは、市内を数か月に渡って大混乱に陥れた、と伝えられている。想像しただけで笑ってしまう、まるで映画化できそうな話だ。

 

狩野内膳作「南蛮屏風」。リスボン古美術館所蔵。一番左端に東洋人的な顔立ちの奴隷がいるが、彼は日本人かもしれない。

 

 ちなみにマカオにおける奴隷数は、約5000人と伝えられているが、その殆どは黒人であったそうだ。マカオに限らず、世界各地に散った日本奴隷は、果たしてどのくらいの数がいたのだろうか?正式な数をカウントすることはできないが、数百ではきかず、おそらく数千~という単位にはなったのではなかろうか。

 1582年に「天正遣欧使節団」がヨーロッパに向かう途中、東南アジア各地で奴隷となって使役されている日本人たちを見ている。少年使節たちは同胞を売る奴隷商人たちに、激しい怒りや悲しみを覚えた、と述べている。(続く)

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その③ 海外に売られていった日本人奴隷(上)

 ここで一回、倭寇から離れて当時の日本人奴隷について見ていきたい。16世紀から17世紀にかけて、大勢の日本人が東南アジアのみならず、インドや中南米にまで移住している。パターンとしては、これまで見てきたように、まずは貿易に関わる商人として。次にタイ・フーサのように海賊、つまり倭寇として。そして意外にも多かったのが奴隷として、である。

 戦国期、大名たちは近隣に侵略を繰り返した。侵略の際には乱取りがつきものだ。拙著の2巻冒頭にちょっとだけ出てくるが、和泉の国に佐藤宗兵衛という男がいる。1502年に根来寺と同盟関係にあった彼が日野根に侵攻した際、男女を問わず周辺の住民を生け捕りにした、と記録にある。多くの妻子らが捕らわれてしまった日野根荘では、身代金を100貫文出すから返してくれ、と宗兵衛に交渉したが、決裂している。攫った方はもっと高く踏んだくれる、と思ったのかもしれない。

 上記の場合は身代金目的の人取りだが、請負ってくれる人が誰もいない場合には、容赦なく奴(やっこ)、つまり奴隷として売り払われてしまった。上杉謙信は関東に毎年のように出兵し、その際には略奪を行うのが常であったのだが、人もまた多く攫っている。略奪の後に開かれた市では、安値で人が売り払われた、と記録にある。人市、つまり奴隷市場がたっていたのだ。(該当資料は誤読である、という異論がある。その通りかもしれない。ただ人取りを含む略奪行為は、当時の軍兵の『当然の権利』として認められていたものだったから、上杉軍も『常識の範囲内』で行っていただろう。少なくとも上杉の北条攻めに呼応した関東諸氏は、積極的に略奪&人取りをしていただろうと思われる)

 上杉氏だけでなく、多くの大名がこのように人身売買をしていた。九州では1586年ごろから、薩摩の島津氏による豊後侵攻が始まるが、フロイスの記録には島津勢が「おびただしい数の人、特に婦人・少年・少女たちを拉致した」と記されている。また臼杵城攻めの際は「婦女子含めて、3000人を攫った」ともある。これら拉致された人々の多くは、肥後や薩摩において買い取られていったのだが、この2年後に肥後は飢饉になってしまう。これらを食わせることができなくなった主たちは、奴隷たちを島原まで連れて行って、二束三文で転売した、とある。

 

大阪城天守閣蔵「大阪夏の陣図屏風」より。「ヒャッハー」とばかり人取りをする足軽ども。こうした略奪目的で、戦さに参加する輩も多かった。

 

 こうした国内状況に目をつけたのが、この頃日本に来ていたポルトガル人である。東南アジア各地に、植民地を経営しはじめていたポルトガル人は、働き者の日本人を好んで使った。単純な労働力の他、家庭内奴隷、つまり召使としての需要が高かったようである。

 1570年~1590年にかけて、マカオで最も多く取引された奴隷は、日本人奴隷であったという。ちなみにそれ以前は、倭寇が攫った中国人奴隷であった。1592年以降は朝鮮人奴隷が急増する。秀吉による文永・慶長の役の影響である。この時は供給量があまりに多かったため、奴隷価格が劇的に下がったと伝えられている。

 こうした奴隷の出荷先は東南アジアではマカオ、マラッカ、そしてインドのゴアなどが多かったが、中南米のメキシコやアルゼンチン、ポルトガル本国まで渡った日本人奴隷もいたことが分かっている。

 年季奉公のつもりで前金を貰ったのが、実は奴隷としてわが身を売り飛ばす契約だった、という悲惨な例も見受けられる。年季奉公という概念がないポルトガル人は、これを恣意的に解釈して「永久的奴隷」に変えてしまう場合が往々にしてあったのだ。特に主人が死んだ際の、遺産相続時に契約内容が書き換えられてしまうことが多かったようで、関連する裁判記録が残っている。(続く)

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その② 流れ流れて、幾千里。倭寇の親分になった「大夫様」

 日本人が頭目であった倭寇集団もあった。最も有名なのがルソン島・カガヤンを縄張りとする「タイ・フーサ」として知られている日本人が率いていた倭寇集団である。1582年に、この倭寇集団とスペインとの間で「カガヤンの戦い」が行われている。

 この「タイ・フーサ」だが、「大夫様」と部下に呼ばれていた日本人だと考えられている。「大夫」というのは、正式には官職ないし神職にある、それなりに偉い位なのである。最も官名なぞ、各自が好き勝手に名乗っていた時代だったから、彼がしかるべき偉い人であったかどうかは、甚だしく疑問である。

 ちなみに根来にも、大夫という名の行人がいたことが確認できる。1556年の跡式の出入りで、槍で突きかかっていった挙句、慶誓に矢で射られてしまった、三實院の行人のひとりである。

 

negorosenki.hatenablog.com

大夫 vs 慶誓の戦いの顛末は、こちらの記事を参照。慶誓の記した「佐武伊賀守働書」では、ほとんどモブ扱いだが・・

 

 流石にこの大夫が、タイ・フーサと同一人物である可能性はないと思うが、仮に100万分の1以下の確率でも、根来の行人が流れ流れて数奇な運命の末、遠く日本を離れ、遥か南の島ルソン島北部・カガヤンに辿り着いた――そう想像してみるだけでも、愉しくなるではないか。本当は何者であったか、今では知る由もないのだが、いずれにせよ彼は、ここを本拠とした倭寇の集団のひとつを率いる親分になったのである。

 マニラに本拠を置くスペイン人たちは、己の交易網の脅威であったこの倭寇集団を殲滅することに決め、ガレオンを中核とした10隻程度で編成された艦隊を送り込む。まず洋上でタイ・フーサの倭寇船団を捕捉、これとの間で接舷戦が行われる。日本刀を手に斬り込んできた倭寇たちと、甲板上で激しい戦いとなった。ここで船長のペロ・ルーカスが戦死している。スペイン側は船尾にマスケット銃士らによる防御陣地を急造、一斉射撃によって何とかこれを撃退した。

 

2016年にクラウドファンディングを利用して、スペインで発売された漫画「世界の終わりの剣」より。カガヤンの戦いが題材だ。スペインの船に接舷戦を挑む倭寇たち。

 ここで勝利をおさめたスペイン艦隊は、カガヤン川を遡っていき、タイ・フーサの本拠地の砦を発見、塹壕を構えてこれを包囲する。倭寇たちはマスケット銃と大砲で守られたこの陣に対して、決死の突撃を3回試みる。そして3度目は互いに刃を交えるほどの接近戦に持ち込むが、あと一歩のところで撃退され、壊滅してしまうのだ。タイ・フーサも、この時死亡してしまったものと思われる。

 

「世界の終わりの剣」より。包囲網を突破せんと、決死の突撃を行う倭寇たち。

 この倭寇集団だが、規模としてはそう大きいものではなかった。記録によると、タイ・フーサの持っていた船団は、ジャンク1隻・サンパン18隻、とある。先の記事で紹介した林鳳の船団などは、ジャンクだけで62隻とあるから、比べ物にならない。略奪専門というよりは通商がメインの、カガヤンに住み着いていたローカルな倭寇だったと思われる。構成員も倭寇だけではなく、その家族も含めた私貿易集団、とでも呼んだ方がふさわしい集団だったのではなかろうか。カガヤンにはタイ・フーサ一党の他にも、こうした小規模な集団が幾つかいたらしく、一帯には600人ほどが住んでいたと伝えられている。

 同じくフィリピンのリンガエンにも、日本人の集団が小さな港を造って住み着いていたことが記録に残っている。この港はスペイン人からは「ポルト・デ・ロス・ハポネス」、すなわち「日本人の港」と呼ばれていた。カガヤンよりマニラに近いにもかかわらず、スペイン人から攻められていないところを見ると、脅威と見られないほど規模が小さかったのだろう。

 この集落は15世紀後半から16世紀半ばにかけて、60~80年間ほど存在していたようで、1618年にマニラ総督がスペイン本国に送った報告書には、「年に6~8万枚ほどの鹿皮を積み出している」とある。開拓時代のアメリカにおける、交易村のような存在だったのだろう。この日本人の集団は、最終的には発展著しいマニラに吸収されるような形で、皆そちらに移住してしまったようだ。

 戦国期の日本は武具に鹿皮を多用したため、国産だけでは需要が賄いきれず、その多くを海外から買い求めていた。鹿皮の輸入先の例として、フィリピンの他にタイや台湾などがある。台湾の南澳島に同じような性格と規模の倭寇集団が居住していたことが記録に残っている。交易もするが、時に応じて略奪もする、こうした数百人程度の小規模の倭寇集団は、当時の東南アジアを中心とした海域に、それなりの数が存在していたと見られている。(続く)

 


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YOUTUBEに、この漫画の宣伝動画があった。最後は老主人公とタイ・フーサとの一騎打ちになるようだ。なかなか面白そうだ。スペインのアマゾンで売っていたのを発注したのだが、何回やってもキャンセルになってしまう。何とか手に入れたいと思っているのだが・・

 

晩期の倭寇と、世界に広がった日本人たち~その① 海賊王を目指した林鳳

 後期倭寇の最盛期は1550年代だが、その数を減らしながらも活動自体は引き続き続いていく。これまで前期倭寇と後期倭寇を紹介してきたが、後期倭寇のうち万暦年間の始まり、1573年あたりからの倭寇を「第三期倭寇」と呼ぶ学者もいる。「晩期倭寇」とでも名付けるべきであろうか。特徴としては、構成分子の国際的色彩がより豊かになり、活動地域が中国沿岸から、台湾・フィリピン・タイなど東南アジアを含む南洋全体に広がったことだ。

 この晩期の倭寇として、まず有名な人物に林鳳(スペイン側の記録ではリマホン)がいる。潮州出身で祖父の代から倭寇であったというから、筋金入りの海賊大将である。1565年あたりから活動をはじめ、最盛期には4000人の部下がいたというから、相当なものだ。

 1574年11月。この時、林鳳は男どもだけではなく、多くの女子どもも含めた、さながら移民船団のような艦隊を率いていた。中国沿岸で暴れすぎた彼は、明の官憲に追われていたのである。向かった先は中国沿岸より警備の緩い東南アジア方面。主にタイ・台湾・フィリピン周辺の島々である。しかし豊かな中国本土と違って、島々との密貿易や略奪行には旨味は少ない。かといって追われているから中国沿岸には戻れない。でも配下の者どもは食わせにゃいかんし――ということで、いっそ林鳳はフィリピン全域を占領して、海賊王になることを決心するのだ。

 

「海賊王に、俺はなる!」スペインの児童書から画像転載。時代考証や服装など、随分といい加減な感じの林鳳。頭に被っている謎の物体は何なのか。足下で倒れているのはマニラ総督マルティン・デ・ゴイティ。

 

 1574年時のフィリピン・マニラにはスペイン人が町を築き、周辺の海域を支配していた。この町を奪わんと、林鳳率いる倭寇が侵攻。このときスペイン人の守備隊の多くは60歳を過ぎた退役軍人で、現地のフィリピン人を加えた混成部隊だったという。

 11月30日と12月2日の2日間に渡って、林鳳はマニラを攻撃する。倭寇集団は市の防衛線を突破、マニラ総督マルティン・デ・ゴイティを殺害し町を略奪。そして町の中に最後に残った砦の奪取を巡って、激しい戦いが繰り広げられたのである。立て籠もったスペイン側には、もう後がない。倭寇に捕まったら皆殺しが相場、運が良くて奴隷だから、必死で防戦した。そして防御陣が破られそうになったその瞬間、思い切って逆に討って出たスペイン側の反撃により、倭寇集団の戦線は崩壊。林鳳は敗走する。

 その後、林鳳はマニラから北へ200kmほど離れたパンガシナンの河口に砦を築くが、1575年3月22日、彼を追ってきた明の軍隊とスペインの連合軍に包囲されてしまう。4か月という長い間、林鳳は包囲に耐え抜く。そして最終的には、密かに掘り進めていた水路を通じて、逃れることに成功するのだ。一説によると、この逃走劇に使用されたボートは37隻もあったらしいので、それなりの数が逃れたものと推測できる。

 その後、林鳳は安住の地を求め、南シナ海を彷徨う。散発的に潮・広州沿岸を襲うなどをしていたが、明の追撃は厳しいものだったようだ。1576年にはタイのアユタヤ王朝を訪れ、これまでに貯めた財宝と引き換えに保護を求めるも、拒否されている。行き場のなくなった彼は、いっそまだ見ぬ新天地を求め、大海原へと漕ぎ出していく。その後、彼の船団を見たものはいない・・・

 この倭寇集団の戦闘部隊の中核は日本人だったらしく、マニラ攻略の際に一連の攻撃の指揮を執っていたのも彼の副官であった「シオコ」という日本人だった、とスペイン側の記録にある。「庄吾」、或いは「新五」とでもいう名だったのだろうか。彼らは刀と共に鉄砲も使用していて、スペイン方の指揮官の一人、サンチョ・オルティス少尉を狙撃して斃している。ただその直後に、シオコも撃たれて死亡したようだ。あともう少しのところで攻撃が失敗してしまったのも、指揮を執っていた彼が死んでしまったからかもしれない。

 それにしても、もしこの攻撃が成功して林鳳がマニラを奪取していたら、フィリピンのその後の歴史は変わっていただろう。相当、際どい戦いだったので、その可能性は十分にあったのだ。もしかしたら、倭寇による国が建国されていたかもしれない。(続く)

 

 

後期倭寇に参加した根来行人たち~その⑩ 史上最大の倭寇船団を率いた男・徐海と、日本人倭寇たち(下)

 こうして全ての邪魔者を始末した徐海は、8月1日に手勢を率いて官憲に降伏する。はじめ胡宗憲はこれを手厚くもてなしたという。帰順した徐海一党には、適当な居留地が与えられることになり、8日に沈家荘という地に入る。東側に徐海一党が、川を挟んだ西側に陳東と麻葉の残党が入居することになった。

 しかし官軍の警戒が一向に解かれず、軟禁状態に置かれてしまったことに、徐海はようやく気づくのだ。だが、もう遅かった。あれだけあった手勢はわずかしか残っておらず、自身も既に籠の中の鳥である。自暴自棄になった彼は、17日に胡宗憲の使者を斬って、最期の戦に備える。

 ところが官軍が迫って荘中が混乱する中、捕まっているはずの陳東から、彼の残党の元に伝言が届けられるのだ。その伝言は「この騒ぎは実は陽動で、胡宗憲の意を受けた徐海が、お前らを始末しようとしているのだ。気をつけろ」という内容だったのである。以前、胡宗憲が徐海に対して行った策略と同じパターンである。

 

見え透いているような手なのだが、意外に効果的。

 

 25日夜、激高した陳東の残党らは川を越えて徐海の元に押しかけ、これと乱闘の末、殺してしまう。そしてこの残党らも、徐海が死ぬのを待ってました、とばかりに襲いかかってきた胡宗憲の軍によって、翌26日に壊滅させられてしまったのである。

 こうして倭寇最大の勢力を誇った、徐海の一党は滅んだ。規模の割にはあっけない終わり方であった。やり方はどうあれ、これを仕切った胡宗憲の一連の手腕は見事なもので、まるで三国志の物語を読んでいるかのようだ。

 ちなみに残りの4人の日本人、種子島の助左衛門、薩摩の夥長掃部、日向の彦太郎、和泉の細屋らはどうなったのだろうか?「日本一鑑」の「窮河話海」巻四にその顛末が記載されている。

 まず種子島勢だが、何処かの地でほぼ壊滅してしまったようだ。リーダーの助左衛門ら以下、数人だけが何とか帰島に成功している。種子島に顔が利いた徐海は、1552、54、56年と3度に渡ってこの島で倭寇の参加募集をかけたのだが、あまりに募集しすぎて(そして帰ってこない者が多すぎて)、島の集落から人が減って閑散としてしまった、と伝えられている。生き延びた助左衛門は、さぞかし肩身の狭い思いをしたことだろう。(というか、無事で済んだのだろうか)

 次に薩摩勢と和泉勢だが、彼らは終始、陳東と行動を共にしていたらしい。なので、陳東が捕まった際に一緒に壊滅したか、そうでなければその残党として沈家荘の東側に入った可能性もある。後者だとすると、27日の夜に徐海を殺したのは、もしかしたら彼らであったかもしれない。いずれにせよ、残党は徐海を殺したその数時間後には壊滅してしまっているから、和泉勢の中に根来衆がいたとしたら、そこで最期を迎えたということになる。

 なお、別行動をしていた彦太郎率いる日向勢のみ、大きなダメージもなく日本に戻ってこられたようだ。相当数の船団が故郷に帰りついた、とある。記録には70隻とあるが、本当だろうか。その半分にしても多すぎるような気がするが・・いずれにせよ、船倉に略奪品を満載していたとすると、相当儲かったに違いない。

 二大巨頭であった王直と徐海の死によって、倭寇集団は大きなダメージを受けた。これにより浙江・江南の倭寇は平定され、残党たちは福建・広東などの、中国東南沿岸部へとその舞台を移すことになる。またこの頃より、以前の記事で紹介した、戚継光(せきけいこう)の「戚家軍」などが活躍しはじめるのだ。私軍を中核としたこれら精鋭軍団によって、倭寇集団が陸戦で壊滅させられることが多くなってくる。

 また明は、海上活動を必要以上に締め付ける愚策を悟り(今更だが)、1567年以降は海禁政策を緩和する方向に向かう。税さえ払えば、貿易が合法として認められるようになったのだ。ただし日本との貿易は対象外だったのは、倭寇の根拠地として警戒されていたからのようだ。(あまり守られなかったので、意味がなかったようだが・・)そしてその倭寇の人的資源の供給先であった日本においては、秀吉による統一政権が生まれることにより、海賊の取り締まりが強化される。(1588年の海賊禁止令)

 こうして後期倭寇の活動は、終息に向かうことになるのだ。

 なお策謀によって王直らを捕殺し、倭寇に大きなダメージを与えた胡宗憲は、その功によって出世したが、結局は中央の政変に巻き込まれる形で1562年に失脚し、投獄され自殺している。これもまた、どこかで見た景色である。(終わり~次のシリーズに続く)

 

 

このシリーズの主な参考文献

倭寇 海の歴史/田中建夫 著/講談社学術文庫

・描かれた倭寇倭寇図巻と抗倭図巻」/東京大学史料編纂所 編/吉川弘文館

・嘉靖年間における海寇/李獻璋 著/泰山文物社

・明・日関係史の研究/鄭梁生 著/雄山閣出版

・南蛮・紅毛・唐人:十六・十七世紀の東アジア海域/中島楽章 編/思文閣出版

倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史/渡邊大門 著/星空社新書

・増補 中世日本の内と外/村井章介 著/ちくま学芸文庫

倭寇と東アジア通交圏/田中建夫 著/吉川弘文館

・堺-海の文明都市/角山榮 著/PHP選書

・東アジア海域に漕ぎ出す1 海から見た歴史/羽田正 編/東京大学出版会

・その他、各種学術論文を多数参考にした。