京に法華宗をもたらしたのは日像で、彼の門流を四条門流という。四条門流を継いだのが公家出身の大覚で、彼はその人脈を最大限に活用し、精力的な布教を続けた。この四条門流の始めとした法華宗各派は「応仁の乱」以降、その勢力を大きく後退させた他宗派(特に禅宗)のニッチを埋めるかのように、洛中において次々と巨大寺院を建立していく。
その最盛期は1530年代である。一向一揆が畿内を暴れまわった混乱に乗じ、京は完全に法華宗徒らの手に落ちたのだ。町衆=法華宗徒らによる軍隊が組織され、「洛中洛外のご政道」つまりは警察・治安維持活動、そして刑事裁判権までを彼らが行っていたことが記録に残っている。
「天文法華の乱」についての記事は、この記事から始まる一連のシリーズを参照。京の長い歴史の中で町衆らによる自治が達成した、唯一無二の瞬間である。
ただ法華宗徒が京を掌握していた期間は短かったから(1534~36年まで)、彼ら「衆会(しゅうえ)の衆」による宗教的な政策が実地されるまではいかなかった。もう少し時間があったなら、法華宗の教義に則った政策が京において実地されていたかもわからない。
だが実際に法華宗が地域の権力者を祈伏することに成功し、半世紀以上にも渡って手厚く信仰された結果、法華宗の目指すところである「仏法と王法が一致する王仏冥合」が限りなく実現した地域があるのだ。あまり知られていないが、今回の記事では、この例を紹介したい。
さて前述した四条門流の大覚であるが、彼の布教は京近辺だけに留まるものではなく、1333年から34年にかけて備前・備中・備後の三備地方にも赴いている。
大覚は備前国西部の三野郡にあった、真言宗の福輪寺を釈伏してここを法華宗の寺院としている。当時の備前国守護代で富山城主であった松田元喬(まつだもとなり)は、この話を聞いて大覚を城内に招き、真言の僧侶と面前で問答を戦わせることにする。大覚はこの問答に見事に勝利、これを契機に松田元喬は熱心な法華宗徒となったのである。
松田元喬のお墨付きを得た大覚は、松田氏の領内である備前西部の寺院を次々と釈伏していく。しかし領内すべての寺社が法華宗に釈伏されたわけではない。この地には天台宗では備前天台宗八十四か所の総本山・金山寺があったし、神社では備前国一之宮・吉備津宮があった。当たり前だが、こうした有力寺社は法華宗への転宗には応じなかったのである。
結果、釈伏に応じなかった両寺社は、松田氏の軍勢によって襲撃され焼き払われることになるのである。これを「備前法華一揆」と呼ぶ。
このように法華宗は領内を一色に染め上げるという、いわば聖戦を行う性格を持つ宗派なのである。他宗を攻めるのは別に法華宗に限ったことではなく、例えば比叡山延暦寺なども、他の鎌倉仏教に対して寺院の破却・襲撃などを盛んに行ってはいたが、法華宗のそれとは若干性格が違う。
ブログ主の見るところ、比叡山を動かす行動原理はあくまでも利権争いなのである。宗教的熱意がゼロであったとは言わないが、その本質は利権=自らの存在理由を脅かされることに対する、防御的反応がメインなのだ。先のリンク先にあげた「天文法華の乱」における、最終的な叡山の立ち居振る舞いを見てもそのことが分かる。
では本願寺はどうであろうか?戦国期には一向一揆が全国を暴れ回ったし、遂には越中を「百姓の持ちたる国」とし、まさしく一つの国を浄土真宗に染め上げるという壮挙を成し遂げている。しかし詳細はまた別のシリーズで紹介するが、現場の一般信徒はいざ知らず、蓮如をはじめとする代々の本願寺門主は、総じて暴走を止めようとするスタンスであったのである。
これらと比すると、法華宗は明らかに違う。宗門の統率者、或いは敬虔な信徒を束ねるリーダー自らが率先して他宗を攻撃するのである。その行動原理を支えるのは「他宗をことごとく滅ぼさねばならぬ」という教義に裏打ちされた、宗教的熱意溢れる使命感なのだ。彼らにとってはこの世に「王仏冥合」を顕現させるための聖戦なのである。当時の法華宗の好戦性は他の仏教諸派のそれとは比べられないほどであり、一神教であるキリスト教やイスラム教のそれと同レベルにあるといえる。
なお松田氏は宇喜多氏によって1568年には滅ぼされてしまうのであるが、なにしろ半世紀以上も法華宗が幅を利かせていた土地柄であったから、宇喜多氏の家臣には熱心な法華宗徒が多かった。
宇喜多家の重臣・戸川達安などがその代表で、彼が領地である妹尾の地に盛隆寺を創建する際には、「これを機に法華宗に改宗した場合は、その年の年貢を免除する」などの働きかけを行うほどであった。そうした影響もあって、この地は「妹尾千軒皆法華」と称されるほど、法華宗が浸透したのである。
宇喜多家を一代で大きくした梟雄・直家の死後、家督を継いだのは秀家である。その秀家の代になってから17年後の1599年、関ケ原の戦い直前に発生したのが「宇喜多騒動」である。俗にキリシタン武将と日蓮宗徒武将の争いであったと言われているが、当然のことながら秀家がキリスト教に肩入れしたという事実はないので、この評価は正確ではない。
ちょうどこの頃、宇喜多家では検地が行われていることから、その本質は中央集権化を目指す宇喜多家と、それに反発する守旧派たちの権力争いであったとみられている。昔ながらの在地の家臣団にしてみれば、検地は元来持っていた利権を召し上げられる行為であった。その上、彼らは排他的性格の強い法華宗徒たちでもあったので、介入に強く反発したのである。そういう意味では、他宗と相容れない性格をもつ法華宗の教えが、この乱が起きた要因のひとつであった、といえないこともない。(終わり)
【このシリーズの主な参考文献】
・アジア仏教史 日本編Ⅳ 室町仏教/中村元・笹原一男・金岡秀友 編/佼成出版社
・鎌倉仏教のミカタ-定説と常識を覆す/本郷和人 島田裕巳 著/祥伝社新書
・臨済宗史/玉村竹二 著/春秋社
・一遍と時宗教団/大橋俊雄 著/教育社歴史新書
・一遍 読み解き辞典/長島尚道・高野修・砂川博・岡本貞雄・長澤昌幸 編/柏書房
・反骨の導師 日親・日奥/寺尾英智・北村行遠 編/吉川弘文館