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中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉖ 引き籠る日蓮 「弘安の役」で大勝する日本

 甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。

 見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成されたようだ。特に「文永の役」の予言が当たったのち、彼の名は非常に高まった。

 1274年10月に「文永の役」が起こったとき、日蓮はどう考えたのだろうか。「ほーら見ろ、俺が言った通り。自業自得だ」そう溜飲を下げたに違いない――そう考えるのは、(ブログ主を含めて)凡人なのである。これについて彼が書いた手紙が残っている。要約して紹介しよう――「日本国を助けようと日蓮は頑張ってきましたが、逆に迫害を受けたので山林に隠れました。かねてからの警告、『蒙古が来る』を少しでも聞き入れてくれていれば、ここまでの被害がなかったのではないかと思い、心が痛みます。人々がみな対馬壱岐のような目に逢うかと思うと、涙が止まりません」――

 過激な主張をする人なので誤解されやすいのだが、彼は実に心優しい人なのだ。そんな人柄だったので、彼を慕って100人もの弟子や信者が集まってくるのであり、また彼らを養うために日蓮は苦労するのである。日蓮とその弟子たちを養うために、各地の信者たちは様々なものを寄進している。これに対して日蓮は懇切丁寧な礼状を書いているが、それらは全て仏法の教えを説くスタイルを取っているなど、残された手紙はどれも細やかで心が籠っているのだ。

 「文永の役」から7年――1281年5月、日蓮が予言していたように、元軍が再び対馬に来襲する。「弘安の役」の始まりである。今度の総兵力はなんと15万(!)以上、軍船が4400隻という、想像を絶する大軍であった。

 まずは朝鮮半島より東路軍5万が襲来、5月21日~26日にかけて対馬壱岐を蹂躙。6月初頭には博多湾沖に姿を現している。しかしながら、今回は鎌倉幕府も備えていた。海沿いに総延長20kmにもわたる石築地(高さ・幅とも平均約2m)を築き、浜には逆茂木や乱杭も設置されていたのである。

 

国宝「蒙古襲来絵詞」より。「元寇防塁」と思しき石築地と、その上に陣取る多数の御家人たち。これが20kmに渡って続いていたわけで、さぞかし壮観であったことだろう。これを見た元軍は、敵前上陸を諦めるのである。なお元軍の一部は長門にも姿を現しているが、こちらは威力偵察だったようで、すぐに撤退している。

 

 東路軍はこれを見て強襲上陸を断念し、6月6日に博多湾突端にある地続きの志賀島に上陸、ここに橋頭堡を築くことにする。しかし血気に逸る鎌倉武士団は、陸路・海路双方からここに猛攻を加えるのだ。これに辟易した東路軍は橋頭堡を一旦放棄、壱岐島まで後退することにする。まず前哨戦は、鎌倉武士団の勝利であった。

 しかし元軍の主力は、未だ到着していない江南軍10万なのである。予定より遅れ、6月中旬に大陸より出航した江南軍が姿を見せたのは、ようやく7月に入ってからのことだ。まずは平戸を占領しここに橋頭堡を築いた後、鷹島まで進出する。一方、一旦は壱岐島まで兵を引いた東路軍であるが、度重なる日本軍の襲撃に悩まされていたこともあり、船団を移動させ、江南軍と合流することに成功する。こうして総勢15万の兵がようやく集ったのである。7月の終わりのことであった。

 

通説での「弘安の役」における、東路軍と江南軍の進撃路イメージ。前回の「文永の役」では、予測を大幅に上回る規模で押し寄せ、結果的に不意を突かれた形となった鎌倉武士団であったが、今回は準備万端で待ち受けていた。そもそも鎌倉武士というものは、我々がよくイメージする後世の武士とは違い、遥かに野蛮なバーサーカーどもである。その剽悍さと非常識さで有名な、戦国期~江戸期にかけての薩摩武士ですら、いわば鎌倉武士の先祖返りのようなもので、あれが鎌倉期の武士のデフォルトだと考えて差し支えないだろう。東路軍は志賀島を占領したはいいものの、武士団の凄まじい攻撃に晒され、わずか3日で橋頭堡を放棄している。また武士団は、壱岐に退却した東路軍に対して6月29日と7月2日の両日に殴り込みをかけており、東路軍に対して相当なダメージを与えているようだ。

 

 ここまで東路軍に対し優位に戦いを進めていた武士団であるが、新たにやってきた江南軍の存在は予想外であった。どうも日本軍は東路軍が壱岐島から鷹島に移動したのを、撤退と誤認していたようである。平戸に元の大軍が集結している報に接した京都の官務・壬生顕衡は、その日記に「恐ろしい知らせだ。実に驚いた」旨を記している。

 しかしバーサーカー・鎌倉武士団は怯まない。合流を果たした元軍に対し船戦を仕掛けている。7月27日の昼から28日の明け方まで、鷹島沖に停泊している艦隊に対し、長時間に渡って波状攻撃をかけているのだ。

 元軍はというと、矢継ぎ早に攻めこんでくる武士団の襲撃に、態勢を立て直す暇もない。攻めてきたはずなのに、逆に守勢に回ってしまっている。先手を取られてしまい、イニシアチブをとることができないのだ。

 そして7月30日の夜、北九州を大型の台風が襲ったのである。

 鷹島・平戸沖に停泊していた多くの船が、兵と共に海の底に沈み、元軍は大ダメージを負う。武士団はこれに対して容赦なく、とどめの攻撃をかける。翌月の5日・7日に行ったこの戦いが決定打となり、元軍は撤退を決定するのだ。乗れる船がなく、多くの兵が取り残された鷹島は、殺戮の場と化した。こうして2度目の元寇も、撃退されたのであった。

 ――以上が、「弘安の役」のこれまでの通説である。この説は1931年に刊行された、池内宏氏による著作「元寇の新研究」において発表されたものを土台としており、若干の修正を加えつつも、現在でも広く学会の支持を得ている。実際、Wikipedia元寇の記事を覗いてみても、概ね上記のような内容となっている。

 しかしながら、この元寇に関して、「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」という、大変面白い本が出ている。著者は服部英雄氏。過去記事で紹介した、秀頼の出自について刺激的な説を述べた、あの学者である。次回の記事では「弘安の役」について服部氏の説を紹介してみたい――これを読むと、通説とはやや異なる様相が見えてくるのである。(続く)

 

秀頼の出自について、服部氏の説を紹介した記事はこちらを参照。服部氏はなかなか過激な論を述べることで有名な人でもある。中にはその過激な論を受け付けず、眉を顰める学者もいるようだ。ブログ主はしかしながら、こういう人がいないと議論は硬直してしまうものだから、必要な人材だと思うものである――やや強引な倫理展開もあるが、そこまで荒唐無稽というわけではなく、特に意表をついた視点には、納得できるところがある。

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉕ 鎌倉武士団 vs 元軍 「文永の役」戦いの様相

 元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんとした対策を講じている。具体的には「異国警固番役」の設置である。九州に所領を持つ東国御家人を鎮西に下向させ(これを契機として、九州に所領を持つ御家人の在地化が進むようになる。肥前千葉氏や薩摩島津氏など)、少弐資能大友頼泰の2名を沿岸警備の総指揮官としているのだ。

 次に北条得宗家内における、中央集権化の動き。これにまつわる騒動が1272年に発生した「二月騒動」である。謀反を企てたとして、鎌倉で名越時章・教時兄弟、京では時宗の異母兄・北条時輔がそれぞれ討伐されている。これによって幕府の統制を強化している。

 こうした動きから、鎌倉幕府も一応は危機感を持っていたことが分かる。鎌倉幕府禅宗を優遇していたから、大陸から多くの禅僧が来日していたのだが、その多くは元の南宋侵略から避難してきた僧だったのである。幕府は主に、この南宋ルートから情報を入手していたようだ。また「高麗史」には、日本から来たスパイ船が摘発された、という記録すら残っているのだ。

 さて佐渡で厳しい暮らしをしていた日蓮であるが、配流されているにも関わらず、彼の名は高まっていた。それはなぜかというと、未達成の予言のうちのひとつ、「国内での内乱発生」が当たったからである。

 日蓮はかつて日本を襲う災害として「異国からの侵略」の他、あともうひとつ「内乱」があると予言していた。72年2月に発生した、この「二月騒動」こそがその内乱であり、日蓮の予言が当たったのだ――そう受け止められていたのであった。

 そんな日蓮が赦免されたのは、74年の2月のことである。日本侵攻を決定した元は、この1か月前より高麗に大艦隊の建造を命じている。日蓮赦免のタイミングが、これと軌を一にするのは偶然ではないだろう。幕府はこのニュースを入手していたに違いなく、「侵攻の実現性が高まった」という危機感があったと思われる。(また忍性が赦免を働きかけた、という説もある。こちらもありそうなことである)

 まずはひとつ目の予言を的中させた日蓮。2つ目の予言の内容を聞くべく、時宗重臣平頼綱日蓮を鎌倉まで召喚する。頼綱は丁重な態度で、蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。すると日蓮は「年内の襲来は必然である」と答えたのであった。頼綱は「これは国難であるから、庄田一千町(三百万坪)の収益を上納するので、他宗批判をやめ一致団結して護国のための祈祷をせよ」と提案する。しかし日蓮はあくまでも諸宗への帰依を止めることが絶対条件である、としてその要請を拒絶したのであった。

 もはや鎌倉幕府に、我の言が用いられることはないだろう――そう考えた日蓮は、甲斐国身延山に引きこもることにしたのである。そこで彼は数多くの著作を記すことになる。

 そして74年10月、ついに元の大艦隊がやってきた。「文永の役」である。それなりに心構えができていたはずの幕府もまさか、3万を超える大軍勢がいきなりやってくるとは思ってもみなかっただろう。当時の日本の国力では、これほどの大軍勢を動員し、更にそれを渡海させるなど、想像もできないことだったのである。来るとしても、「刀伊の入寇」レベル(海賊3000人ほど?)程度のものだと考えていたのではないだろうか。(かつて日本も白村江に2万を超える大軍を送ったとされているが、数は大幅に水増しされていると思われる。いずれにしても、はるか遠い昔のことである)

 蒙古・高麗軍は対馬壱岐島に上陸、その地に住む人々を殺戮する。両島が陥落したことを知った鎌倉武士団は、北九州の兵力を結集する。そして博多湾に上陸した元軍に対して、総力を挙げ戦いを挑んだのであった。

 

文永の役」の戦いの様相については、こちらの本が大変に面白かった。史学者というものは、どうしても文献史料第一主義になりがちで、明らかにあり得そうにないことでも「一次史料にはそう書かれているから」で済ませてしまい、思考停止してしまうパターンが、たま~に見受けられる。この本の著者である播田安弘氏は、船舶設計に関わっていた技術者で、いわば船舶の専門家による物理的な観点から「文永の役」について考察した本なのだ。自説にとって都合のいい計算をしている印象もあるが、少なくとも上陸に関しては大変に説得力のある内容で、ブログ主は納得した。「文永の役」のほかにも「秀吉の中国大返し」と「戦艦大和は無用の長物だったのか」についての考察もある。

 

竹崎季長が奮闘する場面を描いた、国宝「蒙古襲来絵詞」。上記で紹介した「日本史サイエンス」によると、船舶の輸送能力から逆算して、元の戦闘部隊は歩兵を主体とした兵が2万6000ほど。日本側の兵力算定が難しいが、おそらく5000の騎馬と5000の歩兵で計1万ほどであったとしている。巷間言われているほど、兵力に差はなかったというのが、播田氏の主張なのである。更に問題なのは「土地勘のない敵地で大軍を敵前上陸させるのは、想像を絶するほど大変な手間と時間がかかったはず」ということである。元軍が博多湾沖に姿を見せたのは10月19日の夜遅くであるが、20日の朝8時頃には戦闘が開始されているのだ。真夜中に上陸するのは不可能なので、朝6時の日の出と共に揚陸を開始したとしても、猶予はたったの2時間しかない。元軍の先遣部隊は、まず上陸地点より先の赤坂まで進軍し、林の中に橋頭堡を築いていたようだから、最初に発生した「赤坂の戦い」の最中も上陸は進められていただろう。しかしその後の「鳥飼潟の戦い」において敗走した元軍は百道原・姪浜へと退却しており、ここまで来ると上陸地点である百道浜は大混乱で、揚陸どころではなかっただろう。これら一連の戦闘において、実際に上陸して戦った元軍の戦力は2万6000の30%以下、多くても8000ほどだったのでは?というのが播田氏の推察なのである。つまりは戦場での日蒙の兵力差は逆転していたのだ。戦いにおける戦傷者も多数発生していた(数千人規模?)こともあり、これこそが遠征軍がその日のうちに戦闘に見切りをつけて、撤退を決めた理由なのであった。

 

 いずれにせよ、本土における強襲上陸に失敗した元軍は、即日撤退することにする。しかし秋の日本海は荒波である。撤退した元の船は、帰途に強い南風に襲われ、その殆どは壱岐の湯本湾付近で海難事故に逢い、沈んでしまうのであった。日本軍の完勝である。

 日蓮元寇のことを「邪宗がはびこる日本を罰するため、神が日本に遣わした神罰」と捉えていた。「文永の役」において元軍が撃退されたと聞いても、その考えは揺るがない。日本にはまだ邪宗がはびこっているから、十分に罰されていない。だから元寇は再び来る、そう確信していたのである――そして予言は、三たび当たったのであった。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉔ 日蓮最大の危機・竜ノ口法難と、遂にやってきた元寇

 大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと思うが、当時の人たちは大真面目だった。それだけ祈祷には力がある、と信じられていたのだ。

 取り急ぎ幕府は「異国降伏」の祈祷を、建長寺寿福寺臨済宗)、極楽寺・多宝寺(律宗)、大仏殿・長楽寺(念仏宗系)、浄光明寺(四宗兼学だが、メインは律宗)の有力寺院らに依頼したのだが、これがまた日蓮にとっては耐え難いことであったのだ。

 日蓮にしてみれば、この世にはびこる「邪宗を奉じる人々」こそが天変地異の原因で、彼らをこの世から駆逐することこそ、正しい政治の姿を取り戻すきっかけとなると信じてやまないのである。それなのによりによって、彼らに祈祷をお願いするとは!これでは日本の滅亡が早まるだけではないか!この頃より、日蓮の排撃対象として遂に真言宗も加わるようになる。法華独勝の立場に、より近づいていくのだ。

 日蓮の論理としては「天台を奉じる延暦寺こそ、正法を伝える道場であったのに、邪宗延暦寺に入り込み混淆してしまっている」ということになる。つまり天台の密教成分を、邪宗と認定したのであった。この頃より日蓮は、延暦寺の開祖・最澄との直接的な結びつきを意識するようになる。延暦寺を再生させるには、最澄の正法を伝える唯一の門人である自分しかいない、と考えたのだ。

 元からの国書が来て3年経ち、使者のやり取りは依然続いている。1271年の夏は暑く、日照り続きであった。幕府は鶴岡八幡宮建長寺、そして極楽寺の忍性に雨乞いの儀式を依頼することにする。特に忍性は祈祷僧としても著名で、69年には実際に雨乞いを成功させており、霊力のある僧として認識されていたのである。

 これを知った日蓮は、忍性の下に弟子を遣わして「あなたが祈祷を始めて、もし7日以内に雨が降れば、あなたの弟子となろう。だがもし降らなければ、あなたの主張は間違っているということになる」という旨の挑戦状を叩きつけたのである。

 忍性はこれを無視したが、雨は降らなかったのである。日蓮は勝利を喧伝し、次のような内容の書簡を諸寺に送りつけたのである――「今回のことで分かったように、禅・戒・念仏が繁盛している現状こそが、国中の天災の原因なのです。それゆえ、建長寺寿福寺極楽寺などの諸寺の伽藍を焼き払い、これらに仕える僧どもの首を斬って由比ガ浜に並べたら、きっと雨が降ることでしょう」――日蓮に対して、またも訴訟が起こされた。

 特に問題になったのが「伽藍を焼き払い、僧の首を斬る」くだりである。この点に関しては、日蓮は全く申し開きをしなかったようだ――本気でそう思っていたのだろう。当然、有罪となった。「御成敗式目」第12条に照らすと、「悪口(あっこう)の咎」の最高刑は佐渡への流罪である。9月12日、日蓮は逮捕された。

 だが日蓮を逮捕した武士たちは、佐渡への流罪になるはずだった彼を、片瀬にある竜ノ口刑場まで連れて行ったのである。真夜中の1時に日蓮は牢から引きずり出され、斬首されそうになる。しかし首を斬られそうになったその瞬間、江ノ島の方角から「光り物」が出現したのだ。これに驚いた武士たちは日蓮を殺すのを諦めたのである――これを「竜ノ口法難」と呼ぶ。

 この光り物の下り、日蓮その人が著したとされている「種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)」に記されているエピソードである。日蓮自身が「見た」と書き残しているからには、おそらく本当にあったことだろう――日蓮は嘘をつける人ではない(だから、しなくてもいい苦労をしているのだが)。

 ではこの正体は何であったかというと、おそらくは大きな流れ星、いわゆる「火球」と呼ばれるレベルの流れ星だったのだろう。なにしろ奇跡的なタイミングである。当時、流星や日蝕月食など、天体運行に関わる現象は全て奇譚として捉えられていたから、この偶然も日蓮の処刑中止の一因にはなったに違いない。

 

江戸期に出版された、歌川国芳による木版画「相州龍之口御難」。今から23年前の話だが、まだ若かったブログ主が「しし座流星群」を見物するために徹夜した際、火球を見ることができた。わずか1~2秒であるが、夜空に光り輝く火球がこちらに向けて落ちてきたのは驚いた。少しのタイムラグがあって、ゴーという轟音が聞こえてきたのを覚えている。あのレベルの火球が処刑直前のタイミングで空に現れたら、さぞかし度肝を抜かれたことだろう。この絵では、空からの光が武士の刀を打ち、刀が折れたということになっている。

 

 ただし、この「種種御振舞御書」という書物、実は後世になって弟子の手によって書かれた偽撰である、という見方が昔から根強くある。この竜ノ口法難について触れられている、確かに「日蓮の真筆である」と認められている他の文書には、「光り物」の類の話は書かれていないのだ。もしこれが作り話だとするならば、奇瑞なしに日蓮の処刑は中止されたことになる。

 奇瑞があったにせよ、なかったにせよ、処刑が中止になったのは、どうも別の要因の方が大きいようである。日蓮処刑の話を聞きつけた忍性が手を回して中止させた、というのが真相のようだ。1277年に日蓮の在家信者である四条金吾が、主君より法華宗信仰について問いただされているのだが、その際に金吾になり代わって日蓮が陳弁した「頼基陳状」という書状が残されている。そこには「死罪の代わりに遠島になったのは、忍性のおかげでしょう」という旨の記述があるのだ。

 竜ノ口刑場がある江ノ島一帯は、極楽寺の管轄下にあった。「不殺生戒」などの戒律を護持する立場にある、新義律宗の一員である忍性にしてみれば、自分の縄張りで流罪であったはずの人間が処刑される、というのは倫理的に許せないことだったようだ。

 また翌72年に、忍性は10種類の誓願を書いている。その第8誓には「我に怨害をなし毀謗を致す人にも、善友の思いをなし、済度の方便とすること」とある。どう考えてもこれは日蓮のことを指しているのであり、彼は敵である日蓮佐渡配流から早期に許されることを願っていたのである。やはり忍性は「慈悲ニ過ギタ」人であったのだ。

 ともあれ71年10月、日蓮佐渡に流される。佐渡での生活は苦しいものであったようだ。彼の教団も壊滅的なダメージを被る。一時はそれなりの規模になっていた教団も、カリスマである開祖の流罪、そして特に「武士の信者に対しては所領没収」という処罰が下されたこともあって、その多くは他宗に転向してしまったのである。日蓮は「1000人のうち、999人が転向してしまった」と嘆いている。

 このまま何もなければ、日蓮法華宗は数多に生まれ、そしていつしか消えていった新興宗派のひとつとして、歴史の中に埋もれていったに違いない。ところが一発逆転、1274年に彼は赦され、再び鎌倉へ戻ってくるのである。なぜか。

 彼の予言が的中したのだ。いわずと知れた、蒙古襲来である。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉓ 社会事業にまい進する忍性 亡国の危機に焦る日蓮

 日蓮は焦っていた。なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。

 彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことなのである。(なお、新義律宗の大ボス・叡尊北条実時・時頼両名に授戒する目的を果たした後、鎌倉における布教は忍性に任せ、すぐに奈良に帰っている)

 ここに至って、忍性を最大のライバルと認定した日蓮とその弟子は、このようなロジックで彼を攻撃している――「生身の仏のごとく崇められている忍性であるが、彼は財を蓄え、貸金業を営んでいる。教えと行いが乖離しているではないか。例えば、飯嶋の津においては関米を徴収しており、これに民は非常に迷惑している。また道を整備したり、川に橋を渡してはいるが、それも木戸を設けて関米を徴収するためではないか」――

 上記のことは、概ね事実である。忍性は新義律宗に改宗した念仏僧・観房より極楽寺を譲り受けており、境内に「浄地(じょうじ)」という施設を設立している。この「浄地」は「禁律に対する適当・合法」を意味する言葉で、本来禁止されているはずの利殖活動を行わさせるために創設された組織なのである。忍性は集めた寄付を一旦ここにプールさせ、利殖活動を仕切らせたのであった。彼はなぜ、こうした活動を行ったのであろうか。

 答えは単純で、「慈善活動するには金がかかるから」なのである。忍性らが行っていた慈善活動は、集まってきた貧しい人に米を配るだけ、などという短絡的なものだけではないのだ(勿論、それもやっていた。しかも1回につき数千人という規模で)。忍性の本当の凄さは、「温浴施設などを備えた療病院などの施設を各地に多く建て、それを恒常的に運営した」というところなのである。こうした施設の運営には、多額のランニングコストがかかる。その費用を捻出するために、利殖活動を行っていたのであった。

 

Wikiより転載、鎌倉・極楽寺。かつては浄土宗の寺であったが、忍性の入寺に伴い新義律宗の寺となり、今に至る。山中にある極楽寺を21世紀のいま訪れると、門は茅葺の屋根だし、境内は小さいしで、いい意味で鄙びた風情である。しかしかつては49の子院を要する大寺院であったのだ。右の画像は、極楽寺境内にある石造りの巨大な薬鉢であるが、これを使用して毎日大量の薬草が調合されていたものと思われている。施設には大量の病人や貧しい人を抱えていたわけで、銭米はいくらあっても足らなかっただろう。

 

極楽寺蔵「極楽寺古図」。中世の姿を描いたものだが、描かれたのは江戸期になってからである。どこまで再現性が高いかは不明だが、往時の大きさはイメージできるだろう。現在ある施設を、青い四角で囲って示してある。現存する極楽寺境内は、かつてのほんの一部であったことがよくわかる。丸い円で囲ったのが当時存在した、らい病患者ら病人のための施設である(馬のための病屋もある。これは武士が多い、鎌倉ならではのものだろうか)。現在、寺の門前を横切るように走っている江ノ島電鉄の路線であるが、かつてはここには極楽寺川が流れており、この谷沿いに非人たちの集住地があったと推測されている。

 

 次に日蓮が非難している「飯嶋の津で関米を徴収」や「道や橋を建てて木戸を設けている」点。これも事実ではあるが、やはり補足が必要であろう。

 まず鎌倉幕府であるが、この時点での幕府はあくまでも「(野蛮な)武士たちを統率する武門の棟梁」としての性格が強い組織なのだ。彼らに「国を治める」という責任感は極めて薄い。

 幕府も一応は、鎌倉近辺において「切岸・堀切・切通の整備」、「道路排水のための側溝工事」、「川の護岸などの土木工事」などは行っている。大きなものでは、在地武士と鎌倉を結ぶ「鎌倉往還」などの道路工事などもある。そしてこれらの維持管理のために「保奉行人」という役職が設置され、鎌倉市中の土地・道路の管理から橋の修理・道路掃除まで行っていたことが分かっている。

 しかし、これらのインフラ工事の殆どは「いざ鎌倉」という緊急事態の時のための備えであって、軍事的観点から整備したものなのである(結果的に庶民の役に立ったことはあるだろうが)。この頃の幕府には、まだ「民を富ます」という発想自体が存在しない。後年、江戸幕府が行ったような、新田開発などの生産力増大を試む意志や、港湾整備などのインフラを整える能力を、そもそも持ち合わせていなかったのだ。

 では朝廷にはあったのかというと、こちらも幕府よりは些かマシ、というレベルでしかなかった。ではそれまでの日本における大規模なインフラ整備は誰がやっていたのかというと、主に寺社などの宗教勢力が担っていたのである。(空海による「讃岐国満濃池(まんのういけ)改修」などが有名である)

 前記事で少し触れたように、新義律宗は石工などの技術者集団を抱えていた。そこで幕府はそうしたスキルを持つ忍性らに、港湾や道路などのインフラ整備と保守運用を委託したのである。しかし幕府は言うだけで一銭も出さないから、費用は自分たちで捻出するしかなかった。それらを木戸銭や関米という形で回収していたのである。(なおこの時期、新義律宗は鎌倉近辺のみならず、全国の主要な港湾――西表津、博多津、尾道津、安濃津など――の整備運営を幕府より委託されていた)

 このように忍性の利殖活動には正当な理由があったわけで、公平に見て非難されるには及ばないだろう。しかし日蓮は止まらない。彼にしてみれば、止まるわけにはいかない事情があったのである。実は1268年の1月に、日蓮を更に焦らす大きな出来事が起きていたのだ。それは大陸を制覇した超大国・元から、大宰府に届いた国書の存在である。

 体裁としては日本との通好を求める内容だったのだが、その本質は「言うことを聞かねば、武力侵攻もあり得る」といった物騒なものであった。幕府はこれを侵略の前触れとして受け取り、黙殺することにしたのである。約1か月遅れでこの情報を知った日蓮は、これこそかつて「立正安国論」の中で自身が予言した、まだ実現してない残り2つの災害のうち1つ、「他国からの侵略」であると確信したのである。

 「このままでは日本は滅びてしまう」――国を救えるのは自分しかいない。そう考えた日蓮は、さらに過激な行動に出るのであった。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉒ 法難に逢う日蓮、躍進する忍性

 浄土宗に深く帰依していた、その地の地頭・東条景信は、念仏宗を非難中傷する日蓮に対し、激しい敵意を抱く。景信による襲撃の恐れもあり、日蓮は故郷を離れ、一路鎌倉へと向かうのであった――というのが、現在の日蓮宗に伝わる公式ストーリーである。

 しかし実際のところは信仰の問題というよりは、清澄寺と東条氏との間で領家の権益をめぐってのトラブルがあった、というのが真相のようだ。裁判の結果、東条氏が全面敗訴したのだが、この際に清澄寺の僧として精力的に弁護活動に動いたのが日蓮であり、これが理由で景信から憎まれたようである。

 だがこうしたトラブルがなくても、いずれにせよ何処かの時点で日蓮は鎌倉へ向かっていただろう。彼の考えでは「仏教の教えで政治を正す」ことが絶対に必要であり、当時の鎌倉こそ政治の中心地であったからだ。

 日蓮が鎌倉に着いたのが、1256年ころだと思われる。鎌倉の外れ、名越の地に草案を結び、布教活動――具体的には辻説法を行っていたようだ。清澄寺より離脱した日蓮は官僧としての身分を失っており、いわゆる遁世僧と呼ばれる私僧となっていた。そうなると布施で食っていかざるを得ないので、布教を兼ねた辻説法をすることで、糊口を凌ぐわけである。一石二鳥なのだ。

 若宮大路などの大通りでは辻説法は禁止されていたので、市場などが立っていた商業地域で行っていたと思われる。広大な学識に裏付けられた明確な教義、強い目的意識、そして凄まじい熱意を以て布教に当たった結果、この先ずっと彼に付き従うことになる日昭・日朗ら忠実な直弟子たちの他、名越氏の被官・四条金吾(しじょうきんご)、千葉氏の被官・富木常忍(ときじょうにん)、また幕府の有力御家人の夫人であったと見られている名越の尼といった、有力な在家信者らを獲得することに成功するのである。

 それにしても日蓮にとって許しがたかったのは、この頃の鎌倉幕府念仏宗に対し、優遇策をとっていたことである。これは何故かというと、念仏僧である浄光の指揮により、長谷寺にて鎌倉大仏の鋳造が行われていたからである。幕府は浄光に対し、全国規模で勧進を行う許可を与えるなど、後援を行っていたのである。

 

1919年に、英国の版画家チャールズ・W・バートレットによって描かれた鎌倉大仏。1243年に初めて造られたときは、木造であったと記録にある。サイズも今のものとほぼ同じ大きさであったのだが、何らかの理由で破損してしまったらしく、改めて鋳造することになったのだ。試料採取により、鋳造するに当たっては、材料として大量の宋銭が鋳潰されたことが分かっている。なお造像当時は金箔を張っていたので、金色に輝いていたようだ。また大仏殿の中に納められていたが、度重なる地震で倒壊してしまい、今に至る露天での姿となっている。鎌倉大仏鋳造の原動力となった浄光という勧進僧であるが、彼についての記録はほぼ残っておらず、その素性はよく分かっていない。

 

 大仏建立のさなかである1260年7月、日蓮は自らの考えをまとめた「立正安国論」を著し、北条時頼に提出する。この書の内容を要約すると「念仏宗のような邪宗を敬うから、国が乱れたのだ」というものである。

 そして実際に「国が乱れた」根拠として、薬師経という経典にある「七難」の概念に触れている。この七難のうち5つ「疫病・天変地異・日蝕月蝕・季節外れの風雨・干ばつ」は既に起こってしまったが、このままでは残り最後の2つ「国内の反乱」「他国からの侵略」が近いうちに起こるであろう、と書いたのであった。

 しかし大仏建立で鎌倉中が沸き立つ中、日蓮の主張に耳を貸す者は少なかった。それどころか(あたりまえだが)、「不吉な奴め」と反発を買う始末で、「立正安国論」を提出した1か月後の8月に、怒れる念仏衆らによって名越の草庵が襲撃されてしまうのだ。この事件を法華宗徒は「松ヶ葉法難」と呼ぶ――これを皮切りに今後何回も続く、記念すべき?法難の第1回目である。

 草庵を逃れ、向かった先は下総国八幡にある在家信徒・富木常忍の館である。しばしの間、そこで逼塞していた日蓮だが、ほとぼりは冷めたとみて再び名越に戻る。しかし日蓮が戻ったと知った念仏僧らは、今度は幕府に対し正式に「悪口の咎」で訴えを起こしたのである。これを受けて1261年、幕府は日蓮に対し、伊豆配流の決定を下す。これを「伊豆法難」と呼ぶ。

 理由は不明だが、日蓮はすぐに許されて、62年には下総の富木の屋敷に戻っている。しばらく鎌倉を離れることにしたのである。64年9月頃には病気の母の看病のため、生まれ故郷の安房に戻っている。しかし11月になって下総に戻ろうと、因縁深い東条の地を通りかかった際に、襲撃者による待ち伏せを受けたのである。

 襲ってきたのは、あの東条景信である。執念深い彼は、念仏衆を100人ほどを引き連れて、日蓮一行ら10人を待ち構えていたのである。多勢に無勢、弟子である鏡忍房、信徒の工藤吉隆が殺され、他に2人が負傷している。日蓮自身も左手の骨を折られ、眉間に深い傷を負った、とある(古い時代に造られた日蓮の木像には、額に傷がついたものがあるそうだ。生涯残るような傷跡だったのかもしれない)。これを「小松原法難」と呼ぶ。

 しかし不屈の人・日蓮は決してへこたれないのだ。1266年には再び鎌倉へ戻るのである。ところが彼が鎌倉を離れていたこの4年余りの間、この地の仏教勢力図には大きな地殻変動が起こっていたのである。

 きっかけは新義律宗のリーサルウェポン・忍性が62年に鎌倉入りしたことである。彼は52年頃から関東教化を目指し常陸国を中心に布教活動をしつつ、幕府中枢に対する布教の機会を伺っていたのだが、10年越しに念願叶って鎌倉入りを果たしたのである。

 忍性の働きかけによって、翌63年には新義律宗のボス・叡尊が奈良から鎌倉入りする。そして叡尊は時の最高権力者である北条実時北条時頼の両名に拝謁し、2人に授戒するという栄誉を果たすのだ。これは鎌倉幕府が新義律宗を公式に認めたということであり、以降、新義律宗は凄まじい勢いで勢力を伸ばしていく。当時、鎌倉で一番多かったのは浄土系の寺だったのだが、これを契機に軒並み新義律宗に塗り替えられていったのである。

 鎌倉における念仏僧の、ボス的存在であった新善光寺の念空や、浄光明寺の性仙、極楽寺の観房など、名だたる念仏僧らが次々と新義律宗の僧から戒律を受け、その門下となった。そればかりではない。やや後年のことになるが、かつて日蓮の忠実な在家信徒であった名越の尼まで、新義律宗に宗旨替えしてしまう有様。

 そんなわけでこの頃になると、日蓮のターゲットとして新たに律宗、そして禅宗も加わっている。教義的にも、より法華経原理主義へと傾倒していき、舌鋒にもますます鋭さが増していくのだ。(続く)

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その㉑ もうひとつの鎌倉仏教 「真言律宗(新義律宗)」叡尊と忍性(下)

 さて、叡尊が復興させた「通受」とは、どういうものであろうか。

 戒律には多くのルールがあるのだが、大別すると3つに分けられる。「摂善法戒(善いことを成すための戒)」「摂衆生戒(衆生救済を目指す戒・要するに人々を救う戒)」「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」の3種類である。

 この3種の戒を受けることを、「通受」と呼ぶのである。戒を受けるということは、当然これら3種の戒の全てを受ける(通受する)必要があるのだが、いつしか日本ではその簡易バージョンである、「別受」という方式が主力になっていた。この別受は3種類のうち1つ、つまり「摂律儀戒(悪をとどめる戒)」のみを受けるというものである。つまりこの戒は受けても「自己が悪に染まらないようにする」ためのものでしかなかったのだ。

 しかしそれだけではダメで、当然残りの2つ「善いことを成す戒」「衆生救済を目指す戒」も一緒に守らねばならない、というのが叡尊の考えなのである。

 このように今まで顧みられていなかった、後者2つの戒「他者を救済し、善きことを成す」を重視した結果、新義律宗のモットーとして幅広い社会救済事業を行うに至った、というわけである。だがそれにしても、ここまで大規模な慈善者機事業を行うようになったのは、もうひとつの要因が欠かせない。それが忍性という僧の存在なのである。

 彼が新義律宗に参加したのは、叡尊が教団を立ち上げた3年目の25歳の時で、この時は額安寺の官僧であった。まだ若年であったのだが、その人柄に目を付けた叡尊が自らスカウトしたのである。

 この2人の関係性は、もちろん師弟ではあるのだが、同志的な関係性にも近いものがある。なぜならばこの忍性こそが、叡尊の下に「文殊菩薩信仰」を持ち込み、数多くの慈善事業を空前の規模で行い、新義律宗の教線を大幅に拡大させた僧だからなのである。

 教団に入る前から、忍性には信仰のベースとして「文殊菩薩信仰」があったようである。文殊菩薩信仰は、古くから貧者や病者のための施しを行う「文殊会」という事業を行っていることから分かるように、福祉的な性格が強い信仰形態であった。そんな彼が「衆生救済」と「善きこと成せ」と主張する、叡尊に強く惹かれたのも無理はない。こうした傾向を持つ忍性はまた、聖徳太子が定めた「四箇院の制」に深く感銘し、その復興を図っている。

 「四箇院の制」は仏法修行の道場である「敬田院」、病者に薬を施す「施薬院」、病者を収容し病気を治療する「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」を設立・運営したというものなのだが、彼はこれに倣って、各地に様々な種類の福祉施設を開いたのだ。

 叡尊・忍性の指導の下、新義律宗が行った各種事業は「殺生の禁断」の流布、旧仏教の救済対象外であった「女性の救済」、被差別階級である「らい病患者に対する慈善」、宇治橋修繕など各種の「インフラ整備」など、広範な分野に渡る。

 言葉だけの救済ではなく、実際に行動に移したことが評価され、非人から公家、鎌倉幕府、皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けたのであった。

 

西大寺蔵「忍性菩薩画像」。後年「真言律宗」と名付けられるこの教団だが、開祖の叡尊自身は「自分たちは戒律を守り、啓蒙活動を行う教団である」という認識で、あくまでも戒律を重んじる真言僧のひとりとして行動していた。そんな戒律教団がここまで大規模な福祉事業に関わるようになったのは、高弟である忍性の個性にあずかるところが多い。らい病患者の救済活動自体は、古くから行われてはいたのだが、あくまでも仏道修行の一環でしかなかった。修行の域を超え、新義律宗が本格的に福祉社会事業を始めたのは、忍性が教団に合流してからのことなのである。奈良のらい病患者の施設である、有名な「北山十八間戸」を設立したのも彼であると見られている(般若寺の良恵という説もあるが、いずれにせよ新義律宗の僧である)。しかし彼はらい病患者の救済のみに注力したわけではない。「らい病患者に限らず、全ての人々を救済するべき」というのが忍性のモットーなのである。彼が生涯で行った慈善・社会事業のうち(幾分誇張もあるだろうが)草創した伽藍は83か所、らい病患者らに与えた衣服は3万3000着、架橋した橋は大小合わせて189本、修築した道路は71か所、掘った井戸は33本、築造した浴室・病屋・非人所は5か所、と伝わっている。こうした事業にあまりにも注力しすぎたため、師である叡尊からは「慈悲ニ過ギタ」と注意されるくらいであった。死後に後醍醐天皇より勅許で賜った諡(おくりな)は「忍性菩薩」であるが、彼にこそふさわしい諡号だといえる。なおこの教団は、こうしたインフラを整備に長けた技術者集団を抱えていたらしい。特に有名なのが関西における伊派と、関東における大蔵派という石工集団である。

 

 ここでようやく、日蓮の話に戻る。ネタバレをしてしまうと後年、日蓮はこの忍性と不倶戴天の間柄となるのであるが、彼が立宗した1252年時点においては、新義律宗の拠点は奈良の西大寺であり、関東にはまだ本格的には進出していなかった。日蓮にとっては戒律復興運動に励む、いち教団に過ぎなかったのである。

 そんなわけでこの時期、日蓮の攻撃性は浄土宗を代表とする、念仏宗に対してのみ向けられていた。安房国・東郷の清澄寺に帰還し、この地にて立宗したのち、彼は浄土宗を激しく攻撃したのである――それこそが世の中を、天変地異から救う手立てだと信じて。

 しかしよりによって、東郷の地を治める地頭・東条景信は、浄土宗の熱心な信者だったのである。(続く)

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑳ もうひとつの鎌倉仏教 「真言律宗(新義律宗)」叡尊と忍性(上)

 日蓮に関しては、これまで数多くの著作が出ている。何冊か読んでみたが、最も客観性があって面白かった本が、日本中世史・仏教史学者である、松尾剛次氏の著した「日蓮・戦う仏教者の実像」である。以降の記事の内容の多くは、この本に書かれていることを参考にしている。(また記事後半に出てくる「真言律宗」に関しても、同じく松尾氏の著作「忍性・慈悲ニ過ギタ」を参考にしている。)

 1252年、日蓮は遊学先より安房国・東条にある清澄寺に帰還する。そしてかの地において、遂に立教開宗を宣言するのである。

 実のところ、前記事で述べた彼の教義の多くは、時の経過によって幾分か変遷している。例えば「お題目を唱え、即身成仏を目指し、この世を正していく」という部分に関しても、この時点ではまだそこまではっきりとした形になっていないようだ。

 初期から一貫して変わっていない姿勢は、主に2点。まずは「法華経原理主義」とでも形容すべき、法華経への絶対的な傾倒。次に法然、つまり浄土宗に対する激しい敵意である。国家をないがしろにし、己の救済のみに傾倒する(と日蓮は考えた)法然の教えは、どうしても相容れないものであったのだ。浄土宗に対してはこのような姿勢であった日蓮であるが、他の宗派に対してはどのように考えていたのだろうか?

 まずは禅宗から。近畿において遊学経験のある日蓮は、禅宗の先駆けである達磨宗のことはもちろん知っていたし、栄西が開基した京・建仁寺に至っては、この時点ではまだ「禅・天台・真言」の三宗兼学の寺であったから、(記録には残っていないが)訪れたことさえあったかもしれない。

 しかし禅宗のメインの支持層は、幕府要職に就いている者など武家でも上流階級だったから、京においては未だ少数派であった。関東においてはそれなりに勢力を伸ばしつつあったが、それでも鎌倉に純粋禅の道場となる建長寺が開基されたのが、日蓮立宗の翌年、1253年のことである。そんなわけで、総体としてはそこまで大きな勢力になっていなかった禅宗は、まだ日蓮のターゲットにはなっていなかったのである。

 次に真言宗であるが、前半期の日蓮真言宗に対して、意外にも親和的だったことが分かっている。彼が真言を敵とみなすのは、もう少し後のことである。そもそも日蓮の基本スタンスは天台宗である。これまでの記事で見てきたように、その別名を「台密」と呼ばれるくらい、密教天台宗を構成する重要な要素のひとつであったわけだから、日蓮密教的要素を肯定せざるを得なかった。

 例えば立宗する10年前のことであるが、1242年に日蓮は「戒体即身成仏儀」という書を著している。この書において日蓮は、念仏に対する法華経の優位性を論じているが、同時に「法華経もまた、真言宗の初期段階である」と論じているのだ。まだ思想が固まる前の段階とはいえ、初期の日蓮台密の強い影響下にあったことがよくわかる内容である。(ただしこの書は日蓮が書いたものではなく、偽撰であるという説もある)

 最後に律宗。ここで日蓮がいう律宗とは、主に「真言律宗」のことを指す。真言律宗とは何か?このシリーズでは、これまでこの宗派について全く触れてこなかった。何故かというと、これまで真言律宗はその名の通り「律宗」から生まれた宗派であり、覚鑁新義真言宗根来寺)と同じように、いわゆる旧仏教サイドから生まれた改革運動の一種、として見なされていたからである。

 だが最近の研究動向では、真言律宗は鎌倉仏教のひとつとして数えた方がいい、という見方がある。これは何故かというと、彼らの特徴の一つとして、大規模な救済・福祉事業を行ったことが挙げられるからである。

 例えば、同じく旧仏教サイドから改革を行った覚鑁新義真言宗は、教義の上では他の鎌倉仏教に与えた影響はあったものの、基本的には真言という枠組みの中に留まり続けたし、社会的にはローカルな地方勢力としてしか成長しなかった。それに比べると真言律宗は各種の大規模な事業を行っており、当時の社会に与えた影響は、遥かに大きいといえるのだ。

 そこでここからは、法華宗についてのシリーズ半ばであるのだが、少しだけ回り道をしてこの大変ユニークな宗派、真言律宗について触れてみたい。

 まず「真言律宗」という宗派であるが、彼らがそう呼ばれるようになったのは、実は江戸期からである。当時この教団に所属していた僧らは、別に自分らが新しい宗派を確立したという意識はなく、あくまでも「律宗の一員」として行動していたわけである。なので、これを「新義律宗」教団と呼ぶ人もいる。この記事でも、以降はこの名称を使って紹介していきたい。

 さて、そもそも律宗の出発点は「僧が守るべき戒律」についての研究からスタートしたものだ。日本における歴史も古く、その歴史は753年の鑑真の来日にまで遡る。以降、律宗は「南都六宗」のひとつとして、古代の日本の仏教を支えたのである。しかし平安末期に最澄が開いた天台宗は、律宗の定めた戒律から決別し、独自の戒律を定めたため、以降は衰退してしまったのである。

 鎌倉期に入り、社会構造の変化により新たなプレイヤーが現れる。武士や庶民階級の台頭である。鎌倉仏教はこうした新たなプレイヤーの需要によって登場したものと捉えることができるが、旧仏教サイドの真言宗から覚鑁が登場したように、南都六宗からも同じような改革の動きが出たのである。そして律宗から出た、改革運動を主導したこの新義律宗集団こそ、後年「真言律宗」と名付けられる教団となるのである。 

 その先駆けは、平安末期に衰えていた「戒律の復興」を呼びかけた、実範(しっぱん)という僧である。彼は法相宗真言宗天台宗の三宗を主に学んだ僧であった。天台宗をも学んでいることから分かるように、彼もまた本覚思想の堕落面に触れ、こうした風潮に対するカウンターとして、「戒律復興」運動を始めたのである(なお彼は覚鑁とほぼ同世代に活躍した僧であり、両者には思想的交流があったことが分かっている)。

 こうした流れの跡を継いだのが、奈良にある西大寺叡尊(えいそん)という僧で、彼もまた醍醐寺などで長年密教を学んだ真言僧であった。真言僧として活動しながらも腐敗した有様に心を痛めた彼は、その理由を「釈迦が定めた戒律に従っていないからだ」という結論に達する。そこで志を同じくする同志たちと、東大寺・法華堂の観音菩薩の前で戒律を厳守することを誓い、官僧から離脱し遁世僧になったのであった。これが1236年のことで、以降「戒律復興」にまい進していくことになる。

 活動を開始した、この1236年が「新義律宗」としての開宗した年として位置づけられ、実質的には彼が新義律宗の開祖ということになっている。ポイントは、彼のベースは密教にあるということである。というよりも、この時代の教養ある僧は、多数の宗派を兼学するのが常であった。その中でも最も盛んであったのが密教であったから、彼らのほとんどが天台か真言をベースにせざるを得なかったのであるが。

 なので、新義律宗の教義は真言密教を土台にしたものとなる。そのうえで様々な信仰――後述するが「釈迦信仰」「文殊菩薩信仰」「聖徳太子信仰」などがミックスされている。だが何といっても、最も力を入れていたのが「戒律学上の、通受の復興」なのである。

 叡尊が重視し、復興させた「通受」とは何か。次回の記事では、新義律宗が追い求めた「戒律の復興」運動と、そうした動きが如何にして大規模な慈善社会事業を行うに至ったか、を見ていこう。(続く)

 

真言律宗」こと新義律宗の開祖である叡尊を描いた、西大寺蔵「興正菩薩像」。彼らは密教僧でありながら、戒律の研究と護持に注力したので「律僧」と呼ばれた。奈良・西大寺を拠点とし活動を開始した彼らだが、西大寺そのものは興福寺の末寺であった。叡尊ら律僧は黒衣を着ていたことから、「黒衣方(こくえがた)」または「律家」と呼ばれ、一方、興福寺系の官僧たちは白衣を着たので「白衣方」または「寺家」と呼ばれ、西大寺では双方が共存していたのだ。色が異なる2つの集団の間に、全く対立がなかったとは断言できないが、比較的平和に共存できていたのは、新義律宗はあくまで「戒律を重視する、真言僧」としてみられていたからと思われる。他の多くの鎌倉仏教とは異なり、異端としては見られていなかったのだ。

 

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑲ 戦う男・日蓮 その目的は「世界を正す」こと

 さて鎌倉仏教のトリを飾るのは、日蓮宗である。おなじみ日蓮が開いた宗派であるが、開祖の名がそのまま宗派になっているのは、この日蓮宗だけである(ただし江戸期から。それまでは法華宗といった。なのでこのシリーズでは、以降は法華宗とする)。そういうことからも分かるように、日蓮は強烈な個性を持っていた男なのである。

 日蓮の名言、というか迷言として「真言亡国(しんごんぼうこく)、禅天魔(ぜんてんま)、念仏無間(ねんぶつむげん)、律国賊(りつこくぞく)」というものがある。他宗をここまであからさまに攻撃した開祖は今までになく、その攻撃的姿勢は法華宗そのものにも受け継がれた。「炎上上等」なのである。故に法華宗は、時の政権によく弾圧されている。

 この記事では日蓮が、如何にしてこうした過激な思想を持つに至ったか、そしてその後の法華宗の動向について、述べてみようと思う。

 日蓮は1222年に安房国・東条に生まれている。過去の記事で述べたように、自らを「旃陀羅(せんだら)が子」と称している。旃陀羅というのは漁師のことである。最もこれは己を卑下した表現であって、12歳の時には地元の天台宗の寺・清澄寺にて初等教育を受けていることから、その地の漁師らを統括する立場にあった、それなりに裕福な家柄であったと推測されている。

 清澄寺にて日蓮は天台の基本教義を学び、16歳の時に得度する。清澄寺にて官僧になったのだ。そして2~3年後の、1240年前後に京・延暦寺へ向かう。当時の官僧は、そこで受戒するのが慣例となっていたのである。無事そこで受戒を済ませた日蓮は、そのまま比叡山にて数多の文献を読破し、畿内を中心に各地を遊学している。

 日蓮のように、他の多くの鎌倉仏教の開祖たちもまた、延暦寺で天台教学を学んでいる。そして本覚思想に毒された当時の顕密仏教に嫌気がさして、新しい宗派を立ち上げる、というのがひとつのパターンなのである。しかし、日蓮は違った。本覚思想を含む天台思想を勉強して、この時点で日蓮がたどり着いたのは「悪いのは天台宗ではない。念仏を奉じる浄土宗と、それを禁じない幕府こそが、諸悪の権現なのである」というものであった。

 この辺りを、もう少し整理して考えてみよう――以下の考察はブログ主による、個人的な日蓮観が多く入っている。異論もあるだろうが、ご容赦を――

 まず日蓮の考え方はスタート地点からして、独特なのである。他の鎌倉仏教の開祖たちの多くは、この世は末法であり(末法を認めない道元のような僧もいたが)、そんな絶望しかない世の中で「如何にして自分が、ひいては皆が救われるか」を根本的なテーゼとして持っていた。その題に対する答えとしてそれぞれたどり着いたのが、念仏であったり、禅であったりしたわけである。

 しかし日蓮のテーゼは違う。日蓮の生きた時代は、日本が多くの天災に見舞われた時期であった。日蓮30半ばの頃など、6年の間に5回も改元が成されている。改元は大きな災厄があった際に成されるのが常で、実際に「吾妻鏡」などの記述でそれが確認できる。相次ぐ地震、そして飢餓や疫病で多くの人が苦しみながら死んでいったのである。

 こうした天災を身近で見て、彼はこう考えた――「何故、国土はこのように荒廃しているのだろうか?人々を救う仏教が盛んに信仰されているのに」――つまり日蓮は「苦しみから人を救う」というよりも、「人を苦しめている天災は、何故にこんなに多いのか?」という疑問に対する答えを知りたくて、経典に挑んでいるのである。

 

Wikiより転載、身延山久遠寺蔵「日蓮上人像・波木井の御影」。目力が強い!彼もまた異相である。ブログ主の個人的な感想だが、日蓮は論理的に物事を考え、かつ知的好奇心が旺盛な人であったようだ。彼の行動の源泉として、「苦しむ人々を救いたい」という動機があったのは間違いないが、それよりも「世の中の仕組みを解明したい」という動機の方が強かったのではないだろうか。文系というよりも理系脳で、現代に生まれていたら科学者になっていたような気がする。

 

 そして長年の思索の結果、天変地異が起こる理由を、彼は遂に突き止めたのである!

 それは王法、つまり政治の在り方が間違っているからである。「正しい理念」に基づいて、政治が行われていないから駄目なのである。では正しい理念とは何なのか?それこそが仏法、つまり仏教の教義なのである。

 しかし現在は仏教の在り方が間違っている。奇妙なことを主張する宗派が乱立してしまい、正しい教えが守られていない。だから天変地異が起こるのだ。これらの教えを整理して、本当に正しい教えのみを流布し、これに基づいた政治をすることが、正解なのである!

 これこそが日蓮の独自性であり、他宗と大きく違うところだ。彼は「立正安国論」においてこう述べている――「国は法によって繁栄し、仏法はそれを信じる人によって輝きを増す」。つまり正しい仏教の興隆なくしては、安国もない、というわけだ。そして国が滅びそうな現在は、何よりも国土と人民のために祈る必要がある。まずは社会の平和と安定、それが成されれば個人の救済につながる、という考え方なのである。個人よりも政治が上なのだ。

 こうした性格を持つ法華宗は、当然のことながら極めて政治色が強い宗派となった。日蓮によって開かれてから、今に至るまで常にそうである。詳細はまたシリーズ最後の方の記事で述べるが、現代の日本政界において、創価学会を母体とした宗教色の強い政党・公明党が存在しているのは、こうした背景があるわけである。

 それでは次に、日蓮がいうところの「正しい仏法」とは、具体的にどういうものであろうか?彼が選んだ思想の土台となるべき経典は、意外にも天台宗の根本経典である「法華経」なのであった。いわば「天台の根本に帰る」ことを主張したのである。一種の天台原理主義者であるともいえる。

 日蓮が再解釈した「天台の根本」とは、端的にいうと次のようなものだ――法華経の神髄は、7文字に凝集されている。それが「南無妙法蓮華経」という「お題目」なのである。そして仏の功徳が凝縮されている、この題目を唱えることにより、現世における即身成仏が可能になる――というものである。

 まず方法論として「お題目を唱える」――これは「念仏を唱えることが大事」という浄土宗の「専修念仏」の考え方と同じなのである。更に目指すところは「現世での成仏」であるというところ、こちらは秘法を以て「現世での成仏」を目指す真言宗と、ほぼ同じ発想なのである。つまり日蓮は、否定しているはずの他宗の考え方に影響を受け、それを教義に取り入れているのである。

 更に面白いことに、日蓮末法思想を信じる立場にいるのだが、浄土の存在を否定しているのである。彼は浄土というものは「あの世ではなく、この世にあるもの」と論じている。これは根来寺の開祖である、覚鑁の「密厳浄土」の考え方と極めて近いのだ。

 

覚鑁の「密厳浄土」に関する記事はこちらを参照。新しい時代に向けて、彼は高野山を改革しようとしたが、果たせなかった。後年、彼の後継者たちが「密厳浄土」の教えに基づいた新義真言宗根来寺)を立ち上げることになる。

 

 事実、日蓮は1251年に覚鑁の著書「五輪九字明秘密釈」を書写していることが分かっている。そして日蓮が写したこの書こそ、覚鑁密教と浄土思想の融合を企てた論文だったのである。(※ただし晩年の日蓮は考えを少し変えたようで、その存在を「霊山浄土」と呼んで容認している。)

 そういう意味では日蓮の教義は、よく言えば「他宗の優れたところを集めた、ハイブリッド版」、悪く言えば「都合のいいように、ツギハギしたモザイク画」であるともいえるのだ。(続く)

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑱ 「お葬式」を発明した曹洞宗

 鎌倉仏教を奉じる教団の傾向として、旧仏教ほど「寄進された荘園」というものを持っていない、ということがある(一部例外はある)。彼らは中世に入って出現した新興勢力であったから、残されたパイであるところの「余った土地」が少なかったわけである。(故に武士階級から支持されたともいえる。一部の宗派を除いて、土地の取り合いで武士たちと競合することはなかったわけだ)。ではどうやって教団を維持していくかというと、主に在家信者による「銭や物の寄付」に頼ることになるのである。

 どこも宗祖が存命の頃は、その個人的な人間関係や、カリスマ性によって集まってくる寄進でやっていける。しかし2代目以降となると、そうはいかなくなるのだ。道元亡き後の永平寺(1246年に大佛寺から改称)が、一時衰退したきっかけもまた、それが理由であった。

 道元の死後、永平寺内で深刻な派閥争いが発生する――後年「三代相論」と名付けられる、長きにわたる騒動である。

 道元から永平寺2世に指名されたのは、孤雲懐奘(こうんえじょう)という、元達磨宗の僧であった。かつて達磨宗の論客であった彼は、道元に論戦を挑んだが論破され、彼の弟子になった男である。達磨宗の高弟であった彼の参入は、同宗の禅僧らが一斉に集団改宗し、道元の元に集った契機となっているのだ。

 そしてこの達磨宗系統の僧らは、永平寺「改革派」の主流メンバーとなるのだ。道元の死後、この改革派は「衆生教化のために、道元が不要とした法式(祈祷などの儀式のこと)も取り入れよう」とする動きを見せたのである。

 こうした動きは、道元死後の収入減と大いに関係あるのではなかろうか。要するに改革派は、より一般受けする祈祷などを永平寺に導入することによって、教団の新規信者の獲得、ひいては収入改善・規模拡大を狙ったわけである。

 しかし道元の遺風を守ろうとする、ストイックな保守派との対立は深まる。元達磨宗ではあったが、懐奘は曹洞宗を統べる立場として中立的な立場を守り、双方の調停・融和に努めたようだ。そうした努力の甲斐あって、彼の存命中はなんとかまとまっていたのだが、改革派であった3世の徹通義介の代に至って、両派は遂に決裂してしまうのだ。

 3世の義介は改革派の主流メンバーを引き連れて、加賀・野市にある大乗寺へと移ってしまう。この分裂は比較的平和裏に行われ、高野山と根来のように、血が流れるような喧嘩別れをしたわけではなかったようだ。大乗寺は引き続き曹洞宗を奉じ続けたし、双方の交流も続いたようだ。しかし改革派が去った後の永平寺は、廃寺寸前となってしまうほど凋落してしまうのであった。

 一方、大乗寺における教団運営は、1302年に大乗寺2世に就任した瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)の時代に興隆を迎える。彼は保守派が拒んでいた加持祈祷などを、積極的に教団に取り入れたのである。だが何といっても、彼が行った改革で最も効果があったのが、21世紀の日本人が今も行っている、いわゆる「お葬式」を俗人の葬儀方式として導入したことなのである。

 これまで「仏式葬儀」というものが、日本になかったわけではない。身分が高い人や、富裕層などが行うには行っていたのだが、形式が定まっていなかったのだ。また貧しい庶民層に至っては、例えば京においては葬送地というものがあって、その辺りに行って土を浅く掘って遺体を埋める、程度のことしかやっていなかった(なので、葬送地には野良犬が多かった)。経を唱えるくらいのことはやっていただろうが、簡素なものでしかなかった。

 

京の近くにある鳥野辺は、代表的な葬送地のひとつであった。そこに向かう葬送の列は犬神人によって仕切られており、彼らは副葬品を貰う権利があった。これを「洛中における葬送権」と呼ぶ。しかしこの「お葬式」の発明と共に、「寺内にお墓を造りそこに葬る」という今もおなじみのシステムが、徐々に浸透してくるのだ。そこで犬神人たちは、どうしたかというと・・・詳しくは上記の記事を参照。

 

 紹瑾の発明した「お葬式」のコンセプトは、曹洞宗における「雲水」に対する葬儀を元にしたものである。雲水は修業中の身であるから、身分的には僧になる前の俗人なのである。修行半ばで不幸にも死んでしまった雲水を葬る際には、形だけでも成仏させるため戒を授け、出家した証となる名も授けていた。これがいわゆる「戒名」なのである。

 紹瑾はこの「雲水に対する葬儀」を、同じ俗人である一般人にまで広げ、形式化したのである。これが爆発的にヒットしたのだ。始めに広がり始めたのは高位の武士や、裕福な名主層などの間であったが、次第に経済力が向上した一般庶民にまで広がっていく。

 こうした祈祷や葬式を導入した曹洞宗は、下級武士層や農民層の間にたちまち信者を獲得していったのである。日本海沿いに広がっていったようで、特に東北地方において勢力を広げることに成功している。これを見た他の宗派も曹洞宗を追いかける形で、慌ててこの仏式葬儀を取り入れることになる。「お葬式」はそれほど需要があった、ということであろう。

 

スイス使節団長のエメ・アンベールが描いた「幕末日本図絵」の中にある、幕末の日本の仏式葬儀。宗派によって細かい部分は違う。戒名の代わりに浄土真宗では法名日蓮宗では法号となる。これは何故かというと、両宗には「戒」という概念がないからである。唱えられるお経も、天台宗真言宗臨済宗曹洞宗などは般若心経が多いようだが、浄土系宗派はほぼ阿弥陀経日蓮宗法華経となる。式次第や作法などは、どこも曹洞宗のやり方を参考にしているようで、概ね共通している。

 

 一方、一時は無人寺になってしまうほど凋落してしまった永平寺はどうなったのか。これを立て直したのが、宝慶寺の住持であった義雲という禅僧である。その凋落ぶりを見かねた波多野通貞の後押しを受け、1314年に永平寺第5世に就任する。当時の永平寺は荒れ果て何もなかったので、宝慶寺から什器を持って行ったという逸話が残されている。彼とその後継の努力で、永平寺は持ち直すのである。

 なお、大乗寺2世でお葬式を発明した紹瑾は、1321年に能登において總持寺を開山している。のち大乗寺は室町期に戦火によって焼けてしまうのだが、その代わりに力を持ったのがこの總持寺であり、後醍醐天皇から「曹洞賜紫出世第一の道場」の綸旨を受けている。總持寺は江戸期には、徳川幕府より「永平寺と並ぶ大本山」として認定され、今に至るのである(続く)。

 

Wikiより転載、大乗寺2世にして、曹洞宗中興の祖である瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)。かなりの傑物で、政治力にも優れていた。商人的感覚もあったようで、比叡山中興の祖と称えられた、良源と似ているかもしれない。実際、道元の頃の曹洞宗はかなり小さな宗派であって、いつ途絶えていてもおかしくはなかったのだ。ここまで大きくしたのは、ほぼ彼の功績なのである。それを裏付けるデータもあって、現存する曹洞宗の寺のうち、実に80%ほどが彼が開基した總持寺系なのである。

 

中世に出現した、新しい仏教のカタチ~その⑰ 日本人好みの倫理観「自己に厳しく、ストイック」を日本に定着させた道元

 前回の記事で、禅宗の教えの根本は「人は本来仏であり、生きることは悟りに向かって進んでいくことでもある」と紹介した。とてもポジティブな考え方なのであるが、これもまたどこかで似たような思想を聞いたことがないだろうか?

 そう、またもおなじみ「本覚思想」である。この本覚思想、以前の記事で法然の「専修念仏」を曲解した考え方との類似性を指摘したことがある。スタート地点は違えど、共に「修業は不要だから、怠けてもいい」という着地点に至ってしまった考え方である。堕落に通じるロジックとして悪用されてしまったわけであるが、禅宗のこの考え方もまた例外ではなかった。人は易きに流れがちな生き物なのである。

 

どんな思想からでも堕落に通じる抜け道を、人は見出すものである。本覚思想と専修念仏、それぞれの思想は如何にして捻じ曲げられたのだろうか。そのロジックは上記の記事を参照。

 

 禅には「平常無事」という言葉がある。これを「人は本来、仏であるから何もしなくてよい」という意味に曲解して、ただのんべんだらりと生きているだけという、堕落した生活を送る禅僧が中国には多数いたのである。

 大陸を見聞中に、中国各地でそうした禅僧たちがいるのを見た道元は、これを何とかしなければならない、と考えたに違いない。そこで道元が新たに主張したのが、この「只管打座」という考え方であったのだ。

 道元のこの考え方によると、座禅という行為そのものが、これまでの禅宗のものとは意味合いが変わってくる。例えば臨済宗においては、座禅する際には師から与えられた公案に対し、考えを巡らすことが多い。つまりあくまでも、座禅は悟りに至るまでの手段でしかないわけだ。

 しかし曹洞宗にとっての座禅は、何も考えずにひたすら無心で行うものである。そして悟る状態を維持するのに不可欠であるということは、座禅は悟りを得るための単なる手段ではなく、「仏として」不断に行うべきものである、ということになる。この考え方を進めていくと、両者はもはや切り離すことができないものであり、座禅そのものが悟りの体得、つまりイコールであるということになる。

 

曹洞宗開祖・道元禅師。眼力が半端ない――かなりの異相である。道元はかなりストイックな生き方を好む男であったようだ。彼の考えた「只管打座」にしても、ただひたすら座禅するだけというのは、かなりの苦行であろう。道元の大陸における師匠・天童如浄であるが、彼もまた厳しい修業を弟子に課すことで名を馳せた僧であった。天童寺では日没後は4時間、そして日の出前の3時間以上前には起きて座禅するのが日課であった(冬はいいとして、夏は寝る時間がないのではないか?)。座禅している弟子を眠らせないため、ひっぱたいたり、耳元で鉦をカンカン鳴らしまくった、などの逸話が残っている。道元はこうした「自己に厳しくある」という禅風に、大きな魅力を感じたようだ。詳細は次回以降の記事で述べるが、曹洞宗は室町期以降に大きく勢力を伸ばす。こうした求道精神は、日本人の性質にあった考え方であり、だからこそ道元曹洞宗はヒットしたのだ――そう考える人もいるかもしれない。しかしそれはおそらく逆であって、曹洞宗のこうした禅風が武士や庶民に広く受け入れられた結果、日本人の「求道をよし」とするコモンセンスを形作った――そう考えるべきではないだろうか。だとすると我ら日本人の美意識や倫理観に、道元の果たした役割は果てしなく大きいといえる。

 

 1227年に大陸から帰ってきた彼は古巣である建仁寺に入るが、「三学兼修」を標榜していたこの寺の在り方は、もはや道元にとって満足できるものではなかった。30年には京・伏見の極楽寺に引っ越し、その片隅で暮らすことになる。そこで自身の考えをまとめるため、著作に励んでいる。33年には同地に興聖寺を開き、そこを拠点とし自らの教えを広め始める。だが、すぐに延暦寺からの弾圧を受けることになるのだ。

 これはなぜかというと、道元の元にあの達磨宗の禅僧らが次々と入門したからである。一代の英僧・能忍亡き後、達磨宗は衰退する一方であった。同じ臨済宗であったにも関わらず、栄西は達磨宗を異端視していたから、達磨宗の禅僧らは建仁寺に行くのは抵抗があったのであろう。一方、道元は宗派を興していなかったから(自らの教義こそが絶対唯一と考えていたので、その必要性を感じていなかったようだ)、彼らのよき受け皿となったのである。

 しかし比叡山興福寺にしてみると、達磨宗は不倶戴天の仏敵である。禅僧が増えるのはいいとして、それに比例して旧仏教サイドからの圧力も強くなってくる。そして43年には、興聖寺は叡山の僧兵どもの焼き討ちにあって全焼してしまうのだ。同年、道元は信者であった地頭・波多野義重の招きで京を去り、越前にて傘松峰大佛寺を建立するのである――後の永平寺である。

 

ikiより転載、永平寺の唐門。設立から800年近くたった今でも、道元が定めた気風を守ることで知られている、非常にストイックな寺である。その修行は、かつては体罰を伴う相当厳しいものとして知られていた。特に近代以前は、体の弱い人は修業に耐え切れず死んでしまう人もいたようだ。コンプライアンスに厳しい昨今、現在はどのような修業が行われているのだろうか?実は、入門した人のノンフィクションが幾つかあるのだ。

 

 1247年頃、道元は執権北条時頼・波多野義重らの招請を受け、鎌倉へ下向している。だが、どうも関東における教化はうまくいかなかったようだ。幕府内には、既に臨済宗が深く根を下ろしていたのである。半年後、大きな成果なく越前に帰った道元は、1253年に病で倒れて遷化するまで、永平寺にてひたすら禅の深化に努めたのであった。(続く)

 

ブログ主がこの本を読んだのは、20年ほど前であろうか。ナイーブな作者はある日ひょんなことから、仕事も彼女も捨てて永平寺に入るのである。だがそこには思いつめたような悲愴感はない。入山して後の修行の日々であるが、体育会系のしごきもあるにはあるが、語り口はあくまでもライトである。なるほど、21世紀の永平寺とそこで修行する人たちはこういう感じなのか、ということが理解できる良書である。