1572年12月22日、三方ヶ原で徳川勢に大勝した武田遠征軍。命からがら浜松城に逃げ込んだ家康の痛手は大きく、しばらくは出撃できそうにない。信玄は予定通り、堀江城攻略にかかる。
先の記事でも少し紹介したが、堀江城を守る大澤基胤(もとたね)は、古くからこの地を支配する国衆で、今川領国時代は家康になかなか降伏せず、手を焼かせた剛の者である。信玄の攻撃にもしぶとく抵抗した。
12月22日から27日にかけて武田勢による城攻めが行われたが、天候の悪化もあり攻略を一旦諦め、包囲を解く。その後、三方ヶ原の刑部(おさかべ)を中心とした一帯に軍を返した。ここで陣を構え、越冬することにしたのだ。
どうも信玄はここ刑部を拠点とし、堀江城と浜松城双方の攻略を睨んでいたようだ。しかしそんな信玄の元に、心底落胆させる報せが届いたのである。
過去記事でも紹介したが、信玄の西上作戦前の72年7月下旬、信長は5万の軍を動員して、これが何度目かの浅井攻めを行っていた。朝倉義景が救援のため越前から出てきたものの、大獄砦に陣を張り、そこから動かない。9月頃、信長は本陣を近くの横山城まで後退させ、様子を見ることにする。翌10月、そんな信長の元に飛び込んできたのが「信玄西上する」の凶報なのであった。
家康単独では信玄には勝てないだろう。助けに行かねばならない。しかし目の前には、浅井勢5000に朝倉勢1万5000がいるのだ。下手をしたら追撃を受けかねない。もちろん信玄もそれを織り込み済みで、西上作戦を行っているのである。
実際、信玄は11月19日に義景に使者を送り「翌年の5月までは、(牽制のため)そのまま近江に在陣していて欲しい」と求めているのである。朝倉勢が近江に出張っている間は、信長も自由には動けないはずだ。そして信玄の思惑通り、信長は取り急ぎ3000の援兵を家康に送ったものの、それ以上の行動には出られなかったのである。
武田勢の侵攻スピードは予想以上に早く、信長は焦りはじめる。背に腹は代えられない。11月には軍を一部残し、信長自身は本国・岐阜に引き上げることになった。
残された留守部隊に対して、浅井・朝倉連合軍の攻撃が始まった。相手は虎御前山砦を守備する秀吉である。しかし姉川以来、浅井・朝倉連合軍は連戦連敗、負け癖がついているのか、攻撃は全くうまくいかなかったようだ。これに嫌気がさしたのか、義景は12月8日にさっさと越前に帰陣してしまうのであった。
信玄は三方ヶ原合戦後にこの事実を知ったようだ。12月28日に怒りの書状を義景に送っている――「軍勢の大多数を帰国させたとのことですが、大変驚きました。兵を労わるのは分かりますが、信長が滅亡するかどうかという時に、それをするのは無意味ではないですか。ご分別が過ぎたというものです」書式としては丁寧さを守っているが、信玄の怒りが伝わってくる内容である。
あれほど「在陣してくれ」と頼んでいたのに、さっさと帰ってしまうとは!あと2週間ほど我慢すれば、三方ヶ原大勝利の報せが届いていたはずなのだ。信玄にしてみれば、この好機をみすみす逃してしまった、義景の腰の弱さが許せなかったのだろう。それほどまでに「家康、大敗する」の報せは、瞬く間に畿内に広まり、各方面に衝撃を与えていたのだった。
勇躍したのは本願寺顕如で、これを契機に盛んに動いている。まずは援軍として美濃一向一揆勢を伊勢に派遣、長島一向一揆に合流させている。その上で、斎藤家の重臣であった日禰野弘就(ひねのひろなり)をスカウトし、一揆勢の指揮を執らせた。日禰野は岐阜からわずか3里の場所に城砦を築くなどして、信長に圧力をかけたようだ。
また北信濃に亡命していた、三河の佐々木上宮寺・勝鬘寺の残党を三河に進軍させるべく動いている。このように織田・徳川の領国内全域において、門徒衆の蜂起を画策したのであった。
しかしなんといっても、三方ヶ原の合戦に最も大きな衝撃を受けたのは、将軍・足利義昭と、その閣僚たちである。近江は浅井・朝倉がしぶとく生き残っている。畿内は三好・松永らの連合が攻勢を強めており、一向一揆勢が各地で蠢動しているのは変わらずだ。ここにきて大物・武田信玄の西上、そして家康大敗の報せである。信玄の目的は明らかに打倒信長なのである。
慌てた義昭は「すぐさま信長と和睦を結ぶように」という旨のご内書を信玄に送るが、帰ってきた返事は「信長の悪行は、これこれ数えきれないほどある。和解はあり得ない。天下静謐のため、逆に『凶徒』である信長と家康の追討令を出してくれ」というものであった。
これに大きく反応したのが、上野秀政ら義昭政権を支える幕臣たちである。彼らはこれを機に信長から信玄に乗り換えるよう、義昭に強く進言したようである。
彼らは何故、こうした動きを見せたのであろうか?
義昭政権と信長との間で確執があったことは過去記事で紹介した。義昭らは政権を樹立した後、積極的に政権運営にあたろうとしていたが、その力が及ぶ範囲内は畿内周辺に留まっていた。
幕府が武家に期待される最大の役割は、領地や各種利権に関わる紛争の調停・裁判なのである。しかし畿内はただでさえ権利が錯綜している地で、何らかの裁定が出たとしても、結果に不満を持つ者たちが大勢いたのである。
結局のところ、裁判結果を担保する――要するに「言うことを聞かせるための軍事力」が必要となってくるのであるが、義昭自身は直接的な軍事力をそれほど持っていなかったため裁定を仕切り切れず、その尻拭いを信長が行っていたのである。所領の裁判結果に不服を持った人たちが、信長の元に大勢駆けつけていたのであった。
信長は京に奉行を送り込むなどして事態の収拾を図っていたが、問題の根源である、義昭とその閣僚らの仕切りの悪さが続く限りは、一向に解決しない。いい加減に怒りを表した信長が、72年9月に義昭に突き付けたのが、先の記事でも紹介した「異見17か条」なのであった。
義昭政権の閣僚たちにも言い分はある。政権を取ったというのに、義昭を支える彼らの所領や発言力は、期待ほど増えてはいない。それどころかやろうとしていたことを真っ向から否定されてしまったわけで、現体制の存在理由の意義を問われているのである。このままでは自分たちの地位が危ない。
三好方の篠原長房が阿波より再び出撃し、京を伺う状況になっている。いずれ信玄も畿内にやってくるであろう。幕臣らは義昭に、信長から信玄への乗り換えを盛んに進めたのであった。(なお「異見17か条」は、三方ヶ原合戦後の73年正月に出されたもの、という説もある)
73年1月、信玄は再び動き出し野田城の攻略にかかる。これとタイミングを合わせるように義昭は信長を見限り、反信長勢力と手を結ぶことにしたのである。(続く)

有名な「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)。家康のその表情から「顰像(しかみぞう)」とも呼ばれている。「三方ヶ原での敗戦直後に、この像を自戒のため描かせた」とする伝承が有名だが、これは1936年に開催された展示会を紹介する新聞記事で、展示作品のいわくとして載ったものが初出なのだ。複数記事に載っているので、徳川美術館側から提供された情報に基づいて書かれたようなのだが、史料的根拠はなく、創作エピソードと見られている。描かれた時期も、その装束から17世紀以降、おそらく江戸中期以降のものと推測されている。
実のところ、この画は「半跏趺坐をしている家康」像なのである(手足の組み方が左右逆だが)。江戸期は家康の神格化が進んだ。この画は軍神・東照大権現としての家康を表現しており、礼拝の対象として描かれたもの、という説が有力なのである。表情もしかめ面をしているのではなく、不動明王によく見られる憤怒の表情、とのことである。神仏習合が進んでいた日本では、神像に仏教的要素をミックスさせて表現するのは、よくあることであった。
これに関しては、wikiの記事がとてもよくまとまっている。ブログ主も当該記事でそうした事実を知った。一読をお勧めする。



















