根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

根来戦記の世界 - にほんブログ村 にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ

室町期の仏教について~その② マルチな才能を発揮した禅宗のプロデューサー・夢窓疎石

 弘安の役から18年後――鎌倉期も終盤にさしかかった1299年に、建長寺で入門試験が行われている。記録によると、この時の試験において上級でパスしたのは2人だけ、うち1人が夢窓疎石という僧であった。彼はこの時25歳、既に京と鎌倉の禅寺においてかなりの研鑽を積んだ、前途有望な僧であった。

 彼は元々、奈良の東大寺で受戒した真言僧である。しかし天台の高僧であった師の死に臨んで、その教えに疑義を抱くようになり、禅宗へ宗旨替えしたのである。極めて優秀な頭脳の持ち主であった夢窓は、建長寺にて最終的には修行僧の最上位である「首座(しゅそ)」の座にまで昇り詰めるのだ。しかしそこで壁に突き当たってしまう。どうしてもその先にある悟りの境地に達することができず、ひどく思い悩んでしまうのだ。

 これには理由がある。当時の建長寺の住持は、宋から来た一山一寧という中国人僧で、彼は日本語を解さなかったからなのだ。禅宗では日常生活の全てを修業と考える。修行僧は悟りを得た師と共に密に暮らし、師の生き様そのものから学びつつ、出された公案に挑むわけである。しかし日本語を喋れない師とは筆談で意志の疎通を図らざるを得ない。これでは禅の機微が伝わるわけがないのである。

 そんな時に名僧・高峰顕日(彼は日本人であった)の教えを受ける機会があり、夢窓は彼に啓発されることになる。思い切って建長寺を離れた夢窓は、まずは東の果て陸奥へ、次いで常陸を彷徨い、悟りを求めてもがき苦しみ続けるのであった。

 修行をすること数年、夢窓は1307年に鎌倉・浄智寺の住持になっていた高峰顕日の下で、遂に大悟することになるのである。この時、夢窓は32歳であり、彼の人生はまさにこれから、というところである。しかし夢窓は甲斐から美濃へと、引き続き地方において隠棲の人生を続けるのであった。

 時の執権、北条高時は夢窓の名声を聞き、鎌倉における禅林における指導者に迎えようと使いを出す。しかし夢窓はこれを避け、土佐の吸江庵に逃れてしまう。1319年にどうしてもと強要され渋々、鎌倉まで呼び戻されるのだが、すぐにまた何だかんだ理由をつけて、相模に隠棲してしまうのだ。

 夢窓がここまで徹底して権力から距離をとった理由は、何故だろうか。しかし彼は、後醍醐天皇の招きには応じて、京都五山南禅寺には入寺しているのである。要するに夢窓は、権力ではなく北条氏を避けているのである。どうも幕府の先行きを予測していたようだ。

果たして1333年5月、夢窓の予感は当たったのである。鎌倉幕府が滅亡したのだ。この時、夢窓は鎌倉・瑞泉寺にいたのだが(とにかく全国規模でよく引っ越す人である)、後醍醐天皇は彼を京に呼び戻し、五山最高峰の地位に就ける。そして自ら衣鉢を受け、仏道における弟子になるのであった。

 後醍醐天皇の「建武の新政」はすぐに失敗し、代わりに足利幕府が成立する。しかし尊氏は後醍醐天皇のとった宗教政策をそのまま踏襲したから、夢窓の重用は続いた。尊氏・直義の兄弟もまた、夢窓の衣鉢を受けその弟子となるのであった。

 このように仏道の師として高名な彼であるが、政治家としても優秀であった。マルチな才能を持っていた彼の守備範囲は大変広く、成し遂げた仕事は多岐に渡っている。そんな彼が行った最も重要な仕事は何かというと、日本全国に「安国寺と利生塔」を建てる、というプロジェクトなのである。

 1345年より始まったこの事業は、名目上は「敵味方問わず、長く続いた戦乱の戦死者の霊を弔うため」に行ったものである。この事業により、全国66国・2島に渡って安国寺と利生塔が建てられることになるのだが、これらは地方における禅宗の布教拠点として機能することになるのだ(この時に建てられた安国寺は今も幾つか現存している。しかし残念ながら、利生塔は1つも残っていないので、その詳細は不明である。五重塔であったことくらいしか分かっていない)。

 幕府にしてみても、この事業を進める上で強力なメリットがあった。布教地点として機能した両施設は、地方の民心慰撫・治安維持の役割をも果たしたのであるが、それだけではない。各地に置かれた寺塔には城郭が築かれた上、更に警固人まで置かれているのだ。つまり、幕府の軍事上の拠点としても機能することになったのである。このように宗教・軍事の両面において、地方に睨みを利かすことで、各地の守護を統制下に置こうとしたのであった。

 このように夢窓疎石室町幕府の後援を得つつ、その支配構造の一翼を担うことで臨済宗の教線を拡大していったのである。臨済宗は成立当初から鎌倉幕府と協調路線をとっていた宗派ではあるが、ここまで幕府と一体化させた契機をつくったのは、この夢窓なのであった。こうした形で幕府と結びつき、生存戦略を選択した宗派は今までになく、夢窓が定めたこの方向性は室町期を通じて機能し続けることになる。

 夢窓は1351年、77歳でこの世を去っている。後醍醐天皇をはじめ、七代の天皇から国師号を受け「七朝の帝師」とまで謂われ、弟子の数は一万人を超えたという。彼が室町幕府において果たした役割は、極めて大きいのであった。(続く)

 

妙智院蔵・無等周位筆「夢窓疎石像」。鎌倉幕府滅亡から建武の新政、足利幕府成立に観応の擾乱と、戦乱の世に生きた人。学問的に優れていただけではなく、彼はまた一流の文化人でもあった。記事中でも言及したように、ほぼトップの成績で建長寺の入門試験に合格しているのだが、この試験内容は漢詩の作成なのである(中国人がトップだったわけで、当然といえば当然なのだが)。京近郊の嵯峨野に天龍寺を建立したのも彼であり、かの有名な庭も彼の設計によるものだ。他にも西京の西芳寺や、鎌倉の瑞泉寺、甲斐の恵林寺など、数多くの庭園の設計を手掛けている。なお天龍寺建立の費用を捻出する際、彼は途絶えていた日元貿易の再開を成功させ、幕府に莫大な利益をもたらしている。1350年から始まる足利兄弟の対立「観応の擾乱」の際には、双方の間に立って調停を行うなど、政治的にも存在感を示している。思想・政治・文化・芸術・財政の各方面において、マルチな才能を発揮した僧であった。

 

室町期の仏教について~その① 武士たちにとって親しみやすかった、臨済宗 

 これまでのシリーズで、仏教が如何にして日本社会に受容されていったか、そして2人の天才・空海最澄の登場による平安仏教の興隆、更に鎌倉仏教の登場についてなどを紹介してきた。このシリーズではその後、南北朝から室町期において仏教各宗派はどのように発展していったか?を紹介してみたいと思う。

 結論から言ってしまうと、室町期の仏教は鎌倉仏教が巻き起こしたような、思想上のセンセーションは起こさなかった。教義的にはそこまで大きな進展はないのだ。その代わり、各教団において組織の質的変化と規模の拡大が行われた。各宗派はより組織化され、洗練された教団へと成長していくのである。

 なお内容の一部は前シリーズのものと重複するかもしれないが、お付き合いいただけば幸甚である。

 さて鎌倉期に急激にその勢力を伸ばした宗派NO.1は何かというと、それは間違いなく法然の興した「浄土宗」と、そこから派生したいわゆる「念仏宗浄土真宗・時衆を含む)」である。

 「他力本願」という全く新しいアプローチで、救いに至る道を示した浄土宗の教えは革命的なもので、それまでの仏教の教えそのものに変革をもたらすものであった。小難しい理屈を排し、各自の信仰心そのものにフォーカスを当てたそのスタイルは、西欧におけるカトリックに対するプロテスタント(新教)の登場と、よく対比されることがある。

 何よりも浄土宗は、庶民のための仏教であった。これまで力のない庶民層は実質的には旧仏教の救いの対象には含まれておらず、ある意味彼らは信仰の空白地帯であったわけだ。

 それまでの庶民らは何を信仰していたかというと、端的にいうと「おまじない」レベルのものでしかなかった。まともな宗教というものを知らなかった彼ら庶民層は、市場的にはブルーオーシャンであり、浄土宗は思う存分、先行者利益を享受することができたといえる。

 では室町期で最も隆盛を誇った宗派は何かというと、それは臨済宗なのである。法然より遅れることわずか16年(法然の立宗が1175年、栄西が大陸より禅を持ち帰ったのが1191年)、栄西が広げ始めた「禅」の教えは、戦士階級にあった武士たちの価値観にピッタリはまったのである。

 武士たちの間に、浄土宗が浸透しなかったわけではない。過去の記事でも紹介した法然の弟子である、あの困ったちゃんの熊谷直実をはじめ、多くの武士が浄土宗の信者になってはいる。しかし禅宗の方が、武士には遥かにウケがよかったのである。何故か。

 

熊谷直実についてはこちらの記事を参照。平家物語にも出てくる有名な人であり、ブログ主も高校の授業で学んだ記憶があることから、てっきり学のある思索的な人かと思っていたのだが、よくよく調べてみると、とんでもない人なのである。遠くから観察する分にはかなり笑える人ではあるが、同じ職場にいたら大変な目に遭うだろう。

 

 浄土宗の教義である「他力本願」の考え方は、自己の主体性を放棄したところから始まる。そこが革新的だったわけだが、しかし武士たちはこれまでの貴族たちに取って代わって、新たに台頭しつつある支配階級なのである。新興地主として、主体性を持って領地経営にあたらなければいけない、そんな武士たちにとって「全てを仏に委ねる」という一種受動的な考え方は、必要としていた生き方にマッチングしづらかったといえる。

 一方、禅宗は「生きることすべてが修業」という考え方をもつ教えである。懸命になって経をぶつぶつ唱えるよりは、「全ての行動が修業につながる」禅の教えの方が、肉体派の武士にとっては遥かにしっくりくるのである。

 例えば座禅。見方によってはこれも「自己を鍛錬する」行為であるといえる。ぶっちゃけた話、当時の武士たちが進んで座禅を行っていたとは考えづらいのだか、それでも「座禅をよし」とする考え方は、武士たちが重要視する「日々鍛錬し、武芸の腕前をあげる」という行為などと親和性が高かったのであった。

 そんなわけで、臨済宗は武士階級の間で急速に浸透し、幕府の後援をも得ることができたのである。鎌倉末期には、幕府は南宋の官寺制度を参考に「五山制度」という制度を定め、禅寺の運営にあたっている。そして室町期にはこの「五山制度」は更に発展し、幕府による地方支配に利用されることになるのである。

 室町初期に、禅宗が飛躍する契機をつくった僧がいる。彼の名を夢窓疎石(むそうそせき)という。これまでの記事で取り上げてきた多くの先人たちと同じように、彼もまた一代の名僧なのである。次回、彼の人生を追ってみよう。

 

鎌倉初期の武士たちは、とても野蛮かつ無学であった。1221年の「承久の乱」の際、鎌倉武士たちに京を制圧されてしまった後鳥羽上皇は、北条泰時に文書を遣わしたのだが、5000もいた泰時の部下の中でこれが読めるのは1人しかいなかった、という逸話が「吾妻鏡」に記されている。武士たちが京に対抗するためには、アカデミックな分野に精通している知識人がどうしても必要なのであった。なので成立直後の鎌倉幕府大江広元などの官人を京から呼び寄せて、その任に当たらせている。そして臨済宗が出てきてからは、次第に禅僧らがその役割を果たしていくことになるのである。なお画像にある「男衾三郎絵詞」は、鎌倉期に描かれた絵巻物で、当時の鎌倉武士の殺伐とした雰囲気をよく伝えている。物語に出てくる男衾三郎の屋敷には、以下のようなルールがあった――「馬小屋の隅に生首を絶やすな、首を切って懸けろ」、「屋敷の門外を通る修行者がいたら蟇目鏑矢で追い立て追物者にしてしまえ(犬追物の的の代わりにせよ)」。もちろんこの物語はフィクションであり、紹介した文は悪役である三郎の悪逆非道ぶりを強調するために書かれたパートなので、相当部分を割り引いて考える必要はあるのだが。

 

当ブログ開設2周年 解説と分析~その② 急に増えたXからのアクセス 「黒人奴隷・弥助」騒動

 さて少し前の24年7月16日に、1日あたり230くらいの突出したアクセスがありました。これまでの最高値だったので、なんだろうと調べてみたら、Xからのリンクが急増していました。どなたかにXで記事のリンクを貼っていただいたようです。どの記事のリンクであったか調べてみたら、下記の記事でした。

 

Xからのリンクは普段はほぼゼロなのに、この日だけ急に増えています。リンク先は「晩期倭寇」シリーズにある、2つの記事でした。リンク先は下記です。

 

 はてな?なぜだろうと思っていたら、思い至りました。日大准教授のトーマス・ロックリー氏の研究や著作が炎上した件ですね。これはどういう炎上案件かというと、実は世界を巻き込んだグローバルな話なのです。そういう意味では、晩期倭寇の記事の趣旨的には合っているかもしれません。

 きっかけはアメリカの「アサシン・グリード」というPCゲームです。ブログ主はやったことはないのですが、有名なゲームだということは知っています。この最新作、実は日本の戦国時代が舞台で、しかも主人公が信長に仕えていた、あの元黒人奴隷・弥助なのです。

 ですがこのゲーム、「史実に忠実」をウリにしているはずなのですが、今作に限っては相当変な解釈をしているらしいのです。例えば、主人公の弥助は堂々たる身分の武士です。まあ彼は信長の近くに侍っていたそうなので、二刀を腰に差していた可能性は僅かながらあります(足軽レベルの小者であった可能性の方が、遥かに高いですが)。しかし「黒人はすべからく当時の日本人から、八幡神の化身として敬われていた」という謎設定はどうでしょうか?ゲーム中では、弥助に出会う人々はみな丁寧に頭を下げています。

 何でこんなヘンテコな解釈になったのかというと、ゲームを造る際にこの会社が参考にしたのが、どうもアメリカで出版された弥助に関する専門書と、英語版Wikiの記事であったようなのです。そして実はこの両方に関わっていたのが、冒頭のトーマス・ロックリー氏らしいのです。

 ロックリー氏は弥助に関する本を何冊か書いており、その本には「戦国期の日本では、アフリカ人奴隷が大流行しており、その数はなんと6000人もいた。黒人奴隷が日本の権力者の権威の象徴として使われていたのだ。同時に信長は弥助のことを、大黒天の生まれ変わりと信じていた」という内容だったりするのです。

 このゲームでは上記のような情報を基に弥助の設定をしているので、描き方が超人的かつ荒唐無稽なものになっています。「史実と違う」という批判に対して、ゲーム会社が「いやこれは、史実に忠実なんです」と反論したことから大炎上しているようですね。

 最近のアメリカでは「文化の盗用」という言葉があります。「文化の背景にある歴史や解釈を無視して、商業的な思惑のもとに表層的に文化を取り入れる」ことを指す言葉です。個人的な考えを述べると、ゲームはエンタメですから、歴史ものゲームが全て「歴史的に正しくなければいけない」わけではないだろうと思います。なので「エンタメでフィクションですから」と一言いえば、済んだ話だと思うのですが・・・(そもそもこの文化盗用という言葉、どこからどこまでが表層的なのか?など、定義が難しい概念ではあります。一部「そこに敬意がない」という主張もあるようですが、それもえらく主観的な話だなと思うもので、線を引くことは極めて難しいと思います)

 あとはどうもポリコレ的な運動が関与していることから、話が大ごとになっているようです。最近のアメリカでは(日本も?)行き過ぎたポリコレの反動が来ているらしく、弥助が黒人であるが故に不自然なほどアゲられている、これはおかしいだろう、という議論もあるようなのです。どちらかというと「文化盗用」とは逆のベクトルからの意見です。相反する意見が錯綜していて、興味深いですね。

 そして、どうもこうした風潮に対する反論のひとつとして、どなたかに自分のXで記事のリンクを貼っていただいた、ということのようです。両記事を読んでいただくと分かりますが、東南アジアにおける黒人奴隷の数と実態について、少し触れているのです。

 

この騒動については、Wikiの記事が分かりやすいです。比較的中立的な観点で書かれています。

 

 こうして引用していただくのは、嬉しいことです。ただ私自身は研究者ではなくアマチュア、ただの歴史好きです(大学は史学専攻でしたが)。もちろんそれなりに勉強しており、ブログに載せる記事もなるべく複数の学術論文にあたるようにしています。また荒唐無稽な内容にはならないように、気をつけているつもりです。

 しかしながら専門職の方が行っているように、一次資料に直にあたっているわけではありません。彼らの行っている地道で丁寧な仕事とは質が違う・・・というよりは、そもそも同じステージに立っていないと思っています。当ブログはあくまでも、いち歴史好きが最近の学説を読み漁り、面白いと思ったものを紹介するブログであり、そこにややエンタメ寄りの独自解釈が混ざったものとして見ていただければ、と思うものです。

 ・・・でもロックリー氏の気持ちも少しわかるのです。彼は弥助が好きでたまらないようで、気持ち的にかなり入り込んでしまったようですね。しょせんは素人の歴史ブログですが、私も「他山の石」としなければ・・・と思った次第でした。(続く)

 

ひょんなことから、研究者の方と知遇を得ることができました。鳥津亮二さんという方で、小西行長について本を書いておられます。小西行長は「文禄・慶長の役」において二枚舌外交を行ったことで有名で、またそれを糊塗するために先陣を希望、同僚の加藤清正の足を引っ張ったなどとも揶揄されていることから、あまり人気のない大名です。ブログ主も彼のことはあまりよく知らなかったので、この本を読んでとても興味深かったです。特に二枚舌外交を行うに至った経緯――どうも対馬の宗氏に引きずられた形で加担してしまったようで、今も昔もこういう風に犯罪に関わってしまう人はいるだろうな、と納得してしまいました。「文禄・慶長の役」に関しても、知らないことが幾つかあったのでとても勉強になりました。なお著作の後半部分は、現在知られている限りの行長が発給した文書群が網羅されています。面白いのは、各文書には著者による「見出し」がついているところです。「ちょっと酔っぱらってしまいました」(宴席を共にした島津義弘に宛てた礼状)、「材木調達よろしくお願いします」(材木商に宛てた書状)、「寺沢正成とは仲良くしたほうがいいですよ」(島津忠垣に宛てた書状)など、これが大変分かりやすくて面白いのです。これぞプロの仕事!

 

 

 「文禄・慶長の役」において、秀吉政権・李氏朝鮮の双方を騙していた対馬の宗氏。宗氏は李氏朝鮮に対しては、これまで散々騙してきた実績があるので、今回もイケると思ったに違いない。宗氏の騙しのテクニックについての詳細は、リンク先記事を参照のこと。

 

当ブログ開設2周年 解説と分析~その① 1年前と比べた分析

 ブログを開設してから2年4か月が経ちました。タイトルは2周年となっており、この記事は7月にUPする予定でいたのですが、継続中の仏教シリーズの腰を折るのもなんなので、ひと段落したところで記事をUPした次第です。

 さて細々と続けている当ブログですが、おかげさまでようやく、トータルで3万近いPV数に達しました。吹けば飛ぶようなPV数ですが、1日あたりのPV数は増えています。1年前の記事を見てみると、1日当たりPVは平均20がいいところでしたが、今では平均して60~70ほど、100を越える日も珍しくありません。分析してみると、明らかに検索サイトからの数が増えているのが分かります。下記は当ブログのアクセス画面です。

御覧の通り、Google・Yahoo両サイトからのお客さんが多いですね。この2つにBing検索を入れると、85%を越えています。1年前は30%ほどでしたから、新規で増えた分はほぼ全て検索でたどり着いたお客さん、ということになります。

 

 では次に、どんな記事に人気があるかというと、まずはGoogleから来たお客さんのリンク先がこちら。

 

 

 次にYahooからのお客さんがこちら。

 

 差があるのが面白いですね。主に「非人・河原者関連」、そして「倭寇」関連の記事に、人気があることが分かります。「非人・河原者関連」は要するに被差別部落に関連する話です。被差別部落を扱ったHPやブログの中で、イデオロギーから距離を置き(とても注意深く書いたつもりです)、純粋に歴史的な視点から分析するサイトはあまりなく、そういう意味では競合サイトが少ないから、検索で訪れる人が多いのでしょう。

 次に「倭寇」ですが、意外なことにこちらも情報が少ないのです。特に日本以外、中国やスペイン・ポルトガルからの史料を使った研究が手つかずで、案外進んでいない分野、という印象を受けます。史料がほとんどない前期倭寇はともかく、自国以外の史料が多そうな晩期倭寇については、深堀りができるジャンルなのかもしれません。

 次にアクセスが高い「根来・雑賀関連」ですが、これもジャンルとしてはっきり言ってマイナーなので、競合サイトが少ないものと思われます。戦国時代が好きな方は、大名に関しては相当にマニアックな知識を持っている人が多いです。ブログ主の高校生の息子もそのひとりで、「誰だよ、それ」といったような武将名がスラスラ出てくるのには驚きます。そんな彼でも宗教勢力に関しては、疎いです。ただ同じ宗教勢力でも、本願寺には市民権があります。「信長を最も苦しめた」勢力として、名が挙げられるようになって久しいからです。そうした文脈から、本願寺主力として戦った雑賀孫一とその鉄砲隊などはクローズアップされてきた感がありますが、根来はまだまだのようです。

 そして「馬借と車借」のシリーズが、意外に頑張っています。個人的な印象で特にデータに裏付けられているわけではないのですが、受験生が検索した結果、ヒットして当ブログに来ているような気がします(役立っているかどうかは不明です)。

 そういう意味では「印地」も同じマイナー分野なのでしょうが、あまりにニッチすぎて、こちらは圧倒的に需要が少ないようです。かつては検索上位でしたが、もはや1%以下ですね。

 そして現在進行中の「仏教」シリーズですが、残念ながら最も人気がないようですw   かなり労力をかけて書いているシリーズで、(色々ご意見あるかもしれませんが)質的にはそれなりの自信があります。しかし、そもそも分野として地味で専門性が高すぎるのと、宗教に関わる話はスピリチャルなものを求めて検索する人が多いので、そうしたものを求めてきた人にはミリも刺さらない内容だからだと思われます。(実際、当ブログは「はてなブログ」の日本史や戦国というグループに登録しているのですが、仏教というグループにも登録しています。これが場違いもいいところで、他のブログと並びでみると、違和感半端ないです)

 次に、1日当たりのアクセス数を見てみましょう。1時間ごとにデータがとれるので、いろいろなことが分かるのです。

 

1日当たりのアクセス数ですが、平均してアクセスが来るのはなく、このように1時間あたり20~30アクセスなど、集中していることが分かります。つまりマイナーな記事を目当てにやってきたお客さんが、目的の記事を読んだ後に同シリーズの他の記事を続けて読んだ、ということかと推測されます。たまに1時間で50アクセスを超えることもあります。これは当ブログの記事を面白いと感じてくださった方が、続けて他のシリーズの記事も読んでいることかと思います。

 

 そして!一番嬉しかったのは、amazonで販売している、自著に対するコメントが初めてついたことです。ブログを見ていただいている方からのコメントのようですね。どなたか分かりませんが、ありがとうございます。励みになります!そもそもこのブログは、著作に対する宣伝のために始めたものなので(最近は本末転倒になっていますが)、ブログを開設した甲斐があったな~と感無量でした。(続く)

 

「ブログ主が投稿したんじゃないの?」と疑われそうなほど、褒めていただいている内容のレビューです。ありがたいことです!2巻もぜひ読んで、レビューいただければ嬉しいです。自分でいうのもなんですが、1巻よりも出来がいいつもりです。

 

著作へのリンクです!!

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑩ 撃退された元寇 予言が当たらず困惑する日蓮

 なお服部氏は、1回目の侵攻「文永の役」に関しても、独自の説を唱えている。まず元軍の数に関してであるが、池内説3万以上に対して、服部氏は1万6500人ほど(高麗史による)としている。そして池内説では「博多に上陸した10月20日に戦いが行われ、その日のうちに撤退した」ことになっている。この撤退も「大風によって艦隊がダメージを負ったのが原因」としているのだが、服部氏はこの「1日で撤退した」というのも間違いであると主述べている。

 そもそもこの「1日撤退説」と「大風説」の由来は、「八幡愚童訓」に書かれている「白装束の神の使いが現れて、艦隊に弓を放つと海が炎上した。日本の神の怒りを恐れた蒙古軍は一夜で姿を消した」という旨の記述を軸に、当時の貴族の日記「勘仲記」にある「にわかに逆風が吹いて賊が本国に帰った」という記述、更に「高麗史」にある「会夜大風雨」という記述、この3つの記述が合体した結果である、としている。しかし実際には、大風が吹いたのはこれより7~8日後のことであり、元軍は1日で撤退したわけではない、というのが服部氏の主張なのである。

 その論拠として氏が述べるのは、「関東評定伝」という史料である。この「関東評定伝」は作者不明・成立時期不明の文書ではあるが、鎌倉幕府の執権・評定衆引付衆の任命と官歴を記した文書で、「八幡愚童訓」ほど荒唐無稽なことが記された性格のものではない。そしてこの史料にはこう書かれているのだ――「10月24日に(元軍が)大宰府に攻め寄せてきたが、官軍と戦い異族は敗れた」。

 これまで「1日で撤退した」という先入観があったがために、この史料は見過ごされてきた。しかしながらその説が間違っているならば、「24日に戦闘があった」という、この史料の価値は高いはず、ということになる。

 服部氏が、池内説の一番の問題としている部分は、その説の多くが「八幡愚童訓」に依拠している、ということである。しかしそもそもこの「八幡愚童訓」は、八幡神の大活躍と霊験あらたかさを宣伝するための文書で、蒙古は寺社の祈祷によって撃退された、ということにしたいがために記されたものなのである。

 

とはいえ、内容の全てが荒唐無稽というわけではない――有名な「てつはう」についての具体的な記述は、「八幡愚童訓」にしか載っていないが、この通りちゃんと「蒙古襲来絵詞」にも描かれている。画面中央で破裂しているのがそれで、右手にいる騎馬武者は竹崎季長である。身近で食らって、さぞかし吃驚したことだろう。

 

鷹島歴史民俗資料館所蔵「てつはう」の残骸。2001年に鷹島海底から発見され、引き揚げられたもの。一つは半球状、もう一つは直径4cmの孔が空いた、直径14cmの素焼物の容器で、重さは約4kgとのこと。なお、この「てつはう」には鉄錆の痕跡もあったことから、鉄片が容器の中に入っていたと推測されている。爆発すると鉄片が周囲に撒き散り、殺傷力が増すのである。要するに手りゅう弾の原型であるが、4kgという重さは相当なもので、ちょうど女子の「砲丸投げ」で使用される砲丸と同じ重さである(男子は約7kg)。しかも中に火薬と鉄片が詰まっていたということは、もっと重かったはずで、およそ素手で投擲できるシロモノではない。野球のボールを投げる感覚で上手投げすると肩を壊すだろう。恐らくはスリングのようなものを使用したと思われる。

 

スリングに関しては、こちらのシリーズを参照。投石は人類最古の遠距離攻撃方法であり、古代には投石専用の武器・スリングが発達した。その威力は現代人の想像する以上にあるのだ。

 

 

 こうした性格の「八幡愚童訓」は、現実に血を流して戦った武士団を貶めている内容になっている。多くの人が知っている逸話、「一騎打ちの名乗りを上げたら蒙古兵にどっと笑われて射られた」という話の出どころも、実はこの「八幡愚童訓」であり、神の力を際立たせるためには武士は役に立たなかった、ということにしなければならないのである。事実、こうしたくだりが載っている史料は「八幡愚童訓」だけであり、敵方の史料にも一切出てこないのだ。

 

蒙古襲来絵詞」より、元軍に集団突撃をする騎馬隊。鎌倉武士団は、このように大弓を持った騎馬集団で敵に高速接近、至近距離で矢を浴びせる、という戦術をとっていたようだ。中国側の記録にも日本の騎兵について「兵杖には弓刀甲あり、しかして戈矛無し。騎兵は結束す」とある。打物持っての騎馬突撃には馬上槍が必須であるが、この時代にはまだ使用されていなかったことが分かる。

 

 「八幡愚童訓」は元寇から30年ほど経ってから書かれたものであるが、寺社勢力は元寇の最中も盛んに祈祷の力を喧伝していた。彼らにとって元寇は、異国の神と日本の神との戦いであったのだ。

 事実「文永の役」において、寺社勢力は「勝利は神仏の加護のおかげ」要するに我らの祈祷のおかげと主張しており、そしてそれは朝廷や幕府に認められていたのである。

 そして「弘安の役」においては、分かりやすくまたよりドラマチックな台風襲来というイベントがあったので、祈祷の力は前回以上に評価されたのであった。(7月~8月にかけての北九州は台風銀座であるから、この季節はいつ台風がきてもおかしくないのであるが)

 特に新義律宗の開祖・叡尊は朝廷に依頼され、老骨に鞭打って(この時80歳!)弟子たちを集め、大規模な祈祷を石大清水八幡宮において行っている。そしてタイミングばっちり、祈祷した後に台風がやってきたということで、叡尊の名とその法力の凄さは、人々の間で更に高まったのであった。

 しかし納得がいかないのは、日蓮とその信者たちである。これに関して、日蓮が信者に送った手紙が残っている。意訳してみよう――「あなたがくれた手紙の中で『九州で吹いた嵐で、島には破壊された蒙古の船が打ち上げられている。京の人々は叡尊の祈祷のおかげだと噂していますが、道理もなにもない』と嘆いていますが、その通りです。このことは我が一門にとっての大事であり、ひいては日本にとっても凶事です。軽々しく言及しないように」とある。

 日蓮は困惑していたのである。彼の考えによると、日本は元に占領され、酷い目に遭うはずだったのだーー真言宗念仏宗などの邪宗を信奉するがゆえに。異国の神は、邪宗が蔓延する日本の神を打ち破るはず、そうでなければいけないはずだったのである。

 この頃の彼は、もはや密教すら完全に敵とみなしていた。特に叡山に密教を持ち込み発展させた、円仁・円珍、そして源信の3人を「獅子の身の中の三虫」とまで断じている――密教成分を導入したのは開祖・最澄その人で、彼らはその意思を継いだに過ぎなかったのだが。

 日蓮にとっては律僧でもあり、また真言僧でもあった叡尊なぞの祈祷によって日本が救われた、などということは絶対にあってはならないことなのであった。

 翌82年9月、体調を崩した日蓮は見延山を出て、常陸の湯に向かった。信者の勧めで湯治を行うことにしたのである。しかし旅の途上で倒れ、10月8日に帰らぬ人となったのであった。

 日蓮法華宗が他の鎌倉仏教といささか毛色が異なるのは、成立した時期にもよるだろう(法然とは100年ほど離れている)。後発の宗派ゆえに、既存の宗派の教えを参考にして、良し悪しを取捨選択して教義を創り上げることができるのだ。浄土宗を否定はするが、その方法論――「南無阿弥陀仏」の代わりに「南妙法蓮華経」の題目を唱える――を取り入れているところなどは、その典型である。参考となる叩き台があるから、矛盾も少ない。白黒はっきりしており、ロジックがとても明解なのである。

 上記のような性格に加えて、「法華経こそが絶対で、後は全て邪宗である」という考え方を併せ持つ法華宗は、仏教の一派というよりも一神教に近い性格を持つ。彼らは他宗に対して積極的に論戦を挑み、宣教を行うことでも知られているが、こういうところもキリスト教に似ている。こうした強さを持つ法華宗は、日蓮亡き後も着実に信徒を増やしていくことになるのだ。

 なお叡尊と忍性は、ライバルであった日蓮より長生きした。叡尊は1290年に89歳で、忍性はさらにその13年後の1303年に87歳で死去している。しかし新義律宗の最盛期は残念ながらカリスマであった両者の次の代、信空あたりまでであり、室町後期以降はゆっくりと衰退していくことになるのである。(終わり~次のシリーズに続く)

 

岩井三四二さんによる、元寇もの。相変わらず、すごく勉強した上で書いているのが文章の端々から伝わってくる。主人公は何人かいるが、うち一人は「蒙古襲来絵詞」を描かせた、竹崎季長である。「文永の役」で先駆けしたにも関わらず、恩賞が出ない。そこで彼は九州から遠路はるばる東上し、恩賞を貰うべく鎌倉中を駆けずり回るのだ。また作中では、敵側である元と高麗側にもスポットをあてている。特に高麗の忠烈王とその大臣・金方慶の立場の苦しさには、敵側にも関わらず同情してしまった。更に悲惨なのは、高麗の一兵卒・李である。行きたくもないのに海の向こうまで従軍させられ、命の危険にさらされる羽目になるのだ。この作品にはヒーローはいない。様々な立場の人たちが、元寇という大きな渦に巻き込まれ、右往左往しながらも一生懸命に生きる姿を描いた物語なのである。

 

<このシリーズの主な参考文献>

・鎌倉仏教/平岡聡 著/角川選書

・鎌倉仏教のミカタ-定説と常識を覆す/本郷和人 島田裕巳 著/祥伝社新書

日蓮 戦う仏教者の実像/松尾剛次 著/中公新書

・忍性 慈悲ニ過ギタ/松尾剛次 著/ミネルヴァ書房

・蒙古襲来と神風 中世の対外戦争の真実/服部英雄 著/中公新書

・日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る/播田安弘 著/ブルーバックス

・その他、各種論文を多数参考にした

 

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑨ 「弘安の役」に関する、服部氏の新説

 この記事では、前回紹介した服部英夫氏による著作「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」の内容に基づいて、弘安の役の戦いの推移について紹介していく。

 まず服部氏は、東路軍の進撃タイミングと進撃路に対して、以下のような説を唱えている――「通説では東路軍が合浦を出たのが5月3日、対馬占領は5月26日以前、志賀島占領は6月6日となっている。しかし実際には、対馬占領は5月8日、15日に壱岐を占領、続いて博多の志賀島占領は5月26日なのである。また通説によると、武士団の反撃があった結果、東路軍は志賀島を放棄したとされているが、実際には元軍は持ちこたえ、志賀島の橋頭堡は維持したままであった」というものだ。

 志賀島占領のタイミングのズレは、何故に発生しているのだろうか?池内説の根拠は「高麗史」にある「『日本世界村大明浦』を26日に占領した」とある一文である。問題はこの「世界村大明浦」はどこなのか、ということであるが、池内氏は「世界村」は対馬、「明浦」は佐賀である、と比定しているのだ。しかし服部氏は、この「世界村大明浦」は志賀島であると比定しているのである(その論拠は、是非本を読んでいただきたい)。

 時期はずれるが、いずれにせよ元軍が志賀島を占領するのは池内説も同じである。ここに対して武士団が攻撃をかける。海からの攻撃が6月5日から6日にかけて行われ、8日が陸からの総力戦であった。通説では、この攻撃によって被害を受けた元軍は橋頭保を放棄、6月の中旬には全軍が壱岐まで撤退した、ということになっている。しかし服部氏は、武士団は相当に相手を圧迫したが、奪還までには至らなかった、としている。

 なぜならば、閏7月(うるう月。この年は7月が続けて2回あった。つまり2回目の7月にあたるので、上記の戦いから2か月後のことになる)5日に「蒙古襲来絵詞」の主役である竹崎季家らが、博多湾南岸の陣から船に乗って、元の艦隊に対して戦いを挑んでいる、という事実があるからである。これは通説では、前記事で紹介した嵐でダメージを負った元軍艦隊にとどめを刺すべく、進軍した戦いを指す。

 通説では、博多湾から出撃した竹崎らは鷹島の「御厨」まで船で移動、そこで元軍艦隊と戦ったことになっている。しかしながら博多湾から鷹島までは、沿岸航海で120kmの距離である。完全武装の武士たちを乗せた小舟が1日で移動するのは、不可能な距離なのだ。一方、服部氏はこの「御厨」は鷹島ではあり得ず、志賀島であるとしている。つまり竹崎らは、出発した湾から目の前の志賀島沖に出撃していった、ということになる。

 

蒙古襲来絵詞」より。閏7月2日の昼に博多湾から船に乗り込み、御厨沖に停泊中の元軍艦隊に殴り込みをかける竹崎季長ら一党。竹崎らが昼12時ころ博多湾から出撃したのは間違いない事実のようで、ここから小舟で120km海上移動して、その日のうちに戦いに参戦するのはあり得ない。だが確かに鷹島南岸には「鷹島御厨」という地名があるのだ。しかし服部氏は「御厨」という地名は「台所」を意味する普通名詞が転じたもので、朝廷に山や海の幸を献上する場を指すことが多く、各地の島の多くは「御厨」に指定されていたという。そして志賀島もその例外ではなく、おそらく御厨と呼ばれていただろう、と推測しているのである。志賀島沖に敵船が停泊していたということは、志賀島の元軍の橋頭堡は依然、健在であったということでもあるのだ。

 

蒙古襲来絵詞」より。元軍が占領した志賀島陣地。この図は詞書が失われているうえ、原本から乖離してしまったらしく、時系列的にどこに入っていたか分からなくなっているが、上記の海戦の直前であったとしてもおかしくはない。真中が空白になっているので分かりづらいが、鳥居の横に柵と板塀がある。元軍が建てたもので、志賀島を要塞化していたことになる。右上には警戒する元の兵士、そしてよく見ると左下の湾には、泳いでいる男と陸に上がったばかりの男がいる。2人はおそらく日本軍の間諜であろう。失われてしまった詞書には「元軍が占領した志賀島まで、泳いでスパイする」というエピソードが書かれていたものと思われる――描かれているこの人物のうち1人は、もしかしたら竹崎季長本人かもしれない。いずれにしても、鎌倉武士団は元軍を志賀島に封じ込めることはできたが、堅牢な陣を攻略することはできなかった。志賀島は陸からは海の中道という1本道でしか繋がっておらず、守るに易く攻めるに難い島なのである。制海権が相手側にある場合は特にそうだ。また博多を攻略するための橋頭堡として志賀島は最重要拠点のはずで、ここを容易に放棄するのは戦略的にあり得ない――というのが服部氏の主張なのである。確かにそうかもしれない。

 

 また服部氏は江南軍の進撃路やタイミングに関しても、通説に対する反論を述べているが、東路軍に関するものほどにはインパクトはないので、この記事では割愛する――「弘安の役」に対する服部氏の主張をまとめてみよう。

 まず元の兵力であるが、東路軍は総兵力2万7000人、江南軍はその倍の5万人ほど。(「高麗史」を元に算出。通説の30%ほどの規模である。ちなみに服部氏は「文永の役」の元軍はさらに少なく1万6500人ほどであった、と算定している)

 東路軍は対馬壱岐を占領する。これが5月中旬のことである。続いて博多湾に進出するも、石塁を見て強襲上陸を断念、5月26日に志賀島を橋頭保として確保し、その要塞化を進める。武士団は6月5日から6日にかけて海から攻め、次いで海の中道を通って陸から攻撃する。激しい攻撃だったようだが、要塞を攻略するまでは至らなかった。しかし元軍も志賀島に封じ込められた形となった。

 そこで元軍は主力の戦闘部隊を志賀島に置いたまま、支援部隊を壱岐まで後退させることにする(通説では壱岐を捨てて、全軍が移動)。これは壱岐を策源地として機能させるためである。志賀島は小さいので、必要以上の兵と物資を置くスペースがなかったのである。しかし制海権が元軍にある限りは、壱岐を補給基地として機能させることができるのだ。

 元軍の意図を見抜いた武士団は、志賀島への補給源を断つべく壱岐に対して船団を出撃させる。これが先の記事でも紹介した、6月29日と7月2日の壱岐に対する攻撃である。この戦さで壱岐の東路軍はそれなりのダメージを負ったようだ。しかし、遂に江南軍が平戸・鷹島にまで到達したという報が入る。

 そこで東路軍は補給連絡のため、一部を平戸・鷹島にいる江南軍の下に遣わすことにする(通説では全軍が移動)。東路軍の一部が江南軍と合流したのが、7月27日のことである。東路軍と意思疎通を図った江南軍は、軍の再編成を進める。ここから東に進撃し、橋頭堡である志賀島をテコとして、博多湾に上陸を果たすのだ。だが、作戦行動に移る前、7月30日夜から翌閏7月1日にかけて、台風が襲来したのである。

 この台風により、江南艦隊は手ひどい被害を受ける。平戸よりも鷹島に停泊していた船がより酷いダメージを負っているようだが、これは船の造りというよりは、停泊場所によるもののようだ。ただ巷間言われているほどではなく、沈船は鷹島沖にて大型船が20隻、小型船を含めても50隻ほどであった。とはいえ、沈まずとも無傷で済んだ船はいなかっただろう。すっかり士気を喪失してしまった江南軍は、退却を検討し始める。

 制海権を維持するために志賀島沖、つまり博多湾付近に停泊していたであろう東路艦隊はどうであろうか。全ての船が沖に停泊していたとは思えず、補給基地である壱岐に停泊していたものもあるだろう。ダメージは負ったとはいえ、江南艦隊ほどの被害ではなかったようで、志賀島要塞も未だ健在なままだ。しかし博多にいて指揮を執っていた少弐経資の下に、江南艦隊の被害状況の一報が入る。「鷹島の元軍艦隊の被害は酷いもので、退却の兆しすら見える」という報告に接した武士団は、ここを先途とばかりに両艦隊に対して総攻撃を挑むことにするのだ。

 まず5日に博多湾海戦が発生。先に紹介した、竹崎らが船に乗って出撃している絵画は、この時のものである。その2日後、7日に鷹島沖海戦が発生する。こうして両艦隊に対して、手ひどい打撃を与えることに成功するのだ。通説では、両方とも鷹島沖で起きたことになっているが、そうではなく2つの海戦が別々の場所で発生したということになる。いずれにせよこれが決め手となって、元軍は全軍退却することになるのであった――

 如何であろうか?確かにこれまでの通説だと、元軍にしても武士団にしても、進撃が遅くやけに愚図愚図していたり、その割にあっけなく撤退したりなど、戦略的に不可解な動きが随所に見られる。そしてそれを説明する理由として、この時代の人たちの戦術や戦略はまだ洗練されていなかったからだ、とする論調すら見受けられるのだ。

 だが冷静に考えてみて、そんな訳はないのだ。服部氏の説だと、当時の人たちも合理的な思考を以て、リアルな戦さに臨んでいたことが分かるのである。(続く)

 

服部氏の力作。是非に手に取って読んでほしい。「伝えたい!」という熱意に溢れる文体であるが、「そういうところが客観的ではない」と感じる人もいるかもしれない。しかし、これが服部氏の持ち味なのだ。特に「東路軍は志賀島を放棄していなかった」というロジックには、感心させられた。本の後半は「蒙古襲来絵詞」の絵解きになるが、これがまた素晴らしく面白いのである。ただ幾つかの点――例えば「元の日本侵略の目的は硫黄であった」などに関しては、やや強引な論理展開では?と思った。しかしながら大筋において、ブログ主はこの本の主張は価値のあるものだと思うものである。

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑧ 引き籠る日蓮 「弘安の役」で大勝する日本

 甲斐国身延山に引きこもり、著作に励む日蓮。この間、彼は大量の手紙を弟子や信者たちに送っており、断片的なものも含めると現存するものは600点にも及ぶとも言われている(ただし偽物も多いようだ)。一次史料が大量に残っているということは、その人物像が具体的に分かるということである。中世自社勢力の研究者である伊藤正敏氏は「中世ではその人となりまで分かる人は少ないが、日蓮はそのひとりである」と述べている。

 見延山での彼は「ただひとりの弟子を相手に、ひたすら法華経の研究に打ち込みたい」という願いを持っていたようだ。だが彼の下には次第に人が集まってくるようになる。最終的には、この地で100人ほどの教団が結成されたようだ。特に「文永の役」の予言が当たったのち、彼の名は非常に高まった。

 1274年10月に「文永の役」が起こったとき、日蓮はどう考えたのだろうか。「ほーら見ろ、俺が言った通り。自業自得だ」そう溜飲を下げたに違いない――そう考えるのは、(ブログ主を含めて)凡人なのである。これについて彼が書いた手紙が残っている。要約して紹介しよう――「日本国を助けようと日蓮は頑張ってきましたが、逆に迫害を受けたので山林に隠れました。かねてからの警告、『蒙古が来る』を少しでも聞き入れてくれていれば、ここまでの被害がなかったのではないかと思い、心が痛みます。人々がみな対馬壱岐のような目に逢うかと思うと、涙が止まりません」――

 過激な主張をする人なので誤解されやすいのだが、彼は実に心優しい人なのだ。そんな人柄だったので、彼を慕って100人もの弟子や信者が集まってくるのであり、また彼らを養うために日蓮は苦労するのである。日蓮とその弟子たちを養うために、各地の信者たちは様々なものを寄進している。これに対して日蓮は懇切丁寧な礼状を書いているが、それらは全て仏法の教えを説くスタイルを取っているなど、残された手紙はどれも細やかで心が籠っているのだ。

 「文永の役」から7年――1281年5月、日蓮が予言していたように、元軍が再び対馬に来襲する。「弘安の役」の始まりである。今度の総兵力はなんと15万(!)以上、軍船が4400隻という、想像を絶する大軍であった。

 まずは朝鮮半島より東路軍5万が襲来、5月21日~26日にかけて対馬壱岐を蹂躙。6月初頭には博多湾沖に姿を現している。しかしながら、今回は鎌倉幕府も備えていた。海沿いに総延長20kmにもわたる石築地(高さ・幅とも平均約2m)を築き、浜には逆茂木や乱杭も設置されていたのである。

 

国宝「蒙古襲来絵詞」より。「元寇防塁」と思しき石築地と、その上に陣取る多数の御家人たち。これが20kmに渡って続いていたわけで、さぞかし壮観であったことだろう。これを見た元軍は、敵前上陸を諦めるのである。なお元軍の一部は長門にも姿を現しているが、こちらは威力偵察だったようで、すぐに撤退している。

 

 東路軍はこれを見て強襲上陸を断念し、6月6日に博多湾突端にある地続きの志賀島に上陸、ここに橋頭堡を築くことにする。しかし血気に逸る鎌倉武士団は、陸路・海路双方からここに猛攻を加えるのだ。これに辟易した東路軍は橋頭堡を一旦放棄、壱岐島まで後退することにする。まず前哨戦は、鎌倉武士団の勝利であった。

 しかし元軍の主力は、未だ到着していない江南軍10万なのである。予定より遅れ、6月中旬に大陸より出航した江南軍が姿を見せたのは、ようやく7月に入ってからのことだ。まずは平戸を占領しここに橋頭堡を築いた後、鷹島まで進出する。一方、一旦は壱岐島まで兵を引いた東路軍であるが、度重なる日本軍の襲撃に悩まされていたこともあり、船団を移動させ、江南軍と合流することに成功する。こうして総勢15万の兵がようやく集ったのである。7月の終わりのことであった。

 

通説での「弘安の役」における、東路軍と江南軍の進撃路イメージ。前回の「文永の役」では、予測を大幅に上回る規模で押し寄せ、結果的に不意を突かれた形となった鎌倉武士団であったが、今回は準備万端で待ち受けていた。そもそも鎌倉武士というものは、我々がよくイメージする後世の武士とは違い、遥かに野蛮なバーサーカーどもである。その剽悍さと非常識さで有名な、戦国期~江戸期にかけての薩摩武士ですら、いわば鎌倉武士の先祖返りのようなもので、あれが鎌倉期の武士のデフォルトだと考えて差し支えないだろう。東路軍は志賀島を占領したはいいものの、武士団の凄まじい攻撃に晒され、わずか3日で橋頭堡を放棄している。また武士団は、壱岐に退却した東路軍に対して6月29日と7月2日の両日に殴り込みをかけており、東路軍に対して相当なダメージを与えているようだ。

 

 ここまで東路軍に対し優位に戦いを進めていた武士団であるが、新たにやってきた江南軍の存在は予想外であった。どうも日本軍は東路軍が壱岐島から鷹島に移動したのを、撤退と誤認していたようである。平戸に元の大軍が集結している報に接した京都の官務・壬生顕衡は、その日記に「恐ろしい知らせだ。実に驚いた」旨を記している。

 しかしバーサーカー・鎌倉武士団は怯まない。合流を果たした元軍に対し船戦を仕掛けている。7月27日の昼から28日の明け方まで、鷹島沖に停泊している艦隊に対し、長時間に渡って波状攻撃をかけているのだ。

 元軍はというと、矢継ぎ早に攻めこんでくる武士団の襲撃に、態勢を立て直す暇もない。攻めてきたはずなのに、逆に守勢に回ってしまっている。先手を取られてしまい、イニシアチブをとることができないのだ。

 そして7月30日の夜、北九州を大型の台風が襲ったのである。

 鷹島・平戸沖に停泊していた多くの船が、兵と共に海の底に沈み、元軍は大ダメージを負う。武士団はこれに対して容赦なく、とどめの攻撃をかける。翌月の5日・7日に行ったこの戦いが決定打となり、元軍は撤退を決定するのだ。乗れる船がなく、多くの兵が取り残された鷹島は、殺戮の場と化した。こうして2度目の元寇も、撃退されたのであった。

 ――以上が、「弘安の役」のこれまでの通説である。この説は1931年に刊行された、池内宏氏による著作「元寇の新研究」において発表されたものを土台としており、若干の修正を加えつつも、現在でも広く学会の支持を得ている。実際、Wikipedia元寇の記事を覗いてみても、概ね上記のような内容となっている。

 しかしながら、この元寇に関して、「蒙古襲来と神風~中世の対外戦争の真実」という、大変面白い本が出ている。著者は服部英雄氏。過去記事で紹介した、秀頼の出自について刺激的な説を述べた、あの学者である。次回の記事では「弘安の役」について服部氏の説を紹介してみたい――これを読むと、通説とはやや異なる様相が見えてくるのである。(続く)

 

秀頼の出自について、服部氏の説を紹介した記事はこちらを参照。服部氏はなかなか過激な論を述べることで有名な人でもある。中にはその過激な論を受け付けず、眉を顰める学者もいるようだ。ブログ主はしかしながら、こういう人がいないと議論は硬直してしまうものだから、必要な人材だと思うものである――やや強引な倫理展開もあるが、そこまで荒唐無稽というわけではなく、特に意表をついた視点には、納得できるところがある。

 

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑦ 鎌倉武士団 vs 元軍 「文永の役」戦いの様相

 元は日本に対して、都合6回の使者を送っている(うち2回は本土までたどりつけず)。当初はガン無視を決め込んでいた鎌倉幕府であったが、さすがにそういうわけにもいかなくなった。こちらからも使者を送るなどの動きも見せているし、祈祷以外にもちゃんとした対策を講じている。具体的には「異国警固番役」の設置である。九州に所領を持つ東国御家人を鎮西に下向させ(これを契機として、九州に所領を持つ御家人の在地化が進むようになる。肥前千葉氏や薩摩島津氏など)、少弐資能大友頼泰の2名を沿岸警備の総指揮官としているのだ。

 次に北条得宗家内における、中央集権化の動き。これにまつわる騒動が1272年に発生した「二月騒動」である。謀反を企てたとして、鎌倉で名越時章・教時兄弟、京では時宗の異母兄・北条時輔がそれぞれ討伐されている。これによって幕府の統制を強化している。

 こうした動きから、鎌倉幕府も一応は危機感を持っていたことが分かる。鎌倉幕府禅宗を優遇していたから、大陸から多くの禅僧が来日していたのだが、その多くは元の南宋侵略から避難してきた僧だったのである。幕府は主に、この南宋ルートから情報を入手していたようだ。また「高麗史」には、日本から来たスパイ船が摘発された、という記録すら残っているのだ。

 さて佐渡で厳しい暮らしをしていた日蓮であるが、配流されているにも関わらず、彼の名は高まっていた。それはなぜかというと、未達成の予言のうちのひとつ、「国内での内乱発生」が当たったからである。

 日蓮はかつて日本を襲う災害として「異国からの侵略」の他、あともうひとつ「内乱」があると予言していた。72年2月に発生した、この「二月騒動」こそがその内乱であり、日蓮の予言が当たったのだ――そう受け止められていたのであった。

 そんな日蓮が赦免されたのは、74年の2月のことである。日本侵攻を決定した元は、この1か月前より高麗に大艦隊の建造を命じている。日蓮赦免のタイミングが、これと軌を一にするのは偶然ではないだろう。幕府はこのニュースを入手していたに違いなく、「侵攻の実現性が高まった」という危機感があったと思われる。(また忍性が赦免を働きかけた、という説もある。こちらもありそうなことである)

 まずはひとつ目の予言を的中させた日蓮。2つ目の予言の内容を聞くべく、時宗重臣平頼綱日蓮を鎌倉まで召喚する。頼綱は丁重な態度で、蒙古襲来の時期について日蓮に尋ねた。すると日蓮は「年内の襲来は必然である」と答えたのであった。頼綱は「これは国難であるから、庄田一千町(三百万坪)の収益を上納するので、他宗批判をやめ一致団結して護国のための祈祷をせよ」と提案する。しかし日蓮はあくまでも諸宗への帰依を止めることが絶対条件である、としてその要請を拒絶したのであった。

 もはや鎌倉幕府に、我の言が用いられることはないだろう――そう考えた日蓮は、甲斐国身延山に引きこもることにしたのである。そこで彼は数多くの著作を記すことになる。

 そして74年10月、ついに元の大艦隊がやってきた。「文永の役」である。それなりに心構えができていたはずの幕府もまさか、3万を超える大軍勢がいきなりやってくるとは思ってもみなかっただろう。当時の日本の国力では、これほどの大軍勢を動員し、更にそれを渡海させるなど、想像もできないことだったのである。来るとしても、「刀伊の入寇」レベル(海賊3000人ほど?)程度のものだと考えていたのではないだろうか。(かつて日本も白村江に2万を超える大軍を送ったとされているが、数は大幅に水増しされていると思われる。いずれにしても、はるか遠い昔のことである)

 蒙古・高麗軍は対馬壱岐島に上陸、その地に住む人々を殺戮する。両島が陥落したことを知った鎌倉武士団は、北九州の兵力を結集する。そして博多湾に上陸した元軍に対して、総力を挙げ戦いを挑んだのであった。

 

文永の役」の戦いの様相については、こちらの本が大変に面白かった。史学者というものは、どうしても文献史料第一主義になりがちで、明らかにあり得そうにないことでも「一次史料にはそう書かれているから」で済ませてしまい、思考停止してしまうパターンが、たま~に見受けられる。この本の著者である播田安弘氏は、船舶設計に関わっていた技術者で、いわば船舶の専門家による物理的な観点から「文永の役」について考察した本なのだ。自説にとって都合のいい計算をしている印象もあるが、少なくとも上陸に関しては大変に説得力のある内容で、ブログ主は納得した。「文永の役」のほかにも「秀吉の中国大返し」と「戦艦大和は無用の長物だったのか」についての考察もある。

 

竹崎季長が奮闘する場面を描いた、国宝「蒙古襲来絵詞」。上記で紹介した「日本史サイエンス」によると、船舶の輸送能力から逆算して、元の戦闘部隊は歩兵を主体とした兵が2万6000ほど。日本側の兵力算定が難しいが、おそらく5000の騎馬と5000の歩兵で計1万ほどであったとしている。巷間言われているほど、兵力に差はなかったというのが、播田氏の主張なのである。更に問題なのは「土地勘のない敵地で大軍を敵前上陸させるのは、想像を絶するほど大変な手間と時間がかかったはず」ということである。元軍が博多湾沖に姿を見せたのは10月19日の夜遅くであるが、20日の朝8時頃には戦闘が開始されているのだ。真夜中に上陸するのは不可能なので、朝6時の日の出と共に揚陸を開始したとしても、猶予はたったの2時間しかない。元軍の先遣部隊は、まず上陸地点より先の赤坂まで進軍し、林の中に橋頭堡を築いていたようだから、最初に発生した「赤坂の戦い」の最中も上陸は進められていただろう。しかしその後の「鳥飼潟の戦い」において敗走した元軍は百道原・姪浜へと退却しており、ここまで来ると上陸地点である百道浜は大混乱で、揚陸どころではなかっただろう。これら一連の戦闘において、実際に上陸して戦った元軍の戦力は2万6000の30%以下、多くても8000ほどだったのでは?というのが播田氏の推察なのである。つまりは戦場での日蒙の兵力差は逆転していたのだ。戦いにおける戦傷者も多数発生していた(数千人規模?)こともあり、これこそが遠征軍がその日のうちに戦闘に見切りをつけて、撤退を決めた理由なのであった。

 

 いずれにせよ、本土における強襲上陸に失敗した元軍は、即日撤退することにする。しかし秋の日本海は荒波である。撤退した元の船は、帰途に強い南風に襲われ、その殆どは壱岐の湯本湾付近で海難事故に逢い、沈んでしまうのであった。日本軍の完勝である。

 日蓮元寇のことを「邪宗がはびこる日本を罰するため、神が日本に遣わした神罰」と捉えていた。「文永の役」において元軍が撃退されたと聞いても、その考えは揺るがない。日本にはまだ邪宗がはびこっているから、十分に罰されていない。だから元寇は再び来る、そう確信していたのである――そして予言は、三たび当たったのであった。(続く)

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑥ 日蓮最大の危機・竜ノ口法難と、遂にやってきた元寇

 大国・元の脅しに対して、徹底して無視を決め込んだ鎌倉幕府。しかし幕府も、必ずしも無策でいたわけではない。この時点で幕府がとった対策は「そうだ!寺社に祈祷してもらおう」というものであった・・・これを読んで、思わず脱力してしまった人もいるかと思うが、当時の人たちは大真面目だった。それだけ祈祷には力がある、と信じられていたのだ。

 取り急ぎ幕府は「異国降伏」の祈祷を、建長寺寿福寺臨済宗)、極楽寺・多宝寺(律宗)、大仏殿・長楽寺(念仏宗系)、浄光明寺(四宗兼学だが、メインは律宗)の有力寺院らに依頼したのだが、これがまた日蓮にとっては耐え難いことであったのだ。

 日蓮にしてみれば、この世にはびこる「邪宗を奉じる人々」こそが天変地異の原因で、彼らをこの世から駆逐することこそ、正しい政治の姿を取り戻すきっかけとなると信じてやまないのである。それなのによりによって、彼らに祈祷をお願いするとは!これでは日本の滅亡が早まるだけではないか!この頃より、日蓮の排撃対象として遂に真言宗も加わるようになる。法華独勝の立場に、より近づいていくのだ。

 日蓮の論理としては「天台を奉じる延暦寺こそ、正法を伝える道場であったのに、邪宗延暦寺に入り込み混淆してしまっている」ということになる。つまり天台の密教成分を、邪宗と認定したのであった。この頃より日蓮は、延暦寺の開祖・最澄との直接的な結びつきを意識するようになる。延暦寺を再生させるには、最澄の正法を伝える唯一の門人である自分しかいない、と考えたのだ。

 元からの国書が来て3年経ち、使者のやり取りは依然続いている。1271年の夏は暑く、日照り続きであった。幕府は鶴岡八幡宮建長寺、そして極楽寺の忍性に雨乞いの儀式を依頼することにする。特に忍性は祈祷僧としても著名で、69年には実際に雨乞いを成功させており、霊力のある僧として認識されていたのである。

 これを知った日蓮は、忍性の下に弟子を遣わして「あなたが祈祷を始めて、もし7日以内に雨が降れば、あなたの弟子となろう。だがもし降らなければ、あなたの主張は間違っているということになる」という旨の挑戦状を叩きつけたのである。

 忍性はこれを無視したが、雨は降らなかったのである。日蓮は勝利を喧伝し、次のような内容の書簡を諸寺に送りつけたのである――「今回のことで分かったように、禅・戒・念仏が繁盛している現状こそが、国中の天災の原因なのです。それゆえ、建長寺寿福寺極楽寺などの諸寺の伽藍を焼き払い、これらに仕える僧どもの首を斬って由比ガ浜に並べたら、きっと雨が降ることでしょう」――日蓮に対して、またも訴訟が起こされた。

 特に問題になったのが「伽藍を焼き払い、僧の首を斬る」くだりである。この点に関しては、日蓮は全く申し開きをしなかったようだ――本気でそう思っていたのだろう。当然、有罪となった。「御成敗式目」第12条に照らすと、「悪口(あっこう)の咎」の最高刑は佐渡への流罪である。9月12日、日蓮は逮捕された。

 だが日蓮を逮捕した武士たちは、佐渡への流罪になるはずだった彼を、片瀬にある竜ノ口刑場まで連れて行ったのである。真夜中の1時に日蓮は牢から引きずり出され、斬首されそうになる。しかし首を斬られそうになったその瞬間、江ノ島の方角から「光り物」が出現したのだ。これに驚いた武士たちは日蓮を殺すのを諦めたのである――これを「竜ノ口法難」と呼ぶ。

 この光り物の下り、日蓮その人が著したとされている「種種御振舞御書(しゅじゅおふるまいごしょ)」に記されているエピソードである。日蓮自身が「見た」と書き残しているからには、おそらく本当にあったことだろう――日蓮は嘘をつける人ではない(だから、しなくてもいい苦労をしているのだが)。

 ではこの正体は何であったかというと、おそらくは大きな流れ星、いわゆる「火球」と呼ばれるレベルの流れ星だったのだろう。なにしろ奇跡的なタイミングである。当時、流星や日蝕月食など、天体運行に関わる現象は全て奇譚として捉えられていたから、この偶然も日蓮の処刑中止の一因にはなったに違いない。

 

江戸期に出版された、歌川国芳による木版画「相州龍之口御難」。今から23年前の話だが、まだ若かったブログ主が「しし座流星群」を見物するために徹夜した際、火球を見ることができた。わずか1~2秒であるが、夜空に光り輝く火球がこちらに向けて落ちてきたのは驚いた。少しのタイムラグがあって、ゴーという轟音が聞こえてきたのを覚えている。あのレベルの火球が処刑直前のタイミングで空に現れたら、さぞかし度肝を抜かれたことだろう。この絵では、空からの光が武士の刀を打ち、刀が折れたということになっている。

 

 ただし、この「種種御振舞御書」という書物、実は後世になって弟子の手によって書かれた偽撰である、という見方が昔から根強くある。この竜ノ口法難について触れられている、確かに「日蓮の真筆である」と認められている他の文書には、「光り物」の類の話は書かれていないのだ。もしこれが作り話だとするならば、奇瑞なしに日蓮の処刑は中止されたことになる。

 奇瑞があったにせよ、なかったにせよ、処刑が中止になったのは、どうも別の要因の方が大きいようである。日蓮処刑の話を聞きつけた忍性が手を回して中止させた、というのが真相のようだ。1277年に日蓮の在家信者である四条金吾が、主君より法華宗信仰について問いただされているのだが、その際に金吾になり代わって日蓮が陳弁した「頼基陳状」という書状が残されている。そこには「死罪の代わりに遠島になったのは、忍性のおかげでしょう」という旨の記述があるのだ。

 竜ノ口刑場がある江ノ島一帯は、極楽寺の管轄下にあった。「不殺生戒」などの戒律を護持する立場にある、新義律宗の一員である忍性にしてみれば、自分の縄張りで流罪であったはずの人間が処刑される、というのは倫理的に許せないことだったようだ。

 また翌72年に、忍性は10種類の誓願を書いている。その第8誓には「我に怨害をなし毀謗を致す人にも、善友の思いをなし、済度の方便とすること」とある。どう考えてもこれは日蓮のことを指しているのであり、彼は敵である日蓮佐渡配流から早期に許されることを願っていたのである。やはり忍性は「慈悲ニ過ギタ」人であったのだ。

 ともあれ71年10月、日蓮佐渡に流される。佐渡での生活は苦しいものであったようだ。彼の教団も壊滅的なダメージを被る。一時はそれなりの規模になっていた教団も、カリスマである開祖の流罪、そして特に「武士の信者に対しては所領没収」という処罰が下されたこともあって、その多くは他宗に転向してしまったのである。日蓮は「1000人のうち、999人が転向してしまった」と嘆いている。

 このまま何もなければ、日蓮法華宗は数多に生まれ、そしていつしか消えていった新興宗派のひとつとして、歴史の中に埋もれていったに違いない。ところが一発逆転、1274年に彼は赦され、再び鎌倉へ戻ってくるのである。なぜか。

 彼の予言が的中したのだ。いわずと知れた、蒙古襲来である。(続く)

 

日蓮と忍性、そして蒙古襲来~その⑤ 社会事業にまい進する忍性 亡国の危機に焦る日蓮

 日蓮は焦っていた。なにしろ同じ鎌倉にいる、新義律宗を率いる忍性の勢いには凄まじいものがあったのだ。

 彼が成し遂げたこと――鎌倉幕府のトップである、北条得宗家に戒律を授け、仏の教えの上での師となる――は、実のところ日蓮がしたくて堪らなかったことなのである。(なお、新義律宗の大ボス・叡尊北条実時・時頼両名に授戒する目的を果たした後、鎌倉における布教は忍性に任せ、すぐに奈良に帰っている)

 ここに至って、忍性を最大のライバルと認定した日蓮とその弟子は、このようなロジックで彼を攻撃している――「生身の仏のごとく崇められている忍性であるが、彼は財を蓄え、貸金業を営んでいる。教えと行いが乖離しているではないか。例えば、飯嶋の津においては関米を徴収しており、これに民は非常に迷惑している。また道を整備したり、川に橋を渡してはいるが、それも木戸を設けて関米を徴収するためではないか」――

 上記のことは、概ね事実である。忍性は新義律宗に改宗した念仏僧・観房より極楽寺を譲り受けており、境内に「浄地(じょうじ)」という施設を設立している。この「浄地」は「禁律に対する適当・合法」を意味する言葉で、本来禁止されているはずの利殖活動を行わさせるために創設された組織なのである。忍性は集めた寄付を一旦ここにプールさせ、利殖活動を仕切らせたのであった。彼はなぜ、こうした活動を行ったのであろうか。

 答えは単純で、「慈善活動するには金がかかるから」なのである。忍性らが行っていた慈善活動は、集まってきた貧しい人に米を配るだけ、などという短絡的なものだけではないのだ(勿論、それもやっていた。しかも1回につき数千人という規模で)。忍性の本当の凄さは、「温浴施設などを備えた療病院などの施設を各地に多く建て、それを恒常的に運営した」というところなのである。こうした施設の運営には、多額のランニングコストがかかる。その費用を捻出するために、利殖活動を行っていたのであった。

 

Wikiより転載、鎌倉・極楽寺。かつては浄土宗の寺であったが、忍性の入寺に伴い新義律宗の寺となり、今に至る。山中にある極楽寺を21世紀のいま訪れると、門は茅葺の屋根だし、境内は小さいしで、いい意味で鄙びた風情である。しかしかつては49の子院を要する大寺院であったのだ。右の画像は、極楽寺境内にある石造りの巨大な薬鉢であるが、これを使用して毎日大量の薬草が調合されていたものと思われている。施設には大量の病人や貧しい人を抱えていたわけで、銭米はいくらあっても足らなかっただろう。

 

極楽寺蔵「極楽寺古図」。中世の姿を描いたものだが、描かれたのは江戸期になってからである。どこまで再現性が高いかは不明だが、往時の大きさはイメージできるだろう。現在ある施設を、青い四角で囲って示してある。現存する極楽寺境内は、かつてのほんの一部であったことがよくわかる。丸い円で囲ったのが当時存在した、らい病患者ら病人のための施設である(馬のための病屋もある。これは武士が多い、鎌倉ならではのものだろうか)。現在、寺の門前を横切るように走っている江ノ島電鉄の路線であるが、かつてはここには極楽寺川が流れており、この谷沿いに非人たちの集住地があったと推測されている。

 

 次に日蓮が非難している「飯嶋の津で関米を徴収」や「道や橋を建てて木戸を設けている」点。これも事実ではあるが、やはり補足が必要であろう。

 まず鎌倉幕府であるが、この時点での幕府はあくまでも「(野蛮な)武士たちを統率する武門の棟梁」としての性格が強い組織なのだ。彼らに「国を治める」という責任感は極めて薄い。

 幕府も一応は、鎌倉近辺において「切岸・堀切・切通の整備」、「道路排水のための側溝工事」、「川の護岸などの土木工事」などは行っている。大きなものでは、在地武士と鎌倉を結ぶ「鎌倉往還」などの道路工事などもある。そしてこれらの維持管理のために「保奉行人」という役職が設置され、鎌倉市中の土地・道路の管理から橋の修理・道路掃除まで行っていたことが分かっている。

 しかし、これらのインフラ工事の殆どは「いざ鎌倉」という緊急事態の時のための備えであって、軍事的観点から整備したものなのである(結果的に庶民の役に立ったことはあるだろうが)。この頃の幕府には、まだ「民を富ます」という発想自体が存在しない。後年、江戸幕府が行ったような、新田開発などの生産力増大を試む意志や、港湾整備などのインフラを整える能力を、そもそも持ち合わせていなかったのだ。

 では朝廷にはあったのかというと、こちらも幕府よりは些かマシ、というレベルでしかなかった。ではそれまでの日本における大規模なインフラ整備は誰がやっていたのかというと、主に寺社などの宗教勢力が担っていたのである。(空海による「讃岐国満濃池(まんのういけ)改修」などが有名である)

 前記事で少し触れたように、新義律宗は石工などの技術者集団を抱えていた。そこで幕府はそうしたスキルを持つ忍性らに、港湾や道路などのインフラ整備と保守運用を委託したのである。しかし幕府は言うだけで一銭も出さないから、費用は自分たちで捻出するしかなかった。それらを木戸銭や関米という形で回収していたのである。(なおこの時期、新義律宗は鎌倉近辺のみならず、全国の主要な港湾――西表津、博多津、尾道津、安濃津など――の整備運営を幕府より委託されていた)

 このように忍性の利殖活動には正当な理由があったわけで、公平に見て非難されるには及ばないだろう。しかし日蓮は止まらない。彼にしてみれば、止まるわけにはいかない事情があったのである。実は1268年の1月に、日蓮を更に焦らす大きな出来事が起きていたのだ。それは大陸を制覇した超大国・元から、大宰府に届いた国書の存在である。

 体裁としては日本との通好を求める内容だったのだが、その本質は「言うことを聞かねば、武力侵攻もあり得る」といった物騒なものであった。幕府はこれを侵略の前触れとして受け取り、黙殺することにしたのである。約1か月遅れでこの情報を知った日蓮は、これこそかつて「立正安国論」の中で自身が予言した、まだ実現してない残り2つの災害のうち1つ、「他国からの侵略」であると確信したのである。

 「このままでは日本は滅びてしまう」――国を救えるのは自分しかいない。そう考えた日蓮は、さらに過激な行動に出るのであった。(続く)