根来戦記の世界

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本願寺の興亡 信長死闘編~その⑭ 三方ヶ原ショックが畿内に与えた影響

 1572年12月22日、三方ヶ原で徳川勢に大勝した武田遠征軍。命からがら浜松城に逃げ込んだ家康の痛手は大きく、しばらくは出撃できそうにない。信玄は予定通り、堀江城攻略にかかる。

 先の記事でも少し紹介したが、堀江城を守る大澤基胤(もとたね)は、古くからこの地を支配する国衆で、今川領国時代は家康になかなか降伏せず、手を焼かせた剛の者である。信玄の攻撃にもしぶとく抵抗した。

 12月22日から27日にかけて武田勢による城攻めが行われたが、天候の悪化もあり攻略を一旦諦め、包囲を解く。その後、三方ヶ原の刑部(おさかべ)を中心とした一帯に軍を返した。ここで陣を構え、越冬することにしたのだ。

 どうも信玄はここ刑部を拠点とし、堀江城と浜松城双方の攻略を睨んでいたようだ。しかしそんな信玄の元に、心底落胆させる報せが届いたのである。

 過去記事でも紹介したが、信玄の西上作戦前の72年7月下旬、信長は5万の軍を動員して、これが何度目かの浅井攻めを行っていた。朝倉義景が救援のため越前から出てきたものの、大獄砦に陣を張り、そこから動かない。9月頃、信長は本陣を近くの横山城まで後退させ、様子を見ることにする。翌10月、そんな信長の元に飛び込んできたのが「信玄西上する」の凶報なのであった。

 家康単独では信玄には勝てないだろう。助けに行かねばならない。しかし目の前には、浅井勢5000に朝倉勢1万5000がいるのだ。下手をしたら追撃を受けかねない。もちろん信玄もそれを織り込み済みで、西上作戦を行っているのである。

 実際、信玄は11月19日に義景に使者を送り「翌年の5月までは、(牽制のため)そのまま近江に在陣していて欲しい」と求めているのである。朝倉勢が近江に出張っている間は、信長も自由には動けないはずだ。そして信玄の思惑通り、信長は取り急ぎ3000の援兵を家康に送ったものの、それ以上の行動には出られなかったのである。

 武田勢の侵攻スピードは予想以上に早く、信長は焦りはじめる。背に腹は代えられない。11月には軍を一部残し、信長自身は本国・岐阜に引き上げることになった。

 残された留守部隊に対して、浅井・朝倉連合軍の攻撃が始まった。相手は虎御前山砦を守備する秀吉である。しかし姉川以来、浅井・朝倉連合軍は連戦連敗、負け癖がついているのか、攻撃は全くうまくいかなかったようだ。これに嫌気がさしたのか、義景は12月8日にさっさと越前に帰陣してしまうのであった。

 信玄は三方ヶ原合戦後にこの事実を知ったようだ。12月28日に怒りの書状を義景に送っている――「軍勢の大多数を帰国させたとのことですが、大変驚きました。兵を労わるのは分かりますが、信長が滅亡するかどうかという時に、それをするのは無意味ではないですか。ご分別が過ぎたというものです」書式としては丁寧さを守っているが、信玄の怒りが伝わってくる内容である。

 あれほど「在陣してくれ」と頼んでいたのに、さっさと帰ってしまうとは!あと2週間ほど我慢すれば、三方ヶ原大勝利の報せが届いていたはずなのだ。信玄にしてみれば、この好機をみすみす逃してしまった、義景の腰の弱さが許せなかったのだろう。それほどまでに「家康、大敗する」の報せは、瞬く間に畿内に広まり、各方面に衝撃を与えていたのだった。

 勇躍したのは本願寺顕如で、これを契機に盛んに動いている。まずは援軍として美濃一向一揆勢を伊勢に派遣、長島一向一揆に合流させている。その上で、斎藤家の重臣であった日禰野弘就(ひねのひろなり)をスカウトし、一揆勢の指揮を執らせた。日禰野は岐阜からわずか3里の場所に城砦を築くなどして、信長に圧力をかけたようだ。

 また北信濃に亡命していた、三河の佐々木上宮寺・勝鬘寺の残党を三河に進軍させるべく動いている。このように織田・徳川の領国内全域において、門徒衆の蜂起を画策したのであった。

 しかしなんといっても、三方ヶ原の合戦に最も大きな衝撃を受けたのは、将軍・足利義昭と、その閣僚たちである。近江は浅井・朝倉がしぶとく生き残っている。畿内は三好・松永らの連合が攻勢を強めており、一向一揆勢が各地で蠢動しているのは変わらずだ。ここにきて大物・武田信玄の西上、そして家康大敗の報せである。信玄の目的は明らかに打倒信長なのである。

 慌てた義昭は「すぐさま信長と和睦を結ぶように」という旨のご内書を信玄に送るが、帰ってきた返事は「信長の悪行は、これこれ数えきれないほどある。和解はあり得ない。天下静謐のため、逆に『凶徒』である信長と家康の追討令を出してくれ」というものであった。

 これに大きく反応したのが、上野秀政ら義昭政権を支える幕臣たちである。彼らはこれを機に信長から信玄に乗り換えるよう、義昭に強く進言したようである。

 彼らは何故、こうした動きを見せたのであろうか?

 義昭政権と信長との間で確執があったことは過去記事で紹介した。義昭らは政権を樹立した後、積極的に政権運営にあたろうとしていたが、その力が及ぶ範囲内は畿内周辺に留まっていた。

 幕府が武家に期待される最大の役割は、領地や各種利権に関わる紛争の調停・裁判なのである。しかし畿内はただでさえ権利が錯綜している地で、何らかの裁定が出たとしても、結果に不満を持つ者たちが大勢いたのである。

 結局のところ、裁判結果を担保する――要するに「言うことを聞かせるための軍事力」が必要となってくるのであるが、義昭自身は直接的な軍事力をそれほど持っていなかったため裁定を仕切り切れず、その尻拭いを信長が行っていたのである。所領の裁判結果に不服を持った人たちが、信長の元に大勢駆けつけていたのであった。

 信長は京に奉行を送り込むなどして事態の収拾を図っていたが、問題の根源である、義昭とその閣僚らの仕切りの悪さが続く限りは、一向に解決しない。いい加減に怒りを表した信長が、72年9月に義昭に突き付けたのが、先の記事でも紹介した「異見17か条」なのであった。

 義昭政権の閣僚たちにも言い分はある。政権を取ったというのに、義昭を支える彼らの所領や発言力は、期待ほど増えてはいない。それどころかやろうとしていたことを真っ向から否定されてしまったわけで、現体制の存在理由の意義を問われているのである。このままでは自分たちの地位が危ない。

 三好方の篠原長房が阿波より再び出撃し、京を伺う状況になっている。いずれ信玄も畿内にやってくるであろう。幕臣らは義昭に、信長から信玄への乗り換えを盛んに進めたのであった。(なお「異見17か条」は、三方ヶ原合戦後の73年正月に出されたもの、という説もある)

 73年1月、信玄は再び動き出し野田城の攻略にかかる。これとタイミングを合わせるように義昭は信長を見限り、反信長勢力と手を結ぶことにしたのである。(続く)

 

有名な「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(徳川美術館所蔵)。家康のその表情から「顰像(しかみぞう)」とも呼ばれている。「三方ヶ原での敗戦直後に、この像を自戒のため描かせた」とする伝承が有名だが、これは1936年に開催された展示会を紹介する新聞記事で、展示作品のいわくとして載ったものが初出なのだ。複数記事に載っているので、徳川美術館側から提供された情報に基づいて書かれたようなのだが、史料的根拠はなく、創作エピソードと見られている。描かれた時期も、その装束から17世紀以降、おそらく江戸中期以降のものと推測されている。

実のところ、この画は「半跏趺坐をしている家康」像なのである(手足の組み方が左右逆だが)。江戸期は家康の神格化が進んだ。この画は軍神・東照大権現としての家康を表現しており、礼拝の対象として描かれたもの、という説が有力なのである。表情もしかめ面をしているのではなく、不動明王によく見られる憤怒の表情、とのことである。神仏習合が進んでいた日本では、神像に仏教的要素をミックスさせて表現するのは、よくあることであった。

 

これに関しては、wikiの記事がとてもよくまとまっている。ブログ主も当該記事でそうした事実を知った。一読をお勧めする。

 

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑬ 三方ヶ原の戦い(下)

 武田勢の攻略目標が堀江城だと知った家康は、信玄と一戦することを決意する。

 ただブログ主としては前記事で触れたように、家康の真意はまずは当たってみての様子見、威力偵察的な意味合いが強かったのではないかと思っている。にもかかわらず本格的な合戦になってしまったのは、予想外のことが起きてしまったからだ。

 血気に逸る三河武士団の一部が、突出してしまったのである。どうも武田勢を追尾していた徳川勢のうち、物見と称して勝手に先行する武者たちが、結構な数いたようなのである。江戸期の軍記物には「先駆けした武者の数は1000にも及んだ」と書いてあるものもある。こうした記述はしかし、これらより前に書かれた「松平記」を種本にして書かれたものと思われる。

 「松平記」の該当箇所を見てみよう。「物見をしたところ、武田勢の威容に驚いた渡辺半蔵がこれはまずいと判断し、家康に対し先手を呼び戻すべきと進言した」とある。また「前線に出ていこうとする武者たち(芝田康忠、大久保忠世ら)を制止したが、彼らはそれを振り切って先に進んでいった」旨の記述もある。

 家康はこうした先発隊を追いかけて徳川本隊に吸収しつつ、よきタイミングを計りながら信玄に挑もうと思っていたようだ。

 対する信玄はどうであったかというと、意外にも家康との決戦を望んでいたわけではないようだ。前記事でも少し紹介したが、まだ見ぬ信長の援軍を警戒していたのである。

 「甲陽軍鑑」によると、信玄の元には「かなりの規模の織田勢が岡崎から吉田に至る道筋に布陣しており、(家康の叔父の)水野信元も近くまで出陣している」という報せがもたらされていたようだ。

 実際には信長の援軍は家康本隊と共に行動している3000だけだったから、信玄は徳川勢が流したと思われるこの虚報に引っ掛かっていたのである。

 そんなわけでなかなか一戦に踏み切れなかった信玄は、物見を何人も出している。しかし彼の元に続々と上がってくる報告は、どれも「我が方優勢」というものであった。

 決め手は彼が最も信頼する物見巧者・室賀入道信俊(のぶとし)による「一戦すれば、勝利間違いなし」という進言である。馬場信春らにも戦うことを勧められ、ようやく決戦を決意するのであった。

 それにしても信玄の用意周到なこと、既に戦う準備は万全なのだ。追分で大休止した時に軍を再編成し、進軍する軍勢の殿に主力クラスの部隊を配置済みだったのである。

 その場で180度回転し後ろを向かせるだけで、殿を務めていた小山田信茂・山県昌景・武田勝頼・馬場信春というオールスターキャストが、そのまま先陣となった。その上で少しだけ陣形を整える。すると多段で構成される魚鱗の陣となるのである。

 待ち構える武田勢の前に、三河武者たちが三々五々、姿を現してくる。言うことを聞かずに突出していた武士たちである。その後ろには息せき切って追いかけてくる家康本隊。「徳川勢は鶴翼の陣を敷いていた」とされているが、実際のところ単に統制がとれていなかったせいで、横一列の単純な陣形になっていただけではないだろうか?

 ブログ主には、後からやってくる本隊に道を開けるため、先駆けの武士たちが横に広がった結果、鶴翼の陣形になっただけのように思われる。

 以下、戦さの経緯を図にして解説してみたいと思う。ただしブログ主の推測が大きく入っているので、本当にこの通りに推移したかは定かではない。

 

赤が武田勢、青が徳川勢である。後続の家康本隊に道を空けるために、左右に展開する先遣隊。結果的に鶴翼の陣となってしまう。一方、武田勢はその場で180度回頭、魚鱗の陣となって待ち受けていた。

 

 

そんな彼らに向かって、武田の足軽部隊が石を浴びせ打った。印地打ちである。これに逆上した三河武士たちが、足軽部隊に攻めかかれと下知してしまう。つまり勝手に戦端を開いてしまったのである。家康は先陣を助けるために、参戦せざるを得なかった。特に旗本の本多忠勝・境原康政が奮闘し、正面にいた山県昌景隊に襲いかかっていく。

山県隊の先鋒は山家三方衆であった。動員されて従っている衆ということもあり、猛攻に耐え切れず後退してしまう。更に近くにいた酒井忠次隊が加勢し山県隊を強襲、魚鱗の陣の中央が押し込まれる形となった。山県隊は300m余り後退したようである。

 

 

しかし局地的に一瞬優勢であっても、大局的にはあまり意味はない。武田勢にしてみれば、飛んで火に入る夏の虫なのである。横にいた馬場信春隊が加勢し、山県昌景隊は踏みとどまる。更に武田勝頼隊が加勢し、家康本隊を切り崩しにかかる。突出してしまった徳川勢の中央部が包囲されてしまう形となる。

 

 

戦巧者である信玄は、頃合いと見て甘利信康に「小荷駄を捨てて、横槍を入れよ」と下知する。加勢した甘利信康隊の攻撃により、酒井忠次隊がたまらず後退、これが決定打となり鶴翼を中央突破されてしまう。陣は完全に崩れ、徳川勢の全面敗退となった。

 

 午後4時から始まった戦いは、僅か2時間で決着がついた。そもそも戦力比が2:1、かつ待ち受けている武田勢に対して、なし崩し的に挑む形であったから、家康にとって最初から勝ち目の全くない戦いであったといえる。

 撤退戦では徳川家の多くの家臣、物主や奉行クラスが戦死している他、信長の援軍の将・平手汎秀までもが倒れるほどの散々な敗戦であった。戦死者は1000を越えたのは確実で、記録によっては2000というものもある。対する武田勢のダメージは不明であるが、精々100~500程度ではなかろうか。

 身代わりになった家臣らのおかげもあって、家康は何とか逃げ延びる。彼が助かったのは、戦端が開かれたのが冬の午後4時という、日が暮れる前の時間であったことも幸いした。夜の闇に紛れて逃げることに成功したのである。

 そう考えると、信玄が開戦を決意したタイミングがあと1時間でも早ければ、家康は討ち取られていたかもしれない。信長援軍の虚報が、信玄の判断を狂わせたのであった。(続く)

 

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑫ 三方ヶ原の戦い(中)

 浜松城に向かって、秋葉街道を南下していたはずの武田勢。ところが信玄は突如、欠下で進路を西に変針し、三方ヶ原台地を登っていったのである。

 信玄の目的は本国三河にあり――そう判断した家康は、取るものも取り敢えず、軍を率いて浜松城から出陣する。この時点で家康は、信玄と正面切って戦うつもりはなかっただろうと思われる。以前行ったように、威力偵察が目的で、隙あらば尻に食らいついて一撃を与える。うまくいくようなら更に追撃する――その程度のつもりだったのではないだろうか?

 三河に向かうには、三方ヶ原台地から祝田坂を下りなければならない。軍の半数が下りた瞬間こそが襲い掛かるチャンスなのである。同じような威力偵察を二俣でやってみて、手痛い目にあったばかりの家康であるが、この好機を逃すわけにはいかない。怯まず再戦を挑まんとするところは、流石である。

 信玄は軍を追分付近で大休止させたようだ。分散して進んでいた軍勢をまとめて編成し直すと同時に、高台から家康の動向を確認したものと思われる。付近に伏兵の存在はいないようだ。何よりも大きかったのは、織田の援軍はそれほどででもない、と分かったことである。

 「甲陽軍鑑」によると、信玄が最も懸念していたのは織田の別動隊だった、とある。もし織田からの援軍が西から来ていたら、南から来る徳川勢との間で挟み撃ちにあってしまう。一刻もはやく有利な態勢で戦うために、三方ヶ原を登ってきたわけであるが、その心配はなくなったのである。

 再び動き始めた武田勢は、追分から鳳来街道に入る。――「信玄坊主め、やはり三河に進むつもりに違いない。おのれ、本国に行かせてはなるものか。各々方、祝田坂を下りるその瞬間を逃してはなるまいぞ!」逸る徳川勢。

 ところが武田勢は、祝田坂の手前で突如として鳳来街道を逸れ、三方ヶ原を西に進みはじめたのである。予想外の動きに戸惑う徳川勢。一体、信玄はどこに向かうつもりなのか?一瞬遅れて、家康は信玄の目的が何であったか気づくのである――堀江城である。

 堀江城は浜名湖北岸にある、浜名湖水運の要となる城である。ここを落とされてしまうと、浜名湖水運の主導権を掌握されてしまうのだ。遠州灘にいる武田水軍が今切の渡しを突破して、堀江城に入ったらどうなる?

 二俣城陥落により、既に北からの道は脅かされている。南の遠州灘も封じられている。残るは西の東海道と浜名湖水運であるが、堀江城が落とされてしまうと、最後に残ったこの2つさえも完全に断たれてしまうのだ。

 ここにきて家康は、信玄との対戦を決意するのである。(続く)

 

ブログ主がAIを使用して作成した地図。三方ヶ原台地を薄い水色で示している。そこまで急峻な地形ではなく、北東から南西へ向かってゆるやかに傾斜しており、標高は110~25mほどである。

浜名湖を中心とした各城と、武田・徳川勢の進撃路も記している。赤が武田勢、青がそれを追いかける徳川勢の動きである。この時点で推定される戦力は武田勢が2万3000ほど、徳川勢が1万2000ほどである。徳川勢には、織田の援軍約3000が含まれる。

遠州灘を押さえていた武田水軍であるが、流石に安宅船は喫水が深すぎて「今切の渡し」を突破できなかったろう。しかし小型の小早船なら出入りできたと思われる。堀江城を取られてしまったら、武田水軍の小早船の格好の出撃拠点になってしまう。ここで一戦しなければ、浜松城は干上がってしまうのだ。

 

 

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堀江城を支配していたのは、国衆の大澤氏である。大澤氏は浜名湖の北に張り出す庄内半島を本領とし、浜名湖水運や湖上軍事の主導権を握ることで生計を立てており、今川家領国時代には、浜名湖水運の仕切りを委任されていた。彼の所領には船関が設けられており、湖を往来する船は必ずここに接岸しなければならず、違反した場合は拿捕されることになっていた。規模は遥かに小さいが、琵琶湖における堅田と同じような立ち位置である。

家康の遠江攻めの際は粘り強く抵抗し、手こずらせている。当時の当主・大澤基胤(もとたね)は、掛川城に籠る今川氏真に最後の献策をしているが、その内容はこういうものである――「堀江周辺の知行の宛行をしてほしい。そうしたら百姓5~600人を集め、三方ヶ原を封鎖してみせます」。つまり浜名湖水運のみならず、三河からの陸路のひとつも遮断することができる、と豪語しているのである。これが実際に可能であったかはともかく、堀江城は三河と遠江をつなぐ、補給の要であったことがわかる。

なお基胤は、結局は家康に降伏するのであるが、本領は安堵され、小牧・長久手の戦いにも従軍している。江戸幕府が開かれてからは高家旗本として、公家との折衝役として幕末まで存続することになるのだ。

大澤家最後の当主・基寿(もとすみ)は、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還の上奏文を朝廷に提出している。しかし維新後に明治政府に対し、実石高が5485石しかなかったにも関わらず、開墾予定が4521石あるとして、表高1万石として過大報告。どさくさに紛れて、大名に成り上がることに成功、廃藩置県時には華族身分を得るのである。しかしこんな荒業が露見しないわけがなく、再調査により虚偽報告が発覚、基寿は士族に落とされた上、禁錮1年の処分が下されるのであった。

そんなことも影響したのか、堀江城は現存しておらず、今は浜名湖パルパルという遊園地になっている。観覧車がある場所が、本丸跡地とのこと。画像は遠鉄ホテル&リゾートのHPより転載。

 

 

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑪ 三方ヶ原の戦い(上)

 平山優氏による「新説 家康と三方ヶ原合戦 家康唯一の大敗を読み解く」という、大変興味深い本がある。この記事では平山氏の学説に則って、如何にして三方ヶ原合戦に至ったのか、また戦いがどのように推移したのかを、分かりやすく紹介してみたい。

 凄まじい勢いで、遠江を侵略していく武田勢。三河武士団も剽悍であるし、家康自身もかなりの勇将ではあるのだが、いかんせん相手が悪すぎた。相手は質量ともに優勢な武田軍であり、率いるのは古今無双の英雄・武田信玄。いわば上位互換的存在なのである。

 とはいえ座して見ているわけにはいかない。遠江は徳川家の領国となってから、まだ日が浅いのだ。このままでは国中の国衆らが武田家に靡いてしまう。実際、山家三方衆が既に山県昌景の下で、遠江侵攻の先手として参加しているのだ。戦うポーズだけでも見せなければいけない。 

 高天神城を陥落させ、西に侵攻してくる武田勢をけん制すべく、家康は浜松城から出撃する。相手の出方を見つつ、隙あらば痛手を与えるという戦略であったが、相手は信玄である。全く隙を与えてくれない。

 軽く交戦してみたところ手強い反撃にあったので、やはり撤退することにする。凄まじい勢いで追いかけてくる武田勢を混乱させるため、(自領ではあるが)見附の町に放火して足止めを図るも、迂回して追いつかれてしまう。

 この時に発生したのが、先の記事で少しだけ触れた「一言坂合戦」である。本多忠勝らの勇戦により家康は何とか逃げ延びることができたが、かなり危ないところであった。痛手を食らったのは家康の方だったのである。

 

良厳寺蔵・本多忠勝像。関ケ原合戦後に絵師に描かせた絵である。忠勝は絵師に何回もダメ出しをし、完成させるまでに7回~8回やり直しさせたと伝えられている。

「一言坂合戦」においては、殿軍を務め奮戦した。この時に詠まれた歌がかの有名な「家康に すぎたるものハふたつあり からのかしらに 本多平八」である。家康を逃がすため、一言坂の坂下という不利な態勢で陣を布きつつ撤退していたところ、裏に回りこまれ、挟みうちにあいそうになるのだ。すかさず忠勝は敵に向かって決死の突撃を敢行、見事に敵中突破を果たしたのである。

その戦いぶりに感銘を受けた、武田方の旗本近習・小松右近助が詠ったのがこの狂歌で、彼はそれを看板に書きつけ一言坂に立てたのである。如何にも江戸期の軍記物に出てきそうな創作っぽいエピソードであるが、細川忠興が息子に送った書状に書いてあるので、本当にあった出来事と見られている。

なお「からのかしら」はヤクの尾毛を重ねた兜のことで、これを被っていた三河武士の何人かが奮戦して目立っていたので、歌に詠まれた次第である。この三河武士であるが、忠勝と共に残って戦った内藤信成のことを指す、という説がある。内藤信成は、江戸期は4万石の大名にまで出世した歴戦の勇者であるが、忠勝と比べるとそこまでメジャーな存在ではない。歌に実名で登場していたら、もう少し名が残っていたかもしれない。

 

 この後、武田勢は二俣城へ進む。北から侵入していた山県昌景も本隊と合流、11月19日頃には二俣城攻略が始まっている。

 天竜川沿いにあるこの城の本丸には、川に向けて組んでいた井戸櫓があったのだが、武田勢は上流から舟を流し、これにぶつけて破壊してしまったのである。水の手を断たれてしまい、渇きに苦しんだ城方は、11月末に降伏開城してしまう。

 

二俣城近くの清瀧寺にある、復元された井戸櫓。天竜川に向かって建てられていた。水の手は複数あったようだが、本丸にはこの井戸櫓しかなかったようだ。本丸以外が落されてしまった状態で、ここが壊されてしまったので詰んでしまったのである。

天竜川沿いの地域は、商品である木材を筏に組んでの川下りが日常的に行われていた。そうした筏師には曹洞宗の信者が多く、禅宗を保護した武田氏とは相性が良かったようで、彼らを動員したものと思われている。川の民である彼らの手にかかれば、井戸櫓の破壊も容易だったろう。(なおぶつけたのではなく舟を何艘も動員し、櫓に近寄って縄を切ったという記述もある)

とはいえ櫓が壊されなくても、家康は城を救えるほど兵があったわけではないので、後巻きのなかった二俣城は遅かれ早かれ陥落していただろう。

 

 家康は浜松城において孤立しつつあった。二俣城陥落により北のルートは塞がれつつあり、残るは東海道のみ。浜松城から東海道を西に行くと、「今切の渡し」に出る。ここは本来は砂州の上を走る街道だったのだが、1498年の明応地震と1510年の大津波による高波被害で、道が崩落してしまっていた。浜名湖は遠州灘と繋がり、汽水湖になっていたのである。この時点で東海道は寸断され、今切は舟で渡る「渡し場」になっていたのだ。

 そんな情勢で遠州灘に姿を現したのが、武田水軍である。本来、武田の領国は山国がメインであって、水軍は持っていなかった。しかしここが信玄の凄いところなのであるが、駿河を併呑した際に今川水軍をも傘下に納め、これを核とし短期間で大々的に編成し直していたのである。

 例えば、伊豆の北条水軍から間宮武兵衛・造酒丞の兄弟らの引き抜きを行った他、71年には九鬼嘉隆に敗れて伊勢から追われてきた、小浜景隆ら率いる伊勢水軍を船団ごと加えている。こうして武田水軍は大型戦艦である安宅船を複数隻擁する、堂々たる水軍になっていたのである。(一方、徳川水軍は安宅船を持っていなかった)

 遠州灘の制海権は、完全に武田水軍のものになっていた。我が物顔で航海する武田水軍の船団を浜松城から遠望し、危機感を募らせる家康。浜松城の補給路は浜名湖の水運に支えられている。先に説明した通り、東海道は「今切の渡し」で寸断されていたから、武田水軍は浜名湖に侵入することも可能なのだ。

 そんな状況下で12月22日、遂に信玄率いる武田勢が二俣城より出撃、浜松城に向かって南下しつつあるという報が、家康の元に入るのである。

 そのまま浜松城を囲むかと思われたのだが、しかし信玄は欠下で急に西に進路を変え、姫街道に出て北上し始めたのである。予想外の動きに、戸惑う三河武士団。このまま籠城して様子を見るのが吉であろう。しかしここで大方の予想を裏切り、家康は出陣を決意し、武田勢を追いかけることにするのである。

 家康は勢いでも、兵力面においても、明らかに不利な立場にある。にもかかわらず彼は何故、出撃を決めたのであろうか?(続く)

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑩ 武田信玄による西上作戦

 本願寺顕如と武田信玄は親戚筋に当たる。互いの妻が姉妹なのである。京の公家・三条公頼には三姉妹がおり、長女は細川晴元へ、次女の三条の方は武田信玄へ、三女の如春尼が顕如に、それぞれ嫁いでいるのだ。

 顕如が如春尼と婚約したのは、彼女が生まれた1544年のことで、たまたま信玄が信濃侵攻を本格化させようとしていたタイミングであった。本願寺にしてみれば領国・加賀の宿敵である上杉(長尾)家と対決する方向に、義兄率いる武田家が進んでいったことになる。

 事実、武田家が信濃を北上するにつれ、上杉家と対決する姿勢を強めていく。本願寺との関係が強まったのは1565年頃で、武田・上杉間の戦いが本格化してからであった。

 さて武田家の領国内である甲斐・信濃において、本願寺系の寺はどのような力を持っていたのだろうか?

 結論から言うと、甲斐・信濃は伝統的に禅寺の力が強く、浄土真宗の勢力はさほどでもなかったようだ。本願寺系の寺もあるにはあるのだが、寺内町の存在も確認されていない。つまり武田の領国内においては、互いの利益が相反するケースが少なかったわけで、こうしたことも両者の関係性が良好だった理由のひとつだろう。

 では信玄と信長の関係性はどうであったかというと、両者は1565年頃に同盟を結んでいる。この頃、信長は美濃の斎藤攻めを、信玄は駿河の今川攻めを意識していたものと思われる。それぞれ勢力を伸長させようとする方向が異なっていたので、利害が一致したわけである。

 ただし信玄が今川家の治めていた駿河を領国化したのちは、改めて領土を接することになった徳川家とは、緊張状態に陥っていた。

 家康との仲が悪化した直接のきっかけは、天竜川左岸の領有問題である。双方言い分はあるだろうが、要するに今川家の領国の奪い合いに端を発した問題で、領国の拡大を志す戦国大名であるからには、いずれ両者は激突する運命にあったといえる。

 1570年10月、家康は信玄からの脅威に対抗するため、上杉家と同盟を結んだ。これが関係悪化の決定打となり、両家ははっきりとした敵対関係となった。2か月後には、徳川家と武田家の間で小競り合いが始まっている。

 またどうも信玄は、家康のことを信長の従属大名と見なしていたらしい。家康の行動の裏には、信長の了承があると思っていた節があり、徳川・上杉の同盟の動きに「どういうことだ!?」という怒りの書状を信長に対して送っている。

 年が明け71年末、信玄を敵対視してきた北条氏康の死により、武田・北条両家の関係性が大幅に改善、翌72年1月には新たに甲相同盟が結ばれることになった。これで東からの脅威はなくなった上、北条家と上杉家が敵対関係に転じたことで、謙信による北からの脅威度が大幅に減少したのである。ようやくにして、西に目を向けられる体制になったのだ。

 信玄が西上作戦を決めたのは、いつであろうか?これには諸説があるのだが、おそらくは72年5月より少し前、3~4月頃かと思われる。奥美濃には安養寺という本願寺のリーダー的地方寺院があるのだが、信玄は5月頃よりここと連携して、対織田戦の手はずを整え始めていることが記録から分かるのだ。

 問題は上杉家である。北条家と連携しているとはいえ、信濃方面に進出されたらたまらない。そこで信玄は顕如にお願いして、上杉家の影響下にある越中方面にて大規模な一向一揆を起こさせている。顕如にしてみれば、信玄による西上は畿内におけるパワーバランスを一転させるものであったから、喜んで応じたのである。72年5月に発生したこの一揆は、加賀一向一揆からも参陣する大規模なもので、謙信はこの対応に手一杯となった。

 万事抜かりのない信玄は、ほぼ同じタイミングで奥三河の国衆・山家三方衆に調略の手を伸ばしている。信玄の調略能力の高さは戦国でもトップクラスで、7月には三方衆は大勢として武田家に帰属する手筈になっていた。これで準備は完了である。

 9月に入り、信玄は軍勢を招集する。越中在陣中の上杉謙信はこの動きを警戒し、春日山城の防備を固めるよう指示している。信長もまさか信玄が西上してくるとは微塵も思っておらず、越後攻めのための動員だと思いこんでいた。

 ちょうどこの頃、信長は信玄と謙信の間に入って和睦の仲介に入っていたことから、信玄に対して「越後攻めは思いとどまるように」という丁寧な内容の書状を送っている。これに対し、信玄からは「了承した」という旨の書状が返ってくる。

 信玄は確かに、嘘は言っていない――この軍勢は三河・遠江に侵攻するためのものなのだから。信玄の「了承した」という返事に対し、信長は馬鹿丁寧にも謝意を伝える返事を送っている。これが10月5日のことなのだが、この時すでに武田勢は三河・遠江に進撃中だったのである。

 

68年12月、今川家を東西から挟撃した両家であるが、併合の過程で秋山信友率いる別働隊が遠江国へ干渉している。家康はこれに激怒、信玄は謝罪した上で別働隊を引かせている。どうも分割する領土の取り決めで、両家間に齟齬があったらしい。

69年5月、今度は家康が独断で今川・北条両家と和睦、信玄はこれに激怒している。両家が正式に断交したのは70年10月だが、最初から互いに不信感を抱いていたのが分かる。同盟期間は2年に満たなかった。

1枚目のこの地図だが、1572年7月、西上作戦直前の勢力図になる。青が織田・徳川家、赤が武田家の勢力圏であるが、この時点で既に山家三方衆が信玄の調略により、内応の約束をしているのが分かる。

 

西上作戦開始。まず9月29日に先発隊である山県昌景を信濃へ派遣、伊那・大島城で秋山虎繁(信友)と合流させ、別動隊を編成。この別動隊は北の青崩峠から奥三河に侵入している。

既に調略済みの山家三方衆は、予てからの密約通り、概ね軍門に下った。別動隊は10月中旬には柿本・伊平城を落とし、ここから祝田方面を盛んに侵略、三河と二俣城の間を遮断した。

信玄本隊は10月10日、駿河から大井川を渡って遠江に侵入している(本隊のルートに関しては別の説もある)。しかし家康としては、別動隊に対応するために三河の軍は動かせず、遠江国の兵力8000だけで信玄本隊に対抗するしかなかった。信玄は高天神城を囲んでこれを降伏せしめたのち、見附方面に進軍。同月22日頃、逃げる徳川軍を一言坂で捕捉し、これを撃破する。更に各地の城砦を攻略しつつ、二俣城へ進んでいく。まさしく「侵略すること火の如し」である。

更に美濃との国境にある岩村城が、10月中旬に武田方に転じている。国境の岩村城を統べる遠山氏は織田・武田家双方に属する、いわゆる両属家臣であった。同年5月に、城主の遠山景任が後継ぎが無いまま病死している。信長は実子の御坊丸を養子として遠山家に送り込んでおり、この御坊丸を次期当主に据えることに成功していた。御坊丸の後見人は景任の未亡人であり、信長の叔母である、おつやの方である。

しかしこの岩村城に対し、信玄は得意の調略をかけるのである。勢いづいた親武田派のクーデターに抗しきれず、遠山氏は武田方に転じてしまうのであった。11月14日には武田家の信濃先手衆・下条信氏が岩村城を接収している。御坊丸は甲斐に人質として送られてしまうが、驚いたことにおつやの方は、翌73年2月に信玄配下の秋山虎繁と祝言をあげ、2人は夫婦になるのである。

 

 信玄のこの行動に、信長は激怒した。信長にしては珍しいことに、大変に気を使って接していたにもかかわらず、信玄はいけしゃあしゃあと嘘をついていたことになる。以降、信長は「何があっても、二度と武田と手を組むことはない」と決心するのであった。

 なお将軍・義昭であるが、この頃には信長との仲は悪化していた。9月、信長は義昭に対して、自身の意見書である「異見十七ヶ条」を送付している。2年前に送った「五ヶ条の条書」の強化バージョンになる。

 この意見書は義昭の様々な点を批判しているのだが、要するに義昭政権では解決できない、様々なもめ事の裁定案件が信長の元に持ち込まれていることに端を発している。信長の後押しを受けて将軍位についた義昭は、主体性を以て天下の仕置きに当たりたかったのだが、実力不足、そして恣意的な裁決により問題を仕切り切れず、全ての解決方法は真の実力者である、信長が示さなければならなかったのである。

 信玄の西上作戦のタイミングと被ったこともあり、この「異見十七ヶ条」を契機に義昭は信長に対して敵に回り、信玄へ上洛要請を行った、という説が昔はあったのだが、最近は否定されている。次の記事で紹介するが、義昭が信長の敵に回るのは、もう少し後のことになるのだ。(続く)

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑨ 松永・三好勢の4月攻勢の失敗と、狭まる小谷城包囲網

 こうして激動の1571年(元亀2年)が終わり、72年(元亀3年)になった。前回・前々回の記事でも触れたが、この時点における信長と対抗勢力の勢力図を整理してみよう。

 浅井・朝倉連合軍の戦力低下は顕著であるが、この時点では信長も浅井方の本拠・小谷城を力押しできるほど戦力が整っているわけではなかった。それを邪魔する要因は2つ、まずは近江の一向一揆である。

 一向一揆は近江中に根を張っており、彼らがバックアップしているからこそ、浅井や六角といった各勢力は延命できているのである。それどころか隙あらばしばしば出撃して、こちらを悩ませてくる始末。これを根絶やしにしたいところであるが、相手は目に見えづらい存在である。戦さで叩こうにも、雲集霧散してしまう彼らを捉えるのは難しいのだ。

 実際、この年の1月には甲賀からまたも六角氏が出てきて、信長に降伏したはずの金森・三宅に立て籠っている。名目上は六角氏による占領であるが、実際には一向一揆勢が主戦力であったようだ。

 プランを立てたのも大阪御坊であって、昨年9月の川那辺秀政による、あっけない降伏が納得できなったものと思われる。両寺内町も一旦は信長に下ったとはいえ、再占領にあたっては激しい戦闘もなかったようだから、一向一揆の影響は未だ強かったということであろう。

 信長は佐久間・柴田に両寺内町を囲ませている。その際、周辺の100を越える村々に六角氏に味方しないよう、起請文を提出させている。これが有名な「元亀の起請文」である。しかし両城は前回と違ってしぶとく抵抗し、容易には降伏しない。

 こうした相手を潰すのはこの地域の社会構造そのものを、つまり生息環境を変えてしまうしかないのであるが、これは相当エネルギーを要する仕事である。信長は短気だったから、(比叡山にしたように)一気に殲滅してしまうことに躊躇いを感じるような男ではなかったが、なにしろ近江は広いし、両寺内町の守りも堅い。

 3月に入り、信長自ら北近江に向けて出陣、小谷城の近くの余呉・木ノ元近辺を放火している。浅井・朝倉の出撃を期待しての行動であったが、浅井は城から出てくる気配はない。この時、朝倉は顕如と出陣の約束をしていたにも関わらず、遠征してくることはなかった。信長の出陣は空振りに終わり、京に帰っている。

 このように浅井・朝倉が健在でいる限りは、そちらに軍事的リソースを取られてしまう。強襲するほどの余裕はなかったから、時間をかけて粘り強く攻略していくしかなかった。先の「元亀の起請文」もそうした動きの一環であり、金森・三宅両城の包囲戦は、半年ほど続くことになる。

 もうひとつの要因は、畿内における情勢である。かつては信長と同陣営であったが、今は敵に回ってしまった三好・松永連合が畿内で攻勢を続けているのである。

 かれらは反信長というよりは反義昭なのであるが、義昭の最大の後ろ盾が自身である以上、信長も対処せざるを得なかった。義昭もそれが分かっているから、わざわざ上京武者小路の屋敷地を用意して、信長に在京するための屋敷を建てさせている。後ろ盾に去られたら困るので、京都に引き留めておきたいのである。

 信長は義昭と協力して、こちらの方面の攻略も進めざるを得ない。流石に大軍を動員しての征伐はできないから、主に政略面に拠った。1月26日には三好三人衆の一人・岩成友通を離反させることに成功している。

 しかし情勢はあまり良好とはいえなかった。翌月には京において「畠山秋高と遊佐信教が、義昭を裏切りそうだ」という不穏な噂が流れている。この2人にまで裏切られてしまったら、残る味方は本当に信長しかいなくなる。義昭は慌てて両名に「三好・松永は敵だから!」という旨の書状を送り、必死で繋ぎとめるのであった。

 4月に入り、三好・松永連合による本格攻勢がいよいよ始まった。連合軍は離反しなかった畠山方の交野城を囲むと同時に、各方面に盛んに調略をかけたのである。

 摂津の伊丹親興や和田惟長が、三好方に内応するような動きを見せている。また細川昭元(晴元の子)が義昭陣営より離反し、三人衆の盟主として復帰する、という計画もあり、当時の記録を読むと、かなりいいところまで進んでいたようである。

 これをされてしまうと、義昭にとっては大ダメージなのである。細川家自体は衰退したといえども、腐っても三管領家であり、三好家にとっては本来の主筋。いわばシンボルであり、敵勢力が糾合するきっかけにもなり得るのだ。

 4月16日、信長は交野城に柴田勝家と佐久間信盛を派遣し、城を囲んでいた三好・松永勢を撃退することに成功する。こうした信長の迅速な動きもあって、一連の動きは表面化することはなかったが、仮に交野城が陥落していたならば、内応が連鎖的に発生していたかもしれない。

 実はこの時、本願寺も本格的に参戦する気満々であったらしい。同時期に大阪御坊が紀州・河内の門徒たちに対し、大規模な動員をかけていることが各種書状から確認できるのだ。同調して戦端を開くつもりだったと思われる。危ういところであったのだ。

 いずれにせよ、この4月の三好・松永勢の攻勢を凌いだことにより、畿内はしばらくの間は静かになりそうだ。近江の金森・三宅はまだ陥落していないが、包囲下にあるので、これ以上の悪さはできない。今度こそ――

 というわけで7月19日、信長は小谷城攻めのため5万という大軍を動員、岐阜を出立するのである。これは正嫡・信忠の初陣を兼ねたものであり、本気度は高かった。攻撃は徹底したもので、小谷城は城下まで焼き討ちされ、わずか2kmしか離れていない虎御前山にまで砦を築かれてしまう始末。

 浅井方には迎え撃つ戦力はないから、軽く小競り合いはしたものの、基本的には見ているだけである。28日に朝倉義景が1万5000の兵を率いて救援に駆けつけるが、織田勢は5万である。3倍上の大軍に手が出せるわけがない。

 義景は小谷城の北西にある大獄砦に陣を張り、そこから動けない。これに愛想を尽かした朝倉方の重臣・前波吉継、富田長繁らが信長に投降してしまう。

 信長にしてみれば、さっさと野戦をしてケリをつけたいのだが、こうなってしまっては、朝倉勢はますます陣に籠るばかりである。ダメもとで「決戦しようぜ!」という書状を送ってみるが、義景が応じるわけがない。

 これは出てこないな、仕方ない――ということで、信長は虎御前山砦と横山城を繋ぐライン、八相山と宮部に砦を築いて包囲網を更に強化した後、9月16日に陣を引き払い、横山城に入ることにする。しかし横山城は小谷城からわずか10kmほどしか離れていないから、いつでも出撃できる態勢にあるのだ。

 

信長の攻撃は、7月21日から始まっている。佐久間隊が小谷城下を略奪、琵琶湖からは明智光秀率いる船団が浜手を焼き討ちし、秀吉が湖畔にある支城・山本山城を攻撃している。

小谷城の目の前にある虎御前山~横山城まで砦を築いたことにより、南からのラインは完全封鎖した。あとは北からの連絡線をどうするかであるが、御覧の通り山本山城~丁野砦~小谷城のラインがあるせいで、封鎖することができないのだ。山本山城を守っているのは浅井家重臣・阿閉貞征(あつじさだゆき)で、秀吉の猛攻をよく持ちこたえている。

 

 7月には、三宅・金森がついに降伏開城している。両寺内町は、これ以降は完全に本願寺の影響下から離れてしまうのだ。近江の一向一揆を構成する江北十寺は未だ健在といえども、反信長陣営は一手一手追い詰められている状況である。

 この不利な情勢を、ここから逆転できる手はあるのだろうか?――それがあるのだ!甲斐の武田信玄の存在である。

 謙信と並ぶ戦国最強の男が、精鋭を率いて遂に西上してきたのである。(続く)

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑧ 大阪~加賀間の連絡線を遮断する信長、対決姿勢を強める顕如

 時計の針を少し戻して「比叡山焼き討ち」の少し前、5月頃の近畿の情勢を見てみよう。この頃、大阪では大きな動きはない。しかし大阪以外の摂津・河内・大和方面においては、パワーバランスが大きく変動していた。実はこの年の春頃、大和の松永久秀と河内の三好義継が、信長陣営から離反していたのである。

 前記事で紹介した「箕浦の戦い」があった6日後の71年5月11日、松永久秀は同じ信長与党であった畠山秋高の重臣・安見右近を、奈良の「西新屋小屋」に呼び出し自刃させた上、主のいなくなった河内・交野城を攻めたのである(城は落城せず)。

 久秀のこの離反に呼応したのだろう、三好義継も三好三人衆と和睦し(これにより、4年ぶりに三好一族の再結集が成った)、6月には松永・三好連合軍が畠山秋高の本拠地・高屋城を攻めている。慌てた義昭は、配下の和田惟政に摂津にある久秀方の吹田城を、けん制のために攻略させている。

 松永久秀は何故、離反したのだろうか?これは信長に反目したというよりも、義昭に反逆したとみる方が正しいようだ。裏には久秀のライバル・筒井順慶の存在がある。義昭は筒井家を味方に引き込むために順慶に養女を嫁がせようとしたのであるが、これは久秀にとって決して容認できない縁談であった。順慶とは大和を巡って争いを続けてきた、不倶戴天の宿敵なのである。

 こうして摂津・河内・大和方面において、義昭陣営と三好・松永連合との間で戦端が開かれたのである。8月4日には、義昭与党の筒井順慶が松永の支配下にあった、かつての本拠地・筒井城の奪回に成功する。

 しかし同月24日に発生した「白井河原の戦い」においては、幕臣の和田惟政が三好方に討ち取られてしまう。また10月には松永勢が山城国に攻め込むなど、京周辺で一進一退の激しい戦いが繰り広げられたのであった。

 この間、大阪の顕如は何をしていたかというと、前から決まっていた息子・教如と、朝倉義景との娘との婚姻が予定通り6月に行われたほかは、ひたすら大阪の守りを固めていたようである。この時期、大阪⇔加賀の間で兵員や物資が盛んに行き来していたようだ。

 そんなわけで71年の秋から冬にかけて、周りの戦乱をよそに大阪周辺は平穏であったのだが、12月になって激震が走る。この時点の本願寺執行部は、下間一族から選出された3人の実力者を側近とする「奏者三人制」が確立されていたのであるが、うち筆頭坊官と見なされていた下間頼総(らいそう)が突如大阪より追放され、その直後に殺害されるという事件が起きたのである。

 この事件に関しては謎が多く、真相は明らかになっていない。ただヒントは幾つかある。以下はブログ主の推測である――頼総の追放時、大阪では同時に川那辺秀政が殺害されている。彼は半年前の5月、信長による金森包囲戦で、あっけなく降伏して逃げ帰った現地指揮官なのである。

 こうした文脈から考えると、考えられる可能性は2つある。ひとつは先の信長との戦いを総括した結果、責を負わされたということ。川那辺秀政はわざわざ大阪から金森へ送り込まれたにも関わらず、戦わずにあっけなく降伏したということで、処分されたと思われるのだが、実は頼総も相当大きな失態をしでかしており、戦後の調査でそれが明らかになった、ということかもしれない。

 

守山から琵琶南岸の志那港へと至る、志那街道沿いに位置する金森は、物流の拠点として古くから栄えており、土豪の川那辺氏の影響下にあった。元々、天台宗の勢力が強い地域であったが、14世紀に川那辺厚春が本願寺に帰依したことがきっかけで、徐々に浄土真宗の影響力が強くなっていく。厚春の子の在貞が金森道場を開き、孫の道西が蓮如に出会い心酔、以降は本願寺の老衆(幹部)として、蓮如の危機を何度も救うことになるのだ。

道西は、金森の町に土塁と堀を整備することで、いわゆる寺内町を完成させている。史上初の一向一揆・金森一揆の際に、この防備が間に合っていたかどうかは分からないのだが、もしあったとしたら敵の攻撃を撃退したのはそのおかげであり、攻め手の大将・日乗坊まで討ち取っているのだ。画像は江戸期に描かれた「金森村絵図」。現在は殆ど残っていない、寺内町を囲む土塁や堀の痕跡を見ることができる。

顕如の時代においても、川那辺一族は金森の有力な一族として君臨していたものと思われる。処刑された秀政は、そもそもは一族から大阪に送り込まれた若衆で、普段は奉公衆のような形で顕如に仕えていたのではないだろうか。

そんな彼が信長の侵攻が近いということで、生まれ故郷の金森防衛を任されたのは自然な流れであったといえる。しかし統率力不足で金森を仕切れずあっけなく降伏、自身は大阪に逃げ帰る、という失態を晒してしまったため、責めを負わされたものと思われる。

 

 もうひとつの可能性として挙げられるのは、本願寺はこの時期に信長に対してはっきりと敵対する肚を決めたのだが、本来は武闘派であったはずの頼総が考えを改め、和睦を勧めるような動きを寺内において見せていた、ということである。

 実は事件が起こる1か月前の11月頃より、信長は大阪~北陸間を移動する、全ての商人や旅人の身柄を拘束する命令を出している。加賀と大阪御坊の連絡線は、本願寺にとって領国間を繋ぐ最重要の補給ラインであるから、大阪はこの遮断を重大な敵対行為と見なしたのである。

 実際、信長のこの動きを受けてのことだろう、11月から本願寺と浅井・朝倉間を行き来する使者の数が急に増しているのだ。内容も信長に対する軍事的な連携に関するものである。

 そもそも9月の「比叡山焼き討ち」が、大阪御坊に対して与えた影響は大きかっただろう。延暦寺と本願寺が敵だったのは昔のこと、本願寺も比叡山と同格の勅願寺になり、共に京の上流階級を構成するメンバーになっていた。近江に多くの利権を持つ両者でもあったが、この時代にはうまく棲み分けが出来ていたようである。

 その比叡山延暦寺があっけなく滅亡、有していた寺領や利権の悉くが奪われてしまった。11月の信長の交通遮断の動きを受けて、顕如は「次はいよいよ大阪の番だ」と覚悟したのではないだろうか。

 真相は分からないが、いずれにしても下間頼総は殺害され、その後釜には同じ一族である頼照が入り、新しい「奏者三人体制」は、頼廉・頼資・頼照の3人となった。筆頭坊官の座には下間頼廉(らいれん)が就くことになり、以降本願寺はこの頼廉を総司令官として、信長と戦っていくことになるのだ。(続く)

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑦ 奮闘する各地の一向一揆と、比叡山焼き討ち

 1570年11月から12月にかけて、信長と反信長で結集した各勢力との間で、一時的な休戦協定が結ばれた。だが前記事で触れたように、願証寺を中心とした伊勢一向一揆がこの時に信長と休戦したかどうかは定かではない。互いに兵を引いて、単に戦闘が行われていない状態だったのかもしれない。

 ちなみに北近江で対峙が続く信長・浅井間においては、戦いがすぐに再開されている。翌71年2月には、佐和山城に籠っていた浅井家重臣・磯野員昌が長引く包囲に耐え切れず、信長に降伏開城してしまう。

 浅井勢はこのままではジリ貧だ。5月6日、形勢を逆転させんと浅井勢が小谷城から出撃、5000の兵で鎌刃城を攻めるのである。これは思い切った一手であったが、横山城から出撃した秀吉の迎撃により、攻撃は失敗している。この時、秀吉は約十倍の敵と戦って敗走させたと伝えられている。

 

この「箕浦の戦い」は案外地味で知らない人も多いのだが、浅井家がなけなしの力を振り絞って行った、最後の大規模攻勢なのである。まず浅井長政率いる本隊が横山城の近くまで出撃、陣を布いた。だがこれは牽制で、本命は横山城の南7kmほどにあった鎌刃城である。鎌刃城には、かつては浅井方であった堀秀村・樋口直房らが駐屯していた。この鎌刃城攻撃隊5000を率いるのは、一門衆の浅井井規(いのり)であった。

 

鎌刃城が攻撃されたという報を聞いた秀吉は、横山城の留守を竹中半兵衛に任せ、わずか100の手勢のみで鎌刃城へ向かう。浅井本隊に見られないように夜半、裏から山裾を回ったようだ。そこで堀・樋口らの手勢と合流、わずか500~600の兵で箕浦にいた、浅井の陣に襲い掛かったのである。

 

相手は10倍の兵であったが、まさか攻撃されるとは思っていなかったようで、秀吉はこれを散々に切り崩してしまう。湖伝いに退却した浅井勢は、ようやく八幡の辺りで体制を整えて反撃を試みるが、強襲を続ける秀吉に討ち破られ、小谷城へ逃げ込むしかなかった。

一方、秀吉不在の竹中半兵衛が守る横山城には、浅井本隊が攻撃を仕掛けている。しかし主力を温存していたおかげで、こちらも持ちこたえている。

作戦は手痛い失敗に終わり、これ以降、浅井家は小谷城に引きこもることになる。それにしてもわずか100の手勢で飛び出した秀吉の度胸の良さと奮闘ぶり、彼のベストバウトかもしれない。もっと注目されていい戦いだといえる。

 

 この手痛い敗戦により、浅井は当分の間は大人しくしているだろう。また突出した形で残っていた佐和山城が陥落したことにより、戦線が整理され戦力の抽出も可能になった。信長は早速、北伊勢への出陣を決める。動員兵力は5万という大軍であった。

 5月12日、信長自身は津島に本陣を置き、尾張衆を中核とした佐久間信盛軍団が中筋口から、美濃衆を中核にした柴田勝家軍団が大田口から、二方面から北伊勢に攻め入ったのである。

 ただこの時の、信長の本気度が今ひとつ分からないのである。信長は伊勢に攻めいった翌13日に家康に、更にその3日後の16日には、大舘上総介に同じ内容の書状を送っている。内容はこうである――「長島の一揆の奴らが方々に立て籠っていたので、攻め殺す予定であったが、いろいろと詫び言を言ってきたので、赦免することにした」。

 どうも伊勢一向一揆は、信長が軍を動かし伊勢に攻め入る前から、和睦の動きを見せていたようだ。信長にしても、伊勢一向一揆との間で未だ休戦協定が結ばれていなかったとするならば、このあたりで正式な休戦協定を結びたい、という動機があったのかもしれない。

 つまりこの戦役は、軍事的な示威行動に近い作戦だった可能性があるのだ。だとすると12日に攻め入った信長が、翌13日に家康に宛てた書状に、「赦免」という言葉を使用した理由も納得できるのである。

 しかしながら16日(この日は大舘上総介に、同じ内容の書状を送った日でもあるのだが)、一揆勢が突如攻撃を仕掛けてきたのである。

 おそらく和睦に向けての話し合いが行われ、ある程度は条件が折り合っていたものと思われる。少なくとも信長はそう判断していたのだろう。織田勢は在所を放火しつつ、伊勢から撤退を始めていたところであった。

 完全に油断していた織田勢に、一揆勢が奇襲に近い形で襲い掛かったのである。この猛攻で、織田勢の殿軍を務めていた柴田勝家が負傷、更に氏家卜全が討ち死にしている。

 激怒した信長は、ここで初めて伊勢一向一揆の殲滅を決意したのであった。

 伊勢と国境を接する美濃においては、未だ一向宗の影響力が強かったようだ。西美濃の国衆・高木貞久の配下には、一揆衆に通じている者たちが何人かいたようで、信長は配下の武将・猪子高就に一揆に通じている者たちの成敗を命じ、また美濃における一揆勢探索とその殲滅を命じている。1か月後の6月下旬、猪子は実際に一揆勢の首を幾つか信長の元に届けている。

 この頃、大阪御坊と信長与党勢力との間では、大きな動きはなかった。だが伊勢に限らず各地の一向一揆たちは、それぞれの立場で奮戦していたようだ。

 先に紹介した「箕浦の戦い」で、浅井勢は5000もの兵を動員しているが、実はこれには江北の一向一揆が参戦していたことが分かっている。しかもこの時の戦いでは、一揆勢がかなりの割合を占めていたものと思われるのだ。

 その証拠に戦いの4日後の5月10日、江北十ヶ寺から大阪御坊の下間正秀に送った書状には「戦さの際の先陣は、常に一揆勢に任されている。大変迷惑なことで、浅井長政に対して、大阪から交代してもらうように言ってほしい」と書かれている。つまり先の「箕浦の戦い」においても、一揆勢が先鋒を務めていたようなのである。

 また「朝倉勢の動きが緩慢なせいで、国侍たちが転向しつつある」とも文句を言っている。北近江の対織田戦線においては、いつしか一向一揆勢が主力になっていたことが分かるのだ。

 だが情勢は徐々に、信長にとって有利になっていく。9月1日、信長は佐久間・柴田らの諸将に南近江神崎郡の国衆である、小川祐忠・志村筑後守を攻めさせている。六角氏に通じていたこの2人は、未だ信長に対して反抗していたのである。志村城はあっという間に陥落、討ち取った首級は670、ほぼ皆殺しだったようだ。これを見た小川城は人質を出して、戦わずして降伏してしまう。

 両城を陥落させた後、信長は湖南にある寺内町・金森を攻めさせた。金森は蓮如存命時に史上初の一向一揆が起きた場所であり、南近江の最重要の一揆拠点であった。

 ここには大阪御坊から川那辺秀政が派遣されて指揮を執っていたが、志村城の惨劇を目の当たりにした川那辺は、人質を出しあっさり降伏してしまう。この川那辺は古くから金森を統べていた一族でもあるから(蓮如を支えた金森の道西も、この川那辺一族であった)、寺内町の常で最終的には降伏するのである。

 こうして南近江を平定した信長は11日、軍を南に進め三井寺まで到達する。多くの人は、信長はこのまま京に帰還すると思っていたようだ。しかし翌12日朝、信長は突如、軍を坂本まで北上させたのである。

 信長勢3万は坂本に乱入、火を放った。小雨が降っていたにも関わらず、町は全焼。かつて「強訴」で朝廷を震え上がらせた、叡山の権威の象徴であるあの神輿も、この時に燃えてしまっている。悪名高い、信長による「比叡山焼き討ち」の始まりである。

 山上に駆け上がった織田勢は、東塔から横川にかけて放火。この時、根本中堂・大講堂をはじめとした多くの伽藍が炎上してしまう。山上における焼き討ち・殺戮は15日まで続いたようだ。「言継卿記」には3000~4000、「年代記抄節」には1600の僧が殺された、とある。

 こうして古代より中世にかけて、大きな勢力を誇っていた比叡山は、一旦は滅んでしまったのである。

 延暦寺・日吉神社が持っていた寺領・社領のことごとくが没収され、江南に配置していた明智光秀・柴田勝家・佐久間信盛・中川重政らの諸将に配分された。織田家による、近江支配体制がこうして始まったのである。(続く)

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑥ 大阪御坊が和睦したにもかかわらず、伊勢一向一揆はなぜ戦い続けたのか?

前記事で述べた通りだとすると、本願寺首脳部としては9月23日に信長が大阪より軍を返した瞬間、「大阪本願寺から脅威を取り除く」という目標を達成したことになる。

実際に和睦したのは11月上旬ではあるが、9月下旬から10月にかけては、戦さの帰趨を見極めていたのであろう。阿波三好勢の摂津上陸もあったし、うまくいけば信長に更なるダメージを与えられるかもしれず、そうなってくれれば一番いいのだ。

しかしそうはならず「志賀の陣」は長期化してしまう。南近江の一揆も概ね鎮まってしまった。六角親子は頼りにならないし、三好勢の動きも今ひとつだ。ならばこれ以上粘っても仕方がないので信長との和睦に応じた、ということになる。顕如のこの判断がきっかけとなって、ドミノ倒しのように六角と三好も信長との和睦を結ぶことになったのであった。

しかしながら、ここでひとつ引っ掛かることがある。

顕如は9月12日の蜂起前より、近隣の門徒に開戦準備を呼びかけている。過去記事でも触れたが、ブログ主的には顕如が開戦を決意したのが8月23日前後、そこから急いで各地に書状を送ったのではないかと推測している。

そして12日の開戦以降、門徒らは顕如の蜂起指令に忠実に応え、各地で一向一揆が発生することになる。伊勢一向一揆もこの時に蜂起しているわけだが、伊勢での一揆の中心となったのは長島御坊こと、願証寺であった。

願証寺は河川が複雑に入り組んだ、南郷の地にあった。証如の時代の本願寺の最高権力者・蓮淳(顕如の曽祖父にもあたる)が建立した寺であるから、かなりの力を持っていた。この時の願証寺4世は蓮淳の血を引く、証意という男である。本願寺も伊勢一向一揆の戦力には期待していたようで、下間一族の坊官、下間頼旦(らいたん)・頼成らを大阪から派遣し、指揮に当たらせている。

 

国土交通省のHPにあった江戸時代の伊勢長島の地図に、願証寺・小木江城・桑名城の位置を当てはめて加工したもの。この時点で既に戦国時代とは地形が変わってしまっているので、位置はおおよその推定である。明治の治水工事によって流れが更に大きく変わってしまったため、願証寺があったところは長良川の底に沈んでしまっている。(寺自体は移転)

願証寺は木曽川・長良川・揖斐川の流域で生活する人々の信仰を集め、1530年頃には伊勢のみならず、尾張・三河を加えた3か国の門徒を束ねる立場にまでなっていた。ただ織田・松平家による一向一揆弾圧で、1570年時点では両国における影響力は失われていた。しかし伊勢における影響力の強さは健在で、また弾圧により追放された尾張と三河の門徒勢力をも吸収していたせいで、侮れない戦力を持っていた。

河川に囲まれたこの地は、当時「河内(かわうち)」と呼ばれ、地形的な要因もあり北畠氏など地域の大名の介入を拒み続けてきた。北畠氏は69年には信長の軍門に下ったが、願証寺を中心とする「河内」は未だ信長の力に屈してはいなかったのである。

 

 蜂起した伊勢一向一揆は、まずは西の桑名にいた滝川一益と戦っていたようだ。その後、木曽川を越えて東の尾張・小木江城を攻めている。一揆勢の猛攻を受けた結果、天守閣に追い詰められた織田信興が自害したのが11月21日のことである。

 しかし前述したように、11月上旬には大阪において本寺は信長と和睦しているのである。本寺の意向に関わらず、伊勢一向一揆は戦いを続けていることになる。これをどう説明すべきであろうか?

 大阪御坊の基本的な考え方は次のようなものになる――領国を跨って存在する各地の門徒や寺内町は、門主のいる大阪の「正統な命令」に服する必要がある。ただし住民はどこであっても、その地を支配する守護や大名の意向に従うのが原則であるからには、大阪御坊として「必要以上」に現地に介入することはない――

 門徒であろうと、住んでいる地域の大名の年貢徴収や動員に従うのが当たり前で、そうするべしと実際に指導しているのだ。ただ大阪や加賀の地は、他でもない本願寺の領国であるから、同ルールが適用される。だからこの2つには手を出すなよ――というわけである。このように本願寺は、領国である「加賀・大阪」と各地の寺内町とを、はっきり別物として捉えていた。

 ただし門徒らは、門主の「正統な権利」に基づく命には服してもらう。ここでいう「正統な権利」は何かというと、例えば本寺が行う「献金要請」や「兵力の提供要請」である。これは各地域の門徒や寺内町が、門主の呼びかけに対して各々の信仰心に基づいて自主的に行っていることであるから、別に地域の大名の権利を侵害することにはならない、というロジックなのである。

 ただ大名にしてみれば、領民の限られたリソースを本願寺のために使われてしまうわけで、迷惑極まりない話ではあるのだ。まあそれでも百歩譲って「正統な命令」、これはいいとしよう。では門主の「一揆蜂起指令」はどうなのであろうか?これは果たして「正統な呼びかけ」といえるのであろうか?

 本願寺の(都合の良い)ルールとして、「仏法に関わる戦いは、別に考える」というものがある。つまり親鸞の教えを唯一正しく伝える尊い教団、本願寺そのものが危機の時は、特別ルールが適用されるのである。それが門主が呼びかける「法敵退治のための戦い」である。

 しかしこの「法敵」を決めるのは門主の解釈次第であり、極めて恣意的な運用なのである。典型例として挙げられるのが、実如が細川政元の要請に応じて蜂起させた「永正三年の錯乱」、そして証如が細川晴元と組んで蜂起させた「天正の錯乱」である。両ケースとも本願寺が危機に陥っていたわけではなく、純粋に政治的な動機で発生させた一揆であった。

 ともあれ「法敵退治のための戦い」と認定された場合、各地の門徒たちは大阪の指示に従って蜂起、法敵との戦さに駆り出されることになる。

 翻って、指令を受ける各地の門徒たちの目線から見てみよう。

 門徒たちがこうした要請に従う動機のひとつとして、信仰心は勿論あるだろう。特に本願寺門主は度々「命に従わなければ、破門する」と脅していたから、個々が持つ信仰心(恐怖心)に強く訴えかけたのである。しかしそれがメインの動機であったとは考えづらい。

 何よりも大事なのは門徒たちにとって、教団は現地における己の既得権益を担保してくれる存在であった、ということである。過去記事で触れたように、寺内町は「大阪並」と呼ばれる特権を有していた。寺内町に住む住人は、その恩恵に授かっていたのである。教団に属することが、生きるうえで一体のものになっているから、システムの末端に連なる者として、これを守るために蜂起命令に従うのは当然なことだったのである。

 しかしながら蜂起命令を受ける方も馬鹿ではない。上記で述べた「法敵認定」の裏事情を分かっているから、門徒らは自分に都合のいいように解釈して命を受ける傾向にあった。一向一揆は権益を拡大させるチャンスでもあるのだ。

 つまりは各地の一向一揆勢は、地域によってまた立ち位置によって、それぞれ守るべきものや求めるものが異なっていた、ということになる。そうなると一揆の参加者全員が、一括で満足するような条件で和睦を結ぶのは極めて難しいことになる。

 大阪御坊が信長と和睦した際の条件は定かではない。その内容はあくまでも、顕如の領国である大阪御坊を守るためのものでしかなく、各地の門徒たちが求める権益を置き去りにしたものであったのではないだろうか。

 顕如は各地の一揆勢に向けて「大阪は和睦が成った、ゆえに矛を納めるように」という指令くらいは送っただろう。しかし和睦条件が上記のようなものであるとするならば、例えば伊勢における一向一揆を統括する立場の願証寺としては、大阪がどうあれ、自分たちのために戦い続けるしか選択肢はなかったのである。(もしかしたら大阪から派遣されてきた下間頼旦・頼成らは、この時に引き上げたのかもしれない)

 これは近江の寺内町にも当てはまる。「志賀の陣」の浅井・朝倉勢には、近江の一揆勢も有形無形の形で参戦していたが、彼らも引き続き戦うしかなかった。顕如が和睦を結んだ1か月後の12月3日、本願寺家老・下間頼総が北近江の一揆勢に対して「小木江城陥落、そして堅田における勝利は喜ばしいことだ。門主(顕如)には報告済で、感激しておられる」旨の書状を送っている。褒めるだけならタダなわけで、自分はもう戦っていないから気楽なものである。

 まとめるとこういうことになる――本願寺からの指令で蜂起した各地の一向一揆であるが、地域ごとに異なる政治的・経済的利害が存在し、それぞれが求める利権は異なっていた。一揆勢はこのように異なる動機で蜂起していたから、全員を満足させる和睦条件を相手に飲ませることは不可能なのである。なので指令元である大阪御坊は、領国である大阪を主体とした条件で和睦を結ぶしかなかった。残された各地の一向一揆勢は、各々が求める目標に向かって戦い続けるしかなかったのである。

 各地に「火をつけろ」と命じるけれど、消火は各々自己責任で・・・というわけで、随分と無責任な感じに見える。ただ逆もまた然りで、大阪の意向に関わらず寺内町が勝手に手打ちしてしまうケースも多々見られた。

 68年に上洛してから、信長は富田・郡山・尼崎・枚方など、数多くの本願寺系寺内町を制圧している。どれも信長に追い込まれ、最終的には屈服しているのだが、究極的に守るべきは「信仰・既得権益・生計」ではなくて、やはり「自分たちの命」なのである。信長と斎藤道三が会合したことで知られる、尾張にあった本願寺末寺・聖徳寺に至っては、そもそも70年の顕如の一揆蜂起指令に従ってすらいない。

 各地の寺内町や末寺と大阪本願寺の関係性は、こうしたドライな側面を持っていたのである。

 なお「志賀の陣」休戦協定を結んだ前後に、願証寺と伊勢一向一揆が信長と和睦したかは分からない。小木江城が陥落した後、両者の間では正式な和睦は結ばれず、単に戦闘が行われていなかった、非交戦状態であった可能性がある。(続く)

 

伊勢長島は地図で見る通り、川で囲まれた多くの「河中(輪中)」が存在し、人々はその中に住んでいた。洪水が起こると、田畑のみならず人も流されてしまうのである。そこで江戸時代になって、幕府による治水工事が計画された。これを「宝暦治水」と呼ぶのだが、この難工事に薩摩藩が駆り出されるのである。

歴史漫画の超名作かつ大作「風雲児たち」の3~4巻に、独立的なエピソードとしてこの宝暦治水の話が載っている。そこだけでも読んでみて気に入ったなら、全巻読破をお勧めする。シリーズそのものは、残念ながら作者・みなもと太郎氏の死により未完に終わっているが・・・

なお「この漫画に学術的な価値はあるか」と問われたら、「そういう面は少ない」と答えるしかない。しかしながら、それでもなお読む価値がある漫画なのだ。日本の歴史の「雰囲気」を(一側面でしかないかもしれないが)、これほどまでに面白く・楽しく伝えた作品を、ブログ主は他に知らない。そういう意味では奇跡の漫画なのである。全国の小・中・高校の図書館に置くべきであろう。

 

宝暦治水伝 波闘

宝暦治水伝 波闘

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ふひとべのべ (id:fuhitobeno2110)様に教えていただきました。宝暦治水のEPのみ収録された別冊バージョンになります。

 

同じく宝暦治水を描いた別の漫画。こちらも名作である。作者は時代劇の大御所・平田弘史氏。工事期間中に病死した薩摩藩藩士が33名、しかしながら切腹者は51名という説があるが、この漫画はその説に基づいて描かれたものだ。凄まじい内容で、胸を打つこと間違いなし。

 

本願寺の興亡 信長死闘編~その⑤ 「志賀の陣」において、真っ先に講和に応じていた顕如

 「志賀の陣」において、反信長戦線を構成していた主力は「三好三人衆」「大阪御坊(本願寺)」「六角氏」「浅井氏」「朝倉氏」の5つの勢力である。

 この中で最も弱いのは六角氏で、11月中旬には南近江から駆逐され、にっちもさっもいかなくなって講和に応じてしまう羽目になったのは、前記事で言及した通り。

 しかし実のところ本願寺はそれより早く、遅くとも11月12日より前には、信長と和睦していたようなのである。

 奈良・興福寺大乗院門跡にして別当でもある、尋憲という高僧がいる。彼は関白であった二条尹房の子でもあったから、中央政界と強いコネクションを持っていた。尋憲は1562年から77年まで15年間に渡って「尋憲記」という日記を残しており、これは信頼度の高い一次史料として知られている。

 その「尋憲記」、1570年11月12日の条にはこうある――「三好三人衆と信長が、松永久秀の仲介によって和睦するという噂がある。また大阪の仲介により、阿波勢も信長と和睦するとのことである」

 阿波の三好勢と信長との和睦仲介に入っている、この「大阪」であるが、どう考えても本願寺以外にはあり得ないのである。つまり本願寺はこの時点で既に信長と和睦済みで、第三者として中立的な立場から阿波勢と信長との間に立ち、交渉の窓口になっている、ということになる。

 顕如は、いつの間に信長と和睦を結んだのであろうか?

 まだ貧乏だったころ、本願寺の本寺は青蓮院であった。そうした繋がりで本願寺が大きくなってからも、両寺の関係性は深いものがあった。その青蓮院に残されている「青蓮院文書」1570年10月30日の条にはこうある――「本願寺本所である青蓮院の門跡朝法親王より、本願寺へ和睦を勧めた」。顕如はこの時に和睦を結んだのであろうか?

 実は顕如は、これに対する返答を青蓮院にしていることが、別の記録である「顕如上人文案」から分かっている。ただし内容としては丁寧に礼を述べていることが分かるだけで、顕如がどういう答えを出したかは不明なのである。

 ただ前述した通り、大阪御坊(顕如)が11月12日には阿波勢と信長の間に入って、和睦の仲介をしている事実があることから、恐らくは11月1日~10日あたりの10日間のどこか、11月初旬には和睦を結んでいた可能性が高いのである。大阪本願寺が信長に戦いを挑んだのが9月12日、和睦に応じたのが11月10日と仮定すると、実質戦っていたのは僅か2か月ということになるのだ。

 

「志賀の陣」における主なイベントと、和睦に至るまでの経緯を時系列に並べた。濃い青が本願寺、細い青がその他の勢力の行った和睦交渉である。本願寺が真っ先に和睦に応じていることが分かる。

なお「尋憲記」には「三好三人衆」「阿波三好勢」が、信長と別々に和平交渉をしている旨が記載されている。つまりは、それぞれ異なる動機で反信長戦線に参加しているから、和睦の条件も異なるわけだ。同じ三好勢でも、ひとくくりのものとして考えてはいけないのだ。信長にしてみれば、各勢力を様々な手段で各個撃破していけばいいわけである。

 

 次の問いに移ろう――顕如はなぜ大阪から京に出撃せず、信長を挟み撃ちにしなかったのだろうか?なぜ早々と諦めて、早期講和を結んだのだろうか?

 ブログ主が考えるに、理由は主に2つあるだろう。まず1つめ。顕如は信長に対して戦いを挑んだのであって、義昭に対しては敵対するつもりがなかったということ。

 門跡であり、京の上流階級の一員である義昭と顕如の関係性は、本来は良好なものであった。にもかかわらず敵対してしまったのは信長のせいである、というのが顕如の基本的な認識なのである。

 三好三人衆が籠る野田・福島砦攻めは、義昭による親征という形をとっていた。参加した大名の数は多く、うち信長は最大兵力を提供しており大将格ではあったが、形としては招集に応じた、一大名に過ぎない。顕如にしてみれば、信長は三好攻めのどさくさに紛れて「親征軍を独断で大阪攻めに転用しようとしている」わけで、つまりは「義昭は信長に騙されている」というスタンスなのである。

 顕如の気持ちとしては「君側の奸を除く」に近い感じだったのかもしれない。大阪で発生した一連の戦闘で、本願寺勢は義昭直臣の野村備中守を討ってしまっている。だがこれは軍勢を大阪から退かせるために戦った結果、たまたま義昭の直臣を討ってしまっただけであり、決して義昭が憎くて戦っているわけではない。主敵は信長であって義昭ではないのだ。

 信長が大阪から京に退却する際は、義昭も一緒に退却しているが、大阪から積極的な追撃がなされなかった理由として、こういうことも影響していたのかもしれない。

 そんな顕如からしてみると、将軍御所のある京を攻める=義昭に対して正面から戦いを挑む、ということになってしまう。だから大阪から軍を出す、という選択肢は取れなかったのである。

 2つめ。仮に京に進撃しようとしたとしても、京にはその備えが充分にあったのではないかということ。

 そうはいっても状況次第では、京に進撃する可能性はゼロではなかっただろう。顕如を含む本願寺首脳部は、取りうる戦略のひとつとして「仮に京に攻め入ったらどうなるか」という議論を俎上にあげていたはずだ。しかし検討した結果、「この勝ち筋はない」という判断をしたのではないだろうか。

 三好攻めの際に6万いた軍勢のうち、半数の3万は将軍・義昭旗下の軍勢と、松永久秀・三好義嗣・畠山秋高ら畿内の大名たちが動員した軍勢である。彼らは義昭の命に応じて三好攻めに参戦したのであって、信長の私戦に近い浅井・朝倉との戦いに応じる義務はなかった。なので「志賀の陣」には参加していない。

 しかし仮に、三好・大阪連合軍が京を攻めるとなると話は変わってくる。京の将軍御所を守るため、彼らは間違いなく参戦してくるはずなのである。それぞれが動員した軍は解散しておらず、畿内の要所に待機したままだったと思われる。

 実際「志賀の陣」の最中に、義昭に遠慮がない三好勢は単独で河内国に侵攻しているが、畠山秋高が籠る高屋城で食い止められている。また山城国・御牧城にも侵攻しているが、こちらは義昭の直臣である和田惟正により撃退されている。更に後方の大和には、松永久秀勢が予備兵力として備えているのだ。

 つまり比叡山包囲中の信長の3万とは別に、義昭を守る約3万の軍勢が畿内各所に駐留しているわけで、侵攻に対する備えは十分にあったということになる。

 まとめると、こういうことになる――「志賀の陣」の信長を倒す最適解は、大阪本願寺が三好勢と共に出撃して、坂本にいる信長を挟み撃ちにすることである。そのためには京に進撃する必要があった。しかしそれは、正面きって将軍・足利義昭と敵対することを意味する。

 顕如には、最初からその意思はなかった。(浅井・朝倉・一揆連合軍が坂本まで進撃しつつも、遅々として京へ軍を進まなかったのも同じ理由かもしれない)また仮に京に向けて軍を進めていたとしても、松永久秀・畠山秋高らが各地に控えていたわけで、三好・本願寺連合軍の戦力では勝ち目は薄かった、ということだろう。

 そもそも顕如の狙いは「大阪への直接的脅威を取り除くこと」であって「打倒信長」ではなかった。9月23日に信長が大阪から軍を引いたことで、顕如の最大の目的は達したわけである。

 そう考えると「志賀の陣」における信長の危機は、巷間伝えられているほどのものではなかったかもしれない。

 信長が義昭を旗印として掲げている限り、かなりの政治的メリットと戦略的優位性を享受することが可能となるわけで、この時の信長はそれを最大限に利用していたと言える。(続く)