根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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室町期の仏教について~その⑭ 備前国に出現した「王仏冥合」 備前法華一揆とは

 京に法華宗をもたらしたのは日像で、彼の門流を四条門流という。四条門流を継いだのが公家出身の大覚で、彼はその人脈を最大限に活用し、精力的な布教を続けた。この四条門流の始めとした法華宗各派は「応仁の乱」以降、その勢力を大きく後退させた他宗派(特に禅宗)のニッチを埋めるかのように、洛中において次々と巨大寺院を建立していく。

 その最盛期は1530年代である。一向一揆畿内を暴れまわった混乱に乗じ、京は完全に法華宗徒らの手に落ちたのだ。町衆=法華宗徒らによる軍隊が組織され、「洛中洛外のご政道」つまりは警察・治安維持活動、そして刑事裁判権までを彼らが行っていたことが記録に残っている。

 

「天文法華の乱」についての記事は、この記事から始まる一連のシリーズを参照。京の長い歴史の中で町衆らによる自治が達成した、唯一無二の瞬間である。

 

 ただ法華宗徒が京を掌握していた期間は短かったから(1534~36年まで)、彼ら「衆会(しゅうえ)の衆」による宗教的な政策が実地されるまではいかなかった。もう少し時間があったなら、法華宗の教義に則った政策が京において実地されていたかもわからない。

 だが実際に法華宗が地域の権力者を祈伏することに成功し、半世紀以上にも渡って手厚く信仰された結果、法華宗の目指すところである「仏法と王法が一致する王仏冥合」が限りなく実現した地域があるのだ。あまり知られていないが、今回の記事では、この例を紹介したい。

 さて前述した四条門流の大覚であるが、彼の布教は京近辺だけに留まるものではなく、1333年から34年にかけて備前・備中・備後の三備地方にも赴いている。

 大覚は備前国西部の三野郡にあった、真言宗の福輪寺を釈伏してここを法華宗の寺院としている。当時の備前国守護代で富山城主であった松田元喬(まつだもとなり)は、この話を聞いて大覚を城内に招き、真言の僧侶と面前で問答を戦わせることにする。大覚はこの問答に見事に勝利、これを契機に松田元喬は熱心な法華宗徒となったのである。

 松田元喬のお墨付きを得た大覚は、松田氏の領内である備前西部の寺院を次々と釈伏していく。しかし領内すべての寺社が法華宗に釈伏されたわけではない。この地には天台宗では備前天台宗八十四か所の総本山・金山寺があったし、神社では備前国一之宮・吉備津宮があった。当たり前だが、こうした有力寺社は法華宗への転宗には応じなかったのである。

 結果、釈伏に応じなかった両寺社は、松田氏の軍勢によって襲撃され焼き払われることになるのである。これを「備前法華一揆」と呼ぶ。

 このように法華宗は領内を一色に染め上げるという、いわば聖戦を行う性格を持つ宗派なのである。他宗を攻めるのは別に法華宗に限ったことではなく、例えば比叡山延暦寺なども、他の鎌倉仏教に対して寺院の破却・襲撃などを盛んに行ってはいたが、法華宗のそれとは若干性格が違う。

 ブログ主の見るところ、比叡山を動かす行動原理はあくまでも利権争いなのである。宗教的熱意がゼロであったとは言わないが、その本質は利権=自らの存在理由を脅かされることに対する、防御的反応がメインなのだ。先のリンク先にあげた「天文法華の乱」における、最終的な叡山の立ち居振る舞いを見てもそのことが分かる。

 では本願寺はどうであろうか?戦国期には一向一揆が全国を暴れ回ったし、遂には越中を「百姓の持ちたる国」とし、まさしく一つの国を浄土真宗に染め上げるという壮挙を成し遂げている。しかし詳細はまた別のシリーズで紹介するが、現場の一般信徒はいざ知らず、蓮如をはじめとする代々の本願寺門主は、総じて暴走を止めようとするスタンスであったのである。

 これらと比すると、法華宗は明らかに違う。宗門の統率者、或いは敬虔な信徒を束ねるリーダー自らが率先して他宗を攻撃するのである。その行動原理を支えるのは「他宗をことごとく滅ぼさねばならぬ」という教義に裏打ちされた、宗教的熱意溢れる使命感なのだ。彼らにとってはこの世に「王仏冥合」を顕現させるための聖戦なのである。当時の法華宗の好戦性は他の仏教諸派のそれとは比べられないほどであり、一神教であるキリスト教イスラム教のそれと同レベルにあるといえる。

 なお松田氏は宇喜多氏によって1568年には滅ぼされてしまうのであるが、なにしろ半世紀以上も法華宗が幅を利かせていた土地柄であったから、宇喜多氏の家臣には熱心な法華宗徒が多かった。

 宇喜多家の重臣戸川達安などがその代表で、彼が領地である妹尾の地に盛隆寺を創建する際には、「これを機に法華宗に改宗した場合は、その年の年貢を免除する」などの働きかけを行うほどであった。そうした影響もあって、この地は「妹尾千軒皆法華」と称されるほど、法華宗が浸透したのである。

 

画像は岡山県岡山市南区妹尾の町の中心部にある、俗に大寺と呼ばれる日蓮宗の大寺院・盛隆寺の山門。山門の前、画像左端には「妹尾千軒皆法華」の石碑が立っている。この寺は元は浄土宗の寺だったのだが、寺の改宗を(というよりも年貢免除キャンペーンを)きっかけに、以降は町ぐるみで法華宗の町となった。今でも昔からの住人には、日蓮宗の信者が多いようである。

 

 宇喜多家を一代で大きくした梟雄・直家の死後、家督を継いだのは秀家である。その秀家の代になってから17年後の1599年、関ケ原の戦い直前に発生したのが「宇喜多騒動」である。俗にキリシタン武将と日蓮宗徒武将の争いであったと言われているが、当然のことながら秀家がキリスト教に肩入れしたという事実はないので、この評価は正確ではない。

 ちょうどこの頃、宇喜多家では検地が行われていることから、その本質は中央集権化を目指す宇喜多家と、それに反発する守旧派たちの権力争いであったとみられている。昔ながらの在地の家臣団にしてみれば、検地は元来持っていた利権を召し上げられる行為であった。その上、彼らは排他的性格の強い法華宗徒たちでもあったので、介入に強く反発したのである。そういう意味では、他宗と相容れない性格をもつ法華宗の教えが、この乱が起きた要因のひとつであった、といえないこともない。(終わり)

 

【このシリーズの主な参考文献】

・アジア仏教史 日本編Ⅳ 室町仏教/中村元・笹原一男・金岡秀友 編/佼成出版社

・図説 日本仏教の歴史 室町時代/竹貫元勝 著/佼成出版社

・鎌倉仏教のミカタ-定説と常識を覆す/本郷和人 島田裕巳 著/祥伝社新書

・禅僧たちの室町時代/今泉淑夫 著/吉川弘文館

臨済宗史/玉村竹二 著/春秋社

禅宗の歴史/今枝愛信 著/吉川弘文館

・中世禅宗儒学学習と科学知識/川本慎自 著/思文閣出版

・一遍と時宗教団/大橋俊雄 著/教育社歴史新書

・一遍 読み解き辞典/長島尚道・高野修・砂川博・岡本貞雄・長澤昌幸 編/柏書房

・阿弥衆 毛坊主・陣僧・同朋衆桜井哲夫 著/平凡社

日蓮宗と戦国京都/河内将芳 著/淡交社

・反骨の導師 日親・日奥/寺尾英智・北村行遠 編/吉川弘文館

 

室町期の仏教について~その⑬ 法華宗の超攻撃的布教方法「諫暁(かんぎょう)」と「祈伏」、そして「なべかむり日親」

 法華宗の開祖・日蓮の主張は「自らの説く正法は、国教として幕府と朝廷が採用すべきものであり、その暁には他宗ことごとくを滅ぼさねばならない。具体的には他宗派の寺は全て破却し、僧は全員処刑して首を由比ガ浜に並べるべきである。そうすることによって初めて『立正安国』が成されるのだ!」という、ひどく過激なものであった。

 

日蓮はそんなことを常々公言していたから、他宗から激しく攻撃された。遂には「悪口の咎」で逮捕され、処刑される寸前までいくのである。そのあたりの経緯はこの記事を参照。

 

 日蓮亡き後も、法華宗の各派閥は師の教えを守り、それぞれの立場で政治活動を盛んに行うことになる。具体的には、時の権力者――大名や天皇、将軍に「立正安国論」と申状を添えて提出し、如何に法華宗が正しいか、そして他宗が間違っているかを分からせようとしたのである。こうした一連の行為を「諫暁(かんぎょう)」と呼ぶが、これは法華宗においては最高の宗教行動とされた。

 この諫暁は全くオブラートに包むことなく行われるのが常であったから、権力側から手ひどい弾圧を受けることになる。諌暁した僧は捕らえられ、牢で過酷な刑罰を受けたうえ、住居や僧房は破却され、弟子や信者たちも厳しく連帯責任を問われた。しかし法華宗の僧たちは、わが身に降りかかるこうした受難こそは、開祖・日蓮が受けた受難と同じものであると誇り、かえって宗教的エクスタシーを感じたのである。

 このように権力に阿ることなく、果敢に改宗に挑むわけだから、一般に対する布教方法もまた極めて激しいものがあった。彼らは大名や武士・大衆の面前で他宗の僧侶や信者に対して果敢に法論を挑み、これを論破しようとした。事実、論破された者の中には稀に他宗から改宗し、法華宗徒になるものもいたのだ。これを「祈伏」と呼ぶ。

 法華宗は特に浄土宗を徹底して敵視していたから、これとの対決の例が多く、俗に宗論といえば法華宗 vs 浄土宗の争いを指すほどであったようだ。狂言の演目に「宗論」というものがあるが、まさしく両者の論争を風刺した内容になっている。

 過去の記事でも述べたが、法華宗のこうした姿勢はキリスト教に通じるものがある。強烈な排他性、そして宣教志向が特徴的な一神教的性格を持っているのだ。六老僧のうち日持などは海外伝道を志し、東北から北海道を経て、そこから海を渡って大陸を目指し、再び帰らなかったと伝わっている。これなども戦国期のイエズス会宣教師の行いに通じるものがあるだろう。

 数々の法難を被ってもなお揺るがぬ信仰を持ち、臆せず布教を続けた著名な法華僧として日親の名が挙げられる。彼の別名を「なべかぶり日親」という。この記事では、彼の人生を追ってみよう。

 1407年に生まれた日親は、幼少から中山法華経寺にて勉学に励み、開祖・日蓮の純粋性に強く影響を受ける。成人した後は、肥前国小城郡にある光勝寺の住持となった。しかし彼が赴任したこの地の法華宗は「他宗との混淆を、ある程度容認する」という姿勢で信者を増やしていたのである。

 後進であった法華宗が勢力を広げる際には、従来からあった薬師堂や観音堂などに入り込んで法華宗の寺にするという方法がとられていたから、こうした布教方法はある程度は仕方のないことであったのだが、法華宗の純粋性に傾倒していた日親にしてみれば、到底許されることではなかったのである。

 彼は激しくこれを攻撃する。しかし小城の地頭・千葉胤鎮は領内を治める際には天台宗禅宗の力を借りる必要があったことから、日親の行動には困惑していた。一切の妥協を許さない彼の主張はあまりにも過激すぎて、本山である中山法華経寺からも異端視されるようになっていく。そして遂には1437年、日親37歳のとき、中山法華経寺から破門されてしまうのであった。

 寺を奪われ、信徒たちも彼の元から去っていった。かつての弟子たちですら道で会っても顔を背けられる始末。しかし逆境にあって日親の信仰心は更に燃え盛る。彼はわが身を日蓮に置き換えて、尊敬する上人もこのような心持ちであったかと得心し、ますます布教に力を入れるのであった。

 そして1439年5月に京に上がった日親は、よりによってあの「万人恐怖」と称された、将軍・足利義教に対して諫暁を試みるのである。この時は「二度と言上するなよ。次は許さぬからな」ということで見逃されたが、こんなことで怯む日親ではない。日蓮の「立正安国論」を手本にした「立正治国論」を著し、二度目の直訴の機会を伺っていたのだが、清書している段階で事が発覚し、逮捕されるのである。

 7人の囚人と共に、四畳という狭さの牢に入れられた日親。この牢は高さ130cm、天井からは釘がそのまま打ち流してあるというシロモノで、牢から出られるのは激しい拷問を受ける時だけである。一説によると、真っ赤に焼けた鍋を頭から被せられたとも伝えられている。彼の「なべかむり日親」のあだ名はここから来ているのだ。

 

本法寺蔵「開山日親上人徳行図」より、焼けた鍋を被せられる日親。流石にこの拷問は実際にあったこととは思えず、後世の創作話だと思われるが、苛烈な拷問にあったことは間違いないだろう。

 

 このまま牢に閉じ込められていたら、日親は間違いなく獄死していただろう。しかし1441年6月24日、足利義教が赤松邸にて謀殺される「嘉吉の乱」が発生する。この事件がきっかけとなり1年半ぶりに牢から出された日親は、再び伝道の旅を続けるのである。京と鎌倉の間を往復すること十数度、南は九州から北は北陸まで歩きまくり、超人的な布教を続けた。他宗に宗論をふっかける祈伏を続けながらの旅であるから、当然行く先々で酷く迫害されている。

 しかし「なべかぶりの法難」を立派に乗り越えることができた日親である。自身が生き延び、代わりに将軍が殺されたのは己の正統性の故であるという、いわば宗教的お墨付きを与えられたものと信じてやまないので、そんな迫害なぞものともしないのだ。

 こうした強圧的な布教を長年続けた結果、次第に信徒も増えてくる。彼が全国に建てた寺は30を超え、1440年頃には遂には京において「洛中法華二十一カ本山」のひとつに数えられることになる、本法寺を建立するのである。

 日親は1447年・82歳で死去する。彼の不屈の精神は後に「不受不施派」という、これまた凄まじい性格を持つセクトを生み出すのである。さてこうした強烈な排他性と宣教性を持つ法華宗が、一旦、地域の権力者によって採用されると、どうなるのであろうか?次の記事では、備前西部における松田氏の例を見てみよう。(続く)

 

室町期の仏教について~その⑫ 法華宗の有力檀越「柳酒屋」 その恐るべき資力

 法華宗の開祖・日蓮は、浄土宗を開いた法然のことを大変に憎んでいた。法然の教えは国を惑わす邪宗であって「念仏を唱えると無間地獄に落ちる」とまで言い切っている。しかしながら、この2人には共通点があるのだ。

 それは「両人とも師から直接、法灯を授かっていない」ということである。法然が「観無量寿経疏」を独自に解釈して浄土門を開いたように、日蓮もまた「法華経」を中心とする天台教学を独自解釈して法華宗を開いている。オリジナリティという点においては、鎌倉仏教の先陣を切った法然と、ほぼ同レベルにあるといえる。法然と同じように師のいなかった日蓮は、自らの伝燈を天台宗を日本に持ち込んだ最澄にまで遡らせている。

 つまり法華宗は、法然の浄土宗と同じ構造的な問題を抱えていたわけで、日蓮の死後、法華宗は浄土宗と同じように分裂してしまうのである。日蓮には六老僧(日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持)と呼ばれる6人の高弟たちがいたが、すぐにそれぞれが一派を立てることになるのであった。派閥間の教義的な違いは、傍目から見てもそう大きいものではなく(それぞれに言わせると大違いなのだろうが)、はっきり言って些末なものである。

 各宗派とも大なり小なり日蓮の方針を受け継いで、それぞれ強烈な方法で布教したから、既存の仏教勢力からの反発も強かった。次々と降りかかる苦難(というか、自業自得ではあるのだが)をものともせず――いや、むしろそうした姿勢が魅せる信仰の強さ故に、法華宗は徐々に広がっていった。特に京において勢力を伸長させることに成功しているが、これはまず朝廷に受け入れられたことが大きい。

 京における本格的な布教をはじめたのは、日蓮六老僧のひとり日朗の実弟・日像という僧である。彼は数度の法難を被りながらも、1321年には上京今小路に妙顕寺を建立することに成功しているが、この地は朝廷が日像に寄進した地であった。この時の天皇後醍醐天皇であり、幕府に対抗するために、法華宗勢力を味方につけようとしたことが背景にあったようだ。

 その甲斐あって?妙顕寺は、「建武の新政」後には後醍醐天皇により「勅願寺」の綸旨を下されている。次の足利幕府も宗教的には前政権の方向性を引き継いだから、妙願寺は将軍の御祈祷所に定められた。こうして市民権を得た法華宗は、京において地盤を確立することに成功するのである。

 日像の後を継いだのは、公家出身の大覚である。彼は近衛家の一族であったらしく、その出自からくる人脈を生かして、朝廷や幕府とより密接な関係を築くことに成功する。また彼は朝廷から依頼され、たびたび祈祷を行ったが、かなり運がよかった…違った、法力があったようで、干ばつの際の降雨の祈祷に成功し、大僧正の位を下賜され名を高めている。

 しかし何といっても京における法華宗を支えたのは、この頃大きな力をつけ始めた商工業者、特に経済力を持ち始めた新興商人たちであった。

 日像の最初の檀越は、下京五条坊門に店を構える「柳酒屋」である。拙著1巻にも名前だけ登場するこの柳酒屋の名の由来は,店の前に大きな柳の木があったからとも、柳の樽を使用したからだともいわれており、美酒を販売する大店として知られていた。しかしこの柳酒屋はそんじょそこらの酒屋さんではなく、同時に土倉(銭貸し)を営業する有徳人(大富豪)としても有名であった。

 応永年間の「酒屋名簿」には「毎月、公方に60貫の美酒を献上している」と記載されている。つまりこの店だけで年間に720貫もの酒屋役を払っているわけで、幕府が同業者全体に賦課する酒屋土倉役の10パーセント以上を1軒で負担していたとみられている。過去の記事でも紹介したが、このころ五山が幕府に納める「公文官銭」が年間1000貫文であったことを考えると、柳酒屋の資本が凄まじい規模であったことが想像できる。

 柳酒屋は妙顕寺を開基する際には日像に莫大な援助を行い、開基檀越としての大役を果たしている。またこれに留まらず、立本寺や妙蓮寺など他の法華宗寺院の開基檀越にもなっている。妙蓮寺に至っては、柳酒屋の敷地内に置かれた法華堂をそのまま寺に発展させたという経緯があることから、柳酒屋の「柳」の字を分解した「卯木山(うぼくざん)」をその山号としているほどであった。

 この柳酒屋をはじめとして、京の商人たちによる法華宗への帰依と援助は、盛んに行われるようになる。洛中において次々に大寺院が建立されていくのだ。15世紀後半には下京を中心に21か所の大寺院が立ち並ぶことになる。また人の集まりやすい街角などには「弘通所(ぐづうしょ)」が設置され、町行く人々を対象に布教活動が行われた。当時の五山を統べる臨済僧の季瓊真蘂(きけいしんずい)は、「蔭涼軒日録」に悔しさをこめて「法華宗一門建立の盛り」と記しているほどである。

 季瓊真蘂が嘆きつつ法華宗の興隆を記したその翌年の67年、「応仁の乱」が発生する。11年続いたこの戦乱は、京の町を焼き尽くした。1480年の正月、疎開先からようやく帰洛なった中御門宣胤(なかみかどのぶたか)は、他の公卿たちと連れ立って東山を歩いてみたが、かつては伽藍が立ち並んでいた街並みが「一乱の始め、悉く荒野」となった有様を見て、「言語道断」と記している。

 先の記事で紹介したように臨済宗や時衆など、「応仁の乱」を契機に衰退してしまった宗派は多い。しかし新興商人を檀越とした法華宗は、京が焼けてもものともしないのである。焼け跡から真っ先に立ち上がったのは新興商人たちであり、彼らを檀越とする法華宗の寺院は次々と盛大な造営を行い、多くの寺院の復興が成ったのである。洛中の他宗派寺院の造成がなかなか進まない中、早くも翌81年、中御門宣胤は復興なった妙蓮寺に立ち寄って「当時法華宗の繁盛は耳目を驚かすもの也」と記している。

 「応仁の乱」が他宗の没落の契機となったのに反して、京における法華宗はその勢力を更に伸ばしたのであった。(続く)

 

天文初年・1532年における「洛中法華二十一カ本山」の大まかな位置を、現在のGoogle mapに載せたもの。大きさ・場所共にそこまで正確なものではなく、あくまでイメージである。また21寺のうち、妙伝寺・学養寺・弘経寺・大妙寺などは所在不明なので、上記の地図には反映されていない。いずれも洛中に位置し、中でも下京の商工業地区に集中していることが分かる。特に地図中に寺名を記した妙顕寺・本圀寺・妙覚寺頂妙寺・妙蓮寺の寺域は広大で、境内には町屋もあったと推測されている。

 

室町期の仏教について~その⑪ 「時衆過去帳」から分かる、時衆の世俗化と衰退

 時衆の戒が厳しかったことは先の記事で述べた。時衆の最高責任者「知識」は「阿弥陀仏の代官」という位置づけであったから、信者は絶対服従するのがルールで、これを「帰命戒」と称した。彼に対する服従の代償として、帰依した者は極楽往生が確約されるのであるが、服従が絶対的でなかったことが判明した場合には、知識から容赦なく罰則を受けることになる。

 知識は犯した罪の多寡に応じて、改心させるための仕置きである「罰礼」などを下したようだが、あまりに罪が重いようだと教団から追放処分となった。追放処分を許してもらうため、知識の前で必死になって五体投地の礼を繰り返した者がいたことが記録に残っている。

 時衆教団には、代々受け継いできた栄えある「時衆過去帳」というものがある。時衆の信者が死亡、つまり往生した際には台帳に名前が記されるので、これを見れば誰が時衆に帰依したか、そしていつ死んだかが分かるのだ。

 開祖・一遍が在世中の1279年6月に運用が開始されて以来、代々の遊行上人がこれを引き継いできた。ただひたすらに信者の名前と没年が記されている、この過去帳に名前が載るということは、間違いなく往生したという証拠になるわけである。しかし追放処分を受けてしまうと、死後にこの台帳に名が記されることはないから、追放処分を受けた人は必死になって許しを請うたわけである。

 だがこの「時衆過去帳」、たまに法名の上に「不」という文字が書き入れられていることがある。これは何を意味するかというと、死後に破門処分になったということなのである。法名の上に「不」と書かれてしまうというは、不往生処分、つまり往生していたはずなのだが、そうではなく地獄行きが確定したということになるのだ。

 ポイントは死んだ後に悪行が露見した場合でも処分は有効である、ということだろう。「時衆過去帳」は死んだ時点で名が記載される性格のものであるから、「不」の文字が追加されているということは、死後しばらくしてから不往生処分を食らったことを意味するわけである。

 不往生処分の最も古い例を挙げると、尼僧の第一号が1281年?月に死去した西一房、僧の第一号が83年3月に死去した終阿弥陀仏であり、それぞれの名の上に「不」の文字が書き加えられているのが確認できる。まだ一遍存命時に、こうした処分が下されているのが興味深い。時衆の厳しい戒律を示す一例といえる。

 

「時衆過去帳」より、赤丸の囲った部分が追記された「不」の文字。残念ながら、理由までは記載されていないので、何が原因で彼が処分を受けたのかは分からない。元々は往生できていたのだが、「不」の字が追記された時点で地獄行きになるというよりは、悪行が判明したということは、実は往生できていなかったということなので台帳を修正した、というロジックであろうと思われる。

 

 しかしこの「不」追記による不往生処分であるが、南北朝期以降からは記録に現れなくなる。1394年2月3日に死去した能仏房という尼僧の法名に、「不」の文字が追加されているのが最後の例で、これ以降には見られなくなるのだ。同時に生前の追放処分もなくなっていったようだ。

 代わりにこの頃から、法名の没年の時系列がバラバラに記載され始める。この前往生したばかりの僧の法名の横に、四半世紀前くらい前に没した人物の法名を載せたりするのである。

 これはどういうことかというと、既に死亡している人物を後から時衆過去帳に載せ始めたので、没年を時系列順に並ばせることができなくなったからなのである。時衆は上級武士や公家たちから対価(喜捨)を貰うことによって、彼らの父祖の法名過去帳に記載する=往生させる、という先祖供養の新サービスを始めたのであった。

 これと並行して始まったもうひとつの新サービスが、死んだ時点ではなく、まだ生きているうちに名が記載されるというものである。仕組みとしては遊行先で結縁した時点で、台帳に名を載せることができるようになるのだ。その場合、まだ死んでいないから没年が記載されず、その代わり裏書にその人の身分が詳しく書かれることになる。この「身分が書かれる」ところに商業的な匂いがプンプンする。このサービスを利用するには、それなりの銭がかかったということであろう。

 時衆の権威である「時衆過去帳」が、遂にはこのような用途で使用されてしまうわけで、初期の時衆の特徴であった厳しい戒律の運用は、もはや見る影もなくなってしまうのだ。ただこれはどの宗派でも共通する現象なのだが、初期の純粋性が失われて世俗化したということは、同時に教団が巨大化していったということを意味するのである。

 史料として「時衆過去帳」を見てみた場合、まだ生きている人の法名と身分が記載されるようになったことで、かなり高位の武士――高師直高師泰の兄弟など――が帰依していたのみならず、後小松天皇なども帰依していたことが分かるのだ。

 このように世俗化・巨大化した時衆教団であったが、しかし室町期が終わりを迎えると繁栄に陰りが見られるようになる。「時衆過去帳」への法名記入数が「応仁の乱」以降、急激に減ってしまっているのである。

 これは何故かというと、戦乱が全国規模に波及してしまったので、各地を回る遊行が思うようにならなくなってしまったからなのである。全国的な規模で行う遊行こそが時衆のウリであり、信者と勧進を獲得する最大のイベントだったわけだから、これの規模が縮小するというのは営業的には大打撃なのであった。

 上人が各地の道場を訪れることも稀になってしまったので、各道場は食うための代替手段として、地域の有力な大名や国衆と寺檀の関係を結ぶようになる。一族の武運長久と繁栄、そして先祖の菩提を弔うことになった時衆道場は、次第にその一族の氏寺と化していき、寺の住職も一族出身者に限られるようになる。

 こうして各地の道場は知識の統制下から外れるようになるのだ。かつての規律の厳しさが失われてしまった結果、京の一部の道場に至っては境内に見世物小屋が立ち並び、遊女まで置くなど、繁華街化する始末であった。

 

戦国期に歓楽街と化していた、四条道場の様子はこちらの記事を参照。新宿歌舞伎町のような有様と化していたようだ。道を挟んだ反対側には、河原者たちの村・天部があった。

 

 さて歴代の遊行上人は、弟子に遊行上人の座を譲った後は藤沢道場に住み、「藤沢上人」となるのが習いであった。遊行上人は遊行し続け、住まいが定まらないのが建前であったから、OBである藤沢上人が住む藤沢道場こそが、時衆の本山と見なされていたのである。室町末期には門前町も形成され、280~290戸の家と6軒の宿、更には運送を司る伝馬屋敷まであった、とある。

 しかしこの藤沢道場・清浄光寺が焼失してしまうのである。1512年、凄まじい勢いで勢力を伸ばしつつあった伊勢新九郎こと北条早雲による、相模侵攻が開始される。どうも藤沢道場は相模の支配者であった三浦道寸寄りの道場であったらしく、道場は両者の戦いに巻き込まれ、13年5月に伽藍のことごとくが焼失してしまうのだ。当時の藤沢上人・知蓮と、本尊の阿弥陀仏駿河の長善寺に逃れたが、その後、藤沢道場は長い間再建されることはなかったのである。

 焼失以降の藤沢上人たちは、藤沢に住んでいないにも関わらず藤沢上人を名乗ることになり、また何処であろうが彼の住むところが藤沢道場と呼ばれるようになる。前記事で紹介した名僧・不外も、遊行上人を経て第24代藤沢上人に就任しているのだが、彼が独住地として定めたのは豊後の西教寺であったから、彼の在世中はここが藤沢道場と呼ばれたのだろう。当の不外は「前世からの因縁であろうか、このような時代に藤沢上人となっても有名無実な存在でしかない」という言葉を残している。

 焼失から45年後、1558年には第29代藤沢上人・躰光(たいこう)が北条氏に掛け合い「寺の跡地を寄進される」という形で、場所だけは何とか確保したのだが、先立つものがなく、寺の再建はされないままであった。本山を再興するための寄進が集まらないというところに、時衆の衰退ぶりが表れている。

 清浄光寺がようやく再建なったのは、焼失から94年後の1604年で、江戸期に入ってからのことである。時衆は戦国期に大きく勢力を削がれ、かつての勢いを取り戻すことは遂にはできなかったのであった。(続く)

 

室町期の仏教について~その⑩ 戦場に赴く時衆の陣僧たち

 時衆は全国に教線を伸ばし、2世・真教のころには時衆道場の数は100ヶ所にも及んでいる。これらの道場のスポンサーは、その殆どが武士たちであった。意外に思われるかもしれないが、時衆と武士の相性は実はとてもよかったのである。

 真教の頃に確立した時衆教団の宗風を簡単に表すと、「念仏を唱えるという、誰でもできる念仏という易行でありながら、同時に欲望を捨て厳しい戒律を守ることが要求される」というものであった。信者に厳しい戒を要求しその可否を判定するのが、時衆の最高責任者である「知識」である。時衆にとって知識は絶対的な存在なのであった。

 これは武士社会における主従関係と似ている。成人した武士は「見参」という儀式で、主君にお目見えすることで主従関係を成立させる。時衆の信者も同じように入信時に知識に身命を捧げることを誓うのである。

 「一所懸命」という言葉に象徴されるように、生まれ育った地に土着して生きる武士たちは、徹底したリアリストであった。そんな彼らは一族の繁栄の保証、つまりは現世利益を守るために、打ち物持って命を懸けて戦うわけである。

 しかし死後の保証、つまり往生の方は門外漢であるから、その方法を鎌倉仏教諸派に求めざるを得ない。数多ある選択肢の中、時衆は易行でありながら厳しい戒律を持ち、主従関係に近い縦の関係性があるわけで、そんな宗風に「いいね!」と思ってマッチングした武士たちも、少なからずいたわけである。

 そんな武士たちのニーズに応えるがごとく、時衆には「陣僧」という名の独特な役割を果たす僧侶がいた。これはどういうものかというと、武士に雇われ共に戦場に赴いて、戦死した際には往生する手伝いをするという役割の僧なのである。(なお他宗の僧も陣僧として従軍することもあったようだが、多くが時衆であったのは間違いない)

 特に南北朝期には数多くいたようで、「太平記」「明徳記」「大塔物語」などの軍記物によく登場してくる。彼らは具体的に、どのような活動をしていたのだろうか?

 1332年、楠木正成が籠城していた赤坂城を幕府軍が攻めた時、人見四郎恩阿と本間九郎は抜け駆けして城に攻め寄った。奮戦した挙句、2人は討ち死にしてしまうのであるが、その際には彼らに付き従ってきた「最後の十念を勧むる聖(ひじり)」から念仏が授けられた、とある。また2人は首を取られてしまっていたのであるが、この聖は楠木方と交渉し、首を取り返し四天王寺に持ち帰って供養したのである。

 討ち死にしたこの人見四郎であるが、恩阿入道という法名を持っており、時衆信徒で往生した者の名が記載される「時衆過去帳」にも同名が記載されていることから、時衆に帰依した武士であったのは間違いない。この頃、確実に往生するためには、死ぬ直前に十念(念仏)を唱えてくれる人がいることが大事だと考えられていたようだ。しかし戦っている最中に自ら念仏を唱えるのは難しいので、陣僧として同じ時衆の僧を雇い、従軍をお願いした次第なのだろう。

 福井西福寺に残っている文書には「丹後の陣に、陣僧を召し連れていきます」という旨の内容が記載されている。また佐久金台寺に残された文書には「(信者である)武士が戦場に出ているので、寺(おそらく藤沢道場)に参詣する人がおらず、静かで何事もありません。聞くところによると、(城の)守り手も寄せ手も、みな戦いながらも念仏を唱えていたということです。この道場にいた僧たちもみな浜辺に出て、念仏を勧めて往生を遂げさせました」という旨の記述が残っている。

 このように戦陣の合間を縫って、武士たちの往生の手助けをした陣僧たちであるが、僧という身分を利用して、相手側の陣に使者として立つ場合もあったという。

 次第に陣僧としての役割が拡大してしまったのだろう、このままではいかんということで、1399年に藤沢道場6世の自空が陣僧の心得を示している。以下の4つである(意訳してある)。

 

(1)今際の際に念仏を唱えるのが、陣僧としての本分である。封鎖された道だが陣僧なら通れるということで、書類を携えて(味方の陣への)使者となった僧がいると聞いたが、許しがたいことだ。ただし女・子どもなどの非戦闘員を救うための使者になるのは問題ない。

(2)戦場では、己の身を守るために鎧兜をつけることはいいが、敵を殺すために弓矢や刀剣の類を身につけることは許されない。

(3)陣にいても、時衆僧に定められた戒は守るように。歳末の別時の際は冷水を浴び、汚れを拭き、食事をささげ、念仏を唱えること。状況によっては難しいかもしれないが、できる限り行うこと。

(4)合戦が始まったら、改めて時衆になった時のことを思い返し、檀那の一大事に及んでは念仏を勧めて往生することに勤めよ。またわが身も往生できるように心がけること。

 

 (1)は使者としての役割を拡大解釈し、自軍に有利な行動を取らせるよう命ずる武将がいたのだろう。それを改めて禁じた内容である。(2)は戦闘不参加に関する規定。合戦に参加してしまうような、血気盛んな僧がいたのであろうか。或いは陣僧と偽って、戦闘に参加する不埒な者がいたのかもしれない。(3)と(4)は時衆の僧としての心得である。

 とはいえ更に時代が下ってくると、陣僧の使者としての役割は増えていった。戦国期にポルトガル人宣教師が作成した「日葡辞典」には「Ginzo」という項目があり、そこには「何か伝言を持って陣営に赴く僧侶」とあるのだ。また負傷者の治療を行うという、軍医としての役割を果たすようになってくる。更には和歌・連歌に達者であることも求められてくる。これは長引く戦陣にて、檀那の無聊を慰めるために行う行為なのである。

 従軍僧である陣僧は、敵味方の区別なく救っていたようだ。1521年11月、甲府に向けて進撃した駿河の今川勢が、飯田河原そして上条河原にて武田信虎(信玄の父)率いる武田勢と戦い、大敗したことがある。この一連の戦いで今川勢の総大将・福島助春以下、福島一門はことごとく討ち死にしてしまった。

 戦場に遺棄されていた駿河勢の遺骸を集め、手厚く葬った時衆僧がいる。信虎に請われて一蓮寺(一条道場)に入った時衆僧・不外とその弟子たちである。彼はそのとき武田方の甲府に滞在していた僧ではあったが、一遍以来の伝統である遊行を続ける遊行上人であったから、今川勢の戦死者の菩提を弔ったのであった。武田氏の研究で知られている平山優氏によると、今でも甲府市後屋町には「福島塚」という地名が残っているが、これはこの時に不外が築いた墳墓に由来するようだ。

 それだけでなく、不外は戸田城に逃げ込み籠城した敗残兵を救うために信虎との間に入り、今川勢3000を(恐らくは何らかの見返りと共に)無事に駿河まで撤退させている。不要な戦死者を避けるための使者として役にたったわけだから、不外は仏道に仕える者としてのあるべき姿を、見事に体現したといえるだろう。

 なおこの直後、不外は弟子たちと共に諏訪へと遊行の旅を続けている。(12月26日追記:不外は遊行上人だったので、移ったのは単なる遊行の一環だったようだ。なので信虎と不仲になったわけではなさそうだ)

 

兵が戦死する際に、魂の救済を授ける聖職者の存在は普遍的なもので、古くは4世紀のローマ軍にまで遡るらしい。アメリカ軍にも、従軍聖職者という同じ役割を果たす牧師や神父がいる。映画「プライベート・ライアン」でノルマンディー上陸作戦時に、銃弾が飛び交う浜辺で従軍牧師が死にゆく兵士の手を握り、共に聖書の一句を唱えているシーンが印象に残っている。多民族化が進んだ現代のアメリカ軍には、キリスト教以外の従軍聖職者もおり、イスラム教や本願寺の僧侶もいるそうだ。なお旧日本帝国軍にも従軍布教師という僧がおり、各宗派の僧侶がこの任にあたったようだ。江戸期に合戦はなかったので、中世から続く陣僧の系譜は一旦途切れてしまっているはずだから、これは西洋式軍隊導入と共に入ってきたシステムだろう。画像は日露戦争時の浄土真宗大谷派の従軍布教師。明治から昭和にかけては、大谷派は最も勢いのあった仏教宗派であったが、これは大谷光瑞(鏡如)という傑出した人物が門主であったことが大きい。

 

室町期の仏教について~その⑨ 室町期の時衆 念仏札を配る権利「賦算権」とは

 日本には、奈良期頃から遊行僧というものがいた。いわゆる「聖(ひじり)」と呼ばれる人たちである。仏僧の格好はしてはいたが、きちんとした学識があったかどうかは怪しいものである。民間呪術の使い手でもあった彼らは、地方を回りながら祈祷・まじないを行う存在であった。

 平安期になり浄土思想の流行によって、彼ら聖の多くは「念仏聖」へとジョブチェンジする。寺院に定住せず、「南無阿弥陀仏」を唱えながら遍歴修行する半僧半俗の存在である。代表的な聖として、平安中期「市聖(いちのひじり)」と呼ばれた空也がいるが、彼は傑出した存在であって、その殆どはもっと怪しげな存在であっただろう。

 さて鎌倉期に登場した時衆であるが、踊りながら各地を回った彼らもまた、一般的には聖の分類に入るといえるだろう。一遍が「捨て聖」を自称していたのは、過去の記事でも見た通りである。

 1278年に一遍が死んだ後、彼が率いた集団は一旦解散する。それを組織化しなおしたのが、一遍の遊行にも同行していた高弟・真教である。彼は一遍より2歳年上の元浄土僧で、1日6回行う礼賛の時には念仏の調声役(音頭取り)を務めるなど、師から最も信頼されていた弟子であった。一遍が死んだ際に、一度は彼の後を追おうとしたが思いとどまり、時衆を再結成し教団を率いることにしたのである。

 もしこの真教が教団を引き継がなかったら、時衆という一大宗派は生まれていなかっただろう、と言われている。一遍の特異な念仏信仰は一代で終わってしまい、歴史に残ったとしても異端として記録されていただろう。泡のように生まれては消える、このような小さな宗教集団は数多あったに違いないのだ。

 さて真教は一遍のように「聖」のスタイルを受け継ぎ、16年間も遊行を続けた。真教もまた師と同じように行く先々で踊っていたと思われるが、実は時衆の教義的には「踊る」という行為自体に、そこまで深い意味はないのである。それ以上に重要な行為があって、それは「念仏札を配る」行為なのである。一遍にしても真教にしても、遊行先で常に念仏札を配っている。

 (ブログ主の解釈だと)この念仏札を配る行為は、「あなたは既に成仏していますよ」ということを気づかせるための行為であり、踊るという行為はその喜びを表現するための行為なのであるが、受け取る民衆の方はそう考えていなかったようだ。

 彼らはもっと分かりやすい形、つまり「偉い坊様から、ありがたい念仏札を貰えば成仏できる」と受け止めたのであった。そうなると配る方も受け取る側の要望に合わせざるを得ないから、念仏札の性格が変質していくことになる。つまり、念仏札自体に価値が出てきてしまったのである。ちなみにこの念仏札を配るのは上人から認められた者でなければダメで、この念仏札を配る行為を「腑算」、配る権利を「賦算権」と呼ぶ。

 

左は「一遍聖絵」より、肩車をされながら念仏札を配る一遍。右は、時宗が今も賦算している念仏札。実際に一遍が配っていたものと、そう大きく変わっていないと思われる。札には「南無阿弥陀仏、決定往生六十万人」と記してあるが、ここでいう「六十万人」は往生できる人数を指すのではなく、「六」は「南無阿弥陀仏」の六字名号を、「十」は阿弥陀如来が悟りを開いてからの十劫という長い時間を、「万」は阿弥陀如来の「万徳」を、「人」は一切衆生が往生し安楽世界の人となることを意味する、とのことである。なお当時から手書きではなく、ハンコのように紙に押して刷っていた。無量光寺には、念仏札の形木が残っているそうである。

 

 真教は遊行を続けながらも、教団の組織化を図っている。一遍はあくまでも「捨て聖」であったから、初期の時衆集団の人間関係は同志的なものであったのだが、それを縦の上下関係に変えている。また18条に渡る「時衆制誡」を定めている。これは時衆が守るべき戒律を示したもので、なかなかに厳しいものであった。こうして時衆は、念仏宗の中ではかなり厳格な戒律を守る教団として生まれ変わったのである。真教はこうすることによって、教団の風紀を引き締めたのであった。

 過去の記事で少し触れたように、エンタメ的性格の強い踊り念仏は、興行という一面も持っていた。そういう意味では時衆僧は、欲望渦巻く世界と隣り合わせで修業していたといってもいい。一遍は徹底して無欲の人であったから問題なかったのだが、こうした興行を続けながら「全てを捨てる」という生き方は、凡人にはなかなかできるものではないだろう。事実、戦国期には京にあった幾つかの時衆の寺は、歓楽街のごとき有様に堕してしまうのである。真教によるこの引き締めがなかったら、もっと早くにそうなってしまっていたかもしれない。

 また真教は遊行先で、道場と呼ばれる寺院を多く建立した。1304年には遊行上人の座を智得に譲り、自らは相模国に草庵を建立、ここに独住した。のちの当麻無量光寺である。旅に生き旅に死んだ一遍とは異なり、(引退したとはいえ)後継ぎの真教が定住したことにより、ここに初めて時衆の本山的性格を持つ寺院が誕生したのである。

 各地に道場を開き(この頃には100ヶ所にも達していた)全国的に教線が広がるとなると、真教ひとりでは念仏札を配ることは不可能である。そこで彼は信頼できる弟子の何人かに、念仏札を配る権利――賦算権を与えた。智得・呑海・真観ら、3人の高弟である。

 1319年に真教が亡くなったのち、智得が2世遊行上人となり(遊行上人という号は真教が初めて名乗ったので、真教から1世と数える)、相模の当麻道場を継いでそこで賦算を行った。呑海は京に七条道場を開いたが、そこに独住することなく、中国地方など各地を遊行して賦算を行っている。真観は京に四条道場を開き、洛中限定という条件付きで賦算権を持っていた。

 しかし翌20年、当麻道場にいた智得が没してしまう。筋目から言うと、次の遊行上人になるのは呑海なのである。しかし彼は各地で精力的に遊行を続けており、当麻道場に帰ってくる気配がないのだ。そうなると、信者が遠くから遥々本山である当麻無量光寺に参詣したにも関わらず、そこに賦算権を持つ上人がいないという事態が発生してしまう。信者が一番欲しいのは極楽行のチケットである念仏札なのに、本山に行ってもそれが貰えないという由々しき事態が5年近くも続いてしまうのだ。

 当麻寺と呑海は文をやり取りするなど、連絡は取り続けていたようだが、それでも呑海は帰ってこない。信者の強い要望と北条得宗家からの催促もあり、もう我慢できないというわけで、智得の一番弟子・真光が、時衆教団における最高位である「知識」の座を継ぐことになったのだ――呑海の了承なしに。

 また真光は、その旨を「よろしくニキ~」とばかりに書状で伝えてきたから、呑海は激怒したのであった。その後、長い遊行を終えた呑海が当麻道場に帰ってきたのは1325年のことである。しかしそこに彼の居場所はなかった。そこで呑海は藤沢に新たに清浄光寺を建て、そこを藤沢道場としたのであった。

 こうして時衆は同じ相模にある、当麻道場・藤沢道場の2大派閥に分割されてしまったのである。とはいえ、僧たちが互いに行き来するなどの交流はあったようだ。なお時代が下るにつれ、四条道場を本寺とする四条派や、六条派、一向派(一向宗ではない)、国阿派など、他にも数多くの派閥が生まれている。

 真教の直弟子であった真観が開いた四条派のように、元から賦算権を持つ(洛中限定だが)派閥もあった。だが真教から許しを得ずに、独自に賦算をしていた派閥もある。国阿派などがそうなのであるが、実のところこれらは元から一遍の教団とは関係なく、聖の集団として独自に活動していたのだが、後から時衆と見なされてしまった集団なのである。

 賦算という行為自体は昔から聖たちが行っていたことであり、時衆の専売特許というわけではなかったから、彼らにしてみれば独自に上人をたてて念仏札を配るのは、昔からやっている当たり前のことなのである。だが時衆が有名になってしまったので、人々からは同じものとして見なされてしまったという次第である。(※12月22日修正:一向派を興した一向上人であるが、彼は賦算を行っていなかったようである。一向派が後に賦算を行うようになったかは不明)

 ただこうした他の派閥の規模はそこまで大きなものではなく、正統性という面においては、なんといっても呑海の藤沢道場が圧倒的に優勢であった。いずれにせよ室町時代中期には、時衆と見なされた全国の道場数は2000にも達している。

 庶民からは「生き仏」として遇されていた遊行上人は、時衆僧らを引き連れて各地の道場を遊行する、一遍以来の伝統を続けていた。しかし道中は危険だし、関所はやたらたくさんあるしで、遊行するということはなかなかに労力がかかるものなのである。

 そこで通行を円滑にするため、必然的に地域の権力者に近づくことになる。すると何らかの保護や利権を獲得することになるから、この頃より遊行上人の権威化・特権化が始まることになるのだ。(続く)

 

室町期の仏教について~その⑧ 法然の後継者たち 分裂しまくる浄土宗

 「専修念仏」や「他力」という概念を持ち込み、これまでの仏教に大変革をもたらした、偉大なる思想家・法然。彼の死後、長老であった信空が後継となったもののその後、浄土宗は数多くの派閥に分派してしまっている。

 どんな宗派でも、開祖が亡くなった後は分派してしまうのは世の習いであり、臨済宗の例などでも見てきた通りなのだが、それにしても浄土宗はその傾向が強い。こうなってしまった理由は何故だろうか?

 ブログ主が考えるに、初期の浄土宗は構造的な問題を抱えていたように思われる。それは「法脈というものを重視していなかった」という問題である。

 いきなりだが、日本の仏教を料理に例えてみよう。まず仏教というものはインドで発生したものである。かの地で生まれた数多くの考え方は、まず中国へと渡る。そこで中華風に味付け直されたものが日本に渡ってくる。そこから日本に入ってきて、最終的に和風の味付けとなって出来上がったものが、日本の仏教なのである。

 こうした流れで日本に伝わった仏教であるから、はっきり言って本場の仏教とは別物となっている。ナンと一緒に食べる本格的なインドカレーと、洋食というジャンルに区別されている現代日本のカツカレーとでは、もはや別の料理となっているのと同じようなものだ。

 そして元と大幅に変わってしまったことを(無意識に)自覚しているからこそ、日本の仏教は「相承血脈」という考え方を大事にするのである。「元の教えが伝えようとしていた真実は、最終的に我々が解釈したものこそが正しいのだ!」というのが、彼らのアイデンティティの核であるから、それをきちんと説明するためには、インド・中国・日本と脈々と受け継がれている思想的変遷、つまりは系譜をはっきりさせなければならないのである。これがないということは宗派として致命的で、正統として認められないのであった。

 

これがなくて苦労したのが、日本オリジナル禅・達磨宗を開宗した大日房能忍である。彼はこれまで日本に散逸した形で伝っていた禅の教えを独学でまとめ、一派を興したのである。詳細はリンク先を参照。

 

 そういう意味では、法然は大日房能忍以上に不利な立場にあった。師がいなかったとはいえ、能忍は既にある禅宗という教えを独学で解釈して一派を立てたわけだから、大陸に規範となるべき教えは存在するのだ。そこで彼は信頼できる弟子を中国に遣わし、かの地の権威ある禅僧から後付けでお墨付きをもらうことで、他宗からの非難を回避しようとしたのである(そしてそれはある程度、成功したのである)。

 しかし法然がたどり着いた「浄土門」の考え方は、彼が書籍と思索によって独自にたどり着いた、ほぼ100%オリジナルな国産教義なのである。唐の僧・善導が撰述した「観無量寿経疏」に対して、彼のような革命的な解釈をした僧はこれまで世界に一人もいなかったから、教えを乞うべき相手もいないのである。

 事実、彼は「浄土宗には相承血脈の法もなければ、直接、面授によって師の口から法を聞いたこともない」という旨の言葉を残している。これは他宗からしたらとんでもない考え方で、法然の一派は「寓宗」或いは「附庸宗」などという蔑称で呼ばれ、「天台宗に寄生した異端」と見なされていたのである。

 そんなわけで浄土宗は、他宗が行っているような方法では自宗の正統性を証明できなかったのである。ただ法然自身も、他宗からのこうした攻撃には辟易としていたようで、のち発言を修正し「浄土五祖」という系統を整理して、インドから中国に至る「相承血脈」を世に示してはいる。だが他宗からは「法然は著作を通して善導の意を知ることができたと主張しているが、結局は誰とも会ってはおらず、直接指導を受けていないということじゃないか」と言われてしまっているのだ。

 このように浄土宗は、法脈という概念が弱かった。ゆえに法然の死後、 後継問題にも大きな影響を及ぼし、弟子たちは思い思いに一派をたてることになってしまうのだ。分派を促す因子がこのように浄土宗に内包されていたがために、群雄割拠な状況が生まれてしまったわけである。

 法然の死後、乱立した派閥には、西山義・鎮西義・多念義・一念義・九品寺・紫野・白川・嵯峨、そしてのち浄土真宗として独立した宗派となる、親鸞真宗義などがある。時間の経過と共にある派閥は衰退して消え去り、また吸収合併が繰り返された結果、鎌倉後期には残っていた浄土宗の派閥は4つになっていた。京・三鈷寺を本寺とする西山派、同じく京・九品寺を本寺とする九品寺派、こちらも京・長楽寺を本寺とする多念義派、そして筑後国善導寺を本寺とする鎮西派である。これらを合わせて浄土四宗と呼ぶ。

 これら四宗はもちろん、それぞれそれなりに大きな規模ではあった。それでも4つに分派してしまった分、浄土宗全体としての勢力は相対的に弱体化し、他の鎌倉仏教の台頭を招く一因となってしまっている。せっかくの先行者利益を浪費してしまったといえるかもしれない。

 そして四宗はこの後また、懲りずに分裂を繰り返すのだ。白旗派・名越派・藤田派の関東三派、一条派・三条派・木幡派の京都三派、更には一向派などなど、室町期には再び多数の派閥が乱立することになってしまう。

 このうち鎮西派の流れを継ぐ白旗派・聖冏(しょうげい)は、先に挙げた構造的弱点を克服するため、宗義の体系を整理し、伝法を明示するなどの努力も行っている。併せて1395年には「白旗式条」を制定し、教団の統制を強化している。こうした努力はある程度成功したようで、1443年には白旗派は「浄土一宗のなかで第一の地位」という綸旨を後花園天皇より賜っているし、その7年後には法然の御廟である知恩院を教団の手中におさめている。そして江戸期になると白旗派知恩院幕藩体制のもと、浄土宗の大本山として確固たる地位を占めることになるのだ。

 

京・知恩院。現代の日本では観光名所としても名高いこの寺は、浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、また没した草庵の跡に建てられた寺院である。1523年には正式に浄土宗鎮西義・白旗派の寺の本山となっている。画像にある山門は江戸期に建てられたもので、現存する中で最大級のものである。画像真中に掲げられている「華頂山」の額は小さく見えるが、その大きさは何と畳2畳分より大きいのである。前を通るたびに、その威容に惚れ惚れしてしまう。

 

 だがこの白旗派も、浄土真宗の発展には及ばない。最終的に法然の直弟子たちの中で最も勢力を伸ばしたのは、親鸞浄土真宗であるのは万人の認めるところであろう。浄土真宗はなぜこんなに成功したのだろうか?数多くいた直弟子たちの中でも、親鸞のカリスマ性が特別に優れていたというエピソードが残っているわけでもない。事実、法然の弟子たちの中での序列としては、親鸞は相当低い位置にいたことが分かっているし、教義的にもそう大きな違いはないのだ。

 浄土真宗もまた浄土宗と同じく、親鸞の死後に多数の派閥に分派してしまっている。浄土宗の構造的問題を、浄土真宗もまた受け継いでしまったと見ることができる。室町後期において浄土真宗を代表する派閥は、まずは京・渋川にあった仏光寺に本拠を置いた「仏光寺派」である。その最盛期には3000の末寺を持っていた。

 北陸においては、名僧・如道が専照寺誠照寺證誠寺の三寺を中心に教線を広げ、俗に「三門徒派」と呼ばれたこれらは、主に越前にて強い勢力を形成していた。また東海・北陸においても教線を伸ばしつつあった。

 北陸から中部にかけて教線を伸ばしていたのが、「高田派」である。高田派第10世に就任した真慧はかなりのやり手で、彼の時代に高田派は大きく勢力を伸ばし、この時期には仏光寺派に次ぐ信者数を誇っていた。

 前記事で紹介した通り、現在の日本において単体では曹洞宗の寺の数が1位だが、諸派を合わせると浄土真宗の寺院数が日本一の数を誇っている。しかしながらそこに最大派閥として上位にあげられるのは、いま紹介した仏光寺派でも三門徒派でも高田派でもない。この時点ではまだ、いち弱小寺院でしかなかった本願寺系の派閥なのである。そしてこの本願寺を怒涛の勢いで、たった一代で強大にさせた男こそ、言わずと知れた蓮如なのであった。

 流れ的には、このままカリスマ・蓮如が如何にして本願寺を強大化させたのか?を紹介していきたいところなのだが――蓮如については独立したシリーズとして、まとめて紹介したほうかよさそうなので、彼の話題はひとまず置いて、先にまだ言及していない残りの鎌倉仏教、時衆と日蓮宗が室町期にどう発展していったかを紹介していきたい。(続く)

 

室町期の仏教について~その⑦ 曹洞宗が行った巨大イベント「千人湖会」

 五山に比べると曹洞宗においては、比較的参禅の気風は守られていたようだ。しかし室町中期以降となると、林下と同じように師弟の間で口訣伝授される「密参録」が流行してしまい、本来あった禅風は失われてしまう。このように閉鎖的な環境に陥ってしまうと、自ずと分派活動が促進されることになる。

 また地方をメインに活動していた曹洞宗が円滑に布教するためには、その地の支配者である戦国大名の庇護を受けることが必須となる。その結果、戦国大名の領国ごとに教線を広げていくことになったから、これまたロ-カル色が強くなる要因となった。各門派は互いに連絡がなく、別個に本末関係を結んで発展していったわけである。

 しかしある時期から、曹洞宗のこうした分散的傾向が改められる契機となったイベントが始まる。これはまた同時に、大規模な信者数を獲得することにもつながったのであった。こうした法会が「江湖会(こうこえ)」や「授戒会(じゅかいえ)」、「施餓鬼会」や「大般若会」などである。

 これらは元々、禅僧たちが参禅修行のために集まって行う研修会のような性格のものであったのだが、曹洞宗はこれを一般庶民も参加可能のイベントにしたのだ。

 「江湖会」は「千人湖会」とも呼ばれ、数百人単位の禅僧たちが集まって行う、盛大なイベントとなった。さぞかし熱狂的な雰囲気で行われたものと思われる。「授戒会」もまた盛んに開催されたイベントで、戦国大名から国衆、そして一般庶民まで参加して「戒法血脈」(要するに仏弟子になるということ)を受けられるというもので、一時に何百人もの人々がこれを行った、とある。

 こうした法会は地域の人々にとってはハレの日であって、地方においては現在でも祝祭的な性格を持つものである。しかしここまで大規模なものになると、人々からはもはや興行として受け止められていたようで、実際に開催にあたっては大きな利益も出たようである。勧進興行によって得られた利益は、寺院復興に使用されたから一石二鳥の効果があったのであった。こうした布教活動が功を奏して、曹洞宗は地方において一気に信者を増やしていったのである。

 また巨大イベントを成功させるには人手がかかる。そのためには同じ領国内での「横の結びつき」が有効であったから、曹洞宗寺院間で協力体制がとられ、人手やノウハウの共有が図られた。こうした連携実績の積み重ねは、曹洞宗がまとまっていく動きへの地ならしとなったのである。

 しかし統合の推進力は、なにより領国を統べる王である大名たちであった。臨済宗を統治に利用した室町幕府のように、戦国大名たちも曹洞宗を統治のために掌握したいという動機があったのである。実際、領国内に星の数ほどいる在郷の武士たちの多くが奉じていたのが曹洞宗であったから、彼らを掌握するためにこれを利用しない手はない。そのためには幾つも分派されていては管理上困るのであり、大名主導の下、領域内にある諸派の統合が図られることになった、というわけである。

 そこで大名は、領国内の曹洞宗を統べる立場にいる禅僧を「僧録」として任命した。例えば武田家においては領国内の曹洞宗を統べる僧録として、信濃・竜雲寺の北高全祝(ほっこうぜんしゅう)が任命されたし、徳川家においては可睡斎(かすいさい。人の名前ではない。遠江にある寺院)の鳳山等膳(ほうざんとうぜん)が駿府遠江三河・伊豆4か国の僧録に任命されている。

 大名ごとの分国中心であったが、曹洞諸派はこのような形で統合が成されていったのである。戦国は勝ち抜きゲームであったから、滅びる大名もあれば大きくなる大名もある。武田家の滅亡と共に、竜雲寺は僧録をはく奪されてしまったようだが、可睡斎は徳川家の領国の拡大と共に順調に発展していき、のち東海大僧録に任命されている。

 江戸期の幕藩体制下において、日本の仏教はすべて寺社奉行の管理に入ることになるのであるが、曹洞宗のそれはとてもスムーズに行われている。こうした素地があったことで、全国的な統合が比較的容易に成立したのであった。

 このように早くから総合する力が働いたせいで、曹洞宗諸派に分裂しなかったのである(正確に言うと分派はゼロではないが、無視できるほど小さい)。前記事で紹介した、現在の仏教宗派別ランキングを見てみると、例えば浄土真宗全体で見ると寺院数は2万越えで、曹洞宗の1万4000を抜いているのである。しかし諸派に分裂しているせいで、細かく見ていくと単一でまとまっている曹洞宗に抜かれてしまっているのだ。これこそが今に至るまで、曹洞宗が最大の寺院数を誇る理由なのであった。(続く)

 

画像は横浜市鶴見区にある、曹洞宗大本山總持寺。一般的には永平寺の方が有名だが、記事中で紹介した通り、現在の曹洞宗の法脈はこの總持寺の存在なしには考えられないのだ。元は能登の輪島にあったのだが、1898年に本堂の一部に火災が発生、間が悪いことにフェーン現象による強風が吹いたため全山が猛火に包まれ、伽藍のほぼ全てが焼失してしまった。1911年に現在の位置に移転となる。勿体ないような気がするが、最近能登を襲った大地震のことを考えると、移転してよかったのかもしれない。とはいえ跡地には總持寺祖院が健在で、此度の地震で国の登録有形文化財17棟を含む、七堂伽藍や回廊などが倒壊してしまったとのことで、早急な復興が望まれる。

 

 

室町期の仏教について~その⑥ 「禅の民衆化」に成功した曹洞宗

 さて現代において最も寺院数の多い仏教宗派は何かというと、実は曹洞宗なのである。文化庁が発行している宗教年鑑によると、曹洞宗だけで1万4000を超えるのだ。次点が浄土真宗本願寺派が約1万、3位が大谷派の約8000である。これまでの記事で紹介した、室町期に盛んであった臨済宗はというと、妙心寺派が最大でその数は約3000である。

 鎌倉期から南北朝期にかけて、曹洞宗はまだ小さい教団でしかなかった。ひとつの独立した宗派というよりも、同じ禅宗ということで臨済宗に数多ある林下諸派――大覚寺派や妙心寺派と、同じようなものとして一括りに捉えられていたのである。この記事では、如何にして曹洞宗が室町期以降にその教線を伸ばし、規模を拡大していったか、そしてなにゆえ現代において寺院数がトップであるのか、その理由などを深堀りしてみたいと思う。

 まず過去の記事で、道元亡き後の曹洞宗は、永平寺大乗寺の2派に分かれてしまったことを述べた。

 

道元が開基した永平寺道元亡き後のゴタゴタ「三大相論」については、こちらの記事を参照。

 

 永平寺から分派した、大乗寺の2世に就任したのが、やり手の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)である。瑩山はその後、能登に新たに總持寺(そうじじ)を開き、自らがその1世となる。彼の時代に大乗寺總持寺は発展するのであるが、瑩山が總持寺を託したのが、彼の弟子であった峨山韶磧(がざんしょうせき)である。總持寺2世に就任した峨山は、師と同じく相当のやり手であった上、91まで長生きして多くの門弟たちを育てたということで、總持寺は非常に栄えたのであった。

 

總持寺2世・峨山韶磧。人材育成に努め、五院・二十五哲の俊僧を輩出した。彼が育てた優れた弟子たちは全国に散り、各地に布教拠点となる曹洞宗寺院をつくりあげた。これらが基盤となり、後の曹洞宗の教線拡大につながるのである。峨山が師に似て非常に優れた僧であったのは間違いない。しかし彼が成功した一番の理由は、実のところその長寿にあったような気がする。これは何も宗教指導者に限った話ではないが、優れたリーダーにより成功した組織は、それが安定した長期政権であればあるほど栄える傾向がある。長生きした者が勝つのである――ただし近代以前に限る。特に世の中の移り変わりが早い現代では、どんなに優れた者でもトップにいる座が長いと社会の変化に対応できず、あっという間に置いていかれるからだ。しかし社会構造の変革がゆっくりであった時代には、いま流行りの「老害」という言葉を使う機会は少なかったのである・・とここまで書いて、秀吉の晩年は酷かったことを思い出した。まあ、あれはレアケースということで・・

 

 なお大乗寺の方は、これも瑩山の高弟であった明峰素哲が2世住持となり、発展して一派を成した。室町初期には足利尊氏の祈願所となるが、その後、戦乱に巻きこまれ伽藍の多くが焼失してしまう。そしてこれを契機に勢いに陰りが出てしまうのである。戦国期には木新保に移転、江戸期には加賀藩家老・本多家の菩提寺となるが、かつての栄光を取り戻すことはできなかった。とはいえ由緒ある寺として、現在も存続している。

 永平寺の方はどうなったかというと、これも過去の記事で述べたが、一時は無人寺になってしまうほど、さびれてしまう。永平寺第5世に就任した義雲が立て直しに成功し危うく廃寺を免れるが、規模としてはやはり小さいままであった。室町中期になると、總持寺の峨山派の流れを継ぐ禅僧たちが永平寺を立て直すべく入寺、これにより永平寺は息を吹き返すのであった。

 峨山派の禅僧たちは「三代相論」のいざこざで、追い出されるような形で永平寺から出た、總持寺をルーツに持つ派閥である。しかしながら永平寺道元が開基した由緒正しい寺であったから、彼らは改めて永平寺を根本道場と定めたのであった。1507年には後柏原天皇より「本朝曹洞第一道場」の勅額を下賜されている。これによって永平寺は名実ともに、總持寺と並んで曹洞宗の中心となす道場と認められ、今に至るのである。

 このように曹洞宗の発展は、總持寺系の法脈によって維持されていることが分かる。室町期における曹洞宗の禅風もまた、總持寺系の禅僧たちの手によって形作られたわけであるが、その特徴を一言で表現するとするならば、「禅の民衆化」であるといえよう。これもまた過去の記事で述べたが、庶民向けの葬儀を発明し、それをきっかけに地方における教線を拡大していったのが、曹洞宗なのである。

 この時期の曹洞宗の語録を見ると、葬儀の際の法話が圧倒的に多く、文集の大半を占めている、とのことである。しかもこの法話は極めて平易な内容で、同時期の五山において流行していた「中華趣味の高尚な文芸作品」のような法話とは、全く異質なものになっている。

 要するに一般庶民向けに噛み砕いたものになっており、如何に曹洞宗が庶民の葬儀に力を入れていたか分かる内容になっているのだ。曹洞宗は、このように葬儀や祈祷などといった仏事を武器に、一般庶民層に食い込んでいったのである。

 次に曹洞宗はどのような地域の布教に力を入れたかというと、畿内臨済宗五山派に押さえられていたから、地方での活動に力を入れざるを得なかった。主に北陸から東北にかけてと、肥前を中心とした九州西部、そして東海地方への布教に成功している。

 しかし地方に活路を見出したのは臨済宗の林下諸派も同じことであって、そうなると互いに市場が被るわけである。地域によっては競合することになることもあったようだが、意外にも住み分けができていたようである。

 武田氏の領国内における、寺院分布を基にした研究がある。それによると、武田家の直轄地とその周辺にある寺院は、臨済宗・妙心派などの林下が多く、土着性の強い武士が多い地域は曹洞宗が強い、という結果であった。

 武田家は戦国大名――つまりは領国の支配者である。そうなると「国を治める王」が持つべき資格である、禅的教養や高い学問性・中央とのパイプなどが必要となってくる。そしてこうしたものを提供できた宗派は、京を本拠とした五山ないし、それと繋がりがあった林下を置いて他にはなかったのである。これに対するに、曹洞宗は民衆の教化に力を入れた。つまり進出する地域は同じでも、対象となる顧客層が違ったのである。

 妙心寺派に代表される臨済宗の林下諸派もまた、葬儀や祈祷など庶民に近しい形での布教を行っていたが、庶民層がメインターゲットであった曹洞宗は、より思い切った手段で布教する方法を編み出している。次の記事では曹洞宗が行った、庶民向けのユニークな信者獲得イベントを紹介してみよう。(続く)

 

室町期の仏教について~その⑤ 禅寺の興亡 その制度と文化(下)

 次に禅寺における生活スタイルを見てみよう。禅僧たちは、基本的には僧房において集団生活を行っていた。彼らを率いるのは、既に悟りの境地にいる(はずの)師匠である。師と共に生活し、その一挙手一投足に注目し、そこから何らかの意味を見出すべく日々坐禅し、公案に挑むのである。大寺院であれば数百人規模の禅僧たちが、一堂に会して生活していたわけである。

 とはいえ時代が下るにつれ、五山における禅風に変化が起きてくる。まずは禅の密教化である。初期臨済宗の特徴は兼修禅であったから、必ずしも密教を否定する立場にはなかった。禅僧の中には伝法灌頂を受けるものなどもいたのである。しかしその場合でも、密教はあくまでも禅と並列して学ぶべき宗派であり、それぞれの教義は別々のものとして学んでいたのである。

 しかしこの頃になると、旧仏教から数多くの僧が転派してきたこともあり、禅の教義自体が他宗の教えと混合してくるようになる。具体的には加持祈祷などの仏式儀式の導入であり、次第に密教成分多めの禅――癒合禅とでもいうべき状態へと体質が変化してくるのだ。

 更にこのうえ、浄土思想まで混淆してくる。東福寺南禅寺の住持を務めた雲章一慶などのように、他力本願的思想のもと、禅寺にて南無阿弥陀仏を唱える僧なども出てくるようになるのであった。

 こうした禅浄一致の精神が分かりやすく可視化されたのが、足利義政の建てた銀閣寺である。禅的世界を表現した書院造で建てられている、あまりにも有名なあの建物は、実のところ浄土信仰の観点から建設された「観音殿」なのである。同境内にある東求堂もまた同じで、蓮池の前に建てられ阿弥陀仏を安置した「阿弥陀堂」なのであるが、要するに極楽浄土を表現しているのである。

 

浄土思想についてはこちらの記事を参照。確実に浄土に往くためには、死ぬ直前に浄土をイメージする必要がある。それを助けるため、地上に浄土を再現するのである。

 

 このように禅的要素が薄まってしまった五山において、学問は解放されたものでなく、口伝で伝えていく因習的なものに転化してしまう(その代替として、詩文が発達することになるのである)。それに伴い五山内に閉鎖的な派閥が幾つも乱立するようになる。そして禅僧たちは、それぞれの派閥の本拠となる山内の塔頭に暮らすようになっていく。要するに派閥のボスの下に少数の弟子たちが集まって、そこで暮らすわけであり、仏事供養などの時だけ僧堂に集合し、集団生活の態を成すわけである。

 あの夢窓が開基した天龍寺でさえも、1400年前後には既にそのような状態であったらしく、五山文学の作品の中にもそうした記述がみられる。4月から7月にかけて行う禅の修業に「一夏安居」というものがあるが、その期間中ですら100人位は入れる僧堂に7~8人しか座禅していない、と嘆いているのだ。

 中央にある五山派がそうした体たらくであったから、志のある禅僧は悟りの道を他に求めざるを得なかった。野にある大小の門派(こうした在野的禅寺を「林下」と呼ぶ)はまだ集団生活の名残をとどめており、本来の禅的な世界観を維持していたから、禅の理想を見出さんと林下に下野する僧たちもまた多かったのである。

 こうした林下の中で、最大のものは大徳寺派であった。これらの中では、師を求めて歴参するような古き良き伝統がまだ保たれていたのである。あの一休さんこと一休宗純は、若いころに京十刹のひとつであった安国寺を飛び出し、良き師を求めて遍歴した結果、最終的にこの大徳寺にたどり着いている。大徳寺は五山では失われてしまった禅風を継ぐものとして、大いに栄えたのであった。

 この大徳寺派が日本の文化面で貢献した分野は、茶道である。茶道黎明期の名人として、一休の弟子である村田珠光の名が挙げられる。それまでの茶会は、出された茶の産地を当てる「利き茶」のような遊戯的要素が強いイベントであり、時には飲酒や博打なども催されていたのだが、そうした行為を禁止し禅の精神を基調とした四畳半の大きさの茶室を造ったのが、この珠光であった。

 

茶室にかける掛け軸のことを「茶がけ」と呼ぶが、大徳寺住持の墨蹟のものが重宝された。これを「大徳寺もの」と呼ぶことから分かるように、大徳寺派が茶道に与えた影響は極めて大きいのである。画像はYahooオークションに出品されている「大徳寺もの」。検索すると分かるが、大量に安価で出品されている(本物かどうかは不明)。大徳寺513世にして第13代管長・中村祖順氏の作品とのことで、調べてみたら1982年に亡くなられた方であった。つまり現代でも、大徳寺の住持は「大徳寺もの」を生産し続けているということになる。

 

 「林下」には、この大徳寺派の他にも、妙心寺派や幻住派などがある。特に妙心寺派は、地方においては大徳寺派よりも大きな勢力を誇った臨済宗派閥で、戦国大名や国衆に留まらず、連歌師などの芸能人や町衆・医者・農民・職人らなどからも幅広い信者を得ていた。

 しかしこの妙心寺派が躍進した理由は、実のところ民衆にとってウケのよかった祈祷や葬式仏事を盛んに行ったからであった。そのためには各地の土俗信仰も比較的容易に受け入れざるを得なかったから、本来持っていた禅の修行面がおざなりになってしまった面もある。

 例えば、禅問答の答えを密々に伝える、虎の巻である「密参録」のようなテキストが口伝として伝授されるようになる。これは要するに、「このような公案に対してはこのような答え、相手がこう返してきたらこのようなロジックで返せ」などを記した公案の参考書なのである。公案自体が型にはまったものとなり、内容も衒学的なものに堕してしまったのであった。

 このような状態に陥ってしまったのは妙心寺に限らず、在野の禅寺である他の林下も同じことで、室町も後期になると林下も五山とそう変わりなくなってしまったわけである。近世初頭の妙心寺では、禅修行の根本道場である僧堂が存在しなかったほどであった。

 そして応仁の乱が発生する――戦国時代の始まりである。この乱で五山は壊滅的な被害を受けてしまうのだ。特に京が戦乱の舞台になってしまったことは痛手で、東班衆の基盤である貸銭業が難しくなってしまった。また各地では守護大名の力が強まって五山の荘園管理が難しくなり、関所の自由通過権なども失われてしまう。東班衆の去った荘園では、守護大名が国人に管理させる守護請が多くなるのである。荘園支配の終わりの始まりで、これが戦国大名の台頭につながっていくのである。

 臨在宗、特に五山は室町幕府と結びつくことで、その勢力を拡大していったわけであるが、幕府権力の衰退とともにその勢力が弱まってしまうのは避けられないことであったのだ。

 それでも幾つかの林下は地方の戦国大名の庇護を受け、その地において発展することになる。武田家の恵林寺や、今川家の臨済寺(共に妙心寺派)などが有名である。先に紹介した茶道を始め、詩文・和歌・建築・庭園・水墨画など禅宗の教養文化は、そうしたものを求めていた戦国大名たちに受け継がれていくことになるのだ。(続く)