根来戦記の世界

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根来寺・新義真言宗とは~その② 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(下)

 平安後期に流行した「浄土思想」。これを象徴するのが「この世をば~」の歌で有名な、わが娘を3代に渡って天皇の后に送り込み、位栄華を極めた藤原道長の死に様である。

 己の死が近いと感じた彼は、法成寺という寺を突貫工事で建てさせた。寺には三昧堂阿弥陀堂無量寿院)・五大堂などの伽藍が立ち並び、阿弥陀堂の本尊にはもちろん阿弥陀如来を据えた。夕方になると、道長を先頭に大勢の僧侶たちが念仏を唱え始め、「浄土はかくこそ」と思われるほどであった、と伝えられている。これはつまり、浄土を地上に再現しているわけである。

 道長は死に臨んで、東の五大堂から東橋を渡って中島、さらに西橋を渡り、西の阿弥陀堂に入った。そして、九体の阿弥陀如来の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、僧侶たちの読経の中、自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生したという。これが浄土思想的には、理想の死に方だったのである。

 

福山敏夫氏による「法成寺伽藍推定図」。法政寺は現在の京都市上京区東端、鴨川西岸に建てられていたが、残念ながら現存していない。その規模は東西2町・南北3町に及び、摂関期最大級の規模を誇っていた。「栄華物語」によれば「寺の池の砂は水晶のごとく煌めき、池の水は青く澄み、造花の蓮の花が台となり、そのひとつひとつに仏が据えられている。伽藍のことごとくが池に映えて、まるで仏の世界に見えた」とある。浄土思想の考えでは、往生した人は浄土の池から生えている、蓮の花のつぼみの中に転生することになっているから、それを再現しているわけである。なお浄土思想的には、生前に悟っている必要はない。浄土で悟ればいいのである。浄土は悟るのに最適の場所だから、そこにいるだけで修行が捗ることになっている。なので往生してしばらくしたら、誰でも成仏することができる、という設定なのだ。

 

 道長が死んだのは1028年のことだが、このすぐ後辺りから「末法思想」という考えが流行し始める。これは元々、4世紀末にインドから中国にもたらされた「月蔵経」という経典にあった教義で、「正しい仏の教えはやがて衰え、最後には滅んでしまう」という教えから発展したものだ。6世紀の中国では、この教えを基にした「三階教」という特異な一派が起こり、大変に流行した。

 この三階教が日本に伝えられていたかどうかは定かではないが、月蔵経自体は大乗仏教の5大経典のひとつ「大集経」に納められている経典だから、末法思想そのものは大集経が日本にもたらされたと同時に伝えられていたようだ。そして平安末期になって、この末法思想が急速に蔓延しはじめるのである。

 この末法思想、一見キリスト教でいう終末論(ハルマゲドン)と、似たような思想に見える。ただキリスト教の終末論では、不信者は容赦なく地獄行きだが、正しいキリスト教徒は天国に行って「めでたし、めでたし」で終わるから、そこに救いがある。敬虔な信者の中には、ハルマゲドンを待ち望んでいる人たちさえいるのだ。キリスト教系カルトなどは、特にこうした傾向が強い。

 しかし末法思想は異なる。正しい教えが伝えられなくなるということは、人々は悟ることができなくなる、ということだ。そこに救いはない。

 比叡山の僧・皇円は「扶桑略記」に「1052年の疫病の流行と共に、末法の世に入った」と記しており、これが当時の日本における認識だったようである。この頃、前九年・後三年の役があり、続いて保元・平治の乱平氏の台頭、そして源平合戦からの鎌倉幕府の設立など、日本中が戦乱に巻き込まれる期間が続くのだ。それに伴い、新興勢力である武士たちが表舞台に台頭してくる。

 武士だけではない。国家や寺社・貴族たちに隷属する存在であった、一般の人々もまた、経済的な力をつけてくる。上位存在に仕えるだけの「職能人」から、利権を拡大しそれを確保する「職業人」への変化である。平安末期は、職人共同体や商人階級の萌芽がみられる時期なのである。古代という時代が終わって中世に入ったのだ。世の中の仕組み自体が変わろうとする、転換期にあったのである。

 所詮これまでの宗教は、あくまでも皇族・貴族らなど支配階級のものでしかなく、庶民への関わり方としては、統治のためのツールとしての面が強かった。彼ら庶民たちが力をつけてきたことによって、ようやく自律的に宗教と対面できるようになったともいえる――とはいえ、宗教が本当の意味で庶民のものになるには、室町期を待たなければならないのだが。

 

庶民による宗教的自治がピークに達したのは、15世紀後半から16世紀半ばにかけてで、一向一揆法華一揆がそれにあたる。特に法華一揆については、上記を参照。

 

 既得権益を侵されそうになった、旧秩序の体現者である貴族層や寺社勢力は、こうした新しい動きに激しく抵抗した。そもそもこの時代、先人たちの理想とした山林仏教の姿は既にない。妻帯する僧も珍しくなかったし、上級の僧位は権門子弟に独占され、下級僧である堂衆らは僧兵として暴れまくっていた。

 そんな彼らは、世に蔓延する末法思想に対してどのように対処したのだろうか?この時期に成立したとみられる「末法灯明記」は、当時の僧たちの自己弁護の書であるが、ここにはこのようなことが書かれている――「正法の時代には、戒律を守らねば破邪となる。だが現在のような末法の世においては、戒律そのものが成立していない。そんな時代にも関わらず、我々は僧をやっている」

 ここまではいい。だがこう続くのである――「だからこそ戒律を守っていないが、名目だけでも僧をやっている我々は、実に健気な存在であるといえる。だから世間は我々を大いに敬うべし」。末法思想に対する、当時の貴族仏教が出した答えがこれである。もはや己の破戒ぶりを隠そうともせず、開き直っているのである。

 こうした姿がまた、正しい教えを伝えていない末法の世を象徴する姿、として人々の目に映った。結果、今までの寺社による「悟り」の否定につながる。つまりは真言で教えるところの「即身成仏」する方法論そのものが間違っている、ということになるからだ。

 ここで脚光を浴びたのが、先の記事で触れた死後の極楽浄土への往生を求める考え方、つまりは「浄土思想」だったのである。現世で救われないならば、せめて来世で救われることを望んだのである。この時期に浄土思想に基づいて建てられた有名な寺院としては、先に述べた「法成寺」や「平等院鳳凰堂」、「中尊寺金色堂」などがある。(続く)

 

Wikiより転載「平等院鳳凰堂」。ここには道長の別荘・宇治殿が建てられていたが、その子である関白・藤原頼通が寺に改めた。末法の世が始まった、1052年に建設が始まっている。極楽浄土をこの世に映したその様は、当時の俗謡に「極楽疑わしきは、宇治の御堂をうやまえ」と謡われるほどであった。時代が下るにつれ密教系の影響が入ってしまっているので、往時の浄土思想の形は幾分かは薄れてしまっているが、平等院本堂は創建当時の姿を残している。上記の画像は昼だが、想像してみよう――夜になる直前、空が深く蒼くなる薄暮どき、池を前に置いて対岸から鳳凰堂を臨む。すると堂内にある如来像が明かりに灯され、幻想的に浮かび上がる。また鳳凰堂そのものも手前の池に映しとられ、まさしく浄土がこの世に顕現するのである。

 

根来寺・新義真言宗とは~その① 平安末期に流行した、2つの思想「浄土思想」と「末法思想」(上)

 ようやくにして根来寺新義真言宗の教義がどういうものなのか、どのようにして成立したのか、高野山から独立に至った経緯などについて語れるまで辿り着いた。

 そもそもこの話がしたくて始めたシリーズだが、前段として仏教の基礎知識がないと理解できないので、そもそも日本における仏教とは~という話から始めざるを得なく、予想以上に長くなってしまった。途中からやむなく前半部分を「日本中世に至るまでの仏教について」というシリーズとして独立させた次第である。

 信心深い性質ではないので、信仰としての仏教にはそこまで心を惹かれない。しかしそのロジックや思想の変遷などは面白く、全14回と長めのシリーズになってしまった。番外編の円載で3回も続いたのは、流石に長すぎたかもしれない。でも面白いので筆が進んでしまった――それにしても1200年前の古代に生きた、一人の僧の人生をここまで追えるのは驚くべきことである。日本に残っている史料の量は、特に中世以降は世界有数レベルだと言われているが、古代はそうでもない。にも関わらず円載の人生をこんなに追えるのは、中国側にも史料が残っていることと、彼について書かれているのが寺社関連の史料だからである。寺社は史料の宝庫なのである。

 そんなわけで仏教の思想史を綴ってみたが、これでも表層を軽くなぞっているだけで、書こうと思ったらいくら書いてもキリがないのだ。また日本の仏教を知るには中国の仏教も知る必要があり、必然的に遣唐使についても調べるわけであるが、これがまた素晴らしく面白く(良書が多い!)、本当は遣唐使についてもすぐに書きたくてたまらないのだが、話が進まないので今は我慢する。いずれ独立したシリーズとして紹介するつもりだ。

 検索先から直にこの記事に辿り着いた方は、これを読む前に前段となる下記のリンク先「日本中世に至るまでの仏教について」の一連の記事を読むことをお勧めする。

 

 

 ――さて本題に入ろう。「浄土思想」或いは「浄土教」という、仏教の教えがある。元はインドで生まれた仏教信仰の一形態だが、その基礎となっているのが「現在地方仏」という考え方だ。これは「この世界ではブッダは亡くなったが、この世界とは別にある無数の世界では、別のブッダが今も活動している」というもので、現代でいうところのパラレルワールドと同じ考え方なのである。

 この浄土思想、他の宗派と同じく中国において発展した。その代表的なテキストは「無量寿経(むりょうじゅきょう)」という経典だが、そこには「阿弥陀仏を信じ、生まれ変わろうと願いつつ10回念仏すれば、その世界に生まれ変わることができる」と書いてある――つまり他のブッダが今も活躍している並行世界に転生できる、ということだ。

 これはつまり、いま流行りの「異世界転生」ができる、ということである!――ただし、転生先でチート能力が付与されるかどうかは、経典には記されておらず、また昔はライトノベルもなかったから、異世界転生という概念は広まらず、代わりに「死後、極楽浄土に生まれ変わることができる」という考え方に落ちついたわけである。

 この浄土思想、7世紀には既に日本にも来ていたとみられる。しかし、そこまで盛り上がることはなかった。浄土思想は多分に他力救済的な要素が強い。本来の仏教はあくまでも自分が修行して悟りに至る、つまり自力修行こそが主流の考え方であり、奈良~平安初期の主流はあくまでも南都六宗、そして天台宗真言宗であった。

 しかし、この浄土思想を日本に持ち込んだ僧がいる。おなじみ円仁である。彼が修行した中国の五台山においては、「四種三昧」という精神集中のための行が行われていた。円仁はそれを日本に持ち帰ったのであるが、そのなかのひとつ「常行三昧」は「阿弥陀仏を本尊として、90日間その周りを回り、阿弥陀仏の名を唱えながら精神集中を図る」というものであった。これが平安期の貴族たちに、大変にウケたのである。

 この辺りを、もうちょっと説明しよう。「阿弥陀仏の名を唱えながら、精神集中を図る」と書いたが、これは要するに「念仏を唱える」ということである。仏像を前にして念仏を唱える。何を当たり前のことを言っているのかと思うかもしれないが、実は円仁が上記の「常行三昧」を導入するまでは、そうではなかったのだ。

 そもそも「念仏」とは読んで字のごとく、「仏を念じる」行為である。念じることが目的であってその手段は様々であったが、平安平安初期までの念仏は「観想念仏」といって、「仏や極楽浄土を脳裏に思い浮かべ、一心不乱に念じる」方法が主流だったのである。

 例えば「無量寿経」と並ぶ、浄土思想の重要な経典である「観無量寿経」は、「極楽浄土と、そこにいる仏たちを如何に観想するか?」を示したマニュアルともいえる。まず西に沈む夕日を見ることから始まり、最終的には浄土にいる仏たちを見るに至るまでを、13の段階に分けて描いているのだが、情景を実に事細かに描写している。そうしなければ読む人を観想を通じて極楽浄土に導けないから、イメージしやすいように細かく描写しているわけだ。

 この場合、口で経典の一部を唱える「称名念仏」は必須ではない。称名念仏もあるにはあったが、数多ある念仏の一形態にしか過ぎなかった。

 

広隆寺弥勒菩薩半跏思惟像」。国宝第1号である。そもそも、仏像とは何のためにあるのだろう。結論から言うと、祈りを対象にフォーカスさせるためである。目の前にあるアイコンに対して祈ることで、念を集中させることができるわけである。これは古今東西の宗教に共通する動作なわけだが、特に仏教ではその対象となる仏像の美術化が進んだ。仏像美術は極めて奥が深く、世界的にも高く評価されたジャンルなのだが、これらが発達した理由はちゃんとあって、要するに一種のイメージトレーニングである「観念念仏」を、し易くするためなのである。「観無量寿経」を読んだが、文章だけではしっくりこない人でも、目の前に仏像があればイメージしやすい。仏像を前に如何に観想するか、その方法論まで確立している。まず阿弥陀仏の座している蓮華座を観じ、そこから肉髻・毛髪・耳など、42の部位を頭から足元まで順に観じ、下までいったら今度は逆に頭まで観じていく。これを何度も繰り返す。それこそ、舐め回すように見ていくのである。なので、対象となる仏像が芸術的に優れていればいるほど、観想もより捗るわけだ。奈良から平安期の貴族たちは、観想するために競って質の高い仏像を求めたから、仏教美術が発達したというわけである。同じ文脈で仏画曼陀羅も、観想の為に可視化されたものと考えることができる。この時期の仏像・仏画の美術的評価は極めて高く、国宝が目白押しである。

 

 そして円仁が日本に新たにもたらしたこの行であるが、ここで唱えられる称名はこれまでの単調なそれとは違い、極めて音楽的な曲調の称名であったのである。以降、叡山の称名念仏は修行というよりも、儀礼的な面が強まる。そしてこの称名念仏と共に浄土思想が、平安貴族の間で爆発的に流行することになるのである。(続く)

 

奈良・當麻寺の本尊は仏像ではなく、この曼陀羅密教曼荼羅と区別するため、異なる漢字を用いる)「観無量寿経浄土変相図」である。これは浄土思想の経典「観無量寿経」の世界を、ズバリそのまま視覚化したものだ。文章だけではしっくりこない人でも、絵画化すれば観想しやすいのである。当時の人はこれを見ながら、浄土へ往けるように願った。

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑭ 番外編 破戒僧・円載(下)

 次に考えてみたいのは、前記事の4にあげた「円珍に対して中傷を行ったり、行跡に乱れがあること」である。実はここに円珍と円載の仲が悪くなった、直接的かつ最大の原因があるのだ。

 前記事で述べたように、2人の衝撃的な再会から半年後、円珍は円載と落ち合うために越州へ行く。円載はなかなか来ず、実際に落ち合ったのは蘇州においてであり、そこから共に密教の灌頂を授かるべく長安へ向かった。

 その途上の潼関の宿にて、円珍は円載より酷く罵倒されたわけだが、この争いの原因は何だったのであろうか?円珍はその原因を述べていない。だが推測することはできる。

 円珍は渡唐の際、お供の僧を何人か連れてきている。その中の1人に豊智という、この年で35歳になる僧がいた。この豊智だが、実はここ潼関にて名を改めている。その新しい法名を智聡という。改名した理由について、円珍は「事の由は、之に記すこと能わず」と書いているので、彼にとって間違いなく不本意なものであったものと推測される。そして潼関の宿における2人の言い争いは、ほぼ間違いなくこれが原因と思われるのである。

 なぜそれが分かるのかというと、実は改名した智聡はこの後、円珍とは別れ円載と行動を共にするからだ。つまり名を変えると同時に、師匠を変えてしまったのである。円珍は遥々日本から連れてきた弟子を、円載に取られてしまった形となるのだ。

 「師匠を変える」というのは、相当な出来事である。その直接的な原因は分からないが、前兆はあった。潼関には関所があり、ここを通過するためには過所(手形)が必要なのだが、円珍一行(4人であった)に対して発給された過所は2組2枚ずつであった。これにより円珍・丁満と、智聡・的良のコンビに別れ、別行動を取ることになったのである。

 この過所の発給には、円載が絡んでいたらしい。ここから先は推測なのだが、越州から遅れて出発した円載は智聡・的良と共に行動し、蘇州で円珍らと落ち合ったのではないだろうか。円珍にしてみると、円載は自分と智聡を隔離させ、蘇州までの道のりの間に弟子を誑し込んで裏切らせた、ということになるわけだ。

 立ち位置が違うと、見え方も変わる。或いは智聡は円珍に対し、かねてから不満があったのかもしれない。これを機に円載の元に走っただけであって、本当の原因は円珍にあったのかもしれない。今となっては分からないが、いずれにせよ円珍は、潼関宿にて弟子を取られた怒りを爆発させたのである。著書には「一方的に罵倒された」とあるが、そうではなく互いに激しくやりあったのだろう。

 この事件こそが円珍が円載を憎む、決定的な契機となったのである。その後の長安における中傷騒ぎも、2人のこうした関係性があってのことだろう。

 最後に4の金に汚い点について。これはある程度、本当のことのような気がする。半僧半俗の生活を送っていた円載は、金に困っていたのではないだろうか。そもそも過去分かっているだけで2回、日本に対して送金依頼をしているのが確認できる。そういう意味では円載はしっかりしているというか、がめついところがあったのかもしれない。「5000両云々~」は大げさにしても、円珍に会った時「もしかして自分に対して、日本からの金が託されているかも」という思いがあって、そうした会話が成されたのかもしれない。

 以上、円載にまつわる1~4までのスキャンダルを整理してみた。これらを客観的に分析しまとめると、おそらくこのような流れであったと思われる――以下はブログ主の想像である。

 ――17年ぶりに円載に会った円珍は、胸に溜まっていた「唐決」に対する不満をいきなりぶちまける。うんざりした円載は、日本語が分からないふりをして受け流す。ここからボタンの掛け違いが始まったのである。更に円載による私的な留学僧身分へのダメ出し、そして金に対する執着ぶりが、円珍の気分を害した。1か月一緒に暮らすうち、円載が妻帯し子まで成していたことを知り、かつて抱いていた敬愛の情は、軽蔑へと変わる。

 学問的な面から見ると、最澄の天台教義の確立に尽力するわけでもなく、むしろそこから距離を取っているようにさえ見える。これまで無為に過ごしていたも同然ではないか。同時期に渡唐し、日本に帰ってきた円仁と比べると、何という差だろう!

 そうした気持ちを抱いていたところに、よりにもよって可愛がっていた弟子が裏切って改名し、円載の元に行くという!奴がそそのかしたに違いない!許せぬ!――

 円珍は「行歴抄」の元となる「在唐巡礼記」を、上記のようなテンションで書いたのではないだろうか。この書を実際に執筆したのは、日本に帰ってきてからのことであるが、書いているうちに当時のことを思い出してきて、怒りが沸々と沸き上がり、感情の赴くままに筆を走らせたのだろう。

 実は円珍には、断片的だが「在唐巡礼記」とはまた別の記録が残っている。これらの初期の草案を見てみると、円載に関する記事の時系列に幾つか齟齬があるのが確認できる。「在唐巡礼記」では、円珍は出会って比較的すぐに円載の破戒ぶりを知った、という内容になっているが、実際にはそこまでの破戒行為があったわけではなさそうだ。

 円珍が記した円載の数々の悪行は、後から針小棒大に膨らませた、或いは付け足されたエピソードに違いない。2人の仲が決定的に悪くなったのは、潼関の宿での一件があってからであって、その前ではない(失望はしていただろうし、ウマも合わなかっただろうが)。そうでなければ、そもそも「一緒に長安に行って灌頂を受けよう」などいう流れにならないはずだ。

 真相はどうだったにせよ、天台座主になった円珍のこの書によって、円載は日本において「堕落した破戒僧」の烙印を押されてしまったわけである。

 円珍と別れた後の円載は、どうなったのだろうか?855年に長安にて灌頂を受けた後の円載の人生は、かなり上向いたようである。長安において一流の文人たちと交流し、第19代皇帝・宣宗と謁見し、その帰依まで受けている(なおこの宣宗、晩年は道教に傾倒し、前皇帝・武宗と同じように丹薬を飲んで中毒死している)。

 862年に高丘親王が渡唐した際には、親王一行の面倒を彼が見ている。一行が長安にて滞在した西明寺は、円載のいた寺だったのである。円載は親王の天竺行きの勅許を、第20代皇帝・懿宗(いそう)から取り付けているのにも奔走している。

 

円珍。日本に帰ってから園城寺三井寺)の別当になり、同寺を密教の修禅道場に定めた。のち、延暦寺第五代座主に就任する。極めて学識の高い優れた僧なのだが、こと円載が絡むと冷静ではいられなかったようだ。高丘親王と入唐した一行の中に宗叡という、後年「入唐八家」最後のひとりに選ばれることになる、優秀な真言僧がいる。彼は途中で親王らと別れ、五台山・天台山など各地で修業を重ね、865年に無事日本に帰国している。この宗叡、かつて日本において円珍から密教を学んでおり、2人はいわば師弟関係にあったのだが、帰国後の関係は険悪になってしまっている。実は宗叡は、唐滞在中に円載から密教呪術を学んでいたのだが、これが円珍の逆鱗に触れたらしい。円珍は別の書に以下のように記している――「宗叡はかつては私の弟子だったのに、あの円載から邪法を学び、この私を呪詛するようになってしまった。これは夢で見たことなので間違いない」――夢で見たことを根拠に、一方的に嫌われてしまってはたまったものではないが、円珍は夢のお告げを重要視していた。円珍はまた、よく夢を見る人でもあったのだ。彼の肖像画や像は、全て頭頂が尖って輪郭が卵型を呈している。これを「霊蓋」(れいがい)といい、左道密教では未来を予知できる能力を備えるとされている。この通り予知夢は彼の十八番で、本人も周囲もそれを信じて喧伝していたから、後付けでこうした頭の形で描かれるようになったと思われる。

 

 南海に行く親王一行を、長安で見送ってから12年後の877年。在唐40年を超え、70を超えた年になった円載は、遂に日本への帰国を志すのである。死ぬ前に故郷を一目見たい、と思ったのであろうか。長安から去る際には、都の名士や名高い詩人たちが別離の詩を送っている。帰りの船団は、かつて円珍の弟子であった智聡も一緒であった。また船倉には、円載が在唐時に集めた万巻の経典が山と積まれていたという。

 しかしながら、しばらくして日本に届いたのは「円載死す」の報せであった。船団は不幸にも嵐に遭遇、円載の乗っていた船は粉々になり、集めた経典ごと海の底へ沈んでしまったのである。この報せを日本にもたらしたのは、別の船に乗っていて危うく遭難を逃れた智聡であった。

 こうして円載は生まれ故郷を目前にして、海の藻屑となってしまった。唐にて己が与えられた立ち位置で懸命に生き、数奇な運命を辿った僧の、これが最期であったのである。(終わり~次のシリーズに続く)

 

言わずと知れた井上靖氏による、遣唐使の鑑真招来を描いた名作。若いころに(たしか高校生だったか)一度読んだきりなのに、印象に残ったシーンを35年経った今でも、鮮明に覚えている――やはり凄い名作なのだ。劇中では(時代的にはズレているのだが)この円載をモデルにしたと思われる僧が複数出てくる。円載はあまりにも逸話が豊富すぎるので、複数の人物に分散してキャラを当てはめたものと思われる。

 

このシリーズの主な参考文献

・アジア仏教史 日本編1 飛鳥・奈良仏教/中村元・笹原一男・金岡秀友 編/佼成出版社

・東アジア仏教史/石井公成 著/岩波新書

・仏教とはなにか その歴史を振り返る/大正大学仏教学科 編/大法輪閣

・日本仏教史 思想史としてのアプローチ/末木文美士 著/新潮文庫

律令国家と隋唐文明/大津透 著/岩波新書

・比べてわかる!日本の仏教宗派/永田美穂 監修/PHP研究所

最澄と徳一 仏教史上最大の対決/師茂樹 著/岩波新書

・日本の仏教を築いた名僧たち/山折哲夫・大角修 編著/角川選書

・円仁 唐代中国への旅 入唐求法巡礼行記/エドウィン・O・ライシャワー 著/講談社学術文庫

・最後の遣唐使/佐伯有清 著/講談社学術文庫

・唐から見た遣唐使 混血児たちの大唐帝国/王勇 著/講談社選書メチエ

・高丘親王入唐記/佐伯有清 著/吉川弘文館

・悲運の遣唐僧 円載の数奇な生涯/佐伯有清 著/歴史文化ライブラリー63

・その他、各種論文を多数参考にした。

 

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑬ 番外編 破戒僧・円載(中)

 円珍は円載との出会いを「在唐巡礼記」という書物に書き残している。この書は現存しないのだが、「在唐巡礼記」を要約した「行歴抄」という書物が後世になって編纂されたおかげで、2人の出会いはどんなものであったのかが分かるのだ。当該部分に手を加えて要約してみよう。

 ――馬に乗って寺にやってくる老人がいた。兄弟子の円載だ。息せき切って彼の下に駆け寄って礼拝し、涙を流して喜んだ。ところが円載の顔には喜色はみえない。思いがけない反応に、頭から冷や水をかけられた思いであった。昔、比叡山で机を並べていた先輩後輩の仲であったのに、この態度はおかしい。一体どうしたことだろう。話をしても全く聞いていない様子。どうやら日本語を忘れてしまったらしい――

 思いもかけない円載の様子に、戸惑いを覚える円珍。中国語や筆談を交えての会話が進む。しかし決して弾むわけではない。そのうち話の流れで円珍が公式の身分ではなく、私的な入唐求僧の身分で渡唐したことを知った円載は、こう言い放ったのである。

 ――それではダメだ。本国の太政官に公文書を送って、天皇より勅令を改めて下してもらい、使者に持ってきてもらいなさい――

 この一言は円珍にとっては、酷くプライドを傷つけられる言葉であった。「お前は自分(円載)と違って、天皇から勅牒を貰った、れっきとした留学生でないのだな」と言われたに等しいからだ。更に「日本から大金(5000両)持ってきたというが、本当か?」と聞いてきたが、これには円珍は言葉を濁して答えなかった、とある。

 次の日、改めて円珍は日本から持参した「円載を伝燈大法師位に叙する」勅牒を円載に渡した。円載はこれを喜んで受け取った、とある。これを入手するにあたっては、円珍もそれなりに骨を折ったのである。更に会話を続けていると、思い出してきたのか徐々に日本語を語り始めたではないか。

 そこで後日、かつて天台山から返ってきた「唐決」(前記事で触れた、「天台教義に関する質問状」のこと。この回答を円載は843年に弟子に託して日本に送っている)についての話をしたところ、これには全く興をそそられない様子。天台教義について、全く語ることができないのだ。これには円珍はあきれ果て、二度と教義について語ることはしなかった、とある。

 1ヵ月余り、国清寺に滞在した円載は越州へと帰っていった。円載は還俗した際にそこで妻帯し、子まで成していたのである。「会昌の廃仏」以降は、里に下りて蚕を飼って養蚕業に従事するなど、半僧半俗のような形で暮らしていたようだ。

 円載が去った後、国清寺にて円珍は彼に関する衝撃的なスキャンダルを知る。それはなんと円載がかつて尼僧を強姦したことがある、というものであった。更に円載が国清寺にいたときに、日本から円修という天台僧が留学しに来たことがあるのだが(843年)、その円修に私生活での堕落ぶりを指摘され、これを逆恨みして毒殺(!)まで企てた、というのである。

 6か月後に円珍は円載の住む越州へと向かう。そこで落ち合い、共に密教の灌頂を授かるべく、長安へと向かったのである。この旅の途中、潼関という場所で2人の間で深刻な諍いが発生している。著書で円珍はこう記している。

 ――潼関で宿泊した夜、円載は自分を口汚く罵ってきた。あらゆることを侮辱し、罵倒したのである。相手にするのも値しないので、目を瞑り口を塞ぐことでその場を何とか乗り切った――

 ただし円珍は、この諍いの原因が何であったのかは記していない。次の日からまた何事もなかったかのように旅を続け、長安に到着する。長安では2人揃って、密教の本場・青龍寺にて胎蔵界の学法灌頂を授かっている。ただこの青龍寺滞在時、円載による円珍への酷い中傷があり、人間関係でひどい被害を被った旨の記載がある。こうした卑劣な口撃に対し、円珍は一切反論することなく黙って耐えた、とある。

 この後、円珍は円載と別れ、858年に日本に帰る。そして上記の内容をつぶさに記した。この円珍の記録によって、円載の破戒ぶりが日本に知れ渡ったのである。

 だが果たして、円珍のこれら円載についての一連の記述は、信用できるものなのだろうか?佐伯有清氏はその著書「悲運の遣唐使」において、円載の弁護を試みている。佐伯氏によると、円珍の記述にはいくつかの矛盾が見られ、また伝えるべき情報も自分にとって都合のいいように取捨選択・編集されているという。

 円載の破戒僧ぶりを示すエピソードとして、主なものを以下にあげてみた。

 

1・尼僧の強姦疑惑

2・円修の暗殺未遂疑惑

3・天台の教義を悉く忘れてしまったこと

4・円珍に対する中傷。行跡に乱れがあること

5・金に汚いこと

 

 1と2は互いにリンクした話であるが、まずは尼僧の強姦疑惑から。円珍に会ったとき、円載は妻帯していた。「会昌の廃仏」の際に還俗したわけだが、その時一緒に還俗した同寺の尼僧と所帯を持った可能性が高いのである。そうした話が前提にあって「そういえば、あの2人は寺にいる頃から怪しかったな」というレベルの噂話を知った円珍が殊更に拡大し、「強姦」という話に膨らませたのではないだろうか。

 またこうした円載の数々の悪業は、843年に渡唐してきた円修が天台山に来た際に知ったスキャンダルである、ということになっている。たびたび寺を抜け出す円載を見て、円修は嘆き悲しんだという。

 しかし帰国した後の円修の報告には、こうした円載の破戒ぶりは一切記録されていない。ここまで堕落しているのであるならば、さすがに何らかの形で(オブラートに包んだとしても)報告がされているはずではないだろうか。「悪事は千里を走る」というから、噂レベルのものであったとしても、こうした話は皆に知れ渡っていたはずである。

 しかも円珍は、円修その人に会っているはずなのだ。円修が日本に帰ってきたのは844年、円珍の渡唐は853年である。円珍は船に乗る前に、数少ない渡唐経験者である円修から、唐における経験談を聞きに行っていないはずはないのだ。であるならば、円修は何らかの形で円載に関する警告を与えたはずだ。それすらなかったのは不自然なのである。 

 暗殺疑惑に関してもそうである。この経緯を詳しく述べると、帰国するために寺を去った円修に対し円載が暗殺者を雇い、毒薬を持たせて後を追わせたが、追いつけずに未遂に終わった、ということらしい。だが、そんな話が噂レベルでも天台山で囁かれていたとするならば、以降はとても寺に出入りできないはずだ。

 中国側の彼の評判を見てみよう。実は、唐における円載の僧としての評判は、極めて高いのである。長安入りを果たした彼は、そこで唐代の一流文人たちと交流し、宮中に召されて講義を献上し、なんと天子より僧侶最高の証とされる紫衣を賜っている。尼僧を犯し、兄弟弟子の殺害を企むような噂があった僧に、そんなことが可能なのだろうか。877年に彼が長安を去る際には、有名な詩人や文化人らが、数多くの送別の詩を送っている。その詩の内容を見る限りでは、とても円珍の語る円載とは同一人物とは思えないのである。

 次に3の「天台の教義を忘れてしまった」について。これに関する佐伯氏の推論を紹介したい。まず最澄は、日本に持ち帰った天台宗を禅・律・密教とミックスさせ(四宗融合)、日本独自の「シン・天台宗」を確立しようとしたことは、以前の記事で述べた通り。

 

中国の天台宗そのままでは、日本には受け入れられないと悟った最澄は、教義のアップデート&ローカライズを試みた。だが決定的なピースが欠けており、その生前には完成させることはできなかった。その後、渡唐した円仁が欠落分を補完し、遅れて渡唐した円珍が完成させた。これらの経緯の詳細は、上記からはじまる一連の記事を参照。

 

 「四宗融合」する際には、各種の教義を再定義する必要があった。接着剤のようにただくっつけただけでは、互いの教義に矛盾が出てしまうからである。かつて円載が本場の天台山に持っていった質問状は、これらに関する疑問を記したものなのである。前記事で記した通り、円載は弟子に回答を持たせて日本に送ったわけであるが、この時返ってきた「唐決」は延暦寺においては到底、服することのできない内容であったのだ。

 それはそうである。本場の中国の天台宗にしてみれば、「四宗融合」した日本の天台宗の教えは、本来のものとは既に違ってしまっているわけで、納得いく答えが得られるはずもないのだ。円珍はこの「唐決」について、「唐朝の老宿は、醍醐を生蘇に貶し(チーズをヨーグルトにしたようなもの)」とけなしている。

 

中国浙江省天台県にある、天台山・国清寺。575年に智顗(ちぎ)がここで天台宗を開山した。最澄天台宗はここで学んだものがベースになっている。延暦寺が円載に託した質問状は「密教経典である『大毘盧遮那経』は『五時四教』のどこに当てはまるのか?」というものであった。これに対する回答をしたのは、禅林寺座主・広修と、国清寺座主・維蠲(ゆいけん)である。その「唐決」の内容は、「釈迦一代の説教の中で、『大毘盧遮那経』は第三の方等部の部類に分類される」というものであった。これは当時の延暦寺からすると、本来あって欲しかった場所ではないところに分類されてしまったようで、納得のいく答えではなかったのであった。本家本元の天台宗には密教は内包されていないわけだから、密教の重要経典である『大毘盧遮那経』の重要性はそこまででもなかったのである。

 

 或いは円載も、始めは同じ思いだったかもしれない。だが唐において天台山で暮らすうち、比叡山天台宗のことを客観的に見る余裕ができたのではないだろうか。唐の天台山から眺めてみると最澄天台宗は、見方によっては東夷が勝手に改悪した「異端の教え」なのである。

 佐伯氏はこう推測している――そうしたことを既に理解し、達観していた円載の元に、意気込んだ円珍がやってきた。(円珍の記述と時系列が若干異なるが)おそらく円珍は、出会うや否や「唐決」についての自らの見解をまくしたてた。円載はうんざりしたのではないだろうか。そこで日本語が分からないふりをして、聞き流した――如何にもありそうな話である。

 長くなってしまった・・・次回、最後の4と5についてのスキャンダルの疑惑の解明と、そして2人の仲が決定的に悪くなってしまった事件について述べる。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑫ 番外編 破戒僧・円載(上)

 遣唐使に選ばれた多くの僧たちが大陸へと渡ったが、その正確な人数はデータが残っていないので分からない。遣唐使を構成するメンバー数は、前期は200~250名ほど、後期は5~600名ほどであったが、そのうち僧は何名ほどいたのであろうか?

 遣唐使に関する記録が最も残っているのは、第19回目である。なぜ残っているのかというと、この遣唐使には前々回の記事で紹介した、あの円仁が参加していたからだ。彼は「入唐求法巡礼行記」という、遣唐使についてのみならず、7世紀の中国に関する社会風俗についてなど、極めて優れた記録を残している。

 この記録によると、第19回遣唐使の参加人数600名ほどのうち、留学僧ないしは請益僧などの資格で選ばれた僧は7名。比率に換算すると1%強であるが、これには僧の従者は含まれていない。各々の僧につく従者もまた僧であったパターンが多く、またそうでなくとも渡航先の唐で得度するものもいたから、これを含めて考えたほうがいいかもしれない。僧1名につき従者2~3名付くのがスタンダードであったようだから、第19回遣唐使には合計20名ほどの僧が参加したことになる。比率で考えると3%強ほどであろうか?

 かなり強引だが、この比率を遣唐使全体に当てはめてみよう。渡航に成功した遣唐使を15回と数えて、前半6回で45名、後半9回で162人、遣唐使で大陸に渡った僧の合計は、多めに考えて200人前後といったところであろうか。彼らの名の殆どは記録に残っていないが、それぞれの人生はそれだけで1冊の本が書けるほど、ドラマティックなものであったに違いない。

 その中でも、大陸にて数奇な人生を送った僧がいる。その名を円載という。

 円載は円仁と同じく、第19回遣唐使に選ばれた天台宗の僧であった。遣唐使節としての円仁の資格は短期留学である「請益僧」としてであるが、円載は長期留学の「留学僧」としての資格であった。これを以てして、円載の方が円仁よりも立場的には上であったとはいえないが、相当に期待されていた僧であったことが分かる。

 にも関わらず、円載は円仁のように「入唐八家」に選ばれていない。それどころか、彼はとある人から「破戒僧」の烙印を押されるなど、口を極めて罵られているのだ。果たして彼は、大陸でどんな人生を送ったのであろうか。この記事では、円載の数奇な生涯を追ってみたいと思う。

 円載の出自は不明だが、それ故に名家の出自ではなかっただろうと思われる。最澄が最晩年の時にその門下となっている。その後、12年の修行を終え「年分度限者」として得度したのは、最澄の後継であった円澄の下であろうと思われる。この頃、彼と机を並べて共に学んだ後輩に、遅れて入唐することになる「入唐八家」のひとり、円珍がいる。

 円載が大陸に渡ったのは、30歳前後の頃と思われる。未来の天台宗を担って立つ、期待のホープとして選ばれたわけだから、その学識は相当なものであっただろう。仏典のみならず、儒書にも通暁していたと伝えられている。

 先の記事でも少し触れたが、838年の上陸の際には船が座礁し、円仁ともども死ぬような思いを味わっている。そんな目にあってまで入唐したはいいけれど、その地に半年間も止め置かれてしまう。最終的にはようやく円載の天台山行きの許可は下りたのだが、短期留学生としての資格であった円仁には、許可が下りなかった。円仁は仕方なく、自身が天台山に持っていくはずだった、書簡や質問状を円載に託している。ここで2人の道は分かれたが、別離の際は互いに「悼み、悲しんだ」とある。

 円載は一路、天台山へ。839年3月のことである。無事、延暦寺や円仁から託された書簡や物品、そして最も重要な「天台教義に関する質問状」などを送り届けている。天台山で円載は、国清寺の中に「日本新堂」と名付けた庵を構え、そこで多くの経典の写経にいそしんだことが、現地の記録からも分かっている。

 4年後の843年に、彼は従者僧である仁好と順昌の2人を、日本への帰国船に乗せている。先に入手した「天台教義に関する質問状」への返答(これを「唐決」と呼ぶ)や、彼自身が写経した経典などを持たせて、帰国させたのであった。海外研修先から本国に送る、途中報告のようなものだろうか。この時、朝廷から追加の留学費用として金100両を下賜されており、仁好が円載の下へ持って帰ったようだ。

 しかしこの前年の842年頃から、道教に傾倒していた武宗による仏教排撃運動、「会昌の廃仏」が始まっている。排撃は年を経るごとに激しさを増していき、845年に入るとピークと達し、なんと唐において全ての僧の還俗命令(拒否したら死刑)が出されている。

 大陸にいた円載、そして円仁も(過去の記事でも述べたが、彼は滞在許可が下りなかったにも関わらず、「抜け参り」して五行山や長安に滞在していた)仕方なく還俗している。幸いにも武宗は翌846年に、怪しいクスリのやり過ぎが原因で死亡しているから、これ以上の迫害はなかったのであるが、中国仏教界は大混乱に陥ってしまった。なにしろ4600の寺が廃止され、還俗させられた僧尼は26万人、寺の財産なども殆どが没収されてしまったから、みな立ち行かなくなってしまったのである。

 

唐の武宗(在位840~846)。「会昌の廃仏」を行った武宗が道教に傾倒していたのは事実であるが、仏教を排撃したのにはそれなりの理由があった。当時の寺院は大規模な荘園を所有していながら、税の対象外とされるなど非常に優遇されていた。寺院の多くを廃した結果、寺の奴婢だけで15万人(!)が国家の戸籍に編入されたと記録されている。また唐王朝は銅の不足にも悩まされていたから、寺院から仏像や鐘などを供出させ、それから銅銭を鋳造するという目的もあった。仏教のみならず、ネストリウス派キリスト教景教)やマニ教なども排撃されているが、これらは皆、外来宗教である。対するに中国由来の道教は優遇されているから、文化的ナショナリズムの側面もあったのかもしれない。武宗は全身が腫れあがって早死にしているが、これは怪しげな仙丹を服用した結果だとみられている。道教の仙丹には丹砂(硫化水銀)のみならず、人体に害を与える様々な原料が多用されていたから、これを服用するとみな揃って命を縮めたのであった。

 

 円仁はこれを機に帰国したが、円載がこの時期どこで何をしていたか、よく分かっていない。こうした大混乱の中で、異国の人が生き延びるのは困難なことであったに違いない。円載は847年に日本に手紙を送っている。その手紙は、否応なく還俗させられたこと、それでもまだ仏道に志を持っていること、そしてあともう少しだけ留学を続けたい、という旨の内容であった。この願いに対して朝廷は「その心がけ良し」として、滞在費として更に追加の黄金100両を遣わした、とある。

 次に彼の消息が分かるのは、853年のことである。「入唐八家」のひとり、のちに天台宗の教義を完成させることになる、あの円珍が入唐したのである。無事上陸し、天台山に向かう彼の下に、なんと円載から「天台山で会おう」との手紙が届いたのだ。かつて机を並べ、共に学んだ尊敬すべき先輩に、17年ぶりに会える!円珍の胸は期待と喜びで一杯となった。

 2人が再会したのは、853年12月14日のことである。場所は天台山・国清寺の門前。そこで円載に会った円珍は、驚愕することになるのであった。(続く)

 

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑪ 空海の後継者たち 天竺を目指し、南海に消えた高丘親王

 さて空海が開いた「東密」の方は、その後どうなっていったのであろうか。

 教義という点では、真言宗は大きな問題を抱えているわけではなかった。天台宗のように4つの宗派を統合する必要もなく、密教という単一の分野をただひたすらに深堀りしていけばよかったわけで、また空海は理論構築の天才でもあったから、彼の死後も教理上残された大きな課題というのは、そんなに残されているわけではなかったのである。

 そして空海には、多くの優れた弟子たちがいた。その代表的な10人を十大弟子と称するが、中でも有名なのは一番弟子である真済、最澄から離れて空海の弟子となった泰範、そして皇族出身の真如こと、高丘親王であろう。

 彼らは天台宗の僧らと同じように、遣唐使の一員として果敢に唐に渡っている。天台宗に対抗する意味合いもあっただろう。ライバルである彼らが密教を求めて入唐するのを、指を咥えて見ているわけにはいかなかった。こちらとしても最新の教学を入手して、教理をブラッシュアップする必要があったからだ。

 この頃、日本の国家体制である律令制の基幹をなす班田制が、ほぼ機能しなくなっている。加えて9世紀は全地球的に温暖化の時期にあたり、平均気温が1~2度上がったことから、干ばつや水害による飢饉が続出していた。国力の衰退は明らかで、支配者層はこれに対処する必要があった。

 その有力な対処法のひとつが、密教加持である「鎮護国家」だったのである。天台も真言も競ってこれを行ったわけであるが、そうなると大陸の最新の教学を取り入れた加持祈祷の方が、より効き目がある(ように思える)わけだ。唐入りした代表的な僧を「入唐八家」と称するが、空海最澄を除いた6人のうち、常暁(じょうぎょう)・恵運・円行・宗叡の4人は、いずれも東密系の真言を学んだ僧である。(残りの2人は前記事で紹介した、円仁と円珍。)

 この中では、特に常暁が成功した。彼は円仁と一緒のタイミングで唐に渡った真言僧であるが、栖霊寺の文際という高僧から「逆賊調伏・鎮護国家」に抜群の効果を誇る、あまりに効き目がありすぎるので秘法となり、授法は国禁とされていた「大元帥法」を特別に学んで帰国している。爾来、日本においてはこの「大元帥法」は、天皇の御前でしか行われない特別な祈祷法となった。その効き目は素晴らしく、856年の大干ばつの時はこの祈祷を行い、見事に雨を降らせているそうだ。また平将門の乱の際も、祈祷の霊験あらかたであった、と伝えられている(なお大日本帝国においては、国軍の最高指揮官として天皇大元帥とも称されるが、これはこの呪法から関連して名づけられた、という説があるようだ)。

 唐入りした僧は、他にもたくさんいる。違う意味で有名なのが、先に少し触れた高丘親王である(彼の法名は真如であるが、この記事では通りがいい高丘親王の呼称を使用する)。彼は平城帝の第三子であり(甥は在原業平)、一時は皇太子に立てられた未来の天皇だったのだが、「薬師(くすし)の変」に巻き込まれ失脚している。その後、出家して空海のもとに弟子入りし、地震により破損した東大寺の大仏の修復事業などに携わっている。

 そんな高丘親王であったが、どうも中国帰りの円仁と会ってから、入唐の望みを抱くようになったらしい。そんな彼に、渡航の機会が唐突に訪れた。861年に「諸国の山林を跋渉」するために西国に赴こうとした矢先、唐船が博多に来航したというニュースを耳にしたのである。漠然とした憧れであった入唐が、現実味を帯びた案として目の前に提示されたわけで、この年に齢62を迎える親王は、老境にして大陸渡航を志すのであった。

 実際に唐に渡ったのは翌862年9月で、結局は唐船ではなく、新規に建造した船に乗っての渡航であった。この時に同行したのが入唐八家のひとり、宗叡である。親王がここまでして入唐にこだわった理由であるが、どうも教理上の疑問があり、その答えを得るために大陸に渡った、ということのようである。残念ながら、彼の抱いた疑問がどんなものであったかは伝わっていない。しかし洛陽や長安で多くの名僧たちに会ったが、満足する答えは得られなかったようだ。

 そこで親王は、いっそ不空三蔵に倣って広州から海路、天竺に渡り、そこで答えを得んとするのであった。唐皇帝から正式な勅許を得て、長安から大陸を長躯縦断して広州へ。そしてここから、2人の僧と1人の供を加えた総勢4人の一行で、おそらく商船に便乗する形で、天竺目指して南海へ旅立っていったのである。865年、高丘親王67歳を迎える年であった。

 

真如こと、高丘親王。この時代、実は広州からインドへの航海はそんなに難しいものではなかった。親王が旅立つ約80年前に広州からインドに旅立ち、彼の地で密教経典を入手、再び中国に帰ってきたのが不空三蔵(不空金剛とも)である。空海の師、恵果はこの不空から密教を学んでいるのだ。唐は異民族が多く活躍できる国だったから(そもそも唐の皇室が異民族出身)、グローバルな国際交流が盛んだった。そしてこの広州こそは「海のシルクロード」の東の起点だったのである。記録には不空三蔵は崑崙船(こんろんせん)に乗って天竺に行った、とある。崑崙船とはベトナムないしタイ人の操る船で、親王も同じように崑崙船に乗って天竺を目指したのかもしれない。

 

 その後、一行はどうなったのだろうか?一説には親王シンガポールで虎に食べられてしまった、ともあるが伝聞に過ぎないので疑わしい。遭難したのか、病没したのか、それとも賊に殺されてしまったのか?いずれにせよ、高丘親王とその一行は、南海に向けて旅立ったまま、二度と帰ってこなかったのである。

 このように密教の最新教学を求めて、多くの真言僧らが果敢に海を渡っていった。彼らが持ち帰った最新の教学は、祖師・空海の理論を補強する役目を果たし、東密の教理はより確固たるものとなっていったのである。そんなわけで、真言宗天台宗のように教理解釈を巡って解決すべき問題は、「この時点では」なかったのであるが、政治的な問題はあった。

 それは東寺と高野山金剛峯寺)、2つの道場があったことだ。東寺は根本道場、高野は修禅道場という位置づけであったのだが、空海の死後すぐに両者の間で確執が起こっている。どちらが真言宗の主導権を握るのかで、争いが始まったのだ。これを「本末争い」というが、東寺長者と金剛峯寺座主を兼ねた観賢が、東寺を本寺とし、金剛峯寺を末寺とする「本末制度」を確立し、争いはひとまず収まる。

 高野山はその後、火災で何度か荒廃するが、次第に勢いを盛り返す。特に平安末期からは宗教都市として、そしてまた遊行僧である高野聖の一大拠点として、大いに栄えることになるのである。

 比叡山と違って、高野山は京の政界に介入することはなかった。これは距離的に京から離れていたこと、また代わりに洛中には東寺があったからなのであるが、おかげで俗世から離れた山林仏教の、在るべき姿に近い道場として存続することができたといえる――最も後世になればなるほど、地域の一大勢力として覇を唱えていくことになるのであるが。

 空海よりも最澄の方が、どちらかというと都市仏教に否定的であったのだが、その意思を継ぐべき比叡山が、中央の政治経済にどっぷり漬かっていったのは皮肉であるといえる。過去の記事でも述べたが、鎌倉後期から室町期前期にかけての京の経済は、比叡山が完全に仕切っており、これを「山門経済」と呼んだ。京に数多ある土倉(銭貸し)らの70%は叡山の資本であったのだ。

 東寺も中央政界に近い存在ではあったが、比叡山ほどの経済力は持たなかった。ましてや独自の武力を持ったり、強訴を行ったりなどの行為もしなかった。この差はどこから来るのだろうか?調べても説明している人はいなかった。理由をご存じの方がいたら、ご教示いただければ幸いである。(続く)

 

澁澤龍彦の描いた、幻想的な「高丘親王航海記」。内容は親王が天竺目指して航海に乗り出してからの話なので、史実とは関係ない。この小説のモチーフは「夢」なので、作中では次第に現実と夢の境目があやふやになっていくが、だからといって内容が意味不明だったり、難解なわけではない。語彙や表現が豊かだから、読んでいると情景が鮮やかに目の前に浮かび上ってくるのだが、ストーリーも同じように明快で鮮やかである。ブログ主の好きな筒井康隆の幻想系小説っぽいところがあると思ったが、これは逆で筒井が影響を受けているのだろう。そういえば、筒井も夢がテーマの作品が多い。作中で澁澤は親王を「求法の人」というよりは、「天竺に行く」こと自体に憧れている人、として描いているが、当たらずとも遠からずのような気がする。物語は親王の死で終わるのだが、その最期がまたいいのである。

 

近藤ようこ氏によって、漫画化もされている。独特な世界観をどう表現するのかと思って読んでみたら、案外あっさり描いていた。だが決して力量不足で表現できていないわけではない。近藤氏も独特の間合いを持つ漫画家であるが、それが原作の明るい感じととてもマッチしているのである。

 

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑩ 最澄の後継者たち その後の比叡山

 最澄は822年に、空海は835年に遷化する。(なお空海は死んではおらず、生死の境を超えて永遠の瞑想に入っていることになっている。高野山奥之院にいる彼のもとに、1日2回食事と着替えが届けられる、という儀式が今も行われている。)この二大巨頭の死後、2つの教団はどのように発展していったのだろうか?

 まずは天台宗から。最澄の死後、彼の後継者たちは未完であった天台宗の教義の確立をせんとする。だが空海真言宗との関係性は途絶え、これ以上の密教経典の借用は望めない。ならばいっそ、ということで改めて遣唐使の船に乗って、本場の密教を学び直しに行ったのである。倭寇の時代とは大違いで、当時の日本の航海技術は極めて低く、船はよく遭難した。また水の合わない大陸で病に倒れることも多かったから、これは文字通り命がけの行為であった。

 実際に唐へ渡った代表的な最澄の弟子に、円仁(えんにん)と円珍がいる。

 まず円仁だが、彼は元は道忠教団の僧であった。15歳の時に師に紹介され最澄に師事することになり、修行と学問に励む。その学力はピカ一で、最澄の代講まで任されるようになるのだ。最澄の死後、師の果しえなかった天台教学の完成を目指し、遣唐使の一員となり大陸を目指す。この時、彼は何と45歳である。

 836年7月、船団は博多から大陸を目指すも嵐に遭遇、全船が酷い有様で日本に吹き戻される。翌837年7月、再び出発するもこれも嵐に阻まれ、船団は命からがら日本に戻っている。838年に3度目にしてようやく成功するが、円仁の乗った第1船は高波の中で砂洲に乗り上げての、ほぼ遭難に近い形での上陸であった。船は全損し、岸から助けに来たボートで上陸している。

 こんな苦労をしてまで唐に辿り着いた円仁であったが、彼の遣唐使における資格は短期留学僧としてであった。天台山に行って天台教学を学ぶつもりであったのだが、長旅の許可が下りない。しかたないので意を決して、帰国するため北上を始めた船団から途中下船、人目を盗む形で密入国するも、怪しまれた住民の密告により失敗。その後、幸い山東省に大きな権力を持つ新羅人の大物親分の後援を得ることができ、通行許可証を入手する。こうして円仁ら一行(供を入れて4人であった)は、晴れて大陸を旅することができるようになるのだ。

 だが貰った通行証では天台山には行けなかったようで、その代わり天台山に並ぶ仏教の本場・五台山へと向かうことにする。まずそこで、天台宗の懸念であった「密教法華経の融合性」に関する、教義上の解答を得ることに成功する(また五台山ではブロッケン現象に遭遇、これを奇瑞と見て信仰を新たにする円仁であった)。更に密教の本場・長安へ向かい、大興善寺の元政和尚と青龍寺の義真から、それぞれ念願の灌頂を授かるのである。

 こうして本場にて密教を学んだ円仁は、長安の絵師・王恵に6000文払って、金剛界曼荼羅を描かせたのである。東密には空海が大陸から持ち帰った曼荼羅が2つあったが、叡山はまだ持っていなかったのだ。五感で体得する密教にとって、この曼荼羅というアイテムの有無は、極めて重要な問題なのである。

 その後、帰国を目指すもなかなか果たせず、苦楽を共にしていた愛弟子を失っている。幸か不幸か842年に、道教に傾倒していた武宗による仏教排撃運動、「会昌の廃仏」が始まる。そして国外追放に近い形で、帰国を果たすのであった。

 円仁が持ち帰った本場の曼荼羅と大量の経典、五台山で得た天台教学と密教との融合問題の解答、そして長安で学んだ最新の密教教学。天台教学に欠けていたピースが、円仁によって遂に埋まったのであった。空海真言宗を「東密(東寺の密教)」と呼び、対して天台宗を「台密天台宗密教)」と呼ぶが、堂々とこう名乗れるようになったのは、円仁のこの偉業あってのことである。

 

師に負けず劣らずの、偉大な僧である。866年に最澄は朝廷より「伝法大師」という諡号が送られているが、実はこの時、円仁にも「慈覚大師」という諡号が送られているのだ。帰国後、彼は「入唐求法巡礼行記」という、9年半に渡る唐での滞在記を記している。外国人の目による客観的な記録であり、これにより9世紀の唐の実情を知ることができるのだ。

 

 次に円珍だが、彼は何と空海の姪の息子にあたる人物である。にも関わらず高野山ではなく、比叡山に行った理由はよく分かっていない(ただ空海のことは尊敬していたようだ)。853年に大陸に渡っているが、この時、既に遣唐使は廃止されているから、正規の遣唐使ではなく新羅の商船に便乗する形での渡航であった。最も船は遭難して台湾に漂着、そこから福州に上陸しているのだが。天台山で修行した後、やはり長安青龍寺にて密教を学び、灌頂を受けている。

 本場で更に深い密教の知識を得た円珍は、帰国後に密教の専修道場として新たに園城寺三井寺)を開く。彼により「台密」教義は更に発展し、叡山は興隆を極めることになるのだ。円珍の功績は大きかったが、彼の死後、叡山において強力な派閥が形成されることになり、以降半世紀に渡って円珍派が天台座主の座を占めることになるのだ。

 だが10世紀になると、長らく逼塞を余儀なくされていた円仁派の巻き返しによって、円珍派は天台座主の座から駆逐されてしまう。円珍派は遂には延暦寺より分離、園城寺を本寺として事実上、独立してしまうのだ。以降、延暦寺は山門、園城寺は寺門と称されるようになる。

 

山門・寺門の争いに関しては、Wikⅰのこちらの記事がよくまとまっている。両派の争いは、藤原摂関家や朝廷をも巻き込み次第に過激化し、焼き討ち・合戦が当たり前の、血で血を争う抗争に発展していく。

 

 天台宗はこのように、その教学がようやく完成したにも関わらず、分派してしまった。これは勿論、互いの権益を奪い合う利権争いの性格が強いのであるが、天台宗は「四宗融合」、つまりは「天台・禅・律・密教」の4つの教義が内包されていたから、つまり本質的に多様性があったためだとも見られている。円仁派と円珍派の教義上の争いは、天台宗密教成分をどれだけ重視するか、という点にあった。

 だからこそ、天台宗は発展する可能性が多かったともいえる。平安晩期ころから「鎌倉新仏教」という新しいムーブメントが起こり、日本の仏教は百花繚乱のごとき様相を示すのであるが、これらの殆どは天台宗から発展した宗派であり、教祖らもまた比叡山にて修行した僧なのである。いうなれば比叡山は、日本中世仏教の母体ともいえるのだ。井沢正彦氏曰く「真言密教単科大学、天台は仏教の総合大学」だそうだが、これはうまい例えだと思う。

 とはいえ、権力には腐敗も伴う。経済的にも政治的にも、ここまで強大化してしまった叡山の世俗化は、避けられない道であった。円仁派の復興を成し遂げたのは、第18世天台座主に就任した良源という僧であるが、この仕事は藤原摂関家の政治的バックアップなしには成し遂げられないものであった。彼はその見返りとして、藤原師輔の10男・尋禅を己の弟子とし、次の天台座主に指名している。

 

比叡山中興の祖とも称えられる良源であるが、権力というものをよく理解し、それと共に生きた僧でもあった。当時、円仁派の拠点であった横川は酷く廃れており、在住の僧は2人しかいない有様であった。良源はそんな横川に敢えて入り、復興を成し遂げている。かなりの剛腕だったようで、増賀という弟子などは師のあまりの権力志向に呆れはて、彼の下から離れてしまったという。名僧かどうかは分からないが、非常に優れた政治家であったのは間違いない。今でも寺で引く「おみくじ」を始めたのも彼であり、一説には僧兵の創始者とも言われている。画像は京の民家でよく貼られている、厄除けの護符「元三大師と角大師」。両者とも良源であるが、右の姿は良源が疫病神を追い払うため、夜叉に変身した姿なのである。

 

 以降、天台座主の世俗化が進む。第34世以降の座主は、藤原家ないしは親王がその座に就くのが慣例化するのだ。それに比例するかのように、叡山は寺社勢力の中核をなす存在として、中世を代表する一大勢力として重きを成していくのである。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑨ 「南都六宗」に、果敢に戦いを挑んだ最澄

 徳一の著した「仏性抄」は法相宗の立場、つまり前記事で紹介した「三乗説」を唱える立場で書かれた書物である。この書は現存していないので、その正確な内容は分からないのだが、どうもこの中で徳一は「一乗の教えを説く『法華経』を、文字通りに受け取ってはいけない」と述べたようである。

 要するに、仏陀法華経の教えを諭していた時、その場にいた多くの人は、前記事でいうところの「不定性」の人々であったため、彼らを仏陀への道へ誘導するために、分かりやすく「方便として」一乗の教えを説いた、というロジックを展開したのである。

 これに激しく嚙みついたのが最澄であった。彼が反論するために著した書が「照権実鏡」であるが、この書の冒頭には、いきなりこうした旨のことが書かれている――「かの悪い坊主(※徳一のこと)は『法華経』を貶める様々な説を唱え、寝ても起きてもこれを謗ること甚だしい。必ずや悪い最期を遂げるだろう。彼のその苦を抜いてやるために『照権実鏡』を著してやった。願わくは、中道の人にとって天鼓となり、下愚の人にとって毒鼓とならんことを、云々」

 いきなり凄い喧嘩腰である。何故、最澄はここまで激しく徳一に反応したのだろうか?

 最澄がこの「照権実鏡」を著したのは817年、東国へと訪問した際である。訪問先のひとつは道忠という僧が率いていた教団であった。この道忠、鑑真その人に直接教えを受けた律宗の僧であったのだが、最澄のよき理解者であり盟友でもあった。最澄天台宗の教義確立のため、経典の写経依頼を各方面にお願いしたのだが、それに最も助力してくれたのが彼だったのである。

 実のところ新興宗教であった天台宗には、優秀な人材が不足していた。教団を立ち上げたばかりだったので、人材がまだ育っていなかったのである。また最澄は朝廷に働きかけ、天台宗から毎年2名の年分度者制という、公的なお墨付きを得た出家僧を輩出させる権利を有していたものの、その半分以上は他宗、特に法相宗へと鞍替えしてしまう有様であった。

 そこで他教団から優秀な人材をスカウトしてくるわけだが、天台宗創世期に最澄の弟子となった多くの僧は、この道忠の教団出身者が多かったのである。道忠自身は、最澄のこの東国訪問時には既に死亡していたのだが、教団そのものはまだ存続していた。そして弟子らが移籍したとはいえ、双方の教団の関係は大変良好だったのである。その証左に、最澄は道忠教団出身者であった弟子、円澄・円仁・徳円らを、里帰りの意味でこの旅に同行させている。

 この頃、最澄は行き詰まっていた。天台密教を確立せんとする努力も、空海の経典借用拒絶により先に進めなくなってしまい、また最も可愛がっていた第一の弟子であった泰範まで、空海の下へと出奔してしまった。また先に少し触れたように、天台僧の年分度者のほぼ半分が、法相宗へ鞍替えする時期が続いていた。

 そんなタイミングで、旅先の彼が目にしたのが、徳一の「仏性抄」であったのだ。この書は法華経の内容を、ひいては東国における布教のライバルであった道忠教団の教えを、けん制する目的で書かれたものであり、別に天台宗を念頭に置いて記されたものではなかっただろう。しかし法華経天台宗が最も重視する根本経典であったから、最澄としては見過ごせる問題ではなかった。そしてタイミング悪く、こうした心理状態にいた最澄が強く反応してしまった、というのが真相のようである。

 最澄は徳一の著した別の書にも、同じ調子で噛みついている。彼の罵詈雑言は、回を追うごとに激しくなっている。「仏法を謗る者が信じる、浅くて狭い法相教」だの、「謗法を広めることによって、後学を阿鼻地獄に引きずり落そうとしている」だの、「麁食者(そじきしゃ。粗末な食べ方をする半可通のこと)」「謗法者(ほうぼうしゃ。賢しらに法を曲げる者)」「北轅者(ほくえんしゃ。南に行こうとして牛車の轅(ながえ)を北に向ける方向音痴)」など、実にバリエーション豊かである。一方、徳一はどうだったかというと、これに関する彼の著作は現存していないから分からないのだが、最澄の調子が段々とヒートアップしていることから、おそらく同程度には罵り合いをしていたものと思われる。

 肝心の論争の中身だが、互いの教義に関するいわゆる教相批判なので、経典に対する基礎知識がないと理解できない難解なものだ。だが、基本的には水掛け論で終わったようである。互いに反論する形で出した著作は、徳一が6冊、最澄が7冊であるが、互いの論拠としている経典の解釈について「お前は違う、此方が正しい」という論争をひたすら行っている。この論争は、最澄が死ぬ前年の821年まで、足掛け5年に渡って繰り広げられ、最澄はこれに多大なエネルギーをつぎ込んだのであった。

 

磐梯町磐梯山慧日寺資料館蔵「徳一座像」。徳一の著作はひとつを除いてすべて失われてしまっている。にも関わらず、彼の書いた内容がある程度類推できるのは、最澄がその著作の中で、逐一引用して反論しているからである。最澄の論敵であった関係で、天台宗の僧からは蛇蝎のごとく嫌われている彼であるが、実際には優れた見識を持つ、南都六宗を代表する学僧であった。平安期の僧の二大巨頭は空海最澄の2人で間違いないが、それに続く「第三の男」といってもいいだろう。彼の書いた唯一残された著作が「真言宗未決文」であるが、実はこれは空海が徳一に送った写経依頼の手紙(先の記事で紹介した、徳一を褒めた文面はこのときのもの)に対する返事なのである。この中で徳一は、密教に対する11の疑問を空海に問うているのだが、手紙の最後に「ここで見せた11の疑問は、おそらくは誹謗の業となり、私はその報いを受けて無間地獄に落ちるかもしれない。だが私には他意はなく、ただその教えを学ぶことを欲しているだけなのである。なので同じ仏法を学ぶ全ての人は、私がここに挙げた疑問によって、真言宗を嫌い軽んじることがないことを望む」などと、殊勝なことを書いている。このように最澄に対するものと違い、空海に対してはあくまで丁寧な態度を崩していない。なおこの手紙に対して、空海は敢えて直接反論はしなかったようだ。空海のこうしたところは「対人スキルが巧み」というレベルではなく、その巨大な器で反論ごと飲み込んでしまうような、懐の深さがある。

 

 晩年の最澄は、もうひとつ大きな論争を挑んでいる。それは「大乗戒」を巡る問題である。当時の僧が正式に出家するためには、東大寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の3つの寺いずれかで受戒する必要があった。この三寺を合わせて「天下三戒檀」と呼ぶが、最澄はこのシステムに異を唱えたのであった。

 そもそもこの「天下三戒檀」で施されるこの戒律は、「四分律」という部派仏教系、要するに小乗仏教の法蔵部の流れを汲むものであるから、大乗仏教にはそぐわない。大乗の教えを受ける者は、大乗独自の戒律に則って受戒すべきで、それは比叡山延暦寺こそが相応しい――というのが、最澄の主張なのである。最澄自身も東大寺で受戒していたわけであるが、なんと彼はこの戒律を返上するという行動に出た上で、朝廷に対して上奏したのであった。

 「大乗仏教だから大乗戒」。実はインド以来、こうした主張をした僧はおらず、おそらく世界初の画期的な出来事なのである。これまでは大乗であっても、出家する際には原始仏教以来の、やたら厳しく非現実的な戒律を守るのが普通であった。従来の戒では250にも及ぶ細かい規定があったのだが(守られているかどうかは別)、最澄はそこまでのものは必要なく、どちらかというと在家向けの性格が強い、緩い戒律である「梵網戒」でよし、としたのである。現実に即した対応ともいえる。(だからといって、楽になったわけではない。その代わり最澄は、天台宗の年分度者になる修行僧には、比叡山にて12年間修業をすることを課した。)

 いずれにしても既得権益を侵す最澄のこの行動に、南都六宗サイドは当然反発する。強い抵抗にあった最澄の「大乗戒」構想は、彼の生前には実現せず、彼の死後7日後に実現することになるのだ。

 最澄はこのように既存の仏教勢力である南都六宗に対して、果敢に戦いを挑んでいる。若いころ、南都六宗の腐敗を嫌って比叡山に籠ったことのある最澄だが、このように年を経ても、妥協を許せない実直な人柄は変節しなかったのだろう。しかしこうした戦いにエネルギーを費やしてしまったこともあり、彼は結局、新しい天台宗の思想体系を完成させることはできなかった。彼が残した課題は、次の世代である彼の後継者たちへと継承されることになるのだ。(続く)

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑧ 最澄vs徳一「三一権実争論」

 奈良から平安期にかけて栄えた南都六宗であるが、その中で最も権勢があったのは法相宗である。この法相宗の教えはユニークなものなので、その教義を少し紹介してみよう。

 まず日本仏教を語るには、中国仏教なしには語れない。日本の仏教は、おしなべて中国経由で入ってきたものだからだ。日本ならではの宗派が独自に確立し、発展するのは鎌倉期に入ってからである。平安期までの仏教――南都六宗密教天台宗などはインドが源流ではあるが、すべて中国で発展・解釈され直したものなので、中華風に味付けされた仏教だといえる。

 この中国仏教に最も影響を与えた名僧は、4世紀後半から5世紀にかけて活躍した鳩摩羅什(クマラージュ)である。西域出身の彼は中国の長安に移住し(というか、無理やり連れてこられた)、数多くのサンスクリット仏典を翻訳した。彼の成した仕事で、後世に最も影響を与えたのが「法華経」の翻訳と解釈である。

 「法華経」の教えとは要するに、「すべての人は仏性を持っていて、誰でも修行すれば仏陀になれる可能性を秘めている」というものである。これを「一乗真実説」と呼ぶ。中国においては、この考え方が主流であった――「三蔵法師」こと玄奘が、インドにおける経典収集の旅から帰ってくるまでは。

 

Wikiより画像転載。三蔵法師こと玄奘。修行が深まるにつれて疑問が深まるようになった彼は、いっそインドにて原典に当たるしかない、と考えた。玄奘が国禁を犯してインドに向かったのは629年のことである。3年かかって辿り着き、10年以上かけて彼の地で「唯識論」を学んだ。645年に657部の経典を中国に持ち帰り、残りの一生を翻訳事業に捧げた。また彼は17年間に及ぶ旅の記録を「大唐西域記」として記したが、後世これを種本として成立したのが、かのお伽話「西遊記」である。玄奘自身は、新たに宗派を興すことはしなかったが、唯識論の考え方に則って、彼の弟子である基(き)が新たに開いたのが「法相宗」である。その基礎となる唯識派の理論はとても難解なのであるが、要約すると「世界は我々の心が認識することによって初めて存在が可能となるわけだから、実際に存在するのは我々の心だけ、ということになる。つまりすべての事象は、我らの心の在り方によって起こるのである」というものだ。西洋の唯心論と考え方は似ているが、着地点が違う。唯識論の教えでは最終的には修行により、心さえも存在しない「空」の境地に至って悟りを得る、というものだ。この法相宗を日本に持ち帰ったのが、基の弟弟子であった日本人僧の道昭である。道昭は基と共に、玄奘から直接指導を受けた直弟子でもあった。

 

 この玄奘が持ち帰った唯識派の経典には、衝撃的な教えが書かれていたのである。曰く「人は全て生まれながらにして種姓を持つ。その中の1つの種姓を持った人だけが仏陀になれるかもしれないのであって、残りの人はそこまでは至らない。これは生まれつきなので、決して変わることはない」――

 どんなに苦行をしても仏陀になれない人がいる!これは「一乗真実」の教えが主流であった中国仏教界においては、ショッキングな思想であった。この考え方を、表にしたものが下記の画像である。

 

法相宗の考え方は、人の素質として「声聞種姓」・「独覚種姓」・「菩薩種姓」の3つの種姓があり、人はこの組み合わせで5種類の性に分類することができる、というものだ。これを「五姓各別説」と呼ぶ。上記の表の通り、③の菩薩定性と④の不定性の人だけが仏陀になれる可能性を持つのであって、①の声聞定性と②の独覚定性の人の修行の最終到達点は、どんなに頑張っても「己だけが悟れる」というものに過ぎない。小乗仏教に対するアンチテーゼとして生まれた大乗仏教の立場からすると、これはしょせん小乗の到達点であり、悟りのレベルとしては低いものになる。なのでどんなに修行をしても、生まれつきの素質で小乗の到達点にしか達しない、という考え方は中国の仏教界に衝撃を与えたのであった。なお、⑤の無性有情の人が一番悲しい立場にあるが、行いによっては条件のよい世界に生まれ変われるので、一応は菩薩による救いの対象になっている。なお声聞・独覚・菩薩を合わせて三乗と呼ぶので、「一乗説」に対してこれを「三乗説」とも呼ぶ。

 

 このように身も蓋もない教えであるが、実際問題としてどんなに高位の僧であっても(そして自身がどんなに言い張ろうとも)、客観的に見るとほぼ全ての僧が「仏陀になんか、なれていないじゃん」という現状があるわけだ。

 また仏陀の境地にまで辿りつかなくとも、頑張ればそれなりのレベルの悟りには辿り着けるわけで、これは「悟りの立場もいろいろあって当然だよね」という、ある意味現実的な考え方であるといえる。仏陀になる以外の在り様を否定しているわけでもないので、いま流行りの多様性を認める教義でもあるのだ。

 とはいえやはり、成れるものなら仏陀になりたい。この法相宗の教義で面白いのは、己がどの種姓を持っているか分からないことにある。そこで法相宗を奉じる僧たちは、己が菩薩定性で在ることを証明せんと、世の中のためになることをする傾向があるのだ。

 例えば奈良期の代表的な法相宗の僧に、行基がいる。彼は奈良の大仏を造仏するための費用を勧進するため、全国各地を遊行した。彼ら法相宗の僧たちは、他にも人々の為に大規模な灌漑をしたり、橋を架けたりなどの手広い社会事業を行ったのである。

 実はキリスト教にも、似た教えを奉じる宗派がある。カルヴァン派がそれで、「神の救済にあずかる者と、滅びに至る者は予め決められている」とするものだ。これを「二重予定説」と呼ぶが、これは法相宗の上記の教えと似ている。

 そして法相宗の僧たちと同じように、カルヴァン派の教えを信じる者は「自分こそ救済されるべき、選ばれた人間」であるという証しを立てるために、社会的事業に邁進したり、禁欲的に職業に励むのだ。カルヴァン派の世俗内禁欲傾向はよく知られており、資本主義の萌芽は彼らカルヴァン派から生まれたというのが、かの有名なマックスヴェーバーの著した「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」である。

 ――また話が逸れてしまった。話を平安期の日本に戻そう。当時この法相宗の第一人者に、徳一という名の僧がいた。彼は陸奥国会津あたりに住んでいた。当時の会津は僻地もへき地、これより北は蝦夷の地である。なぜこんな僻地に住んでいたのか理由は分かっていないが、彼の知見と教養は有名で、異能の人・空海をして「徳一菩薩は戒珠氷珠の如く、智海泓澄たり」と評するほどの人物であった。(最もこれは、徳一本人に送った手紙に書いたことなので、多分にお世辞が入っていただろうが)

 この徳一の著した「仏性抄」という書に、激烈な勢いで嚙みついたのが最澄だったのである。(続く)

 

生涯でベストの漫画を3つ挙げろと問われたら、ひとつにはこの漫画を挙げたい。それほど凄い、後世に残る名作なのである。玄奘の著した「大唐西域記」を元に、破天荒なファンタジー大河小説として成立したのが、かの「西遊記」であるが、この漫画はその「西遊記」を再びリアルな世界に落とし込んだという、二重構造になっているのだ。なので、本来は原典である「西遊記」(村上知行訳がいい)を読んでからの方が、この漫画の凄さを実感できる。ブログ主がこれは凄い!と思ったのは、原典にある「唐の太宗の冥界巡り」と「孫悟空が天界で大暴れ」の下りを、漫画では史実である「玄武門の変」に絡めて表現したことである。歴史上の人物(玄奘のみならず、唐の太宗やその配下の李勣・李積・魏徴など)やイベントとの絡ませ具合が実にうまく、しかも奥深いのだ。主人公は孫悟空であるが、彼は滅びるべき運命にある地煞星の元に生まれた、呪われた革命家という設定である。悟空はその宿命から脱出せんと足掻き苦しむが、一筋の光明を玄奘との西域への旅に見出し、旅に同行することになる。物語はようやく4人そろって西域を旅し始めたところである。作者の諸星大二郎氏は、熱烈なファン層がいることで有名な漫画家であるが、御大には物語が終わるまで、ぜひ長生きしてほしいものである。

 

中世に至るまでの、日本における仏教とは~その⑦ 密教・禅・戒律をミックスさせた、最澄の「シン・天台宗」

 密教を日本に持ち込み、更にその教義を発展させた空海。新興勢力であったにも関わらず、官寺である東寺まで賜り、これを密教の専修道場とするなど、日本において確固たる地位を築き上げたのであった。一方、日本仏教界のもう一方の新星であった、最澄はどうであったのだろうか?

 日本において「天台宗」を開宗するため、天台の教えを学びに大陸に渡った最澄。帰国してから念願叶い、天台宗南都六宗に肩を並べる存在になったわけだが、当時の皇室と貴族には、現世利益を叶えてくれる最新の教えであった「密教」のほうがウケが良かったのは、過去の記事で紹介した通り。そこで求められるまま灌頂や加持祈祷を行ったわけだが、己の密教に対する力量不足を最も痛感していたのは、最澄自身であった。

 過去記事で少し触れたが、中国には2系統の密教が伝わっていた。「大日経」を根本経典とする「胎蔵部」と、「金剛頂経」を根本経典とする「金剛界部」である。越州龍興寺にて、最澄は一応は両部の灌頂を受けたことになっているが、ここで学んだ密教は亜流であり、不完全なものだったようだ。(最澄は自分が学んだ密教は、そもそも2つの流派が合体してできたものである、という経緯を知らなかった節がある。)

 ところが幸運なことに、金胎両部の教えを融合させた「大日如来法」という、最新の密教を確立させた青龍寺の恵果から、伝法を授かった人物が日本にいたのである。九州に逼塞していた空海である。最澄空海密教を教わるべく、その帰京に尽力する。そして空海の弟子となり、改めて密教を学びなおすのであった。このあたり、最澄の学問的誠実さが伝わってくる。自分自身に嘘をつけない人物だったのだろう。

 しかし彼の求める仏教のベースは、あくまでも天台宗にあったのである。大陸で彼は天台宗密教だけではなく、禅と戒律をも学んでいた。そこで彼は己が学んだ天台宗をベースとし、ここに密教・禅・戒律を融合させた「シン・天台宗」ともいえる、新しい天台宗の確立を目指したのである。この4つの教えを融合させることを「四宗融合」と呼ぶ。

 なぜ彼は、こうした考えに至ったのだろうか?俗人であるブログ主は、天台の教義を深く読み込んだわけではない。不完全な知識と邪推を承知の上で、以下にあくまで個人的な考えを述べる。

 日本の仏教界では、法相宗三輪宗との間で「空有の論争」と呼ばれる論争が行われており、最澄はこれを解決するのが天台の教えである、と力説して大陸に渡ったことは、過去の記事で述べた通り。最澄は中国の天台山に登り、そこで天台の最新教学を学び、意気揚々と帰国した。

 しかし当時の日本の支配者層は、実のところ論争の結果にそこまで興味はなかったのである。というよりも、はっきり言って南都六宗には飽き飽きしていた、というのが正しい。彼らにとって、南都六宗の教えは深遠かもしれないが、机上の空論をただ繰り返すだけの、マニアックな学問にしか思えなかった。現世利益を確約してくれる密教が、熱狂的なまでに受け入れられたのは、こうした背景があったからこそだ。

 最澄が持ち帰った天台宗も、その起源は実のところ南都六宗よりも古いものであり、彼らの目には南都六宗と大差ないものとして映った。なので最澄は、天台の教えをアップデートする必要性に駆られていたのである。そこで彼が大陸で学んだ他の要素――禅・戒律、そして何よりも密教をミックスさせ、新しいものとして生まれ変わらせようとしたわけである。

 そのためには、最もウケのよかった密教の奥義を、空海から学ぶ必要があった。最澄空海に、彼しか持っていない密教の経典の借用依頼を繰り返す。しかし密教の教義は、経典を読み込めば理解できるという教えではなかった。その真髄は師に実際に会っての実践修行でしか伝わらないものである、というのが密教の考え方なのである。

 この辺りを、もう少し詳しく解説してみよう。そもそも「密教」の名の由来は「秘密の教え」であり、教えの核心部分は師から弟子へと直接伝授する決まりであった。これは何故かというと、密教の教えは深遠で難解であるがゆえに、文のみで伝えることはまず不可能、口頭ですら伝えることが難しいからである。伝授の際には、その思想を構造図で示した「曼荼羅」を使用したり、三密を駆使する「観想法」の指導などを受ける必要があるのだ。

 

Wikiより画像転載。画像上が「胎蔵曼荼羅」、下が「金剛界曼荼羅」。深遠な教えである密教は、文字や言葉ですべて表現することはできない。そこで図表や絵画で表すことにしたのが「曼荼羅」である。なお、この曼荼羅という表現スタイルを生み出したのは、空海の師であった恵果であると考えられている。元々密教は2系統あったわけだから、恵果はそれぞれの教えに合わせて曼荼羅を造らせたわけである。この両者を併せて「両界曼荼羅」と称する。

 

曼荼羅は、必ずしも絵画様式のものとは限らない。上記画像は、東寺講堂に安置されている、大日如来を中心とした21体の群像と、その配置図である(Wikiより画像転載)。これは空海の構想によるもので、「羯磨曼荼羅」の一種と見なされている。つまり立体的な曼荼羅なのである。

 

 つまり密教の伝法は、五感を駆使して感じつつ学ぶもの、トータルな神秘体験なのである。だから空海は、最澄に対し「私の下で3年間学ぶべし」と来訪を促していた。しかし最澄もまた、生まれたばかりの天台宗の開祖でもあり、この時期は多忙を極めていた。実務を中断して空海の元に赴き、教えを乞うことは不可能だったのである。

 こうした経緯もあり、空海は遂には「理趣経」の解説書である「理趣釈経」の借用依頼を断ったのであった。(なお「理趣経」は、何事にも前向きな密教の教義にふさわしく、人間の欲望さえも肯定した内容の経典である。これを都合よく曲解したのが、過去の記事で紹介したカルト集団「彼の法集団」である。)

 

鎌倉期の京で流行った「彼の法集団」に関する記事は、こちらを参照。かなり危ないカルト集団であった。

 

 そもそも最澄にとって、天台と密教の教えは同じ「一乗(大乗仏教)」であったから、「融合は可能である」と考えていた。しかし空海にしてみれば、天台の教えは密教に内包されてはいるものの、(前記事の表にある通り)レベル10の密教の教えに至る前の、レベル8の教えでしかなかったのだ。両者の思想は根本的に相容れなかったといえる。

 同じ時期に、最澄の一番弟子である泰範が、カリスマ・空海のもとに移籍してしまったこともあり、2人の関係性は断絶する。密教の経典を入手できない以上、その教えを取り入れることは不可能だ。こうして天台と密教とを融合させんとする最澄の野心的な試みは、一旦は頓挫するのであった。

 また最澄自身も、天台の教義の確立のみに関わっている場合ではなかった。既存の南都六宗に対する、戦いが始まったのである。まず813年頃より、とある僧侶との間で教義上の激しい論争が始まる。日本仏教史において有名なこの教義上の論争を、「三一権実争論(さんいちごんじつそうろん)」と呼ぶ。(続く)