根来戦記の世界

戦国期の根来衆に関するブログ

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2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧

河原者と天部について~その⑪ 千本河原者の赤(しゃく)について

これまでの記事で紹介したように、京における河原者の村で最大のものは「天部」であった。天部は四条河原にあり、その名の通り彼らは河原に住んでいたわけであるが、河原に住んでいない河原者もいた。例えば千本河原者、或いは野口河原者とも呼ばれた者たち…

河原者と天部について~その⑩ 首斬り又次郎について(下)

さて、秀次一族の三条河原の処刑について調べていたところ、ネットで気になる画像を見つけた。秀次の一生を漫画化したものらしいのだが、下記がその画像である。 「秀次の生涯」というタイトルの学習漫画だろうか。2コマ目では雨まで降っている。当日は雨で…

河原者と天部について~その⑨ 首斬り又次郎について(上)

次に紹介するのは「天部又次郎」である。庭師の又四郎と違って、これは個人の名前ではない。とある役職に就く河原者が、継承していく名前なのである。またの名を「首斬り又次郎」という。 河原者の仕事のひとつに刑務業務がある。幕府に命じられ、罪人の捕縛…

河原者と天部について~その⑧ 山水河原者・庭師の又四郎について

河原者はどうやって食っていたのか。過去の記事で触れたように、彼らの職域は実に多岐に渡るのだ。藍の染物の他、土木、屠殺、皮はぎ、清掃、刑の執行者など。 必ずしも専業ではなく、複数の業務を掛け持ちしていたようである。ただ職種によって――というより…

河原者と天部について~その⑦ 堤に守られていた天部と蓮池

四条河原にあった天部であるが、正確に言うと天部と賀茂川は、堤によって仕切られていたようだ。古代末から中世にかけて、賀茂川の西岸沿いには段丘が形成されつつあった。氾濫から身を守るための堤が、時間をかけて築かれていったのだろう。 この堤は後年、…

河原者と天部について~その⑥ 天部と「四条の青屋」について

さて拙著に出てくる、天部である。てんぶ、或いはあまへ、とも読む。天分村、また余部とも余部屋敷ともいう。天部は河原者たちが住まう村であった。この時代、天部は四条河原にあった堤の内側にあった。(秀吉の京都改造で、のち三条の鴨川加茂川東岸に移転…

河原者と天部について~その⑤ 非人と河原者の違い

職能としての中世賤民の発生は、平安後期10~11世紀辺りである。だが「畏れ」よりも「汚穢」という面が強まってくるのは、14世紀辺りからのようだ。その少し前から、「職能の専門化」から「専門業者化」への動きが始まっている。商工民たちの源流を遡…

河原者と天部について~その④ 聖なる存在でもあった、河原者

さてここまでは前段であって、今回からようやく本題に入る。 河原者や非人といった中世被差別民であるが、彼らを社会的にどう位置付けるか、という研究は昔から続けられてきた。ざっとであるが、研究史の変遷を辿ってみよう。 戦前から戦後にかけては、「被…

河原者と天部について~その③ 「肉食は穢れ」の禁忌(タブー)は、どこから来たのか

イザナギ・イザナミの黄泉平坂(よもつひらさか)の神話からも分かるように、神道における「死の穢れ」を強く忌む風習は、古くからあったものだ。古代日本においては「陵戸」という墓守を職とする人たちがいたが、律令制下においては彼らは賤民の一種とされ…

河原者と天部について~その② 宮中を震撼させた「穢れ」大騒動

平安末期の1143年、9月23日。おりしも疫病が発生し、みやこのそこら中に行き倒れた死体が放置されていたときのことである。 蔵人の高階業隆が、死体があった陽明門の前を通って宮中に参内した。死体を跨いだわけではなく、その近くを通っただけ(そも…