根来戦記の世界

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河原者と天部について~その④ 聖なる存在でもあった、河原者

 さてここまでは前段であって、今回からようやく本題に入る。

 河原者や非人といった中世被差別民であるが、彼らを社会的にどう位置付けるか、という研究は昔から続けられてきた。ざっとであるが、研究史の変遷を辿ってみよう。

 戦前から戦後にかけては、「被差別民は、元々は異民族であった」という論が主流であった。有名なものに在野の民俗学研究者、菊池山哉(さんさい)がいる。全国の被差別部落700余りを踏査し、「東北の蝦夷の一部が俘囚(ふしゅう)として畿内や西日本に移住させられ、賎民にされた」という説を唱えたのである。だがこれらの異民族説は、現在からみるとどれも研究水準は怪しいものであった。

 50~60年代になって、専門家による史料を駆使した研究が進むようになる。林屋辰三郎氏が唱え、その後の研究に大きな影響を与えたものに「散所論」がある。これは「古代日本の律令制には『田畑を持つ良戸』と、『それ以外の賤戸』とに分ける『良賤法』があった。そして墓守を職とする『陵戸』などに代表される賤戸たちが、律令制の崩壊と共に中世荘園制に『散所』として取り込まれた」という論である。

 だが更に研究が進み、律令制の早い段階から「良賤法」という制度そのものが機能しなくなっていたことが判明する。祖税逃れのため自ら進んで通婚し、賤戸となる者などが多発していたことが分かったのである。制度そのものも、10世紀には正式に廃止されてしまっている。また中世に見られる「散所」であるが、これも構成員全てが被差別民であったとは必ずしも言えないということが分かり、この説も現在では疑問視されているようである。

 そして70年代になって黒田俊雄氏が唱えたのが、「『非人』などに代表される人々は、何らかの理由で社会生活から疎外された人々である」という論である。「彼らは如何なる共同体や階級にも属さない、身分外身分であった」という、かなり大胆な論であったが、これに反論したのが網野善彦氏らであった。そもそも彼らは「多様な職に携わっていた職人であり(そうでなければ食っていけない)、他と何ら変わりない社会的な集団である」というのが網野氏らの論である。

 こうした流れを受けて、半世紀近くたった現在の研究の主流も「中世被差別民らは職能を持った民であった」というものであり、これはほぼ定説となったといってもいいだろう。

 では彼らは、他の職能民とどう違ったのだろうか?なぜ彼らだけ差別されることになったのだろうか?ここにこれまでの記事で紹介した、「触穢思想」が関わってくるわけである。

 偏執狂なまでに厳しいルールであった「触穢思想」。これに抵触せずに、人が生きていくことは不可能である。そこで身分が貴い者たちが、自分たちから穢れを守る・払うべき職能民として使役したのが、中世における被差別民の原型なのである。役柄ゆえに穢れと直接相対しなければならない者たちだから、差別されたというわけだ。

 ただし、彼ら「穢れ」に相対する者たちは、必ずしも卑しく汚いもの、という意味合いだけで見られてはいなかった。彼らは「守り、払うべき存在」であった故に「畏れられていた」という性格も大きかったのである。なので、こうした穢れを払う役目を持った人たちは「聖なるもの」として、畏怖される存在でもあったのである。

 鎌倉時代の絵巻物「天狗草紙」には、四条河原で肉食をしようとした天狗を、河原者が捕らえて首をねじ切って殺す、という描写がある。こうした人ならざる恐ろしいものに対峙できる聖なる存在、それが河原者だったのである。(続く)

 

「天狗草紙」より。河原で鳶に変身した天狗を捕まえ、首を捩じ切って殺す穢多童子。この時代、本鳥を結って烏帽子を被るのが成人男性の証であったが、彼らは何も被っておらず、長い髪を下ろしたままの童形である。人智を越えた力に対抗するためには、同じく人智を越えた存在でなければならない。そういう意味で畏怖されていた、聖なる存在でもあった。